2017/12/03

憎しみと許し

 

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神の塔を出てから三日が経った。一行は山を下り、森の中に入り、静々と馬車を進めている。森の木々の隙間からは欠けた月が見え、夜空が晴れ渡っていることを教えてくれる。地図を確認しながら、ヘンリーは馬車を早く進めようとパトリシアの手綱を取ろうとしたが、その手をリュカが止めた。
「行くのは明日の朝にしよう」
森に入り、しばらく北に進めば、ラインハットへ通じる旅の扉に辿り着くはずだ。月の明かりに照らされる影に旅の扉がある祠の建物の姿はまだ見えないが、ヘンリーはいち早くラインハットに戻りたい一心でいた。
「俺だけこっそり戻って、ケリつけてくるから待ってろって言ってるのに」
「そう言うわけにはいかないよ。あの鏡が本当に特別なのか見てみたいし」
神の塔で手に入れた真実の鏡は、リュカたちの誰が覗きこんでも何も変わったものは映さなかった。魔物であるスラりんやピエール、新しく仲間になったガンドフが鏡の中に映り込んでも、彼らのあるがままの姿を映すだけで、せっかく手に入れた真実の鏡の特殊さをまだ誰も目にしていないのだ。
「あちらに休めそうな広場があるようです。ピエールさんが見に行ってくださってます」
馬車の外を歩いていたマリアが、パトリシアの手綱を握るリュカと隣にいるヘンリーに話しかけてきた。彼女にはまだどこへ向かっているのか、具体的に説明をしていない。何も話を聞いていないマリアは、この馬車が修道院に向かっているのだと思っている。
「一度、ここで休憩しよう。それで朝になったら、旅の扉に向かう」
聞き慣れない言葉に、マリアは首を傾げる。
「旅の扉、ですか。それは一体……」
「一瞬で違う場所に行ける泉、みたいなものかな」
リュカのその説明を聞いても、マリアは今一つ上手く想像できないようだ。一瞬で違う場所に移動できるということが、泉と繋がらないでいる。
「その旅の扉で、どこへ向かうのでしょうか」
てっきり修道院に戻るのだと思っていたマリアは、実は進んでいる方向が修道院ではないことに気付き、少々不安げにリュカに問いかける。
「ヘンリー、話していい?」
「俺から話すよ。メシでも食いながらの方がいいな」
「うん、そうだね。じゃあピエールに馬車を止める場所を確認してくるよ」
そう言うと、リュカは握っていた手綱をヘンリーに渡した。マリアが傍にいる今、ヘンリーが勝手な行動は取らないだろうと、リュカはそのまま森の中へ姿を消した。手綱を握りながら、ヘンリーは森の中に現れた大きな影に思わず身構えた。しかし何も反応しないパトリシアの様子を見て、その影がガンドフだと気がついた。
「まだ慣れないな、デカすぎるんだよ、お前は」
近づいてきたガンドフは、ヘンリーではなく、マリアの方へと歩み寄る。森の中に現れた熊のような様相だが、マリアはガンドフが求めているものを手持ちの袋から取り出して見せた。
「ちゃんと持ってますよ。あなたは本当にこの鏡が好きなのね」
「カガミ、キレイ」
マリアが掲げる鏡に映る月を、ガンドフは上から見下ろすようにして覗きこむ。ガンドフは鏡自体が好きなのではなく、もしかしたら鏡に映る美しい月が好きなのかも知れない。
「明日、ちょっとばかりこいつを借りるからな。用が済んだらすぐにお前に返してやる」
ヘンリーの言葉の半分以上理解しないガンドフは、彼の声に耳をピクピク動かすだけで、相変わらず鏡をうっとりと眺めている。大きな一つ目が細められる様子を見て、ヘンリーもマリアも小さく笑った。
「こいつは幸せなヤツだな」
