2017/11/28

この白い夜にあなたと二人で

 

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冬の寒さに手がかじかむのは当然のこと。
だけど、その寒さを温かく変えてくれた時の貴方の手を、私は一生忘れません。

修道院の朝は早い。
まだ夜も明けぬうちから朝の勤めが始まる。
それは修道院内を清めることから始まり、朝の祈りの時間、ささやかな朝食の後に神の教えを説く修道院長様の講義の時間に針仕事や修道院内の補修作業など、その後一口二口ほどの昼食を済ませ、午後は自主学習の時間や庭の花の手入れや、修道院のすぐ裏にある山に入り、一日分の食料を集める時間に当てられる。食事当番の時にはそのまま夕食の支度をし、そうこうしているうちにあっという間に夕方になり、夕食の時間になる。そして再び修道院内を清め、一日の最後の祈りを捧げる時にはもう夜の闇を迎える。本来ならば、ここで修道院の一日は終わり、後はそれぞれ自由に過ごす時間となる。とは言っても、無駄に明かりを使うことも禁じられている院内では、夜の時間に何かをすることはほとんど叶わない。真夜中ともなると、唯一明かりが取れるのは、修道院入口に絶えず灯されている灯台の役割も果たす二つの火だけだ。
私はこの世の中のことをあまりにも知らないために、他の方々がお休みを取っている間にも、月明かりや院の入口両脇の明かりを頼りに修道院内の書物を手に取った。誰かの何かの助けになればと、知らなかった様々なことを自ら学んだ。読み書きもあまり得意ではなかった私は、それを補うために寝る間も惜しんで言葉や文章の勉強をした。
それは全く嫌なことではなく、むしろ私の望む生活だった。今まで知りえなかったことを知ることができる、それは純粋な喜びを生んだ。そしてそれは同時に、時間を忘れて夢中になれる瞬間だった。時間を忘れて何かをすることは、今の私に最も必要なことだった。

「マリアお姉ちゃんはいつもお勉強してるのね」
午後のまだ明るい時間、修道女たちがそれぞれ束の間の自由時間を過ごしている間、本を読んでいる私の傍に小さな女の子が来る。いつもは外に出て遊んだりしている時間だが、今日は中で過ごしているようだ。
「あら、でも皆さんも神様の教えを説こうと毎日頑張ってらっしゃるわ。あなたもそうじゃない。まだ小さいのに、よく頑張っているわね」
「でもみんなはお外でお花を摘んだり、お庭で猫ちゃんと遊んだり、お天気の時には海辺でお話したりしてるよ」
「そうね。でも私はまだ色々なことを知らないし、知りたいから、頑張らなきゃいけないのよ」
「でもね、お姉ちゃん、院長さまが心配してたよ。マリアお姉ちゃん、頑張り過ぎて倒れちゃうんじゃないかって」
心の底から心配してくれるこの女の子も、自ら辛い境遇を背負っている。この子の母親はこの修道院に、まだ赤ちゃんだったこの女の子を置き去りにしたのだ。
そんな過去を持った子供がこうして人の心配をする心を持っていることに、私はこの修道院に残ろうと素直に思えた。彼女が人を思いやる心を育んだこの場所が、神の教えの一端を見せてくれたような気がしたのだ。
「ありがとう、心配してくれて。大丈夫よ。もう無理はしないって約束したの」
「約束って、院長さまと?」
「……うん、そうよ」
「そっか。それなら良かったあ。院長さまとお約束したのなら、マリアお姉ちゃんも頑張り過ぎないよね」
「そうね。だから安心してね」
そう言って女の子の頭を撫でてやると、彼女はまるで母親に頭を撫でられたような子供の笑みを見せて、私の腕に抱きついてきた。時折見せる彼女の寂しさの表現を、私は彼女の頭を撫でて落ち着かせる。

