2017/12/03
枝分かれする道(前編)
「西のビスタ港が動き出したら、すぐにでも旅立つつもりなんだ」
「西の大陸ですか。話には聞いたことがありますが、私も初めての地です」
ラインハット北側に位置する森の中、大きな白馬がひく馬車が目立たないようにひっそりと留められている。パトリシアは傍で話をする一向の声に耳を傾け、まるで全てを把握しているような雰囲気で瞬きをしている。
「しかし港からは人間の船に乗るわけですね。私たちが一緒に行けるものでしょうか」
「それなんだけどさ、ヘンリーにも相談してみたんだけど、スラりんとピエールとガンドフには船の積み荷に紛れてもらうのが一番だと思うんだ。僕が旅の商人で、西の大陸にあるポートセルミって町まで運ぶ役目を負ってるって説明すれば大丈夫だって」
「なるほど。何とか上手いこと隠れているようにしましょう。ガンドフにちゃんと言い聞かせなければいけませんね」
「ピエールには苦労かけるね」
「なんてことはありません。スラりんもガンドフも、リュカ殿のためとあらばしっかり静かに隠れていてくれるでしょう」
「ピキ」
ピエールの兜の上に乗って身体を揺らしていたスラりんが、話は全て分かったというように短く返事をした。ガンドフはと言えば、近くの草むらで動く虫を見つけて、大きな一つ目でじっとその動きを追っている。しかしリュカ達の話は聞こえているようで、ピンク色の尖った耳を両方ともピクピクと動かしてリュカ達に向けていた。
「ビスタ港が動き出すまではもうちょっとかかるみたい。動き出しても、始めの内はそれほど船も入らないだろうって。何年も止められてた港だからね、みんな警戒するのかも知れない」
「それに海にも魔物は多くいますから、人間はあまり海に出たがらないのかも知れません」
魔物であるピエールが淡々と「魔物がいるから」という話をすることに、リュカは何とも言えない安心感や違和感を覚える。だがピエールの言う通り、広大な海には無数の魔物が存在する。西の大陸にあるポートセルミの町までの航海は、通常の船で一カ月ほどかかるらしく、その間に手ごわい魔物に船ごと襲われれば誰に知られることもなく海の藻屑と消える運命をたどることになるのだ。
「出発できる目処が立ったらまた知らせに来るから、それまでちょっと待ってて」
「承知しました。その間、剣の稽古を積んで旅の支度を整えておきましょう」
ピエールたちと話をした後、リュカは一度ラインハット城内へ戻った。偽太后を倒し、ラインハット国を救った一人として、リュカはラインハット城内を自由に出入りできる身となっていた。
真実の鏡を使い、偽太后の正体を暴き、城を乗っ取りかけていた魔物を倒してから既に十日が過ぎていた。城内の大窓からは涼やかな風が流れ込み、少し動いて汗をかいていても渇いた涼風がさっと汗を乾かしてくれる。季節は秋を迎えようとしている。
十日の間に、ラインハット王国は復興の道を歩み出していた。
手始めに、国王であるデールが国民に向けて長年に渡る悪政の謝罪と、今後は国民のために尽くす政治を行い、開かれた王国を目指すという誓いを立てた。まだ年若い国王の真摯な言葉に、国民は様々な反応を示した。その中で素直に感動した者の数は少ない。悪政に苦しめられ家族を失った者、高い税金の取り立てで自ら死の寸前まで追い込まれた者、謂れのない罪で牢獄に入れられ、人生の多くの時間を奪われた者。長い時を経て苦しめられた国民の心を溶かすには、それだけの時が必要だとデールも分かっていたが、王としての誓いを立てないことには何も始まらないと、罵詈雑言を浴びる覚悟で国民の前に姿を晒した。
国王の誓いの言葉の後に姿を現した太后の姿に、国民は一様に驚きの眼差しを向けた。彼らの太后に対するイメージは、何年の年月が流れても変わらない若さを保ち、いつでも目に痛いほどの煌びやかな衣装や装飾品に身を包み、常に国民を虫けらのように見下すという、誰もが恐れ嫌うような人物だった。しかし国王の隣に立つ太后の姿は、年相応と言うよりも大分老けこみ、それを化粧で隠しもせずに晒し、シンプルなドレスに身を包んでいなければ彼女が太后だと気づく者はいないだろうと、それほどに痩せっぽちな一人の老人に成り果てていた。この太后の姿を目にした国民の中には、デール国王が話した「国が魔物に乗っ取られる寸前だった」という話を信じるに至った者も少なくなかった。それほど太后というのは自尊心が高く、決して人前にみっともない姿を晒す人物ではなかったのだ。
そして国を救った立役者として、デールは兄のヘンリーが国に帰還したことを知らせようとしたが、ヘンリーがそれを拒否した。今まで何年にも渡り国民の生活を苦しめてきた国が変わろうとしていることだけでも、国民としては受け入れる準備が整っていない。そこで、長年失踪していた王子が帰還したという事実を知らせても却って混乱を招くだろうと、ヘンリーが表舞台に立つことを拒んだのだ。その実、ヘンリーはただ面倒なだけだった。面倒で目立つことは弟にやらせて、自分は影で勝手に支えて行こうと、ヘンリーはそれこそ勝手に心に誓っていた。
公の発表こそなかったものの、人々の噂はあっという間に広がる。ラインハット城内では既にヘンリーの帰還や彼が連れてきた二人の友人の存在を知らない者はいなかった。しばらくラインハットに滞在することになったリュカとマリアは、城の中を自由に歩き回ることを許されていたが、ただ歩いているだけで尊敬の眼差しで見られたり握手を求められたりすると、それほど自由に歩き回れないことをすぐに悟った。それからは一日の大半を、リュカは書庫や自分に当てられた部屋や、ピエールたちと外で話をして過ごし、マリアは教会で過ごすことが多くなった。