「ずっと欲しかったものがこうして目の前にあるんですもの。とても嬉しいんでしょうね」
マリアはそう言うと、手にしていた鏡をガンドフに渡した。ガンドフには鏡を持ち去って一人占めしようという気はないらしく、渡された鏡を丁寧に両手で持って、色々な角度で鏡を覗きこむだけだ。
「マリアは何か欲しい物とか、ないのか」
「私ですか? 欲しい物……あまり考えたことがありませんね」
マリアは修道女だ。海辺の修道院で、我欲とは無関係の生活をしている。そんな彼女に「欲しい物はないか」と聞いてしまった自分を、ヘンリーは恥ずかしく思った。彼女が普通の町娘のように服や装飾品が欲しいなど、修道女である彼女が言うわけがないのに、何故かヘンリーはマリアがそう言うことを心のどこかで期待していた。
「ヘンリーさんは何か欲しい物があるんですか」
マリアに問い返され、ヘンリーは咄嗟に視線を巡らせて考えた。大神殿建造の地より逃れ、海辺の修道院で体力を回復した後、まず欲しいと思ったのは自由だ。ラインハット城にいた幼少の頃は、城から外に出ることは禁じられていた。魔物に連れ去られ、奴隷の身となった時は、自ら死を選択する以外の自由はなかった。一度でいいから自由に考え、自由に行動してみたいと、いつしか思うようになっていた。
海辺の修道院を出る時、自由になったと感じた。しかしその一方、自身の人生は消えることのない罪に縛られることが分かっていた。一生を賭けて、リュカに頭を下げ続けなければならないという縛りは、一見自由を手に入れたと思える状況の中で、自由を心の底から実感したことはない。
完全な自由を手に入れることが不可能な状況の中、ヘンリーは自分の祖国が危機に晒されている現実に直面した。地下牢に入れられた老いた継母の姿を目にし、玉座に座るだけの弟の姿を目にし、城下町で日々生きるのにも困難な貧しい母子を目にし、ヘンリーは初めて本気の欲求を感じた。
国を救いたい。国の人々を、弟を、継母を救いたいという気持ちが、自然と心の奥底から沸き上がった。ラインハットと言う国を見捨てられない自分は、意外にも愛国心があったのだと驚かされた。
二度と戻れない、戻りたくないとさえ思っていた祖国に、ヘンリーは様々な経験を経て、自ら戻ろうとしている。
ガンドフが真実の鏡をヘンリーに向けた。月明かりを受け、そこに映る自分の顔が遥か遠くを見つめているように見えた。その方角が北東に向いていることを、ヘンリーははっきりと感じた。
「マリア」
「はい」
「メシ、作ってくれるかな。食いながら話そうぜ」
「そうですね。では食材を準備します。ヘンリーさんは火をお願いしますね」
「うん、わかった。ガンドフ、行くぞ」
「ガンドフ、キレイ?」
「お前は……まあ、目がキレイかもな」
「ガンドフ、キレイ。ウレシイ」
そう言いながらガンドフは鏡を手にしたままヘンリーに抱きついた。まるで熊に抱きつかれたヘンリーは苦しそうに身をよじらせ、マリアが慌ててガンドフの毛むくじゃらの腕をさすって宥め始めた。
「ガンドフさんって名前は男の子のようですけど、実は女の子なのかも知れませんね。キレイって言われて嬉しいだなんて」
「俺らの中じゃ一番ゴツくて男らしいけどな。ガンドフ、鏡はマリアに渡しておけよ。お前はいざって時に戦ってもらうんだからな」
「カガミ、カエス。ハイ」
素直に鏡を手渡してくるガンドフに、マリアは微笑みかける。
「ガンドフさんに信用されているようで嬉しいです」
「マリアを信用しないヤツなんていないだろ。行くぞ」
