2017/12/03
旅支度
「じゃあ僕は町の人に色々聞いてくるね。ヘンリーは仕事頑張って」
「……なあ、改めて考えてみたんだけどよ」
「どうしたの?」
「俺が客を相手にする仕事ができると思うか?」
「思わないよ」
宿を出た二人はいくらか強くなってきた朝日を浴びながら、オラクルベリーの町を歩いていた。夜のオラクルベリーの町とは違い、人々は爽やかな表情で町の中を動いている。商売に精を出す商人、まだ穏やかな朝日の中で町の中を気ままに散歩する人、リュカたちと同じように旅の途中でこの町に立ち寄り、情報を集めている旅人、友達と無邪気に遊び回る子供たち、その周りで楽しそうにはしゃぐ犬。どれを取っても朝日に似合った人間の営みに見えた。
「エラくはっきり言ってくれるな」
「気に食わないお客さんが来たら、追い返しちゃいそうだよね」
リュカのからかうような言葉に、ヘンリーはあからさまに憮然とした表情をする。
「そんなことするかよ。……まあ、せいぜい大人しくして、人の話を聞くことにするよ」
「そうそう、今日の僕たちの目的は『色んな人から話を聞く』だから。僕も一日、町を回ってみて、何か良い情報があったら後で宿で話すよ」
「カジノってところには、昼夜問わず人がいるのが良いところだな。陽が落ちる前くらいには宿に戻るようにする」
「うん、そうしよう。じゃあ、後で」
二人はオラクルベリーに滞在するのは今日が最後と決めていた。カジノの建物が見えてくると、二人はそれぞれ情報を求めるために、解散した。
昨夜、町で評判の占いババに、これから進むべき道を尋ねてみた。すると彼女は、リュカがほとんど何も語らずとも、『この町にお主の探す女性はいない』と初めから断言したのだ。リュカはその言葉を聞いた瞬間、予想以上に肩を落とした。幼い頃、父に連れられ様々なところを旅した記憶の中に、この町がなかったことは、もしかしたらここに母がいるのではないかと、無意識に期待してしまっていたのだ。
旅の目的は母を捜すことだが、リュカとヘンリーはまだ外の世界に足を踏み入れたばかりで、世界の事情を何一つ分かっていないに等しい状況だ。突然、何もない大海に投げ出され、母を捜せと言われても、がむしゃらに泳いでいては近いうちに溺れて自滅するだけだ。
彼らがオラクルベリーに来る前にいた海辺の修道院では、世界の情報を集めることはほとんどできなかった。修道院に暮らす修道女たちは、世界で起こる様々な出来事から自ら離れ、世界とは極力関わらない独自の暮らしを営んでいる。修道女たちにとって必要なものは、暮らしを支える自然の恵みと、心の支えとなる神の存在だけなのだ。中には普通の娘のように町に憧れ、たまに町から来ていた商人に、華やかな町の様子を聞いている修道女もいた。そんな彼女たちだが、修道院を出て町に行く、と言い出す者はいなかった。慎ましやかな暮らしの中で、ささやかな夢を見るくらいで丁度良い、そんな穏やかな雰囲気が修道院全体を包んでいた。
とにかく世界の事情を知る必要があると、リュカは思った。子供の頃はただ父の言うことを聞いていれば間違いはなかった。しかし今は自分で全てを決め、歩かなくてはいけない。そのためにも、何も知らないでいる今の状況は危険を感じるほどだった。
幸い、このオラクルベリーは大きな都市だ。世の中が物騒になり旅人が少なくなったとは言え、町を歩いていればそれだけで数人の旅人らしき人物とすれ違う。リュカは町を散策しながら、目が合った人には片っ端から話をしてみようと、それくらいの意気込みで町歩きを始めた。
一番初めに足を向けたのは道具屋だった。オラクルベリーの町に来てから初日に、武器屋、防具屋、教会と足を運んでいたが、道具屋に寄ることはなかった。それにリュカ自身、道具屋での売り物を見たかったというのも理由の一つだ。今リュカが持っている道具袋の中には薬草と毒消し草が少々、それだけだった。他にも旅に役立ちそうな道具があればと、リュカは懐のゴールドを思い浮かべて苦い顔をしながら、道具屋の扉を開いた。
店内には二人の旅人と、町の人が一人、店のカウンターの前で売り物の書かれた表を見ている。幼い頃に来ていた時、リュカにはその文字が読めなかった。しかし今は、表に書かれた道具の名前が全て分かった。薬草に毒消し草はもちろんのこと、聖水、満月草など、リュカが聞いたこともないような品物が並べられていた。
その中でも一際目をひかれた品物を、道具屋の店主に訪ねた。
「あの、このにおい袋ってどういうものなんですか」
店の軒下にいくつもぶら下げられている革製の小さな袋を指差し、リュカが尋ねた。袋の口から金具が出ており、口は頑丈な縄で何重にも縛られている。見た目はリュカたちが旅に持ち出した水を入れる革袋にほど近いものだ。しかし水を飲めるような形はしておらず、代わりに小さな取っ手のようなものがついている。
リュカよりも一回りほど年上に見える男性店主が、軒下の袋を一つ手に取り、リュカの目の前に差しだした。
「これは魔物をひきつける道具だよ。この取っ手をこうやって押すと、中のにおいが出る仕組みになってるんだ」
「魔物をひきつける? 追い払うんじゃないんですか」
「身を清めて魔物を近づけさせないのはこっちの聖水。におい袋はその逆ってところかな」
近年、町の外で魔物の数が多くなってきているのは、リュカの耳にも入っている。旅の安全のためにはなるべく魔物と遭遇せず、戦わないのが最善だ。しかしこのにおい袋は、わざわざ魔物を呼び寄せるために使うらしい。
リュカが首を傾げてにおい袋を見ていると、店主が丁寧に説明する。
「旅人さんの中には力試しをしたい戦士もいるんだ。そういう人たちは腕を磨くために魔物を呼び寄せ、戦いを挑んだりするそうだ。だからこれを買って行く人はある程度旅慣れた戦士が多いね」
店主が手ににおい袋を持ちながら、尋ねてきた客の身なりを見る。リュカの、いかにも旅を始めたばかり、と言った装備品の少なさに、店主はにおい袋を元の通り軒下にぶら下げた。
「君にはまだ早いようだね。もう少し旅に慣れてから使うのがいいよ」
「いや、僕はたぶん、使わないと思います。だってそれって、魔物を倒すために呼び寄せるんでしょう?」
「ああ、そうだよ。魔物はこの甘いにおいにひきつけられるらしい。人間が嗅いだところで、決して良いにおいではないんだけどね」
リュカは軒下にぶら下げられているにおい袋を手にとって、鼻に近づけてみた。店主の言うとおり、甘いとは言え、花や菓子のようなきれいな甘さではない。果物が熟れ過ぎて、腐りかけてしまったようなにおいが鼻につく。リュカは顔をしかめて袋を軒下に戻した。
「やっぱり僕には必要ないかな。できるだけ、魔物とは戦いたくないから」
「そう言うと思ったよ。君はあまり戦いが得意ではなさそうだからね。ただ旅をする限り、魔物と戦うことは避けられないよ。戦いが好きじゃないんだったら、聖水を一つ、どうだい?」
店主が店のカウンターの上に、木製の網籠を寄せてきた。その中には聖水の小瓶がいくつも入れられている。リュカが手にとって眺めている姿を見ながら、店主は申し訳なさそうに言葉を付け加える。
「魔物を近づけさせないためにこの聖水を使うんだが、一つ注意点がある。自分より強い魔物にはその効き目があまりないんだ」