リュカはラインハット城内に戻ると、すぐに城の書庫に向かった。書庫に出入りできるのは今のところ、国王や太后やヘンリーはもちろんのこと、リュカやマリアにも入室を許されていた。普段は国王所有の鍵で施錠されているが、今日は朝からマリアが使用していると、リュカは朝食後に国王に聞いていた。書庫の扉は少し開いていた。書庫内には初秋の穏やかな日差しが差し込んでおり、その明かりがリュカのいる廊下にまで漏れている。開いている扉を軽くノックすると、中から「はい」と小さな返事が聞こえた。
「お邪魔してもいいかな」
「もちろんです、どうぞ」
マリアは書庫内のテーブルの上に分厚い文献を広げていた。修道院に帰るまでの間、彼女はこの書庫を勉強部屋の代わりとして使用しているようだ。
「私の方こそお邪魔ではありませんか」
「大丈夫。僕って集中すると周りが見えなくなるみたいだから、たとえマリアが隣でぎゃあぎゃあ騒いでも気にしないと思うよ」
「それなら安心です、もしかしたらぎゃあぎゃあ騒ぐかもしれないので」
マリアがそう言いながらにっこり微笑むのを見て、リュカは安心したように扉を開けたまま書庫内に入った。そのまま本棚の列に向かい、「旅行記」や「世界の名産品」などの内容が並ぶ棚に目を走らせる。これからリュカが向かおうとしている西の大陸の玄関港であるポートセルミについて書かれた旅行記を見つけると、挿絵の多いその本を手にマリアの左隣の席に腰を下ろした。マリアは古く分厚い文献を睨むように見つめながら、何やら暗誦している。
「そんな真面目な顔して何してるの」
リュカが文献を覗きこんでくると、マリアは我に返ったように顔を上げる。
「修道院に戻るまでの間だけしかここにいられないので、なるべく覚えて帰ろうかと思いまして」
「……その本、全部?」
「まさか、それは無理です。でもこんな立派なお城に来る機会なんて二度とないでしょうから、修道院の方々にも色々とお話ができたらと思って。さすがお城にある書物というのは歴史が古くて、色々と勉強になります」
「あの南の塔のことについても載ってるんだね」
「そうなんです。あまり詳しくは載っていないみたいですけど、塔のお庭で見た光景について何か書かれてるんじゃないかって思って見ていたんです」
マリアにそう言われ、リュカもその時のことを思い出した。神の塔の一階には中庭のような景色が広がっていた。そこに現れた二人の男女の幻影。あの男女の幻影が、リュカだけではなくヘンリーにも誰だかはっきりと分かっている。
「あの時、マリアが言ってたよね。あの場所には魂の記憶があるんだって」
「はい、そのことについてもっと深く知りたいと思ってこの本を見てみたんですが、やはり伝承というものはあまりはっきりとは載っていないようですね」
マリアの言うところは、伝承としては文献に載せられているものの、果たしてそれが真実だったのかは今や誰も知ることができないということだ。歴史や事実というのは、時の権力者や実力者によっていかようにも曲げられてしまうものだということを、彼女は暗に言っていた。
「でもそういうことって、本当のことが分からない方がいいってこともあるのかもね」
「どういうことでしょうか」
「だって、何もかも全部が分かっちゃったらさ、つまらないよ。分からないことが残ってた方が面白いんじゃないかなって。特にああいう幻みたいなのは、あんまり突き詰めちゃいけない気がする」
リュカの本心は、突き詰めて欲しくない、というところだ。何故あの場所に若かりし日の父と母が現れたのかは分からない。しかし分からなくていいと、リュカは思っていた。かつて神の塔を父と母が訪れたことがあった、それが分かっただけでリュカには十分だった。今の自分が、それ以上のことを知るのは怖いとすら感じていた。
「そうですね、神の御業を暴くだなんて、それこそ天罰が下されるかも知れません」
マリアはそう言いながら納得したようにページをめくった。歴史ある文献には他にも彼女の興味のある事柄が多く載せられている。修道院に戻るまでに、彼女は本気でこの書庫にある文献全てに目を通すくらいの気概でいるのかもしれない。それほどに彼女はラインハット城にいるということを貴重な時間だと感じているようだった。
「ところでさ、マリアはいつ修道院に戻る予定なの?」
リュカは本棚から抜き出して来た旅行記を机の上に開きながら、マリアに聞いた。
「このままラインハットにいるわけじゃないんだよね」
「はい、いずれは修道院に戻る予定なんですが……」
そこまで言うと、マリアは続きを言いづらそうにリュカから目を逸らした。書庫の窓から覗く初秋の景色に焦点の合わない目を向ける。
「ヘンリー様、とてもお忙しそうですよね」
マリアの言う通り、ヘンリーはあの日から毎日、城の中を忙しく動き回っている。廊下ですれ違っても、長々と立ち話ができる雰囲気ではなく、彼は国王である弟のデールや大臣に呼び出され、すぐに二階の執務室に戻ってしまう。一日中、執務室で缶詰になっていることもあるほど、ヘンリーの生活は既にラインハット国のために動き出していた。誰に求められるでもなく、彼自身がそれを望んでいるようだった。
「僕もあれからあんまりヘンリーと話してないな」
「リュカさんもですか」