馬車を移動させると、既にリュカとピエールが少し開けた場所で薪を集めていた。ヘンリーは魔物避けの呪文トヘロスを唱え、リュカ達が集めた薪に火をつける。マリアが手慣れた様子で食事の準備を始める間、パトリシアは近くの草を食む。薪の火を見つめるスラりんに近づいて、燃える火に近づいたガンドフの体毛に火が燃え移り、慌てて調理用の水をかけたため、再び水を汲みに行かなくてはならなくなったが、それでもこの数日で旅に慣れた一行は素早く休憩の準備を整えた。
食事の皿を順に手渡しながら、マリアは珍しくヘンリーに話を急かした。
「旅の扉、でしたよね、今私たちが向かっているのは」
思っていた行き先と違う場所に向かっているのだから、彼女が知りたがるのも無理はなかった。リュカとヘンリーを疑うことはないが、それでも何も知らないうちに目的地に着くよりは、心の準備を整えて置きたいはずだ。
「北にあるラインハットっていう国は聞いたことがあるか?」
ヘンリーの問いかけに、マリアは思わず眉をひそめる。
「聞いたことはあります。あまり良い噂を聞きませんが……」
「そりゃそうだろうな」
「修道院で何か話を聞いてるんだね。どんな話を聞いてるのかな」
リュカが堅いパンをスープに浸して柔らかくしながらマリアに聞く。マリアは言いづらそうに俯きながら言葉を落とし始めた。
「何だか、今にも戦争を始めそうな物騒な国だとか。王様が国を強くしたいから、外から強い兵士たちを多く募っているとか。悪い噂の中には、その、お城の中に魔物までいるとか」
「あながち嘘でもないね」
「火のないところに煙は立たないってな。良く言ったもんだ」
「でも、魔物の中にもスラりんさんやピエールさん、ガンドフさんみたいに悪くない方たちもいらっしゃいますものね」
悲しげな顔をしているスラりんを見て、マリアは慌てて取り繕うようにそう言うと、ピエールが皿に残るスープを大きな舌で舐めまわしてから彼女に言う。
「人間でも魔物でも、良い者は良いし、悪い者は悪い。それだけのことです」
「たまたまその悪いのがラインハットに居ついたんだ。そいつを追い出すために、俺たちは今、ラインハットへ向かってる」
「そのラインハットへ、旅の扉で行けるということですか」
「一瞬にしてね。ただ、ちょっと気持ち悪くなるけど」
ラインハットから旅の扉を使った時の記憶が蘇り、リュカは思わず表情を歪めた。上下左右何も分からなくなるあの感覚に、リュカは今食べているパンもスープも喉元までせり上がってくるような気持ち悪さを覚える。
「もしマリアが修道院に戻りたいって思っていたら、俺たちは君を修道院に送ってからラインハットへ向かう。君を無理に連れて行くこともないからな」
「でもそんなことをしたら、それだけで数日かかってしまいます」
「いや、マリアを送るのはリュカに任せる。俺だけ旅の扉で戻って、用を済ませればいいだけの話なんだから」
「マリアを修道院に送り届けるなら、それが一番いいかもね。僕はいいよ。鏡の効果が見られないのは残念だけど」
そう言う一方で、リュカは内心旅の扉を使わないで済むかもしれないことに、ちょっとした安堵を覚える。ラインハットへ行って、偽者の太后の正体を暴き、城から追い出すことだけが目的なのだ。鏡の効果を目にしたいとは思うリュカだが、ヘンリー一人が戻ってデールと共に真実の鏡を使えば、事足りる話だ。
「私、もう用済みですけど……でも最後まで見届けさせてください」
マリアの言葉に迷いはなかった。それは修道院まで送ってもらうのに手間がかかることに遠慮をしているからではなく、彼女の好奇心から出た言葉だった。共に苦労して手に入れた真実の鏡の効果を、彼女もリュカと同じように目にしたいのかも知れなかった。そんな彼女の考え方に修道女らしさはなく、そのことにヘンリーは何故か安心した。
「良いでしょうか」