女の子が去った後も、私は与えられた部屋で本を読み続けた。院内でも聖書は貴重なもので、それは順番を待って借りる仕組みとなっている。だからその順番を待つ間、私は子供向けの童話の類の書物を手にとって、ひたすら読み書きの勉強を繰り返す。
午後の時間を自由に使える時はいつもこうして夕方を迎え、部屋に入り込む西日の眩しさに目を細め、もう少しだけと、また書物に目を落とす。繰り返し繰り返しの日々が続く。この毎日を選んだのは自分で、その選択に間違いはないと、信じる。
窓の外に映る輝く西日に目をやっていると、ふとその光の中に一つの小さな鳥の影が入り込んだ。真っ直ぐにこの窓を目指し飛んできて、冷たい海風など構うことなく窓に辿り着いた白い鳩は、窓枠に器用に両足を乗せて、首を傾げるようにしてこちらを見ている。
「……どうして、また来てしまったの……」
窓を挟んだ私の呟きなんて、鳩には聞こえていない。ただ主人に頼まれた仕事をと、白鳩はこの窓が開くのを待っている。私が窓を開けない限り、この伝書鳩はここから飛び立ってはくれない。
窓を細く開けてやると、海を渡って流れてくる冬の冷たい風が入り込んできた。部屋の中も暖炉をつけずにいるから白い息が出るほどに寒い。この伝書鳩も冬の冷たい空気を割くようにして飛んできたのだろう。
白鳩が窓の隙間からカチカチと足音をさせながら入ってきた。その細い足首に巻かれている紙を見るのはこれで四度目だ。
私がその結び目を解き、修道院ではお目にかかれないような高級紙を手に取ると、白鳩は一声鳴いて私に返事の催促をする。しかし私は白鳩の小さな頭を指で撫でると、「行きなさい」と呼びかけ、そのまま伝書鳩に何も持たせず追い出してしまう。そして白鳩は再び夕陽の沈みかける光の中へと飛んでいく。そしてしばらくしたら、白鳩は気流に乗るようにして東に進路を変えた。
丁寧に折り畳まれた紙は、短いものではあるけれど、あの人の言葉が詰まった手紙。この修道院に来てからもう三度貰っている手紙を、私は誰にも知られないように机の右の引き出しにこっそりとしまってある。
二度見る勇気はない。だけど、捨てることもできない。
何より、一度読めば心に迷いが生じる。
手紙ではなく、もう一度あの人に会いたい、などと叶わぬ想いに気づかされる。

『マリア、元気でやってるか』

『マリアはいつも無理しがちだから心配だ。無理するなって約束したけど、ホントにそうしてるのかな?』

『修道院の朝はいつも早くてさ、正直俺には辛かった思い出があるよ』

『あんまり色々考え過ぎるなよ。マリアが倒れたりしたら、俺も嫌だからな』

『リュカが旅立って大分経つけど、あいつ、大丈夫かな。なんか頼りないからなぁ』

『もう大分寒くなってきたな。身体には十分気をつけるんだぞ』

一言一言が心に染み込んでいくのが、その都度分かった。何気ない一言だけど、傍で言われているような気がして、思わず涙したこともある。

だけど、そんな彼からの手紙に、まだ一度も返事を出していない。
修道院で続けている読み書きの勉強、それは彼に返事を書くためのものだった。今では文もまともに書けるようになったけど、私は貴方に返事を書けないままでいる。
書けばきっと、貴方に伝えたくない想いを伝えてしまうから。貴方の未来を少しでも迷わせるようなことをしたくない。
本当だったら読むことも憚られるラインハット王兄からの四度目の私事の手紙を、しばらく畳まれたまま手にしていたが、読まずに引き出しにしまってしまうことは彼の気持ちを踏みにじるようで、それだけは出来なかった。
手紙を開く手はいつも震える。これで最後になればいいと、密かに正反対のことを祈りながら四度目の手紙を開いた。
そこにはまた短くいくつかの文が書かれている。それは一瞬で読めるほどのものだが、私はその内容を見て思わず叫びそうになった。

『一度も返事をくれないから、マリアが今どうしているのか分からなくて、心配で、辛い。迷惑かも知れないけど、一度近いうちにそっちに行くよ。もし俺に会いたくなかったら、修道院長様にそう伝えておいてくれ。そうしたらもう、こんな手紙も送らない』