「話すにしても、必要なことだけ話してすぐにどこか行っちゃうんだよね」
「これからこの国を立て直そうって動き出してらっしゃるんですものね」
「昨日、廊下で見かけたけど、ちょっと痩せてたように見えたよ。やつれたっていうか」
「そんな……しっかり食べて寝てらっしゃるのかしら。心配です」
「せっかくお城で美味しい食べ物を出してくれるのに、食べてないのかな。もったいない。僕だったら仕事なんか置いておいて、食事だけはしっかり取ると思う」
そう言いながらリュカは開いた旅行記に目を落とす。そこには西の大陸にあるとある町での有名な地酒に関する情報が載っていた。「酒はあんまり……」と呟きながら、リュカはパラパラとページをめくる。
「リュカさんはいつ出られるんですか」
「僕はビスタ港が再開したらすぐにでも出る予定だよ」
「リュカさんは馬車をお持ちですものね。私も一緒に行ければ一番いいのですけれど、行き先が違いますものね」
「そうだね、ラインハットの関所までは一緒に行けるだろうけど。マリアには別に馬車を出してくれるんでしょ?」
「そう聞いているんですが、なかなかその話ができなくて」
偽太后を倒した翌日、ヘンリーや国王、太后を交えて朝食の席を囲んだ。その時にマリアが修道院に戻る話も出ており、ヘンリーは「馬車の用意ができ次第」と答えていた。その時はその答えだけで十分だったが、ヘンリーは時期を明確に示していたわけではない。考えてみれば、ヘンリーの一声があれば、馬車の手配などすぐにでもできそうなものだった。実際、国の中での彼の一声の影響は大きく、影ながらではあるがそれは国王のデールにも匹敵するほど力のあるものだ。
「忘れてるわけじゃないと思うけど、もう一度話してみた方がいいかもね。僕も今度ヘンリーに会ったら聞いてみるよ、マリアが困ってたよって」
「いいえ、そんな、困るだなんてことはないのですけど。ラインハットという国のために動いているヘンリー様をつかまえて、私はいつ帰れるのでしょうかなんてことも聞きづらくって」
「でもいつまでも聞かないと、いつの間にかラインハットで生活することになるよ。マリアがそれで良ければいいんだろうけどさ」
「私がお城でですか? 滅相もないです。本来ならこんな立派なお城にこられるだけでもありがたいことなのに、住むだなんて許されません」
「ヘンリーが許してくれれば問題ないと思うけど。聞いてみたら? ラインハットに残りたいんですけどって」
考えてもいなかったことをリュカに言われ、マリアはぽかんと彼の顔を見つめた。彼女は端からラインハットに残る気など微塵もなく、戻るべき、人生を過ごすべき場所はあの海辺の修道院だと決めつけている。しかしこれからいつ終わるとも知れない旅に出ようとするリュカにとっては、自分が過ごすべき場所などどこにもなく、もし行く先で留まりたいと思うような場所を見つけられたら、そこが彼の安住の地となるのだろう。
自分の人生なんだから自由に生きればいいと、リュカの目が言っているようで、マリアは思わず彼の視線から逃げてしまった。自分の自由を考えることへの罪悪感が、まだ彼女の中に根強く残る。
「いえ、やはり今度ヘンリー様にお会いした時にでももう一度聞いてみます。それと修道院長様宛にお手紙を書いて、ここから修道院へお手紙を届けていただけるかどうかも聞いてみますね」
「そっか。修道院長様にはちゃんと今の状況を伝えておいた方がいいだろうね。マリアが今ラインハットにいるって知ったらそれだけでも驚くね、きっと」
リュカにはマリアの意思が必要以上に固いものだと感じていた。彼女は自分で自分の人生を縛り付け、それで安心を得ようとしている。それが修道院という神聖で穏やかな場所であれば間違いはないと、彼女は確信を得ているのだろう。
マリアがそれで良いと思っているのなら、リュカは何も口出しする必要はない。しかし一つだけ気になっていたことがあった。マリアはヘンリーがこの国の王子と知ってから、彼を呼ぶ時『ヘンリー様』と様付けで呼ぶようになった。呼び方に表れるその距離感は、マリアが物理的にもヘンリーと距離を取っているような気がしてならなかった。実際、あの日からマリアはヘンリーと話す時には伏し目がちで目を合わせることも避けているように見えた。
マリアにとって今のヘンリーはヘンリーではなく、ラインハット王国の王子という立派な肩書を持つ高貴な人間なのだろう。それは彼女にとって友と呼べるような存在ではなく、遠い遠い世界に住む手の届かない一人なのかも知れない。
「マリア」
「はい」
「ヘンリーには今まで通り話したらいいよ。そうじゃないと多分、ヘンリーも寂しいと思う」
リュカの言わんとすることが良く分からず、マリアは小さく首を傾げる。
「僕たちくらいはヘンリーを普通の友達として見ないと、小さい頃みたいにまた孤独になっちゃうんじゃないかな」
「孤独、ですか? ヘンリー様が?」
「誰だって友達は必要でしょ。彼にとって友達って呼べるのは今のところ僕とマリアだけだよ。だからもうちょっと彼に近づいてあげて」
リュカに言われたことの半分も理解しないままだったが、マリアは感覚的にゆっくりと頷いた。ヘンリーを苦しめるつもりはさらさらない。もし自分の行動が彼を苦しめるようなことがあれば、それは避けていこうとマリアは思った。しかし今度廊下でヘンリーに会った時、果たして普通に話せるだろうかと、今から緊張するように、目を落とす文献の内容が頭に入らなくなってしまった。