窺うように見つめてくるマリアの目は、薪の火の明かりを浴びて光に揺れている。そんな彼女の目に出会い、ヘンリーはふと笑みをこぼした。
「もちろんだよ。協力してくれたマリアにはその権利があるさ」
「良かった。またダメだなんて言われたらどうしようかと」
「またって、何だよ、それ」
ヘンリーが不機嫌そうな声を上げると、リュカが笑いながらマリアの代わりに応える。
「マリアが塔に行くって言った時も、ヘンリーは反対したもんね。女の子を危険な旅に連れてくなんてできないって」
「それって普通だろ。反対しないお前が異常なんだよ」
「旅に出る危険は男も女も変わりないよ、きっと。まあ、マリアの意志が強かったから塔まで一緒に行って鏡も取れたわけだけど」
「今度行く場所は城の中だし、危険なこともないだろ。鏡で悪いヤツの正体を暴いて、追い出して、一件落着ってわけだ」
「旅の扉を使った先は、ラインハットの城の中ということですか?」
静かに話を聞いていたピエールがふと疑問を感じたように話に入ってきた。既に食事は終えており、剣の手入れを始めている。
「ピエールたちは……そうか、一緒には行けないかな」
「難しいな。特にガンドフなんかが城の中をうろついてたら目立つ」
自分の名を呼ばれ、ガンドフがゆっくりと顔を上げる。皆の会話の内容は分かっていないようだが、呼ばれた自分の名に反応して、大きな一つ目でヘンリーをじっと見つめている。
「ピエール、後は頼んだぞ」
「まるで面倒なことを押し付けるような言い方ですな。まあいいでしょう、ガンドフにはちゃんと説明しておきます」
「スラりん、君もピエールたちとお留守番……というか、また馬車を連れてラインハットへ向かってもらうことになるかな」
「あの関所を上手く越えられると良いのですが」
ピエールが言うのはラインハットの関所のことだ。関所にはラインハットの兵士が絶えず見張りに立ち、ヘンリーがいなければあの場所を行き来することは不可能だとピエールは知っている。
「心配ない、その頃には関所の封鎖も解除できてるはずだ。俺たちが悪いヤツを追っ払ってるだろうから、そうしたらすぐに関所にお前たちを迎えに行く」
「じゃあこれで決まりだね。朝になったら、僕とヘンリーとマリアは旅の扉でラインハットへ、スラりんとピエールとガンドフは馬車で北へ向かって。そうと決まったら後は休むだけだ」
洗い流す必要もないほどにきれいに片づけた皿を持ち、リュカは立ち上がった。そうしてまだ火にかかっている鍋の中を覗きこむと、まるで何も食べていないような雰囲気で新たに皿にスープを掬う。
「そう言えばさっき、あっちの方で小さな泉を見つけたんだよね。後で身を清めるのにいいかもよ」
「お城に入るのですものね。旅の垢を落としていった方が良いかも知れませんね」
「マリア、行く時は一人で行くなよ。誰かに声かけてからにしろ」
「はい、分かりました。ご心配おかけしないようにしますね」
ヘンリーの一見ぶっきらぼうな言葉に、マリアはもう怯えることもなくムッとすることもなく、ただ素直に笑顔を見せて頷いた。ラインハットまで同行するのを彼が許してくれたことが、彼女は嬉しかった。それは旅の仲間の一人に認められた以上の、得体の知れない感情でもあった。



「ここが旅の扉ですか」
旅の扉がある祠は、周りの森ごと朝靄に包まれていた。まだ東の地平線辺りに朝陽が覗いている程度で、森全体が薄暗く、うすら寒くもあった。そろそろ夏が終わろうとしているのを皆一様に肌に感じていた。