聖水自体はどの小瓶のものも同じものだが、その水を身にまとう人の経験値、強さなどによって、効果が違ってくるらしい。旅に慣れ、経験値も積み、そんじょそこらの魔物には負けないほどの強さを身に付けた戦士ならば、聖水の効果が十分に期待できる。しかしまだ旅に出たばかりのリュカやヘンリーには必要がないと言えるものだった。聖水を身体にふりかけたところで、魔物と遭遇する確率は大して変わらないだろう。
「今の僕にはどっちも必要じゃないみたいですね」
「うーん、そうかもな。君を見ていると、まずはその武器をどうにかした方が良いかもね。ひのきの棒じゃあ、それだけで魔物に舐められてしまうよ」
色々な旅人と話をしている道具屋の店主の言うことは、最もだった。人間が魔物と遭遇した時に、魔物の様子を見て戦えるかどうかを判断するのと同じで、魔物も人間の強さを見た目や雰囲気で測っている。弱そうな相手であれば自ら戦いを挑んでくるし、強そうな相手ならば尻尾を巻いて逃げてしまうこともある。まずは装備品を調え、鎧兜に身を包み、姿かたちだけでも屈強な戦士となれば、それだけで弱い魔物は寄ってこないのだ。
しかし今の所持金を考えると、武器防具に手を出せる余裕はなかった。当面、リュカは檜の棒で、ヘンリーは果物ナイフで我慢するしかない。
リュカが陳列棚の前で考え込むように眉根を寄せていると、道具屋の店主は他の客に呼び止められ、愛想良く返事をする。店主を呼んだ客を見てみると、リュカよりも数段旅に慣れているような、しっかりとした旅装に身を包んでいた。腰にはいっぱしの剣が提げられている。
「薬草を十個ほど欲しいんだが」
「すみません、今はお一人様五個までってことになってるんです」
思わぬ店主の言葉に、客の戦士だけではなく、リュカも店主を振り向き見る。
「最近、道具を仕入れるのに時間がかかっちゃってね。なにせ北の王国の情勢が不安定だから、物流が悪いんですよ」
店主の困り顔に釣られるように、戦士も困惑した表情になる。回復呪文が使えない戦士は、傷の手当てを薬草などの道具に頼るしかない。限られた数しか手に入れられないとなると、戦士の旅そのものに影響が出てくるに違いない。
「前までなら定期的に道具も仕入れられたんだけどね。魔物が多くなったって言うのもあるんだけど、物自体の流れが良くないんです」
「仕方がない、じゃあ薬草を五個頼む」
「毎度あり」
道具屋の店主は笑顔で返事をすると、油紙に包まれた薬草を五つ、カウンターの上に並べた。戦士は代金を支払いながら、他の道具にもなんとなく目をやっている。
「そういや防具屋の主人が北に店を出そうかなんて言っていたな。そうしてくれれば、物が上手く流れるように相談ができるかも」
オラクルベリーは世界的に見ても大都市だ。その町で防具屋を営む主人が、何故あえて他の土地で商売をしようとするのか、リュカは直感的にそれがおかしいことだと感じた。どうやら旅の戦士もリュカと同じように思っていたようで、店主に問いかける。
「どうしてあえて不安定な情勢の国へ行こうとするのか。この町で防具屋を営んで、成功しているならそれで良いと思うが」
「それがこの町には防具屋がもう一軒ありましてね、そちらの方が品ぞろえが良いって評判なんですよ。それに北のお城では武器屋も防具屋も歓迎しているみたいだし。言っちゃ悪いけど、たとえ品ぞろえが悪くたって、それだけの需要があれば商売は今より上に向くでしょう」
道具屋の店主が言う評判の良い防具屋は、リュカとヘンリーがこのオラクルベリーの町に来て初日に立ち寄った店だった。 町の表通りに軒を並べる店ではなく、裏通りに面し、決して目立つ立地にある防具屋ではなかった。しかしリュカ自身、町の人にその評判を聞き、足を運んでいた。
薬草を買って行った戦士は、道具屋の店主にその評判の良い防具屋の場所を聞き、その足で向かって行ったようだった。一方で品ぞろえの悪い防具屋の場所を聞き出すリュカに道具屋の店主は首を傾げていたが、この道具屋のすぐ近くにあると、丁寧に店の外に出てリュカに道を教えた。
「言っておくけど、品ぞろえが悪いからって、決して安いわけではないよ」
リュカの貧相とも呼べるほどの身なりを見ながら、道具屋の店主は心配そうに助言する。リュカはただ礼を述べると、教えられた通りの道を歩き始めた。
カジノの人混みは昼も夜も変わらない。まだ昼になる前から、カジノに興じる人は多くいる。ヘンリーは入口に立っていた案内係りのバニーガールに声をかけられると、一瞬カジノの客になろうと気持ちが揺れたが、所持金の少なさに現実に引き戻された。
「金がないからまた今度にするよ」
「あら、お金もないのにカジノに来たの?」
バニーガールのいかにもな質問に、ヘンリーは苦い顔をして答える。
「その金を稼ぐために、ここで働かせてもらおうと思ってね。とりあえずあの酒場に行ってみようかと思うんだけど」
「お兄さん、お酒は飲める?」
「……いいや、飲めない」
嘘をつくこともできたが、ヘンリーは見知らぬ女性に見栄を張っても仕方ないと、素直に答えた。きっと笑われるだろうと予想していたヘンリーだが、バニーガールは歓迎するような笑顔で彼に教える。
「それなら雇ってくれるかも知れないわ」
「え、何で?」
酒場に行く前に門前払いをされても、とりあえずは直談判を申し入れるつもりだったヘンリーだが、予想外のバニーの言葉に、思わず眉根を寄せながら問い掛けた。
「お酒が飲める人が来ちゃうと、お店のお酒を勝手に飲んじゃうらしいのよね。あそこのマスター、それで前に人をクビにしたんだって。相当飲まれちゃったみたい」
「へぇ、そんなことがあるのか」
「それにお兄さんみたいにカッコイイ人がいたら、女のお客さんが増えて、マスターも嬉しいんじゃないかしら。私も後で行こうかなぁ」
胸を強調するような姿勢で色目を使われ、ヘンリーは無意識に行ってしまった胸への視線を、強引に外した。
「と、とりあえず雇ってくれるかどうか、話してみることにする。ありがとな」
「どういたしまして。また後でね~」
挨拶代わりの投げキッスを飛ばしてくるバニーを見ないまま、ヘンリーはカジノの中の人混みを縫って奥へと進んで行った。スロット台がずらりと並ぶ一角を右手に進みつつ、赤いレバーと握りしめてスロットに興じる人々に羨望の眼差しを送る。ふらりとスロット台に踏み出しそうになるヘンリーの前には、厳しい顔つきのリュカが立ちはだかる。あくまでもリュカの旅を助けるために自分がいるのだと自覚し、ヘンリーはスロット台をちらちら横目に見ながら、黙々と酒場に向かって行った。
まだ昼前の時間帯だが、酒場には多くの客で賑わいを見せていた。どうやら昼には昼のメニューを提供しているようで、酒を飲みに来るわけではなく、普通に昼飯を取る人もいるようだ。油で炒めものをする香ばしい匂いが漂っている。
「いらっしゃい。おひとり様?」
酒場のマスターがカジノの中を突き抜けて、まっしぐらに酒場に向かってきた若者に声をかけた。声をかけられたヘンリーはカウンター越しに小声で話しかける。
「いや、俺は客じゃなくて、ここで一日働かせてもらいたいんだ」
「ここで? 今のところ、人は間に合ってる……」
マスターはそう言いながらも、見目の良い若者をしげしげと見つめた。格好そのものは旅人の中でも貧相なものだが、彼の雰囲気が女性受けするのではないかと、マスターはしばし黙ってヘンリーを見ていた。何も言わないマスターの態度に、ヘンリーは居心地悪そうに視線を逸らし、酒場にいる客を見渡していた。
「君、ところで酒は飲めるか?」
「飲めない、一滴も」
「合格だ。ここから入って支度してくれ。制服は中にある」