ラインハット城から南西の方角に、つい数日前まで完全に封鎖されていたラインハットの関所がある。まったく人気のなかったその場所にも、既に旅人や商人の姿がちらほらと見ることができる。
強国を目指していたかつてのラインハットにいた国民の中には、何年も前にラインハットと言う国に見切りをつけ、他の場所に移住してしまった者も少なくない。その移住民の流れが果たしてオラクルベリーという町を作ることに貢献していた事実もある。その人の流れが、まだ兆しにしか見られないが、ラインハットへ戻る気配を見せている。
オラクルベリーにも既にラインハットが変わりつつあるという噂が流れつつあった。それは自然に流れたものではなく、国として意図的に流しているものだ。ラインハットから人を派遣し、町に良い噂を流すことで、人を呼び込もうとしているのだ。国の機能を堅固にするためにはまず多くの人を集めなくてはならない。人々の力がなければ、国の発展などないと、デールが城中の者を定期的に各地へ派遣しているのだ。
城を囲むように造られた回廊を歩き、南西の関所が小さく見える見張り台に立ちながら、リュカは関所の近くを進む小さな馬車を見た。完全に孤立していたラインハットへも、徐々に物資が集まり始めている。まだそれほど大きな規模ではないにしろ、国が国としての機能を取り戻しつつあるのを、リュカはまるで我が事のように嬉しく感じていた。
「何してるんだ、こんなところで」
後ろから呼びかけられ、振り向くとそこには眩しそうに西日を浴びるヘンリーが立っていた。共に旅をしていた頃の姿ではなく、ヘンリーは既にこの国の王兄として、正装に身を包んでいる。しかしいつもは目に眩しく威厳すら漂う真っ青な服も真紅のマントも、夕陽の橙に照らされて今は穏やかな印象に落ち着いている。
「ヘンリーこそ、仕事はどうしたの?」
「俺だって息抜きくらいするよ。それに逃げ出すのは昔から得意なんだ」
「そうだったね、小さい頃は城下町まで抜け出したこともあったんだっけ」
「親父にこっぴどく叱られたけどな」
ヘンリーはリュカの隣に並ぶと、同じように南西の方角へと目を向けた。ラインハットからどこかへ向かう者、ラインハットへこれから訪れる者、南西の関所付近でそんな人々の流れを見ると、ヘンリーは腕組みをして目を細めた。彼にとって、まだラインハットはスタート地点に立ったに過ぎない。これから長い年月をかけて、ヘンリーの仕事は山積みで、先の見えない状況だった。
「君はこれからもっと忙しくなるのかな」
「お前ほどじゃない」
「僕は忙しくはないよ。目的はあるけど、まだ何をどうしたらいいのか良く分からないし」
「できる限り助けるつもりだからな。ちゃんと便りを寄越すんだぞ」
二人ともラインハットの関所に目を向けながら話していた。秋の涼風が二人の間に流れ、そのほど良い冷たさに夜の訪れが日に日に早まっているのを感じる。
「リュカとはこれ以上旅を続けられなくなっちゃったな」
「そんなの、前から分かってたことだよ」
「……悪いな」
「悪くないよ」
幼い頃から死ぬほどに辛い境遇を共に生きてきた。それこそ言葉通り、幾度も死にかけた。それをこうして奇跡的に生き残れたのは、互いがいたからだと、リュカもヘンリーも言葉に出さずとも分かっている。リュカにとってはヘンリーが、ヘンリーにとってはリュカがいなければ、体力的に尽きる前に、精神的に死んでしまっていただろう。
ヘンリーはリュカに、一生をかけても償い切れない罪を負っていると、今もこれからもずっと感じ続ける。自分さえいなければ、リュカは今も父のパパスと世界を旅していたかもしれない。その可能性を考えるだけで、ヘンリーはその都度、胸が潰れそうな思いがした。今となっては親友とも呼べるほどに近しい関係になったリュカだが、そのきっかけとなった出来事を、ヘンリーは常に胸の内に暗い影として抱えている。
リュカはヘンリーに、一生をかけても伝えきれない感謝を感じている。サンタローズの洞窟で見つけた父の手紙から、父はいつでも危険と隣り合わせで、いつどのような運命に巻き込まれようとも、それを覚悟していたことを知った。その運命はもしかしたらサンタローズで起きていたかもしれないし、アルカパの町で起きていたかもしれない。もっとそれ以前に、リュカの記憶の届かないほど前に、その時が訪れていた可能性もあった。それがラインハットで起き、今では唯一無二の親友を得たことは、決して悲しいだけの運命ではなかったのだと思えた。
そんな彼らの思いが、短い言葉のやり取りの表れていた。ヘンリーが悪いと思うのと、リュカが悪くないと思うのと、全く異なるベクトルを向いているが、その強さは同じほどだ。
「ビスタ港はいつ頃動き出しそうかな」
「あと数日ってところだな。ただ初めの内は定期的に船が出る予定もない。俺がデールに聞いてるのは、ちょうど今、航海中の船がいるみたいで、そいつがビスタ港に寄港する以外はまだ予定がないみたいだ」
「じゃあそれを逃すと今度はまたいつ船が出るか分からないんだね」
「そういうことだな。心配するな、お前はちゃんとその船に乗せられるよう手配してあるから」
「ありがとう、助かるよ」
「これくらいのことはさせてくれ」
二人のいる見張り塔からはさすがにビスタ港が見えるわけではない。しかし数年の間、閉鎖されていた港が開港となり、徐々に人で賑わうようになれば、もしかしたらサンタローズにも人が集まってくれるかも知れないと、リュカは仄かな期待を抱く。ラインハット国復興と共に、サンタローズにも明かりが差し込むことを、リュカは無言のまま願った。