そして最後に一言。

『勝手でごめんな。でも、とにかく会いたいんだ』

「どんな顔をして会えばいいの……」
私はまた涙を流していた。彼はいつも私の感情をごちゃ混ぜにしてくれる。そうして混乱した私はどうしようもなくて、最後にはいつも涙を流してしまう。
嬉しいはずなのに、素直に喜ぶことはできない。所詮は住む世界の違う人なのだと諦めようとしているのに、彼は生き別れになった私の兄のことを恩に思っているのか、私との縁を切ろうとしてくれない。手紙を受け取る度に私はこの上ない幸せの錯覚に陥った後、とことんまでの絶望を味わうのに、彼はそんなことお構いなしに私との繋がりを保とうとする。
窓の外はもう日が沈みそうな時刻で、修道院内は一日の最後の祈りの時間とお勤めが始まろうとしている。私は馬鹿みたいに流れる涙をどうにかして止めて、ごわつく修道服の袖で涙の跡も拭き取り、彼のことを少しでも忘れられるようにとお勤めに専念することにした。
だけど、その前にまずやらなくてはならないことがある。
部屋を出て、暗くなった修道院の廊下に明かりを灯している修道女に会釈をし、修道院長様のお部屋に向かう。迷っていたらきっと伝えそびれてしまう。だから院長様に、彼が来た時に私に会うのを断っていただくように前もって頼んでおこうと、お勤めにかかる前に院長様のお部屋の扉の前に立った。
すると私の意を読んだかのように扉が開き、いつも穏やかな表情の院長様がお部屋から出ていらした。院長様は私の顔を見下ろし、笑顔のまま小首を傾げた。
「どうしたのです、マリア。そんな顔をして」
何もかもを悟りきったような院長様の顔を見て、私は自分がこれから告げようとしていることの後ろめたさを今更になって感じた。言葉も出せずにただ院長様の顔を見上げるばかりの私の肩に、院長様は手を置いて優しく語りかけた。
「心を落ち着けないと本当の答えは見えてきませんよ。何事もそんなに急いでは、真実は見えなくなってしまいます」
「……はい、すみません」
そう言ったきり、もう言葉は出せなかった。神に仕える修道院長様に私は一体何を頼もうとしていたのだろう。会いたい彼に会いたくないのだと、そんな嘘を私はこの方に伝えようとしていた。
そんな考えも見透かすように修道院長様は柔らかく微笑んで、私の肩を二度宥めるように軽く叩いた。
「一人で泣くのはおよしなさい。あなたは自分を責めすぎています。少しは周りの修道女たちのように気を楽に生きることを心掛けなさい」
「でも、私は……」
「あなたの幸せを願う方がいらっしゃるでしょう。貴方は自分のことを責めるのを止めて、その方に答えなければなりませんよ。心優しい貴方には厳しい試練のようなものかも知れませんが」

修道院長様の声の後に、
兄の声が聞こえたような気がした。

その晩は殆ど眠れずに、夜中に何度も寝返りを打って暗闇をじっと見つめていた。月明かりはなく、その代わりに窓の外に映るのは暗闇の中の白。
「どうりで冷えるはずだわ」
独り言を呟く息もたちまち暗闇の中に白を浮かばせる。日が変わる前から降り出していた静かな雪はもう修道院の周りを白く染め始めていた。夕方、あの伝書鳩を見送った後、夕焼けの鮮やかさが嘘のように消えたと思ったら、空はあっという間に雪雲に覆われていたようで、しんしんと静かに柔らかく降り続く雪はもう窓枠の淵に小さな山を作っている。
どうせ眠れないのだからと私は寝床から起き上がって、凍りつきそうなほどに冷たい部屋の中、外に出る支度をした。かじかむ手はなかなか思うように動いてくれない。雪には少々頼りないブーツを暗闇の中手繰り寄せ、ゆっくりと時間をかけて履くと、ベッドの上掛けに重ねるようにして掛けてあった外套を手に取り、静かに羽織った。
修道院の入り口まで来れば、入り口に取り付けてある松明の明かりでほんの少しだけ辺りの景色が見える。何色にでも染まる雪の白は今、松明の明かりを受けて仄かに橙色に揺れている。夜明けが近いのだろうか、東の空にはうっすらと朝の訪れが見えるような気がするが、それも雪空とあってはお日様は望めない。
このまま頭を冷やして、そのまま朝のお勤めをすればいい。雪の降り落ちる静かな音を聞いているだけで、頭の中が冴え渡るような気がする。雪が降り積もっているのだから、まずは修道院の周りの雪をかかなくては。女しかいないこの修道院では雪をかくことも重労働だけど、勤めに精を出していれば色々なことを考えなくて済む。
冷たい空気に触れれば、いくらか頭がすっきりとした。寝不足には慣れている。あの人から手紙を受け取ってから、ではなくて、あの人と別れてこの修道院に戻ってきてから、それは幾度となく経験している一種の習慣だ。そういう時はこうして一人外に出て、頭をすっきりとさせてから朝のお勤めをする。
底の薄いブーツで雪を踏みしめると、既にかなり積もっていることが分かった。さらさらの新雪はキュッキュッと音を立てて私の足跡を残す。手袋もつけずに外に出てきた私は、 感覚が鈍くなる手もそのままに誰も足跡をつけていない雪の上をゆっくりと歩いていった。