断られるかもしれないと思っていたヘンリーは、あっけらかんとしたマスターの合格通知に、拍子抜けしたようにその場で立ち止まった。いざ働くことが決まると、今度は怖気づいたかのように、自らできないことを言い始める。
「いや、でも俺、働いたことがないんだ。だから勝手が分からないと思うんだけど」
「大丈夫。君はそこでグラスや皿を拭いて、立っているだけでいい。そしてお客さんの話し相手になってくれ」
「それだけでいいのかよ」
丁寧語を一切使わないヘンリーの態度にも、マスターは嫌味を感じることはなかった。しかしお客の中には彼の堂々とした態度に嫌気を覚える人もいるかもしれない。マスターはそれを見越して一言だけヘンリーに言い添えた。
「くれぐれもお客とケンカだけはしないでくれよ。それだけが条件だ」
「そんなことしねぇよ。……リュカにも言われたな、そんなこと」
ヘンリーは頭を掻きながら、店のカウンターの内側に入って行った。厨房には調理をする男性が一人いるだけだった。その人に軽く会釈をすると、ヘンリーは奥の部屋に入って支度を調えた。白いシャツに袖を通した瞬間、ヘンリーは幼い頃の記憶が少し蘇るのを抑えられなかった。白い長袖のシャツに、黒いズボン、その上に黒いエプロンをつけると、いかにも制服を着た気分になる。それは幼い頃に王子として生きていた時の、あの青い服で正装していた時の感覚に近いものだった。意味のある服を身につけるだけで、自分の居場所を得たような感覚だ。
「なかなかサマになってるじゃないか」
身支度を調えたヘンリーを見て、マスターは笑みを浮かべてそう言った。
「働くのにその髪はジャマだろう。この紐で結えておくといいよ」
「ああ、分かった。……これでいいんだな」
「その方が顔が良く見えて、商売にも影響する。これから昼飯を食べにくるお客が増えるから、洗う食器も増える。頼んだよ」
「本当にそれだけでいいのか」
ヘンリーの言葉には答えずに、マスターは客のオーダーを取り始めた。まだ昼には早い時間だが、気の早い客はすでに昼食のために席についている。ヘンリーは『色々な人から情報を聞き出すこと』という目的を再認識して、耳をそばだてながら目の前のグラスを洗い始めた。
昼時になっても忙殺されるほどの仕事量ではなかった。夜に比べればやはり、昼時に酒を飲む者は少ない。昼には他にも多くの飲食店が店を開けているのだ。カジノの外からわざわざこの酒場で昼食を取る者はまずいない。来る客と言えば、カジノの常連客がほとんどだった。
カジノの常連客の話と言えば、今日は調子が良いとか、明日には挽回してみせるなど、カジノ内での出来事ばかりだ。だがいずれはカジノでひと儲けをと、頭の隅で考えているヘンリーはそんな話にもしっかりと耳を傾けて聞いていた。常連客と一口に言っても、その身なりはそれぞれだ。きちんとした身なりをして、髪に櫛も通して、いかにも金持ちの道楽を楽しんでいる人もいれば、しなびた服を着て、無造作に髭を生やし、一攫千金狙い以外には考えていないようなぎらぎらした目つきの男もいる。昼間の空いた時間にちょっとだけと、自制しながらもカジノに興じている主婦や、何か嫌なことでもあったのか、一心不乱にカードゲームにのめり込んでいた女性もいる。そんな人々を見ながら、ヘンリーはまともに金を稼ごうとしている自分を心の中で褒めていた。
常連客の一人が見慣れない店員がいることに気付き、マスターに話しかけてきた。
「こっちのは新入りか?」
「ああ、今日一日だけ手伝ってもらうことにしたんだ」
「俺に言ってくれりゃあいくらでも手伝ってやるのに。水くせぇな」
酒を飲んでもいないのに、既に顔を赤くして酒臭い息を吐く男に、ヘンリーは酒気から逃げるように立ち位置をずらした。その男の隣には、友としてはあまりにも不釣り合いな弱弱しい男が、陰気な雰囲気を漂わせながら水を飲んでいる。昼食は既に済ませたようだ。
「仕事なんか手伝ったって、何になるのさ」
独り言のように呟くその男に、ヘンリーは思わず怪訝な顔をする。マスターが横で『笑顔、笑顔』と言い、ヘンリーが出す刺を事前に抜こうとした。
「もう、世の中終わりなんですよ。世界が闇にむしばまれるというウワサがあるみたいですが……」
まだ年若いその細い男は、昼食のついでに酒も飲んでいたらしく、今は酔い覚ましに水を飲んでいるようだ。あまり酒に強そうには見えない。隣に座る酒臭い頑強な友は見た目通り酒には強く、酒気をはらんだ息を吐きながらも、その目は酔ってはいない。酒に飲まれかけている細身の友の介抱をしている雰囲気さえある。
「人間、死ぬ時は死ぬんです。人生楽しまなくっちゃ!」
いきなり満面の笑みを見せたかと思うと、水の入ったグラスを高々と上げて『かんぱーい』と言って、グラスを大きく揺らした。零れる水にも気付かないほど酔いが回っているようだ。
「すまねぇな。さっき闘技場で負けが混んじまってよ、コイツ。自棄になってやがんだ」
「こんな世の中ですからねぇ。今は多くいらっしゃいますよ、そういう方も」
マスターは落ち着いた様子で客の話を聞いている。しかしヘンリーは内心、胸の内がかっかと燃えるのを感じていた。抑えきれない思いが、思わず口をついて出る。
「あれも一つの考えだが、俺はやれるだけのことはやってから死にたいな」
小さいながらもはっきりとしたその言葉に、大きい体躯の男がヘンリーに目を向ける。その視線を感じたヘンリーも、特に逃げることなく、男の視線を正面から受け止めた。男が睨んでいる様子はなく、ただ物珍しそうにヘンリーを見ているだけだ。
「あんたの言うとおりだよ。やりたいことがあるんなら、こんな世の中だからこそ、やってみるべきだ」
酒の臭いを散らしながら話す男の言葉とは思えないほど、まともな意見だった。隣の細身の男の耳には届いていないようで、彼は明後日の方に虚ろな目を向けながら、ちびちびと水を飲んでいる。
「ただなぁ、やりたいことが見つからないヤツもいるってことだ。こいつも、俺も、その日その日をただなんとなく過ごすだけ。それで満足っちゃあ満足なんだよ」
男の言葉に、ヘンリーは言葉を詰まらせた。人に言えるほど、自分にやりたいことがあるわけではないことに、気付いたのだ。
あの大神殿建造の地に奴隷として働かされていた時は、その場所から逃げることだけが目的だった。その先のやりたいことなど、気に留める余裕もなかった。上手く生きて逃げだせば、後は何とかなる、それくらいしか考えられなかった。
多くの人の手に助けられ、今はオラクルベリーという町にいる。夢ある大きな町に来ても、自分のやりたいことが見つかるわけではなかった。カジノでちょっと遊びたいというのは、一時的な欲求に過ぎない。決してカジノに入り浸りたいわけではない。
己のやりたいことを問う前に、ヘンリーにはやらなければならないことがあった。リュカの手助けだ。リュカには子供の頃から変わらない目的がある。父パパスの遺言ともなった、『母を捜す』ということだ。この広い世界の中、彼の母親がどこにいるかは見当もつかない。もしかしたら旅は一生続き、終わらないのかもしれない。それでも、ヘンリーはリュカの旅を助ける義務があった。
友を助ける義務が、そっくりそのまま、ヘンリーの目的にすり替わっている。ヘンリー自身、今はそれ以外のことを考えてはいけないと、無意識にも自制する気持ちが働いていた。
「あんたはやりたくてその仕事を手伝ってるのか」
男にそう聞かれ、ヘンリーは考えながら応える。
「やりたいことがあって、ここで働かせてもらってるんだ。何にせよ、金はいるからな」
