「坊っちゃん」を読んで

 

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今の私は夏目漱石ブーム。とにかく気になった本を片っ端から読んでみるという、贅沢な時間の使い方をしています。こんな時間の過ごし方でいいのかな。いや、他に何かをするよりも余程良い気がする。

中学生くらいの時に一度、この「坊っちゃん」を手に取って読もうとしたことがあった気がするんですが、その時は断念したんでしょうねぇ。きっとその時の私には文面が難しかったに違いないです・・・。いや、でもその時に難しかったと諦めるのはもったいなかったなと、今になってそう思いますわ。(何年(何十年?)経ってから反省してるんだか)

ひと昔の文章なので、今には聞きなれない言葉が少しでもあったりすると、それだけで「これはちょっと・・・」みたいな気分になったりしますが、読み進めてみれば、そうでもないんですよね。むしろ味わい深い文章で、落語的で、漫画的で、面白い。語彙力も逞しいので、文面に見られる情景が脳裏に一連の映像として流れるんですよね。

どこもかしこも面白いんですが、その内の一つの場面として、主人公の坊っちゃんが東京の住むところから、四国の田舎へ新米の教師として中学校に赴任する場面があるんですが、その際の「坊っちゃん」の他の先生への挨拶が面白いので、以下に挙げてみますね。

”そう、こうする内に喇叭が鳴った。教場の方が急にがやがやする。もう教員も控所へ揃いましたろうと云うから、校長に尾いて教員控所へはいった。広い細長い部屋の周囲に机を並べてみんな腰をかけている。おれがはいったのを見て、みんな申し合わせたようにおれの顔を見た。見世物じゃあるまいし。それから申しつけられた通り一人一人の前へ行って辞令を出して挨拶をした。大概は椅子を離れて腰をかがめるばかりであったが、念の入ったのは差し出した辞令を受け取って一応拝見をしてそれを恭しく返却した。まるで宮芝居の真似だ。十五人目に体操の教師へと廻って来た時には、同じ事を何返もうやるので少々じれったくなった。向うは一度で済む。こっちは同じ所作を十五返繰り返している。少しはひとの了見も察してみるがいい。”

教員控所は今でいう職員室でしょうね。
職員室で、新任の先生としての辞令を手に持って、先生一人一人に挨拶に回ることを事前に校長先生(狸、との渾名)に言われていたので、そうしている場面です。たったこれだけの文章で、この雰囲気、全てが伝わりませんか? 決してダラダラとは書かず、文章自体は淡泊ながらも、描写は丁寧。この主人公の「坊っちゃん」の苛々した感じがたまりません。

その場面に続く場面もまた、面白いところです。控所での主な先生たちの説明が為されていて、その説明も笑ってしまいます。私が笑ったのは、うらなり先生のところ。

”それから英語の教師に古賀とか云う大変顔色の悪い男が居た。大概顔の蒼い人は痩せてるもんだが、この男は蒼くふくれている。昔小学校へ行く時分、浅井の民さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。浅井は百姓だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬いだと思う。この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違いない。もっともうらなりとは何の事か今もって知らない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。大方清も知らないんだろう。”

・・・一人の男性教諭を以ってこれだけ説明をするんだから、それだけで感動してしまいます。そしてこれ以後、この先生は「うらなり」と言う渾名で記されることに。そんでもってこの「うらなり」という言葉が一体何なのか、分からないままという・・・言葉のこのニュアンスだけで、なんとなーく、つるりぷくりとした感じを受けます。説明の言葉の端々に、辛辣さが見えるのもまたたまりませんね。酬いて。

堀田という数学の教師もいますが、彼の事も”逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構えである”と来るんですから、もうこれだけでどんな人なのか想像できます。絶対眉毛は太いでしょ、と。本当に数学の教師?体育教師ではなくて?と。

今どきの本を読んでいると、もしかしたら字の羅列にも見えるこの分厚い文章を読むのは疲れる、と感じるかも知れませんが、その意味に世界にどっぷり浸かりながら読むと、なんとまあ楽しいことかと思わせられます。

また、世の中に対する皮肉も当然のように散りばめられていて、現代と重なる部分も大いにあるので、決して昔の小説ときっちり分けて考えるようなものでもなく、ああ、昔も今も変わらないんだなと、当時の状況を身近にも感じます。その内の一つ、新聞についてのことで、

”つまり新聞屋に書かれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。新聞がそんな者なら、一日も早く打っ潰してしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、泥鼈(すっぽん)に喰いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日ただ今狸の説明によって始めて承知仕った。”

・・・この何とも言えない真実を、多くの人たちの腑に落ちるような言葉でこうして書き表していることに、また思わず唸ってしまいますね。新聞に書かれてしまっては、嘘でも本当でもどうしようもないというのは、昔も今もこれからも同じことでしょうね。そしてこの新聞や、今では他にも様々なメディアがありますが、そのメディアの流す情報一つで私たち庶民はあちらにもこちらにも流されてしまうんですから、良いようにされてしまいますね。悔しいですが。

今だって実は、疑うべき常識って多くあるに違いないです。そういうことを知ろうとすれば、歴史に学ぶのが一つの手段。ということで私は今、また別の本を読んでいます。漱石さんではない本ですが、私たちが生きるこの世界の裏側ってそんなことが起こってたんだとひたすら驚かされるような本、です。読み終わったらまたご紹介できればと。

この度ご紹介した「坊っちゃん」はそこまで長くないお話なので、もしご興味ある方は何かの時間の合間にちょこちょこ読んでみてはどうでしょ。やはり原文で読むのがオススメです。読後は何となく頭が良くなったような気分にもなり、笑いの本質も見えたりと、決して損はないと思われます。どうしても猫ちゃんとか坊っちゃんとかを読むと、私としてはドリフ大爆笑を思い出しちゃうんですよね~。あの辺りの笑いにはこの夏目漱石当たりの影響があるんじゃないかしらと、勝手に思っています。

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