さらさらと一面を真っ白に染める雪の音に混じって、馬の低い嘶きが聞こえた。
修道院の明かりが届くところで、私はぴたりと足を止めた。
雪の景色の一部と見間違うような真っ白な馬が、修道院の囲いの木に繋いであるのがうっすらと見える。
「誰かいるのか」
聞き間違うはずのない声を、聞いた。途端に逃げ出したくなった私の足は、寒さに震えて動かない。
「……マリア?」
名を呼ばれただけでこんなにも動機がするのは、彼の声でしかない。今も逃げ出したい。 だけど一目だけでも顔を見たい。そんな心の葛藤と共に、私はただ雪の庭に立ち尽くしていた。
正面から雪を踏みしめる彼の足音がする。そしてその姿が修道院の松明の明かりに照らし出された時、私は息をするのも忘れていたようで、口から吐き出される白い息は殆どなかった。
そこには共に旅をしていた時の垢などすっかり取れ、ラインハットと言う王国を背負う一人の青年が立っていた。この雪の中、馬を飛ばしてきたのか、彼が羽織る真紅の外套は半分以上雪の白に埋められていた。
言葉もなく、雪の降る静かなさらさらとした音と、真っ白な世界の中に、私たちはただ立ち尽くしていた。寒さなど感じず、ただ心の奥底から湧きあがる熱さがまた涙になりそうで、私は必死にそれを喉元で抑えつけていた。
雪が当たり、濡れて凍えそうになっている私の手を、彼は負けず劣らず冷たい手で取った。感覚などなくなりそうなほど冷たくなっていた私の手が、途端に燃えるように熱くなった気がした。
「会いたかった」
胸を突き上げられるような言葉に、地面の白を見ていた私は思わず彼の顔を見上げてしまった。ずっともう一度見たいと思っていた彼の顔は、以前よりも少し疲れたような感じを受けたが、それでも彼の優しさは変わらずそこにある。明るくて、頼り甲斐があって、恥ずかしがり屋で、少し意地っ張りで、ラインハットの人々が必要としている王兄が、今は自分一人のためにこうして修道院に馬を飛ばしてきている。そんな重い事実を改めて考え、私はようやく雪の中につけた足を一歩後ろに引いた。
「あ、あの、私、戻ります。まだこんな夜更けですから、ヘンリー様もどうぞ中で……」
「手紙、届いてなかったか?」
私の話を遮って語りかけてくる彼の言葉に何も返せず、私はただ彼の顔をじっと見つめていた。私の無言の肯定を、彼は察知した。
「どうして返事をくれなかったんだ。俺、待ってたんだよ」
「あの、でも、お返事を書くにもどう書いたらいいのか分からなくて……」
必死に言い訳する自分を醜く感じる。私の背後には十字架が掲げられた修道院が真っ白に染まっている。
「何でも良かったんだよ。一言で良かった。『元気です』でも、『寒くなってきました』 でも、『今日は雨でしたね』でも。本当に何でも良かったんだ」
「でも、そんなつまらない手紙を貴方に出すわけには……」
「つまらなくなんかないよ。俺にとっては全然つまらなくなんかない。何でもいいからマリアの言葉が欲しかった」
見た事もないほどの真剣な表情で話す彼を見ながら、いつの間にか繋がる手の温度差がなくなっていることに気がついた。はらはらと舞い落ちる雪は私たちの手に当たると、その温かさにあっという間に溶けてしまう。
「自分の気持ちをはっきりさせたくて、来たんだ」
私の手を握る彼の大きな手に力が篭った。
「このままじゃ駄目になりそうだったからさ、俺」
もう温かいのに何故か彼の手は震えている。
「デールの奴にもけしかけられちまってよ。『早くはっきりさせてくれないと、僕も落ち着きません』だって。弟の癖に生意気だよなぁ、あいつ」
いつもの明るい調子で話しているつもりなのだろうけど、その笑みは寒さによってか、どこかぎこちない。
「だから、伝えたかった。手紙なんかじゃなくて」
また手を強く握られる。彼の大きな手に包まれるのは、泣きそうになるほど心地良い。