「ところでマリアはいつ修道院に戻れるの?」
リュカの問いかけに、ヘンリーは振り向くことなく、目を細めて西日に照らされる関所付近を眺めている。
「昨日、書庫で会って話をしたんだけど、ちょっと困ってる感じだったよ」
「困ってる?」
「馬車を出してくれるって言ってたけど、いつになるのか分からないからどうしたらいいんだろうって」
「マリアは、修道院に戻りたいんだな」
「戻りたいって言うよりも、戻らなきゃいけないって思ってる気がするけどね」
リュカの言葉に、ヘンリーは腕組みを解いて、見張り塔の壁にもたれかかりながら空を仰いだ。東の空に目をやれば、すでに一番星が煌めいている。
「修道院に戻ることが彼女の幸せなんだろうか」
「それは僕にもよく分からない。ただ修道院長様や修道女のみんなもいるから、安心できる場所なんじゃないかな」
リュカに聞くまでもなく、言われるまでもなく、ヘンリーにもそれは分かっていたことだった。マリアもマリアで命からがらあの大神殿建造の地を逃れ、ようやく安らげる場所となったのが海辺の修道院だ。リュカがサンタローズを、ヘンリーがラインハットを故郷としているように、マリアにも故郷が存在するはずだが、幼い頃から兄に伴われ大神殿建造の地にいたとしたら、もはや自分の故郷がどこだったかなど覚えていないのだろう。
そんな中で運良く辿りついたのが海辺の修道院だった。修道院は身寄りのないマリアを快く引き受けてくれた。奴隷の身分から逃れ、何も頼るもののない状況の中で、彼女は運良く生きていける場所を見つけたのだ。
しかし神に仕え、毎日祈りを捧げる場所が果たして彼女を幸せにしてくれるのだろうかと、ヘンリーは思っていた。マリアは兄のヨシュアを見捨てて逃げてきたという罪悪感に今もなお苛まれている。それは彼女が兄の無事を確かめるまでずっと続くものに違いない。海辺の修道院で修道女として過ごし、毎日神に祈り続けることは、彼女の人生を前進させないで、その場で踏みとどまらせるだけなのではと、ヘンリーは勝手に危惧している。
「一度、マリアと話してみたらいいよ。彼女、こういうお城にいるってだけで緊張してるみたいだし」
「そうなのか?」
「ヘンリーは自分の家だから気付かないだろうけどさ、普通は緊張するものだと思うよ、お城での生活なんて」
「言う割にはお前は平気そうだな」
「だってヘンリーの家だから」
何だかめちゃくちゃなことを言っているリュカに、ヘンリーは思わず笑った。だがリュカの言うことももっともだった。リュカにとってはこのラインハット城は友達の家くらいのものなのかも知れないが、マリアにとっては見知らぬ人が多くいる立派なお城なのだろう。想像してみると、それは確かに住み心地が良くない場所なのかも知れない。
「マリアは今、教会か」
「多分ね。夕方くらいは教会にいることが多いよ」
「行って、話してくる」
「馬車の手配が先じゃないの?」
「そんなの後でどうにでもなるさ。まずは話をしないとな」
そう言うと、ヘンリーはマントを翻して見張り塔を足早に去って行った。その後ろ姿に見たこともない意気込みを感じ、リュカは不思議そうに首を傾げた。
「でも、やっぱり馬車の手配ってすぐにできるものだったんだ。じゃあ、忘れてたのかな」
急ぎ足で立ち去って行くヘンリーの後ろ姿を見ながら、リュカは彼の多忙に思いを巡らせた。まだラインハットに戻ってから数日ほどしか経っていないが、少ないながらも彼の幼少の頃を知る城中の者にとっては、かつてのいたずら王子が立派な青年になって帰還した姿を見れば、そんな彼に期待を寄せるのは当然のことだった。その中でも国王である弟のデールの期待が最も大きく、一国の王に頼られているヘンリーは毎日会議やら書類の山に埋もれて、自身の時間は全く取れない状態にあった。
国の立て直しに奔走するヘンリーが、マリアを修道院に返すための馬車の手配まで手が回らないことは当然だと、リュカは再びぼんやりと西の関所を遠くに見渡した。夕闇になる手前の強い西日がラインハット城を照らし、細める目の中に数人の旅人が関所を通過して行くのが見えた。ラインハットの復興はこれから加速度的に進んで行きそうだ。
城内の廊下には既に明かりが灯り、教会の中にもいくつかの明かりが灯っていた。ラインハット城一階の南東に位置する教会の中では、マリアが祭壇に向かうようにして椅子に座っていた。壇上では神父が書物を手にしながら、今日一日に教会を訪れた人々の記録を見返している。ラインハット城が開放されてから教会を訪れる人々の数が飛躍的に伸びたため、神父はどこか嬉しそうな表情で人々の生活の記録を確認していた。
そんな神父の姿を見ながら、マリアはつい微笑んだ。
「神父様、良かったですね」
マリアの声に、神父も穏やかに微笑みながら、手にしていた書物を記帳台に静かに置いた。
「そろそろ新しいものを用意しなくては。ここに人々の記録が埋まるまで、十年以上かかりましたが、ほとんどがここ数日で書き加えられたものです」
「こちらの教会に訪れる方が多くなったということですね」
「飛躍的に増えましたね。今のところは城下町に住む人々までに留まりますが、これからは旅人や商人もこの地を訪れてくれるようになるでしょう」