既にピエールたちは馬車を連れてラインハットへ向かっている。祠の手前まで一緒に進んできていたが、旅の扉を見る前にピエールが馬車を連れてその場を離れたのだ。それと言うのも、もし旅の扉を見てガンドフがそれに興味を示したら、彼を止める自信がピエールにはなかったからのようだ。おかげでガンドフもスラりんも意外に聞きわけ良く、ピエールと共に馬車で北に向かっている。
廃墟と化している祠だが、そこはかとなく漂う神聖な空気に、マリアの背筋も伸びていた。海辺の修道院のような人の手によって絶えず整えられた環境ではないが、広い円形の祠の周りに立ち並んだり倒れたりしている立派な石柱を見ると、もしかしたらここが海辺の修道院よりも遥か昔から存在する祠なのかも知れないと思わせるほど、古い歴史を感じる。
中央の台座に上がると、リュカの言っていたような、一見すると森の中にでもあるような泉がなみなみと水を湛えていた。しかしその泉の水は、じっと見つめているとまるで目が回るような動きをし、人の平衡感覚を狂わせる。マリアは頭を振って泉から目を離した。
「ああ、やだなぁ、またコレに入るのか」
リュカがマリアの隣で溜め息をつく。旅の扉の中で天地も分からぬほどに目を回し、しばらくまともに動けなかったことを思い出したリュカは、旅の扉の中央に目を落としながらもう一度溜め息をつく。既に気持ちが悪くなっているのかも知れない。
「お前、あっちで吐くなよ」
「そんなの行ってみないと分からないよ」
「分からないとか言ってんじゃねぇ。今ここで約束しろ」
「じゃあもしそうなったとしても、ここに向かってすることにする。それでいい?」
リュカがそう言いながら旅の扉の中央を指差すと、ヘンリーは腕組みをしながら何やら考え始める。
「……それじゃあ先に行かせるわけにはいかねぇな。俺とマリアが先に飛びこむから、お前は後で来いよ」
「あ、あの、私は平気でしょうか。リュカさんがそんなに具合が悪くなるようなものなんですか」
二人のやり取りを聞いていたマリアが恐る恐る口を挟む。そんな彼女も見ているだけで目の回るような旅の扉から目をずっと離している。
「行ってみないと何とも分からないけどな。ただ初めは何も考えずに何も見ずに飛び込んだ方がいい……」
「そうですか。では何も考えずに、行ってきます」
「えっ?」
リュカとヘンリーが同時に声を上げた時、マリアの身体は旅の扉に吸い込まれた直後だった。旅の扉は彼女の身体を取りこむように激しい渦を巻き、あっという間に彼女をラインハットへ運んで行ってしまった。
「勇気あるなぁ、マリア」
「お前も初めはあんな感じだったぞ」
「一度あの気持ち悪さを味わうと、足がすくむんだよね」
「男じゃねぇなぁ」
「そんなこと言いながら、ヘンリーも膝が震えてるんじゃないの?」
「バカ言ってんじゃねぇ、んなわけないだろ」
「じゃあ早く飛び込んでよ。僕は君の後なんでしょ」
「お前、本当に一人で大丈夫か? 誰かに押してもらった方がいいんじゃないのか」
「行くとなったら行くよ。ほら早く、向こうでマリアが待ってるよ」
旅の扉の渦の中心にマリアの姿が欠片でも見えるかと、二人は上体を倒して覗きこんだが、彼女の身体を飲み込み連れ去った泉は既に彼女をラインハットの城に放り出しているのかも知れなかった。上体を倒した拍子にバランスを崩したリュカが旅の扉の淵で両手をバタバタと振り回したが、バランスを取り戻すことはなく、そのまま右手が掴んだのはヘンリーの服だった。
「うわっ、バカ、何すん……」
ヘンリーの抗議の言葉は途中から旅の扉の渦に飲み込まれた。ぐるぐると渦を巻く空間の中で、ヘンリーは間近にリュカの気分悪そうな顔を見て、つられて気分が悪くなり、顔を背けた。旅の扉の中を移動する時間は一瞬だが、二人にはその時間が延々と続くような気がした。嫌な時間というのは、実際の時間よりも長く感じられるものだ。