「俺と結婚してくれないか」

彼の空色の瞳は、不安に揺れている。
私は彼の求婚を断らなければならない。
私が断った後、私と彼は完全に私と切り離され、別々の人生を歩み始める。
そのうち、彼にもいい人ができて、あの大きなお城で盛大な式が行われるのだろう。
その時、私は変わらずこの修道院で日々変化のない生活を続ける。
それはいつも自分の中で考えていたこと。未来はそうなるのだと、自分に言い聞かせてきたこと。

彼は、私の手を離してくれない。
両手を取ったまま、彼は私から一時も目を逸らしてくれない。
分かっていた未来に怯えるのは、私が生涯に一度だけ抱く恋心のせいだ。
結局私は、この気持ちをどうにもできずに、持て余し続けて今まで過ごしてきてしまった。

「ごめんな、突然こんなこと言われても困るよな。それに本当だったら指輪とか花とか、持ってくるべきなんだろうな」
照れながらそう言う彼の表情はいくらか和らいでいた。だけど早口に話すのは、多分まだ緊張から解放されていないからだろう。私なんかは、まだ言葉も出せないほどに激しい鼓動を体中で感じている。
「あー、でもすっきりした。やっと伝えられたよ」
彼がそんな軽い調子で話すのは、一生懸命私の緊張を解そうとしているからだ。こんな寒い雪の中、はるばるラインハットから馬を飛ばしてきて、降り続く雪の夜に修道院が開くのを待とうとしていた彼に、私は何を答えたら……。

どれくらいの時間が経ったのか分からないけれど、それが短くても長くても、彼はずっと私の言葉を待っていた。だけど私には何も答えられない。答えるべき拒絶の言葉は、真っ白な雪を被る修道院の十字架に見張られている。『嘘をつくな』と言われているようだった。

あの人ならば、こんな時に何を言ってくれるだろう。
彼の親友なのだから、一番良い方法を知っているかもしれない。
『マリアは幸せにならなきゃいけないんだよ』
ラインハットを去る時に、彼はそんな一言を残してくれた。
その時は、修道院に戻り、修道女として一生を過ごすことが私の幸せだと思っていたのに。

修道院に戻ると、予想もしていなかった寂しさに襲われた。
だから、毎日毎日本を読み、読み書きを学び、お勤めに励み、長い時間お祈りをし、彼と離れた寂しさを必死に紛らしていた。

頭の中をグルグルと巡る私の思いの終着点が見つからない。
無言でじっと俯く私を彼はずっと待っていてくれたけれど、そんな耐え難い沈黙を彼は明るい声で破った。
「返事はさ、ゆっくり考えてくれて構わないよ。マリアの気持ちを無視して一緒になりたいなんて、馬鹿なことは言わないからさ」
そう言いながら彼は私の手を離した。途端に雪の冷たさが手に舞い降りる。
「……じゃあ、な。元気で」
そんなことを言いながら、彼はもうここには来ないんじゃないかと感じた。じっと私の目を覗き込んだ後、彼は唇をかみ締めるような表情で私に背を向けた。雪を被った真紅のマントが暗闇に遠ざかる。雪を踏みしめる音が小さくなるのを、私は死にそうなほど苦しい思いで聞いていた。