それでこそ本来の教会の役目を果たせると言わんばかりに、神父は喜びをかみしめるように再び手にした記録書に目を落とした。人々が書き記す内容は、決して良いものばかりではない。これまでの悪政に対する痛烈な批判や、恨みつらみをつづったものなど、人々のドロドロとした感情が正直に記されているものも少なくない。しかしそのような内容ですら、ほとんど空白とも呼べる十数年間の状態に比べれば、記録が生まれることへの喜びが勝るのだ。神父は前に動き出しているラインハットを感じられる記帳書に日々目を通し、人々の声に向き合っている。
まだ夜が訪れたばかりの教会の外で、何やらせわしない足音が響く。城の教会に扉はなく、常に広い廊下と直接通じている。しかし暗がりの中を歩く人物が誰と分かるまで、神父もマリアも暗がりに目を凝らしていた。廊下にもいくつか灯る火に照らされるシルエットの中で、彼がまとうマントが揺れる。その姿を見て、マリアは今まで向けていた視線を思わず下に落とした。
「ヘンリー様ではないですか」
神父が驚いたように目を丸くして言うと、ヘンリーはいかにも不機嫌そうに言葉を返す。
「何だよ、俺がここに来ちゃいけないのか」
「いえ、珍しいこともあるものだなと思いまして。幼い頃からこの場所が好きではないと思っていましたので」
神父の言う通り、ヘンリーは子供の頃からこの教会と言う場所が苦手だった。人々が一体なぜこんな居心地の悪い場所にこぞって集まるのか、彼には不思議でならなかったのだ。いたずら好きのヘンリーにとって教会は、ただの懺悔の場所でしかない。何かいたずらをして父王に叱られると、決まって教会に行って祈りを捧げてこいという罰を与えられるうち、彼にとっては教会に向かうことが罰の一つだという意識が根づいてしまった。
「確かにな、教会は俺にとって嫌な場所だ」
「そんな嫌な場所に、どのような御用でしょうか」
いたってにこやかに話しかける神父に不機嫌な視線を投げつつも、ヘンリーはその視線をマリアに移す。しかし彼女は俯いたままヘンリーを見ようともしない。しばしの沈黙が流れた後、神父がふと思い出したように小さく声を漏らした。
「そういえば城の学者に呼ばれていたのを忘れておりました。そろそろ行かなくては」
神父は手にしていた記帳書を閉じると、壇上に上がり、記帳台に静かに乗せた。
「マリアさん、私はちょっと外しますが、ゆっくり祈りを捧げて行ってください」
「え、あの、私は……」
「ヘンリー様、では失礼します」
「ああ……」
城の廊下を神父の硬質な靴が音を立てて遠ざかって行く。神父の姿が見えなくなっても、マリアは呆然とした様子でただの暗がりの中を見つめていた。まるで助けを求めるような彼女の横顔を見て、ヘンリーは教会にいる居心地の悪さではない、別の不快な感情を抱く。
「マリア」
「あ、あの、私もそろそろお部屋に戻ります。ヘンリー様はゆっくりしてらしてくださいませ」
「あのなぁ、俺がこんなところに用事があるわけないだろ。教会は嫌いなんだから」
「ではどうしてこちらにいらしたのですか」
「マリアがここにいるだろうって。ちょっと話がしたかったんだ」
「私にですか? 国王様やリュカさんではなくて」
「リュカとはさっきちょっとだけ話して来たよ。そしたらマリアが困ってるって言ってたからさ」
教会内を歩いてきたヘンリーは、何気なく壇上に上がり、先ほどまで神父が手にしていた記帳書をぱらぱらとめくった。ここ数日で書き加えられた人々の人生の記録に、ヘンリーは少々眉を上げながら流し読みをしていく。
「マリアはラインハットが嫌いか?」
唐突なヘンリーの問いかけに、マリアはしばらく答えに詰まる。最も良い返事を探そうとするが、ヘンリーがそのようなことを求めていないことも雰囲気で分かる。しかしマリアにとって、このラインハットという国はつい数日前に知った国で、好き嫌いで分けることもできないのが事実だ。分かっていることと言えば、国を建て直そうと奔走するヘンリーや彼の弟である国王を筆頭に、国中が忙しなく動いているということだけだ。
「神父様にも良くしていただいていますし、決して嫌いではありません」
「修道院に戻りたいか?」
記帳書のページをゆっくりと捲りながら聞くヘンリーだが、その目は記帳されている記録を覗いているわけではない。視点は宙に浮いている。
「戻りたいか、というのは……?」
「修道院に戻らないで、このままラインハットで過ごすっていう選択肢もあるってことだ」
見もしていなかった記帳書をぱたんと閉じ、ヘンリーは目の前のマリアに目を向けてそう言った。マリアは彼の視線に、今まで感じたこともない力強さを感じた。逸らそうとしても逃れられない力に思え、マリアは身体を硬直させる。
「俺はたまたまこうして故郷に帰って来られた。マリアにもこういう故郷があるんだろ? もしその場所が分かればそこに移るのもいいけどさ」
「私の故郷は、覚えていません。まだほんの幼い頃に兄に連れられ故郷を出たので」
「だとしたら、君の住む場所は君が自由に決められるってことだよな。それが修道院でもラインハットでも、大した違いはないと思うんだけど」
「自由に選ぶだなんて、私はあの海辺の修道院で修道女としての洗礼を受けたのです。ですから修道院に戻り、これまで通り修道女としての生活を営むだけです。それが私に与えられた人生だと思っています」
「人生なんて与えられるもんじゃないだろ。自分で自由に選ぶもんだ。普通の町の女の子として生きることもできるし、この城でこのまま生活することもできる。マリアがそう望むんだったら、俺がそう取り計らうよ」
「そんな、恐れ多いことです、ヘンリー様に取り図っていただくだなんて」