同時に旅の扉から姿を現したリュカとヘンリーを見て、マリアは驚いたように声を上げた。
「あら、お二人とも一緒に来られたのですか」
まるで何事もなかったようなマリアの声を聞いて、リュカもヘンリーもまだ旅の扉に飛び込んでいないのかと錯覚した。しかし胃が下からひっくり返るような気持ち悪さは現実に彼らを襲っている。
「とても気分が悪そうですね。でもここには水も何もないみたいで、困ったわ」
「マリアは平気なのか」
台座に上るための階段にもたれかかりながら、ヘンリーが虚ろな目で問いかける。
「はい、私は平気のようです。むしろ少し、楽しかったというか」
「どうりで声が元気なはずだ。この旅の扉って、女の子に優しいのか」
「どうなんでしょうね。それよりもリュカさん、大丈夫ですか?」
マリアの問いかけに返事もできないリュカは、ただひたすら目が回るのが止むのをじっと待っている。台座の階段に斜めに身体をもたれ、浅い息を繰り返す。
「しばらく待っててやってくれ」
「はい。それにしてもここって、お城の中なんですか?」
マリアがキョロキョロ辺りを見回し、想像していたお城の雰囲気を探そうとするが、それらしき雰囲気をどこにも感じられない。それも無理はなく、今彼らがいる場所は城の中でも常に施錠されている場所であり、普段は人が立ち入らない特別な場所なのだ。旅の扉が発する光で辛うじて部屋の形が分かるだけの、閉ざされた空間だった。この部屋に入るためには、国王が所有する鍵が必要なほど、城の中でも特別な部屋だ。
「城の中でもちょっと特別な場所なんだ」
「そんな場所に入ってしまっても良いのでしょうか。何か許しを頂いたりしなければならないのでは」
「ヘンリーがいれば大丈夫だよ」
顔に噴き出していた汗を拭い、いくらか回復したリュカが言葉を挟んできた。
「ここはヘンリーの家だから」
「ヘンリーさんの家? お城の中にお家があるんですか」
「まあ、そんなことはどうでもいいから、早く行こうぜ。リュカ、動けそうか」
「何とか」
「じゃあとっとと行くぞ」
台座に上る階段に手をつき、立ち上がるヘンリーだが、まだ目が回る感覚から完全に抜け出せていないようで少しふらついた。そんな彼の身体を支え、マリアは不安そうにヘンリーを見上げる。
「大丈夫ですか」
「ああ、悪いな」
「あの、本当に私、行っても大丈夫でしょうか」
マリアにとっては今、得体の知れないものに囲まれているような感覚なのだろう。城という全く馴染みのない場所に一瞬で移動し、しかも城の中でも特別な部屋にまるで潜入するような形で忍び込むことが、修道女である彼女には不安でたまらないことなのかも知れない。
「ここがあなたの家って、どういうことなんですか」
「コトが片付いたらゆっくり話すよ。とりあえずついて来てくれ」
有無を言わさず背を向けるヘンリーに、マリアは仕方なく口を噤んだ。そして今度はリュカに歩み寄り、立ち上がるリュカを手伝った。
「確か庭に出た後、厨房を通るよね。そこで水くらいはもらえるかな」
「水でもフルーツでも何でも、好きなのをかっさらってたらいい。来る時やってたじゃねぇか」
「そう言えばそうだった。じゃあそうするよ。美味しいのがあるといいんだけど」
「城で出すようなもんなんだから、そうそう不味いものは置いてないだろ」
隣に続く書庫を出て、廊下を横断して扉を開くと、ラインハット城の中庭に出る。そこには相変わらず魔物の姿があり、人が住む城の中であるにも関わらず物騒な場所であることを表している。魔物のいる中庭に庭師が入ることもなく、伸び放題の草で荒れる中庭は既に城の庭園としての機能は果たしていない。