「なんだ、そのやりたいことって。大金が必要なことなのか。それだったらこんなところで仕事していても、大した儲けにはならないと思うぜ」
「言ってくれますねぇ。まあ、反論はできないですけどね」
マスターが苦笑いしながら男を見てそう言う。
「そんなに大金が必要なわけじゃない。旅をするのに必要な金があればそれでいいんだ」
「あんた、旅をしてるのか」
「始めたばかりだけどな」
「だろうな。俺はてっきり、どこぞの坊ちゃんかと思ったぜ。ヒョロヒョロしてて、てんで強そうには見えねぇ」
客の男に笑いながらそう言われ、ヘンリーはむっとした顔つきで黙り込んだ。奴隷として強制労働を強いられていた時間を多く過ごしたが、それは健康的な強さには結びつかないものだった。まだ自由の身になってそれほど経たない彼らの食は、一般男性に比べればまだまだ細いものだ。定期的に腹は減るが、その都度食べられる量はそれほどではない。リュカとヘンリーは青年の身体としてはまだ未熟とも呼べるほど、成長過程の途中にあった。
「そういうあんたは、毎日カジノに入り浸って……」
ヘンリーの不穏な空気を感じたマスターが、慌てて横から口を出す。
「そういえば伝説の勇者って知ってます?」
マスターの言葉に、ヘンリーと客の男が毒気を抜かれたように同時にマスターを見る。
「伝説の勇者ねぇ。噂にはなってるよな」
「なんだ、それ」
ヘンリーが首を傾げていると、調理場から新しい料理が出されてきて、目の前に置かれた。調理場の男が「三番席」と手で合図をするのを見て、ヘンリーは酒場内の三番席を探しながら、店内をうろつき始めた。その間もマスターと男は話をして盛り上がっているようだ。
料理を置いてカウンターに戻ってくると、二人はまだその話を続けていた。何食わぬ顔で元の立ち位置に戻り、皿を拭き始める。
「そういう人がホントに出現するかどうか……」
「前に比べりゃ魔物の多くなった時代だから、そういう伝説に期待するようになるんだろうな」
「でも伝説って言ったって、単なる昔話じゃないんですよ。本当にいたって話なんですから」
「もう何百年も昔の話なんだろ。まあ、勇者さんが悪い奴をやっつけて、魔物がいなくなるんなら、それはそれで万々歳だけどよ」
「男はやっぱり夢を追わないと。私は出現する方にコイン百枚賭けてるんですよ」
マスターは年に似合わず少年のように顔を輝かせて、熱のこもった言葉を吐いている。男はテーブルの上に残ったナッツを口に放り込むと、隣ですっかり寝てしまった連れをゆり起そうとした。しかし連れの男は完全に寝入ってしまって、うめき声を上げるだけで起きる気配はない。
「コイツは酒が飲めないくせに、どうしていつも飲んじまうんだろうなぁ。仕方ない、おぶっていくか」
男のその言葉に、ヘンリーはバツが悪そうに下を向いて、その時をやり過ごそうとした。オラクルベリーに来て初日、同じようなことを自らしでかしてしまったことを思い出していた。
「なあ、お前はどう思う?」
唐突に話を振られ、ヘンリーは何の事かと首を傾げる。
「伝説の勇者だよ。いるかいないか、どっちだと思う?」
「……さあ、どうだろうな。いたらラッキー、くらいでいいんじゃねぇの? そんなもんには頼らないのが一番だ」
「なるほどな。考え方としちゃ、それがいいかもな」
「若いのに夢がないねぇ」
マスターは最近の若者を憂うような視線でヘンリーを見る。そんな視線を向けられても、ヘンリーは熱っぽく伝説の勇者について語るほど、そもそも伝説について知識もない。
カウンターでマスターと話をしていた男が立ち上がり、勘定を済ませると、連れの細身の男を背負って酒場を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、ヘンリーは彼らが使用していた皿を片づけ始めた。思いの外てきぱき動くヘンリーに、マスターは満足気に微笑んで頷いている。
「でもこのまま魔物の数が増えていったら、世界を救う勇者は絶対に現れると思うんだよねぇ」
どうやらマスターは勇者の存在を頑なに信じ、いずれは自分の目の前に現れるのだと、具体的な夢を見ているようだ。マスターの言うことも分からないではないが、ヘンリーは一言、今の気持ちを吐露した。
「俺は今にそれほど絶望してない。むしろこれからだって思ってるからな。俺の中では今んとこ、勇者の出番はねぇな」
王子として生まれ、奴隷としての人生を十余年過ごし、運よくそこから抜け出し、今、生まれて初めて完全な自由の中にいた。しかし己のやりたいことは特になく、リュカの旅の手助けをするため、こうして酒場で一時的に働いている。
王子として生まれ育てられていた時は、王子としての人生しかないのだと決めつけていた。奴隷として過ごしていた時間は、ただそこから逃げ出したかっただけで、その後の人生を想像してもいなかった。いざ自分のやりたいことを考えても、ヘンリーには何も思いつかなかった。
ただふとした時に、幼い弟の泣き顔が脳裏にちらつくだけだ。
道具屋を出て、大通りに向かう途中に、その防具屋はあった。リュカたちが初日に訪れた評判の良い防具屋に比べると、店構えもしっかりしていて、人々の話を聞かなければよっぽどこちらの店に客が集まることは予想できた。実際、大通り近くに店を構えるこの防具屋には何人もの旅人が訪れている。入口は営業中、ずっと開けっぱなしにされているようだ。その開放的な雰囲気も、客を集めるのに適している。
店に足を踏み入れた瞬間、リュカは思わず「あっ」と声を上げた。オラクルベリーの町に着いて二日目に会った旅の戦士の姿があった。北に寂れた村があるという話を聞いた戦士だ。戦士もリュカの姿を見ると、思い出したように目を開き、片手を上げた。
「良かった、もしかしたらもうこの町を出ていたんじゃないかって思ってました」
「私を捜していたのか」
「もう一度話を聞きたいなぁって思ってたんです。僕たち、今度そこに行こうと思っているんで」
「そこって、北にある村かね」
「はい。この町の占いのおばあさんに『北に行け』って言われたんです。だから話に聞いたその村に行ってみようって。それでもしあなたに会えたら、道を聞いておこうと思ってたんです」
「特に何もないところだとは思うがな」
戦士は率直な感想を言う。目の前の青年に無駄な期待を抱かせないよう、通りすがりの村の様子を素っ気なく話し始める。
「まず人が少ない。旅をしていてあれほど人の少ない村を見たのは初めてだ。立ち寄ったところで、大した話も聞けないだろう」
「そうなんですか。でも、やっぱり一度行ってみたいです」
「占い師と言うのは、この町で有名な占いババだろう。確かに良く当たるとは言われているな。しかし北と言っても、他にも行く場所はあるかも知れない。たとえば北のお城も、その候補になるだろう」
北のお城というのはつい先ほど、道具屋の主人に聞いてきた話の中にも出てきた。だが地図を持たないリュカにとっては、どちらがオラクルベリーから近いのか見当もつかない。
「とりあえず近い方から行ってみます。どっちがここから近いんでしょうか」
占いババの言葉を信じたリュカの意思を曲げることもできず、旅の戦士は仕方なく懐から使い古した地図を取りだした。簡略化した地図に、びっしりと書き込みがされている。だがまだ訪れていない大陸もあるようだ。まだ地図上では真っ白な大陸の姿は、それだけ戦士の夢が詰まっている気がした。