「……なあ、それ、やめてくれよ。そのヘンリー様って呼ぶの」
苛々した調子で言うヘンリーの雰囲気に、マリアは思わず一瞬怯えた。ヘンリーが不機嫌になったり、無愛想に何事かを呟く姿はマリアも多少は見慣れているはずだった。しかしここまで正面から苛々した感情をぶつけられたことがないことに、この時初めて気がついた。
それと同時に、リュカに言われたことを思い出した。ヘンリーを孤独にさせないためにも、友人としてもう少し近づいて欲しいと言われたのは、今の彼の感情とどこか結びついているのではないかと、マリアは自身の怯える感情を捨て去ろうと試みた。
「ですがお城の中でヘンリーさんとお呼びするのはやはり気が引けます。あなたはこの国の王子様なのですから」
マリアの言うことが分からないわけではなかった。ただでさえ彼女は、城の者たち、特に女性たちに奇異な目で見られている。修道女という身分柄、誰も表立って彼女を批判することはないものの、それでもかつて失踪した国の第一王子が連れてきた女性として、特別な目で見られていることは間違いなかった。マリアも当然、自分を取り巻くその視線に気がついている。だから尚更、マリアはラインハット城での生活に得も言われぬ居心地の悪さを感じているのだろう。
「今ぐらいはいいんじゃないか、他に誰もいないわけだしさ」
ヘンリーは記帳台に肘をつき、前かがみになりながらマリアの目を覗きこんだ。どこか熱のこもる彼の視線に、マリアは直立したまま頷いて答える。
「では今は、ヘンリーさんでよろしいですか」
「うん、それでいいよ。本当はいつもそれでいいんだけどな」
「私も男の人だったら、リュカさんみたいに気軽にお呼びできるのかも知れませんね」
「あいつは特別だろ。あの馴れ馴れしさは天性のものだ、誰にも真似できない。なんせ魔物にまで懐かれるんだからな」
「私は羨ましいです、リュカさんのそういうところ。色々な人を惹きつけることができるというか、やはりどこか特別なんでしょうね」
自然に微笑みながらそう言うマリアの表情を見て、ヘンリーは複雑そうな笑みを浮かべる。マリアがリュカと話す時はいつも穏やかな表情で、それが自分に向けられたことはあるのだろうかと、ヘンリーの頭の中に今まで考えたこともないことが巡り始める。
「マリアは、リュカが旅立つと悲しいか?」
小さな声で問い掛けられたことを、マリアは今まで考えたこともなかったということに気がついた。リュカとヘンリーが海辺の修道院を旅立つ時に、マリアは一度彼らとの今生の別れを覚悟していた。修道院を去って行くリュカの旅の目的は、彼の母親を捜す旅であり、その目的を達成するためには、未だ何も先が見えていないような状況だ。修道院で偶然再会したのも束の間、こうして再び別れが訪れるのは当然のことで、悲しいと思うよりも、彼を応援したい気持ちが強かった。
「リュカさんにはリュカさんの人生があります。早くお母様を見つけられて、一緒に過ごされるのを祈るだけです。だから悲しいというのはあまりないのかも知れません」
「そうなのか?」
「私よりもむしろ、ヘンリーさんの方が悲しいのではないですか。小さい頃からずっと一緒だったんでしょう?」
「……そうだな、認めたくはないけど、多分な」
ヘンリーは自分の気持ちをこれほど素直に伝えられることに、内心驚いていた。十年以上共に過ごした友人との別れが間近に迫っているが、それを素直に悲しいと伝えられる人がいることが、彼にとっては不思議なことだった。人々の悩みを聞くことに長けている神父にさえ、彼は素直な感情を吐露したりはしない自信がある。
「リュカさんもきっと同じですよ。でもリュカさんにはスラりんさんやピエールさん、ガンドフさんっていうお仲間がいらっしゃいます。きっとみんながリュカさんを支えてくれると思います。それはヘンリーさんも同じですよ。あなたにはこの城の、この国の方々がいらっしゃいます。これから何年も、何十年も一緒に過ごしていく大切なお仲間です」
「この国の人たちが、仲間……」
今まで考えたこともない感覚と出遭い、ヘンリーの頭の中が少し乱れた。国を統率する側としては、ラインハット国民は統治を受ける側であり、互いに相容れないものなのだとばかり考えていた。無論、今までの国の悪政を正し、国民を正しい方向へ導く責を負うのは当然のことだが、それは国王が先頭に立って行う政であり、国民は正しい方向に導かれるまま動いてくれるものだと、ヘンリーはどこか孤独に、楽観的に考えていた。
しかしこの国の大多数を占める国民の協力なくしては、国を正しく動かすことは不可能なのだ。ラインハットが何故悪政に走ってしまったかを考えれば歴然としている。国民の意見や考えに耳を傾けず、王室が正しいと思うことだけを行い、その結果、国は崩壊寸前にまで追い込まれてしまった。
そう言う意味でも、マリアの言う通り、ラインハット国民はヘンリーの仲間でなければならない。仲間の協力を得てこそ、国は正しい方向に導かれるはずだ。たとえ自分一人が正しいと思うことでも、仲間の大多数が正しくないと考えれば、それは一から考え直し、正していかなければならないことなのだ。
ヘンリーの隣に来たマリアが、記帳台に乗る記帳書を静かに開いた。そこにはここ数日で書きこまれた多くの人々の記録が記されている。ラインハット国王であるデールが今までの悪政を振り返り、謝罪してからまだ数日しか経たないが、記帳書には人々からの感謝の気持ちが、少ないながらもいくつか記されている。