『あなたの幸せを願う方がいるでしょう』

修道院長様のお言葉に、私が思い出したのは、

『マリア、僕はお前の幸せを願っている』

別れ際に聞いた兄の言葉。

自分の幸せを求めないことは、大切な人を傷つけ、裏切ってしまうことになるのではないか。

遠ざかっていく足音はもう止まり、見える彼の姿は白馬の手綱を取ろうとしていた。この時を逃したらもう、次はないだろう。
動かないと思っていた足は、氷が解けるような感覚でゆっくりと動き出した。修道院の入り口までのほんの少しの距離を、私はあの人に追いつきたい一心で走った。
「ヘンリー様!」
自分の声ではないようだった。寒さでかじかんでいたのは手や足だけではなく、声もだったようだ。手綱を握る彼がゆっくりと振り返るのが見えた。驚きで目を丸くしているのが分かる。
「マリア! 走るな、危ない!」
地面が雪に覆われていることなど念頭から抜けていた私は、彼の目の前で思い切り転んでしまった。幸い雪のクッションが身体を受け止めてくれて、怪我をすることはなかった。
「言わんこっちゃない。大丈夫か?」
「あ、はい、ごめんなさい」
雪まみれになった私は、修道服にびっしりとついた雪を払いつつ、こみ上げてくる恥ずかしさをどうにかして抑えようと必死になっていた。そんな私を見て、彼は笑いを堪え切れない様子で肩を揺らす。
「マリアの本領発揮ってやつか? 変わってなくて安心したよ。相変わらずおっちょこちょいだな」
そう言いながら彼は私の顔や髪に張り付いた雪を払ってくれた。見上げると、前にほんの短い期間共に旅をしていた頃の、いたずら好きそうなあの笑顔があった。

私はこの笑顔が好きなんだ。
子供のようなこの笑顔を見せてくれた時に、彼が壁を作らずに接してくれていることを実感するのだ。

髪に触れていた彼の手を、私は両手で包むように掴んだ。一度びくりとした彼の手は先程までの温かみを失い、もう冷たくなっている。
「私も貴方と、一緒にいたいです」
躊躇っていた言葉はもう何の迷いもなく口から滑り出た。自分の幸せを見つめると共に、目の前の大好きな人と、兄さんの望む幸せも一緒に見つめよう。もう逃げたりはしない
「貴方のお嫁さんにしてください」
一生抱え続けると思っていた自分の儚い望みを言葉にするのはとても勇気のいることだけれど、言った後には溜まり続けていた不安や悩みや悲しみは一気に消え去ってしまった。 さっき彼が言っていた『すっきりした』という気持ちが良く分かった。
「マリア、嘘じゃないよな」
「こんなこと、嘘なんか言えません」
「俺、ものすげー幸せな夢でも見てるのかな」
「夢なんかじゃありません」
そう言って私は彼のほっぺたを両方とも横に引っ張った。「いてて」と言う彼の目元には、 きっと痛さを我慢する見せかけの涙。いつも彼から貰っている明るさを返してあげたくて、私は彼の冷たくなった手を自分の頬に押し付けた。そして一生懸命笑顔を作る。
「熱いくらいでしょう?」
「うん……」
「私だって夢を見ているようなんです。信じられないです」
「でも夢じゃないんだな。マリアの顔、むちゃくちゃ熱いし」
そう言いながら抱き締め、頬を寄せてきた彼の温度だって、私に負けず劣らず熱かった。外套越しに感じるお互いの身体でさえ温かくて、雪が降っている寒さも忘れて、私たちはしばらくそうして抱き合っていた。

この白い夜に、あなたと二人で。
こんな幸せを感じられるなんて、思ってもいませんでした。
私の幸せ、それは貴方の幸せのお手伝いができることなのかも知れません。
貴方の幸せを感じられれば、私はこの上なく幸せです。

昨日から降り続く雪はまだ止まず、雪かきをしても何をしても無駄になると、今日一日のお勤めを修道院長様が取りやめになさった。修道女たちは一様に喜び、解放された自由な時間をそれぞれに過ごすのかと思っていたけど、彼女たちは私を取り囲んで楽しそうに話し始めた。時間ができて、今朝の私と彼のことを院長から聞いた彼女たちにとって、私は格好の話題の的になってしまった。
『マリア、ラインハットに行くのよね』
『お相手の方もとてもカッコイイ方よね』
『王子様からプロポーズされたんでしょう。羨ましい~』
『お城での生活かぁ。しかもお姫様になれるのよ。憧れるわぁ』
口々に囃し立てる修道女たちに私は恥ずかしさを感じながらも、それさえも嬉しく思っていた。何を言われても、どう冷やかされても、彼女たちの言葉は温かい。
『マリアお姉ちゃん、とってもキレイだね』
化粧も何もしていないのにどうして、と私が女の子に問いかけると、横から修道院長様がお声を掛けてくださった。
『子供はいつでも敏感で正直ですからね。今の貴方を見て自然とそう思うのでしょうね』
それもお祝いの言葉なんだと、私はもう何度目になるか分からないお礼を修道院長様に伝えた。