「私の足で、村からこの町までは歩いて四日ほどかかった。だから君たちはもう一日かかると見た方が良いだろう」
防具屋の片隅で、戦士に地図を見せられ、地図上を指でなぞる姿を横で見ていたリュカは、ある既視感に襲われた。地図の上を走る戦士の指は武骨で年相応のものだ。腰には使い古した剣が提げられている。鉄の鎧にはいくつもの傷跡があり、何回もの魔物との戦闘をくぐりぬけてきたのが窺える。
リュカは素早く戦士の顔を見上げた。突然の青年の動作に、戦士は驚いた表情で彼を見返す。
「どうした、何か思い出したのか」
戦士の言葉があまりにも的を得ていて、リュカはすぐに返事をすることができなかった。戦士に道を教えてもらう今の瞬間が、子供の頃にラインハットで父に道を教わった時の感覚に重なったのだ。あの時父に教わった道は、ラインハットの東にある遺跡までの道のりだった。その時の感覚が蘇ると、身体が勝手に震えた。
「大丈夫か、君」
「……はい、ごめんなさい、大丈夫です。ええと、歩いて四日くらいなんですね。北の王国まではどれくらいかかるんですか」
リュカは父との思い出を頭の外へ押しやった。そうでもしないと、冷静に戦士の話を聞けなくなると思った。
「実は私も北の王国には寄っていないんだ。その前に港から船で出て、西の大陸に渡ろうと思っていてね」
「どうして立ち寄らないんですか」
「あまり良い噂は聞かないんでね。それに港から出る旅客船は年に数度しか出ていないらしく、今回を逃したらしばらくここに留まらなければならなくなってしまう」
港から船が出ているのは初めて聞く話だった。先ほど道具屋の店主が『最近、物流が悪くて……』と話していたことにつながるように思えた。
「君ももし旅をしているのなら、船に乗ることもお勧めするが」
「でも船に乗って行く先は、北じゃないんですよね」
「ああ、そうだな。船でかなりの長旅になるが、行く先は西の大陸だ」
束の間、旅先の選択肢が増えたが、リュカは占いババに言われた預言の通り行動することを曲げなかった。とにかく北に向かわなくてはならない。
「北の王国までの道のりは、私の聞いた話だが、歩いて七日は見といた方が良いだろう。だから距離的には村に立ち寄る方が近いだろうな」
旅の戦士が地図を広げながら、リュカに場所を指し示す。戦士の持つ地図は携帯用とあってかなり小さなもので、細かな道は全く分からず、ただ行く先と方角、山並みや川の位置などが分かるだけだ。その地図に、戦士は行く先々で事細かに色々なことを書き込んでいる。リュカが目指す北の寂れた村のところには、ただ村の印が描かれているだけで、特に注意書きのようなものはなかった。戦士にとってはただの通りすがりの村だったのだろう。
「ここから北に歩いて行ったところに大きな橋がある。その橋ができたのは十年程前らしいが、それまではこのオラクルベリーも町の名前もないような小さな集落だったらしい」
「北の村に行くには、その橋を渡ってさらに北にずっと行くんですね」
戦士の地図を覗きこみながら、リュカは地図の景色を頭の中に焼き付けた。橋を渡り、左手に山並みを見ながら北に進み、右手に山と森が見えたところでその間を抜けるようにして進んだ先に、目的の村はあるようだ。そこまで行くのに多めに見て五日、リュカは後で食糧の調達に行こうと考えていた。
リュカが真剣に地図に見入る姿を見て、旅の戦士は意外そうな表情で言う。
「君はもしかして、旅に出るのは初めてじゃないのかね」
旅慣れた戦士にそう問われ、リュカは子供の頃を思い出す。地図から目を離さないまま、リュカは独り言のように呟いた。
「子供の頃は父に連れられて旅をしていました。目的も分からないまま、ただ色んなところを転々と」
「そうか。……まあ、これ以上は聞くまい」
旅の戦士と別れると、リュカは頭の中で今まで見ていた地図を何度も思い描いた。後で宿に戻ったら、ヘンリーにも伝えなくてはならない。忘れないように目的の場所への道のりだけを、頭に刻みつけた。
防具屋には他にも旅人が数人訪れている。三人、四人の仲間連れであったり、一人で買い物にきた魔法使いがとんがり帽子を手にとって見ていたり、各々がそれなりに旅を楽しんでいるようにも見えた。リュカもその中に混じって、店に置いてある品物を眺め始めた。皮の腰巻に鱗の盾、とんがり帽子、木の帽子など、比較的力のない者でも装備できるような軽い装備品が多く並べられていた。中にはただの布切れなど、防具屋に置いてあるのを疑うような品物も置かれている。リュカはもう一軒ある防具屋の評判が良いということに、心の中で小さく頷いた。
店のカウンターにはでっぷりと太った防具屋の主人が、カウンターの上に何やら紙を広げて眺めている。ちらっと横目に見たリュカの目に映ったのは、防具屋の家計簿のようなものだった。リュカには何が書いてあるかは分からないが、防具屋の主人はその紙に目を落としながら、こっそりと溜め息をついている。
リュカはこの防具屋の一番の疑問である、ただの布切れを手にとって、店主に話しかけた。
「あの、これってどうやって装備するんですか」
客に話しかけられ、店主は我に返ったように顔を上げると、同時にカウンターの上の紙を折りたたんだ。仕事の最中にまで家庭の事情を気にしてしまったことに、少々罪悪感があるような表情で、話しかけてきた青年を見る。
「その布切れは何にも装備を調えられない人や、道具袋として使ったっていいんですよ。ほら、これをこうしてこうすれば、風呂敷包みになるでしょ」
「ホントだ。防具屋さんで旅の道具も売ってるんですね」
「そういう用途もあるってことですよ。一応、これは防具の一種なんですから」
防具屋の中年の男性は営業中に被っている帽子を一度被り直すと、鱗の盾を買うと店頭に出てきた客の相手をし始めた。愛想良く客の相手をする中年の店主を見ながら、リュカはその表情に彼の我慢を見たような気がした。心から客の相手をしている雰囲気ではない。仕事中ではあるが、心は明後日の方へ向いている。
鱗の盾を買って行った魔法使いを見送ると、再び溜め息をつくような沈んだ面持ちで、防具屋の店主は帽子をかぶり直す。たったそれだけのことで、店内の雰囲気が暗くなるような気がした。
「あの、僕これから北に旅に出る予定なんですけど、何か知っていることがあったら教えて欲しいんですが」
先ほど道具屋で聞いた話によると、この防具屋の主人は北のお城に店を出したいと言っているらしい。リュカの目的地ではないが、もしかしたら何か話が聞けるかも知れないと、リュカは率直に問い掛けた。すると防具屋の中年の店主はあからさまに煙たい顔をして、リュカを睨んだ。
「……ここは情報屋じゃないんだ。防具を買う気がないんなら出てってくれ」
それっきり、防具屋の主人はリュカと話すのを避けるように、他の客の相手に回った。リュカの身なりを見ていかにも金がなく、ただの布切れに興味を持つような若者に、店の邪魔をされたくないようだった。
これ以上食い下がって話を聞こうとしても、恐らく防具屋の主人は機嫌を損ねたまま何も話はしないだろうと、リュカは大人しく店を後にした。
開けっ放しになっている出入り口を出ると、店の前で掃き掃除をしている女性と目があった。防具屋の中年の主人と同じほどの年で、同じような丸っこい体型をしている。普通の竹ぼうきがやたら小さく見えるほど、しっかりとした体格の女性だ。
「どうもありがとうございました」