「あなたにはデール国王やお義母様、このお城の人々、それにこれからは国の方々もお仲間なんです。この記帳書には多くの方々の心が映されています。これから毎日ここで記帳書を見て、人々の心に寄り添って、数えきれないほどの人々の声に耳を傾けなくてはいけないんです。悲しんでいる時間がもったいないって思えるかも知れませんよ」
「それだったら、リュカよりは苦労しなくて済むかもな」
「あら、それはどういうことですか」
「ガンドフの心を読む方がよっぽど難しそうだ」
思いもよらぬヘンリーの考えに、マリアは思わず吹き出してしまった。
「ひどいことを言いますね、ヘンリーさん」
「マリアだって笑ったってことは、同じように思ってるってことだろ」
「そんなことありません、私はただ……」
「何言ったって言い訳だな。笑ったのには間違いないんだから」
意地の悪そうな笑みを浮かべ、それが自分に向けられていることに、マリアは怒るでもなく、ただ安堵した。表面的には意地の悪い印象を与える彼の笑みだが、彼がその表情をするのは心を許した者にだけのような気がして、それがマリアには嬉しかった。
「あいつにはピエールっていう通訳がいるからきっと大丈夫だな」
「リュカさんの良き理解者ですものね。とても頼ってらっしゃるし、ピエールさんもしっかりしてらっしゃるから、これからも安心です」
「そう考えるとさ、俺にも良き理解者が必要なんだよな」
まるでうわ言のように呟くヘンリーの様子に、マリアは言葉を挟まずじっと待つ。
「やっぱりマリア、ここに残ってくれないかな」
「ここにって……」
「修道院に戻らないで、ラインハットにこのままいてくれないかな。マリアが傍にいてくれれば、色々心強いんだ」
「心強いだなんて、そんな、私では何のお役にも立てません。お城には私など足元にも及ばないような見識ある方々がいらっしゃるじゃありませんか」
「そういうことじゃない。その、何て言うかな、マリアの言うことだったら素直に聞けそうなんだよな。今だって、マリアが『みんなが仲間だ』って言ってくれたから、ああそうなんだって思えたし」
「私はただ、思ったことを言っただけです。この国のことや国の皆さんのことが分かっているわけでもありませんから、合っているのかどうかも自信はありません」
「俺だって何年もこの国を離れてたんだ。何にも自信なんてないよ。偉そうに振る舞ってるように見えるかも知れないけど、何にも分かってないんだ」
彼がこれほどの弱音を吐く姿を、マリアは想像したことがなかった。声をかけることがないにせよ、城内の廊下ですれ違う彼の姿を見れば、いかにも威風堂々としており、それは自信に満ち溢れているものだと誰もが思う。しかし彼は内心、常に怯えているのかもしれない。堂々とした態度でいなければ、周りの者に不安を与えてしまう、引いては馬鹿にされると、日中仕事に追われている彼は常時気を張って、国王を支える側近として役者を演じているのだ。
そんな彼を支え、このラインハットで暮らすというのが人生の選択肢にあるのだとしたら、それもまた考えても良いのかもしれないと、マリアは頭を悩ませた。修道院での生活に戻るのだとばかり考えていた人生に、急に分かれ道が現れ、分かれた先には決して慎ましやかで穏やかではない生活が待ち受けている。果たして自分がそれを望むのか、彼女は静かに考えこんだ。
「少し、お時間をいただけますか。ここに残るなんて、考えてもいなかったものですから」
「もちろん。俺としてはいつまででも考えてもらっても構わない。その分、マリアと一緒にいられるからな」
今度はまるで子供のように無邪気に微笑むヘンリーを見て、マリアは心が温かくなるのを感じる。果たしてこんな表情をする人だっただろうかと、少々訝しみながらも、そんな彼の笑顔が自分に向けられていることに心の奥底で喜びが沸き上がる。
「とりあえず修道院長様にお手紙は書いておこうと思うのですけれど、修道院まで届けていただくことはできるのでしょうか」
「ああ、そうだよな。修道院じゃあマリアを待ってるんだもんな。手紙を書いたら俺に渡してくれ。修道院に向かえる伝書鳩がいるはずだから、そいつに持たせる」
「助かります。ヘンリーさんはこれからまたお仕事ですか?」
「……嫌なことを思い出させてくれるな。そういや部屋の机に積んであるかな、訳の分からない書類が」
「リュカさんも言ってましたけど、少しお痩せになったんではないですか。まだまだこれからなんですから、あまり無理なさらないでくださいね」
「ありがとう。マリアだけだよ、そんなことを言ってくれるのは」
「お仕事ではお役に立てないですから、こんなことで良ければいつでも言いますよ」
にっこりと笑顔を見せるマリアの顔に見惚れていることに、ヘンリーはふと気がついた。以前から、他の女性とマリアとでは何かが違うと気がついていたが、それが一体どのようなものなのか知り得ていなかった。
今、はっきりと気付いたことは、彼女に友人として傍にいて欲しいというのが、己の本心を隠したものだということだった。
Comment
ヘンリーファンです
ラインハットのヘンリーがかっこよすぎて…
このお話を読んでるだけで涙が出てきそうです。
緑髪プリンスヘンリー さま
コメントをどうもありがとうございます。ヘンリーファンですか、私もです^^
なので、あの辺りの話にはかなり力が入ってしまっています^^;
ぼちぼち再び彼も登場するかと思いますので、そこでも楽しんでいただければと思います。