そして話題の中心のもう一人は今、
……熱を出して、床に伏せっている。
修道女や院長様にさえ冷やかしを一通り受け、その後どうにかその場を逃れると、私は客室に寝ている彼の元へと向かった。部屋の扉を開けると、今も苦しそうな息遣いの彼がベッドに横たわっている。
「大丈夫ですか、ヘンリー様」
枕元で声を掛けると、真っ赤な顔をした彼が細く目を開けて決まり悪そうに笑う。
「……うう、俺、すげえかっこ悪いな」
寒空の中ラインハットから一日半かけて馬を飛ばし、途中降り出した雪にも馬を止めることなく、そして予定よりも早くに修道院に着いた彼は、かなり長い時間、修道院の前で馬を繋いで朝を待とうとしていたのだ。風邪を引くのも無理はない。
「マリアも伝染るからあんまり傍にいない方がいいぞ」
すっかり鼻声でそんなことを言う彼だけど、私はその気遣いを聞くつもりはなかった。
「あなたの奥さんになるんですもの。看病するのは当たり前ですし、それに……傍にいたいんです」
こんなことを言うのはとても恥ずかしかったけれど、私以上に彼の方が恥ずかしそうにして、上掛けを口元まで引き上げて目を逸らしてしまった。その子供みたいな仕草に愛しさを感じることを、もう隠さなくてもいいことは新たな喜びだった。
桶に汲んである冷たい水にタオルを浸して、軽く絞り、彼の額に乗せる。彼は気持ち良さそうに一度目を閉じてから、布団から手を出して私の手を掴んだ。彼の大きな手は今、熱のせいで燃えるように熱い。
「俺、忘れないよ。あの時走って転んで掴んでくれたマリアの手」
……少し意地悪な言い方のような気がしたけれど、熱に浮かされたように揺れる空色の瞳を見て、私はもうこの人の手を離さないことを心に決めた。
知らず絡んでいた指もそのままに手を引かれ、胸の上に倒れるように頭を乗せた私の髪を、彼は優しく撫でてくれた。まるで子供になったような気分だったけれど、耳を当てた彼の胸から感じる鼓動はとてつもなく早い。熱を出しているから、と思うことが彼に対する思いやりだと考えて、私は何も言わないでそのまま彼の胸に頭を乗せていた。
「これからもよろしくな、マリア」
「ええ、こちらこそ」
幸せな気持ちで彼の鼓動を耳にしながら、病人の胸に頭を乗せたまま、私は束の間の眠りに落ちてしまった。

その時に見た夢は、
真っ白な世界で、
真っ白な衣装に身を包んだ貴方に手を引かれて、
真っ白なドレスを着た私が心から笑っていました。

兄さん

あなたが願う私の幸せを、
私はこの方と共に築いていきます。

だから、どうか……私の願いも……。

Comment

  1. タイーチ より:

    更新お疲れ様です!引越し作業は無事終わりましたか?最近の天気は雨が多く気分も落ちてましたが、ヘンリーのおかげで気分も一気に上がりました(笑)
    いいですねぇ、マリアの為だったら無理が無理にならなくなっちゃうんでしょうね。最後の手紙を書き終えた直後に城を飛び出してるのかなぁとか考えたりもします。本当にお似合いですね、羨ましい(笑)

    • bibi より:

      タイーチ 様

      早速のコメントをありがとうございます。
      気分、上がりましたか? お役に立てて光栄です^^
      ヘンリーとマリアでまた別の軸の話を書きたいくらいなのですが、いかんせんそんなことをしていたら本編は完全に滞るので、そっちには手を出さずにいます(汗
      マリア視点の話にしましたが、本当はヘンリー視点も書きたかった……けど、考えてみたら、ヘンリー視点で書く内容はひたすら「マリア、マリア、マリアー」となりそうだったので、マリア視点でお話を作って正解だったような気もします。