店から出てきたリュカにそう声をかけると、その女性も店の主人と同じように暗い面持ちで地面を見つめながら、竹ぼうきを動かしている。防具屋の主人の奥さんなのだろうと、リュカはすぐに分かった。店の前をきれいに掃除している姿は、主人の仕事を影ながら支えている優しさを感じる。
「あなたも元気がないですね。お店の人も同じような顔をしてました。どうかしたんですか」
リュカが何気なく話しかけると、中年の女性は箒を動かす手を止めて、リュカに助けを求めるような視線を向けた。不安を溜めこんでいるような女性の気配に、リュカは立ち止まって女性が話し出すのを待った。
「あんた、うちの人の知り合いかい?」
「いいえ、僕は……」
リュカが否定しようとするも、女性はそんな返事などどうでも良いというように、続けて喋り出す。
「ちょっと聞いておくれよ。うちの人ったらずっと北東の大きなお城まで商売に出たいなんて言うんだよ。でもあんまり評判の良くないお城みたいだし、あたしゃ何だか心配で……」
恐らく常日頃不安を感じているこの女性は、町の色々な人に相談を持ちかけては、束の間その不安から逃れているのだろう。誰かに話せば不安に揺れる心が落ち着く。しかしその不安は、根本的に解決をしなければ、ずっと消えることのないものだ。
リュカは道具屋の店主が言っていたことを思い出す。防具屋の主人は北に店を出そうとしている、そう言っていた。目の前の女性が話していることがそのことなのだろうと、リュカは更に話を聞こうとした。
「北東のお城って、そんなに評判が良くないんですか」
話に乗じてくれた若者に、女性は救いの手が伸びてきたと言わんばかりの笑顔で、店の前で立ち話に華を咲かせる。
「あたしも詳しいことは良く分からないんだけどさ、店に来る旅の人は口々に『あのお城には近づかない方がいい』みたいなことを言うもんだから、きっと良からぬことが起きてるに違いないんだよ」
女性の頭の中では「北東のお城は悪いお城」という想像が出来上がってしまっている。たとえ旅人の中にそのお城のことを良く言う人がいても、恐らく彼女の耳には入らないで通り過ぎてしまうだろう。
「そんな話を聞いて、北のお城に行きたがる主人を応援する気になんかならなくてね。ただでさえ魔物が多くなって、物騒な世の中になったんだ。わざわざ危険を冒してまで、見も知らないお城に行ってお店を出そうなんて、どうかしちまったんじゃないかと思うよ」
「さっき聞いた話だと、ここからお城まで五日以上はかかるみたいだから、ちょっと遠いですよね」
「そんなに遠いところなのかい? そんなところに商売を移すなんて、無理だね。何を考えてるんだろう、あの人は」
始め憂鬱そうな表情で箒を動かしていた女性だったが、今やもう怒りの表情に変っていた。これ以上、北のお城の良くない情報を教えたところで、女性のとって何も良いことはないと、リュカはもう北のお城のことについて話すのを止めることにした。
箒を持つ手を完全に止めている女性の足元に、突然何かがまとわりついた。驚いたリュカが彼女の足元を見下ろすと、小さな子供が女性を見上げていた。
「母ちゃん、おなかすいた。ごはんまだ?」
「ああ、もう帰ってきたんだね。友達とかくれんぼをして遊んでたんじゃないのかい?」
「ごはんたべたら、またつづきをするんだよ」
「くれぐれも町の外に出ちゃダメだよ。あそこは町の外壁のないところだからね」
「あの大きな木のおそとに行っちゃダメなんだよね、わかってるよ」
リュカにはそれがどこのことか分からなかった。これほどの大きな町なのだから、まだ足を運んでいない場所はたくさんあるのだろう。母子の話を聞いていて、その場所が子供たちの遊ぶ広場のようなところなのだろうと想像していた。
「おじちゃん、だれ?」
話しかけられたのが自分とは気付かず、リュカは見上げてくる子供の顔をただ見つめていた。そして周りにそれらしき男性がいないことに気付き、子供が自分から目を離さないのを変に思い、リュカは首を傾げながら問いかける。
「それって、僕のこと?」
「うん、そうだよ。かあちゃんのおともだち?」
「この人はお店に来てくれたお客さんだよ。ごあいさつは?」
「あ、うん、えーと、こんにちは。じゃなくて、いらっしゃいませ」
「こんにちは。でも僕はお店で何も買ってないんだ。ごめんね」
「オカネがないならしかたないよ」
「こらっ、なんてこと言うんだい、お客さんに向かって。ごめんなさいね、失礼なこと言って」
「アハハ、いいんですよ、本当のことだし。でも良く分かったね、僕がお金を持ってないって」
リュカの言葉に応えようと、子供が何かを言いかけるのを、母親が後ろから口を塞いで止めていた。彼女はこれから子供に昼飯を作って食べさせるのだろう。リュカに会釈をすると、そのまま子供を引きずるようにして家の中へと入って行った。
防具屋の主人の夢を止めようとする奥さんの気持ちが、少し分かるような気がした。まだ小さな子供を抱えているのだ。子供には仲の良い友達もいるようだ。母親というのは子供を守る使命のようなものを感じるものなのかもしれない。
だが一方で、父親は自分の夢を捨てられず、今も夢を追い求めている。北のお城に新しく店を出し、今よりも良い商売ができることを望んでいる。それも見方によっては、家族を思ってのことなのだろう。父親は父親で、家族の暮らしをより良くするために、多くの稼ぎを生み出そうとしている。
どちらが正しいのかは誰にも分からないことだ。どちらも正しい親の思いなのだ。
リュカは自分が子供の時のことをふと考えた。父は母を捜すために、まだ幼いリュカを連れて世界を旅していた。父がどんな思いでリュカを連れていたのかは、まだリュカには分からない。ただ、今目の前にいた小さな子供を見ていたら、父がリュカの手を離さなかったのは理解できる気がした。
「少しは成長したのかな、僕」
そう言って、リュカは先ほどの男の子に言われた一言が、重く肩にのしかかるのを感じた。
「……おじさんかぁ。そこまで行ってないと思うんだけどなぁ」
リュカは商店街の店のガラスに映る自分の姿を、しげしげと見つめていた。
昼飯には店の賄い飯を分けてもらい、ヘンリーは引き続きカジノのバーで働いていた。昼を過ぎればバーでの仕事も一段落し、客の数もまばらになる。午前中に負けた分を取り返そうと意気込んでバーを出る者もいれば、午前中にツイていた運をそのまま持ちこそうと浮かれた調子で闘技場に向かう者もいた。結局は皆、一日中カジノの中で過ごしているのだ。
バーで働いていると、カジノを訪れる常連がいることが分かる。マスターに親しげに話しかけ、スロットで勝つコツや、闘技場での賭け方、ポーカーの相手の表情の読み方などを自慢げに話していくのだ。そんな常連客の話を真剣に聞いているヘンリーを見て、マスターは苦笑いを浮かべていた。
自慢話を聞かせていた常連客が食事を終え、席を立つと、その後マスターがヘンリーに忠告する。
「どれも聞き流しておいた方が良いものだからね」
「え、なんで? せっかく教えてくれてんだから、聞いておいた方がいいだろ。俺も後で試してみようかって思ってたのに」
「必ず勝つ方法なんてないんだよ。賭け事ってのは何が起こるか分からないものなんだ」
「でも試してみる価値はあるんじゃねぇの?」
「現に私が試してダメだったんだから、恐らくどのコツも眉唾ものなんだと思うよ」
そう言いながらにやりと笑うマスターを見て、ヘンリーは思わず笑ってしまった。
「なんだ、あんたもう試してたのか」
「まだ若い頃の話だよ。だけどお客さんたちが話していく勝つコツってのは、昔から変わってないんだ。だから今試したところで、やっぱり勝てるとは限らないだろうね」
「おかげで無駄な時間を過ごさないで済んだぜ」
「昔と言っても、この町がこれほど大きくなったのは、つい十年ほど前だからね。それほど大昔じゃない」
マスターの十年という言葉を、ヘンリーは背中にのしかかる重しのように感じた。十年の間に一つの町が変貌を遂げた一方で、ヘンリーとリュカは毎日毎日変わらぬ死んだような生活を送っていた。世界から隔絶された場所で十代のほとんどを過ごし、声も変わり、身体も大きくなる成長期に、二人は変化のない奴隷生活にひたすら耐えていた。
二人の停滞した時間とは関係なく、世界は様々な変化を遂げている。このオラクルベリーの町はその一つに過ぎない。もしかしたらラインハットにも大きな変化があったのかも知れない。第一王子が失踪した後、まるで第一王子は初めから存在しなかったかのように、平和な国として存続している可能性もある。
むしろ、ヘンリーはそうであることを願った。そうでなければ、自分が失踪した意味がないに等しい。ラインハットという国において、自分は間違いなく不穏分子だったはずだ。その不穏分子がいなくなり、その後のラインハットが平穏に存在しているとしたら、それで良かった。
ただ、今のラインハットがどんな状況であれ、ヘンリーはそれを知りたくないと思った。良い状態であれ、悪い状態であれ、どちらにしても喜ぶことはできない。
マスターが厨房で働く男に買い出しを頼んでいる間に、バーには二人の女性連れが入ってきた。ヘンリーの前のカウンター席に座り、メニュー表も見ずにコーヒーと紅茶を注文する。
「マスターが来るまでちょっと待っててくれるか」
「いいのよ、あなたと話がしたかっただけだから」
おおよそカジノには似つかわしくない、至って普通の格好をした町娘だ。その隣にいる女性も、まだ少女ほどの年齢で、大人しそうな雰囲気を出している。ヘンリーの顔をちらっと見ると、すぐに目を逸らしてしまった。
知らない女性に『話がしたかった』と言われ、ヘンリーは思わず身構えた。つい先ほどまでラインハットのことを考えていたからか、もしかしたらラインハットの王子だったことがばれたのかと、ヘンリーは手遅れだとは思いつつも顔を隠そうとした。
「……ねえ、やっぱり出ましょう。お仕事の邪魔しちゃ悪いし」
「邪魔なんかしてないでしょう。私たちはお客として来てるんだから」
何やら目の前でコソコソと話し出した女性二人を見ながら、ヘンリーは早くマスターに戻ってきてほしいと裏の方を見遣った。するとちょうどマスターが戻り、新しく入店してきた女性二人に愛想よく挨拶をする。
「おや、お客さんたちは初めてですね」
「ええ、いつもは外でお茶したりしてるんだけど、今日はちょっとね」
「へぇ、どうしてまた」
マスターはそう聞きながら、二人のオーダー通り、コーヒーと紅茶の準備を始めた。どうやら裏にいながら二人のオーダーを聞いていたらしい。何も伝えていないにも関わらず、動き出すマスターの手早さを、ヘンリーは信じられない思いで横で見ていた。
「まだお昼前にカジノに入って行く男の人を、この子、ずっと目で追ってたんですよ。よっぽどカッコ良かったみたい」
目の前に座る女性二人は姉妹のようだった。姉妹揃って癖のある茶色の髪で、姉は長い髪の端を指先でいじりながら話している。妹は肩で揃えた髪を顔の方へ持ってきて、顔を隠そうとしているようだ。ヘンリーが不思議そうに妹の女性を見ると、彼女はますます俯き加減になって顔を隠してしまった。
店内の客が数名立ち、勘定を済ませると、カジノの熱の中へと紛れて行った。ヘンリーはテーブルの上を片付けようと、カウンターを出て客席まで歩いて行く。そんな彼の後ろ姿を見ながら、マスターは優しい笑顔で妹の方に話しかける。
「彼のことですよね?」
妹が答えられない代わりに、姉が代弁するように、一つ頷いた。
「この町には旅人さんが多いでしょう? 彼もそうなのかしら」
「そうみたいですよ。今日だけお店を手伝ってもらってるんです」
「やっぱりね、見かけない顔だと思ったわ。ねぇ、悪いことは言わないからあの人は止めておきなさいよ」
そんな姉の前にマスターはコーヒーカップを置くと、熱いコーヒーを注いだ。香ばしいコーヒーの湯気がカップから立ち上る。
「紅茶はもう少し待ってくださいね、今蒸らしてるところだから」
マスターが優しくそう言うと、妹はかわいらしい笑顔で「はい」と小さく答えた。しかしヘンリーがカウンターの中に戻ってくると、妹は再び顔を俯けて黙りこくってしまう。そんな彼女の様子には微塵も気づかないヘンリーは、戻してきた食器を早速洗い始める。
「なあ、君、彼女はいるのかい?」
マスターの唐突は話の振り方に、ヘンリーは思わず持っていた皿を落としかけた。何とか左手でキャッチすると、皿を手にしたままマスターを振り返る。
「彼女って、何だよ」
「恋人のことだよ。旅を始めたばかりなんだろう。国に残してきた彼女とか、いないのかい?」
「なんだそりゃ。そんなのいねぇよ」
ヘンリーは興味ないとばかりに、皿を石鹸水で洗い始める。だがどこか落ち着かない彼の様子に、マスターは彼に一つの仕事を任せようと、呼び寄せた。
「こちらのお嬢さんに紅茶をお出ししてくれるかい? ちょうど蒸らし時間が終わったみたいだ」
マスターはそう言うと、夜に出す酒の種類や量のチェックを始めた。ヘンリーは皿を洗う手を止め、出来上がった紅茶をカップに注ぐと、その匂いに思わず鼻を動かした。たったそれだけのことで、全く考えてもいなかった過去の情景が、脳裏にありありと蘇る。
王宮内での食事の席。家族で大きなテーブルを囲み、食事を終えた後には必ず淹れたての紅茶が出された。弟の紅茶にはたっぷりのはちみつが入れられ、そのはちみつの容れ物は自分に回されることはなかった。一度も飲んだことのないはちみつ紅茶だが、ヘンリーはそれが美味しいと知っていた。弟のデールがいつもそれをゆっくりと冷ましながら美味しそうに飲んでいたのだ。
しかしデールのカップに入れられたはちみつはその後、継母の指示ですぐに給仕の者に下げられた。そして家族の食卓は何事もなかったように終わる。ヘンリーはいつも苦い紅茶を無理に喉に流し込み、嫌な時間を早く終わらせようと我慢していた。
酒のチェックをしているマスターに、ヘンリーが話しかける。
「ここにはちみつって置いてないのか」
一般の市場において、はちみつはかなり高級に属する嗜好品で、市民はあまりお目にかかることもできない。手に入れることができるとしても、ごく少量というのが普通だった。
「少しならあるけど、何に使うんだい?」
「紅茶に入れたら美味いと思うんだ」
「カウンターに砂糖が置いてあるはずだけど、それじゃいけないのかね」
「あ、あの、お砂糖で十分です。そんな、はちみつだなんて……」
「はちみつなんてお願いしたら、この紅茶よりも高くなっちゃいそうだわ」
「そうなのか?」
子供の頃の食卓には頼まなくても、たっぷり入ったはちみつの瓶が用意された。それが普通だと思っていた自分の感覚が異常なのだと、三人の反応を見て、ヘンリーは大人しく引き下がった。
カップに入れた紅茶の湯気が冷めないうちに、ヘンリーは目の前の少女に紅茶を出した。少女は消え入るような声で「ありがとうございます」と言って、ようやくヘンリーの顔をまともに見上げた。目が合うと、ヘンリーは一応店の人間として愛想笑いを浮かべた。