      また気が向いたら、こうして短編も作ってみたいと思います。
      本編は、ええと、もう少しお待ちくださいませ^^;

  2. YORI より:

    お引っ越しの最中、お忙しい時間の中で
    またなんと素晴らしいお話ですことで
    心が温まりました。

    ドラクエ5の中でのサブストーリーでも
    ヘンリーとマリアの結婚に関しての事柄って
    リュカの冒険中に起きてしまったことだったので
    物語にするのは大変だったことを想像致します。

    ヘンリーの想い、マリアの想いが重なり合う
    雪の修道院でのプロポーズ
    もうこれ以上ないシチュエーションですね
    素敵すぎる物語を描いて頂きまして
    ありがとうございます

    本編の方も楽しみにお待ちしておりますが
    あまり焦らずゆっくり作ってくださいませ

    • bibi より:

      YORI 様

      早速のコメントをありがとうございます。
      私の中で、リュカとビアンカは夏、ヘンリーとマリアは冬が似合うと勝手に想定しているので、二人には冬のシチュエーションで出てもらいました。
      かなり前に書いたものの修正版で、まだまだ修正する箇所がありそうでしたが、見直しに対する私の体力が限界を迎えたので、このまま出してしまいました^^; いいのか、それで……。
      プロポーズ話なので、あくまでもきれいに、と思いつつも、やっぱりヘンリーにはどこかずっこけてもらいたいので、最後は熱を出してもらいました。

      この二人の話は色々と書きたいところなのですが、あまり手をつけると他の話(本編のことです)が進まなくなるので、また乗りに乗ったときにでも書きたいと思います。いつ来るかな~、今度のウェーブ。

      引っ越し作業はもうほとんど落ち着いていて、後はどこにも収まらない上着が詰まった段ボール一つを残すのみです。タンスか何かを新しく買わないとどうにもならないので、今は放置中です。春に着る上着が詰まってるなぁ……。

  3. ケアル より:

    ビビ様!
    マリアは、やはりヘンリーのことが好きだったと言うことで、リュカではなかったんですね。
    ビビ様の小説では、マリアの気持ちは二人にあり、リュカのことも好きなんじゃないかなと感じてました。
    あの、大検説のセントベレスから脱出した時のタルの中のお話…あの話、とても大好きで何度も読み返してましたよ。
    リュカが瀕死の中泳ぐ結末は心が熱くなります!
    あ!…関係ないですね今回の話には(ええへ)。
    それもあったので、マリアの気持ちはリュカにもあったんではないかなと思います。
    マリアは、きっと王子という立場のヘンリーに恋いをしてはいけないんだと思ってたんでしょうね…手紙を引き出しにしまう…せつないなぁ…気持ちが分かるような気がします。
    この後、二人は一緒に眠ったんでしょうね…まさかとは思いますが、コリンズ王子ができちゃうなんてことないですよね?…冗談です

    • bibi より:

      ケアル 様

      いつもコメントをありがとうございます。
      マリアはリュカにも気持ちがあったのはあったのですが、恋する気持ちというよりも親愛の情のようなもののつもりで書いておりました。まあ、当時は彼女自身もよく分かっていなかったのでしょうが。
      樽の中の話は、現実的にはあり得ないシチュエーションばかりですが、まあドラクエという世界だからいいかな、と思いながら書きました。あれをもっと細かく書くとなると、かなりえげつない状況も書かないといけないので、それはちょっとドラクエの世界観をあまりにも崩してしまうと思い、情景描写は端折っています^^; そんな話でも何度も読んでいただいているのですね。本当にどうもありがとうございます。

      マリアはフローラと同じ雰囲気を持ちつつも、フローラよりは控えめで自信のない性格、という設定のつもりです。なので、ああやって手紙を引き出しにしまったりと、自分を抑え込む方法を取ろうとする状況を書きました。フローラさんならどうしていたかな。

      コリンズ王子は……さすがにこの時にはちょっと(汗) と言うかむしろコリンズ王子はリュカたちの子供よりも年下設定の予定です。年下で生意気言うコリンズとか、可愛くないですか?(笑)

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