「彼女がいなくても、好きな子とかいるんじゃないの?」
妹を夢から覚ましてやろうと、姉は妹にとって辛い質問をヘンリーにする。旅人に恋をしても、結局は置いていかれるのだと、姉は遠まわしに教えようとする。
「さあな、良くわかんねぇよ、そういうの」
ヘンリーはそう言いながらも、妹の少女の雰囲気から、一人の修道女を思い出していた。元気にしているだろうか、辛い思いをしていないだろうか、無理をしていないだろうか。頭の中を駆け巡る言葉は、彼女を心配するようなものばかりだった。まるで物思いに耽るような彼の表情を、少女はうっとりと見つめている。
「……これは脈ナシだわ、あきらめた方がいいわよ」
「うーん、そうかも知れない。これは恐らく、いるね」
マスターと姉の声など聞こえない様子で、仕舞にヘンリーはカウンターの上に片肘をついて遠くをぼんやり眺め始めた。自分にやりたいことなどないと思っていたが、実は目的ははっきりしていたんじゃないかと考え始める。今なら修道院に戻って彼女に会いに行くことは簡単だ。だが旅を続け、どこへとも知らぬ土地に行ってしまえば、恐らく彼女とは二度と会えないほどの距離が開くだろう。
それ以前に、マリア自身、修道女としてあの修道院で生きて行くことを心に誓ったのだ。彼女の思いを無視して、自分勝手な思いで会いに行くことはできない。彼女が決めた人生を邪魔するわけにはいかないと、ヘンリーは一人で一喜一憂していた。
「俺は一生をかけてあいつの手助けをしていかなくちゃなんないから、しばらくそういうのは、いいや」
自分の望みなど二の次だと、ヘンリーは旅の目的を改めて心に刻みつけた。リュカの母親捜しの手伝いをするのが償いであり、彼の旅の目的でもあった。ヘンリーの言う『あいつ』が女性に変換されているマスターと姉妹にとっても、意味は違えど、彼の意思は伝わったようだ。妹の方は予想していたこととは言え、明らかに肩を落としていた。
姉妹が店を後にしても、客足が途絶えることはなかった。カジノ内に店を構えている強みで、カジノに興じる客は必ずと言って良いほど、一度はこのバーに立ち寄り何かしら注文をしていく。夜が近づくと、客足は更に多くなる。夕方までには宿に戻ると言っていたヘンリーだったが、その後結局夜遅くまでずるずると働く羽目になった。忙しくなれば余計な考え事をしなくて済むと、ヘンリーは仕事を断ることなく、無心になって働いた。
「やけに遅かったね」
「ああ、おかげでまあまあ稼げたぜ。何日かの宿代くらいにはなりそうだ」
先に宿に戻っていたリュカがテーブルの上に道具を並べているところに、ヘンリーが姿を現した。リュカは昼間のうちに買い足していた薬草や毒消し草、革袋に詰めた水、干し肉や木の実、口にしたことにないようなドライフルーツなどをテーブルの上で整理していた。ヘンリーはそれらを横目に見ながらも、大した関心も寄せられないという様子で、ベッドの上に身体を投げ出した。
「あれだけ苛酷な生活を送ってたってのに、一日働いただけでやけに疲れた」
「慣れない仕事だったからじゃないかな。僕も町を歩いてただけなのに、足にちょっとマメができちゃったよ」
「ああ、だからブーツを脱いで裸足になってんのか。呪文で直しておけよ」
「町のちゃんとした石の道を歩いていただけなのにね。僕にはちゃんとした道よりぐちゃぐちゃな道の方が歩きやすいのかも」
言いながらリュカはテーブルの上の道具を種類別にまとめ、道具袋の中に順番に入れ始める。リュカの手慣れた作業ぶりを、ヘンリーは珍しく感心しながらぼんやり見ていた。そして懐から仕事での稼ぎを取り出すと、リュカに向かって投げ渡した。
「その金はお前が管理しろ。これはお前の旅の資金なんだからな」
ベッドの上に仰向けになりながらヘンリーは目を瞑って言う。そのまま寝入ってしまいそうなヘンリーに、リュカは大人しく「うん、分かった」と返事をするだけで、懐から自分の持ち金を取り出し、合わせて再び懐にしまい込んだ。
「食事はどうしたの?」
「仕事場で食わせてもらったよ」
「お店で色々話を聞いてきた? 酒場っていろんな人が集まりそうだから、色々話が聞けそうだよね」
「そこそこだな。お前はどうだった」
「そうそう、あの旅の戦士に会えたんだよ。北にある村までの道を教えてもらったんだ」
リュカが話し出すと、ヘンリーは目を開け、ベッドの上に身体を起こして真剣に話を聞いた。それほど眠くはなかったらしく、ただ身体を休めたかっただけのようだ。
リュカは北の村までの道をヘンリーにも教え、同じく北にある城の話も加えて話した。町の占いババに北に行けと言われた二人だが、距離的に近い村に行くことに二人とも異論はなかった。村に着いて、村人たちに話を聞き、特に珍しい話を聞けないようだったら、その後城に向かうということで方向性を簡単に決めた。
行けるところにはとりあえず行って、行動していくうちに、自ずと進むべき道は見えてくるだろうと、リュカもヘンリーも旅そのものをある程度楽観的に見ていた。いつまで続くか分からない旅なのだ。あまり重く捉えてしまっても、途中で気持ちが途切れてしまうことがあるかもしれない。あの奴隷生活の時も、二人は辛すぎる事実から目を逸らそうと、看守の目を盗んでは脱走計画を図り実行し、現場から抜け出しては見つからないところを探し出して一休みし、現場で岩を運んでいる時にでも、奴隷生活から抜け出した後のことを夢に見て、一日一日をどうにか過ごして行った。辛い時を、辛く過ごしても意味がないのだ。二人は身を持ってそれを知っていた。
「明日は朝早くにあの白馬を迎えに行こう。まだ暗いうちがいいよね、あの店のおじさん、夜にしか店を開けてないから」
「そうだな、この町を出るのも早い方がいい。あまり長居すると、出られなくなりそうだ」
ヘンリーの言う意味が分かるような気がしたが、同時にとある疑いがリュカの頭の中に浮上する。疑いの眼差しを隠さずに、リュカはヘンリーに問い掛けた。
「ところでさっきのお金からカジノに使ったりしてないよね」
「使ってねぇよ。真面目に働いてきた人間になんてこと言うんだ、お前は」
素直に憤慨するヘンリーを見て、リュカは安心したように「ごめん、ごめん」と謝った。そして懐から出そうとしていた金を、そのまましまい込んだ。ヘンリーは嘘をつく時、いつもより饒舌になるか、黙り込むか、どちらかの態度を取る。元々嘘をつくのはあまり得意な方ではないのをリュカは知っている。
「それと北のお城はあんまり良くないところだって、町の人が話してたよ」
「北の城? なんだそりゃ、名前とか言ってなかったのか」
「言ってなかったな。旅してる人も、あまり近づかないんじゃないかな、そういうところは」
「あんまり良くないところなんて聞いたら、近づきたくはないな。けど、北に行け、なんて言われてるんだから、行く先の候補としては残しておこうぜ」
「それでね、北の村の方が近いから、とりあえずそっちに行ってから……」
夜更けになるまで、宿の一室から二人の会話が途切れることはなかった。宿の部屋に置かれていたメモ用の紙を一枚使い、リュカは村までの簡単な図を書いてヘンリーに見せたり、ヘンリーは伝説の勇者の話をしてリュカの目を輝かせたり、話が尽きることはなかった。
部屋のランプの明かりの燃料が切れ、火の明るさがなくなると、二人は月明かりの届く部屋の一角に寄って、話を続けた。旅に関係のない話も多くする中で、最終的には何を話しているのか分からない状態で、力尽きるようにほぼ同時に眠りに就いた。