中庭から厨房に入ると、早速良い匂いが彼らの鼻を突く。そろそろ朝食の時間なのだろう、パンの焼ける香ばしい匂いが厨房内に立ちこめている。思わず焼き立てのパンに手を伸ばすリュカの手を叩き、ヘンリーはまだ器に盛られる前のきれいにカットされた梨をわしづかみにして彼に渡した。
「マリアはどう?」
「良いのですか、こんなことをして」
「偽者の太后が食べるくらいなら、僕たちが食べた方がいいって。はい」
「何だか良くは分かりませんが、では一切れだけいただきますね」
「まったくもって緊張感てものがないな、お前は」
「緊張する必要なんてないでしょ、ヘンリーの家なんだし」
三人でシャリシャリと梨を食べてから厨房を出て、城内の広い回廊を静かに進む。相変わらず城内の人気は少ない。見張りの兵士が要所要所に立っているだけで、他に城内を移動する者はさほどいない。しかしだからと言って城の兵士の警備が厳しいわけでもなく、城内に入っている者については特に目を向けようともしない。城の入り口で入城を厳しく取り締まっているため、城内に不審者が入り込む余地はないと思い込んでいるのだ。
誰に何を問い詰められることもなく、リュカ達はすんなりと王室の下の広間までたどり着いた。そこでは兵士二人が何やらこそこそと話をしている。旅装の二人の青年と、一人の修道女が姿を現し、兵士たちはこの三人を国王に呼ばれた者か何かと思ったようだ。
「国王は上におわします」
「何かあったんですか」
リュカが問い掛けると、兵士は特に身構えるわけでもなく、首を傾げて答える。
「さっきデール様が太后様を連れて階段を上がって行ったようだったが……」
「でも四階におられた太后様が下に下りてきた覚えはないし、気のせいかなと話していたところです」
二人の兵士の話を聞いて、ヘンリーがにやりと笑みを浮かべてリュカに言う。
「どうやらデールの奴、地下牢にいた本物の太后を連れ出したみたいだな」
「そうみたいだね。やるね、デール君」
ヘンリーとリュカがラインハット国王のことを呼び捨てで言ったり君付けで呼んだのを聞き、二人の兵士もマリアも同じような怪訝な顔つきをした。
「あの、あなた方は一体……」
「俺たち、国王に呼ばれて来たんだ。ちょっと邪魔するな」
何かを言わせる隙を与えず、ヘンリーは兵士の脇を通り抜けてさっさと階段を上り始めた。続いてマリア、リュカと後をついて行く。二人の兵士はただ首を傾げるばかりだ。
王室に上がり、玉座を目の前にした三人だが、玉座にデールの姿はなかった。代わりに、空の玉座の傍に大臣が一人、何やらそわそわした様子でうろついている。王室に上がってきた三人の姿を見て、城内の人間ではないと分かりながらも、大臣はすがるような目でリュカに近づいてきた。
「我が王に何か用か?」
「いないのか?」
「今はそれどころではないのだ。何と王様がどこからか太后様をお連れして……」
「太后が二人になったってか」
「何故知っておるのだ」
「リュカ、デールの所へ急ごうぜ。あいつ、何だかややこしいことをしてる気がする」
「僕にもそんな予感がするよ」
唖然とする大臣をやり過ごし、ヘンリーを先頭にリュカとマリアが後に並んで広い階段を上って行く。
王室の上にはかつては国王の私室だった大きな広間がある。前王が亡くなってからは、その部屋に太后が居つき、まるで元から自分の私室であったかのように太后が私室として使用している。
私室の前にも兵士が一人立っていた。しかし扉は開かれており、私室の中からぎゃあぎゃあと騒がしい女の声が聞こえる。そんな声に、番をする兵士自身、扉の中を覗き込むようにして様子を窺っている。
「一体どうしたことか」
「何が起こってるんだ」
扉から半身を入れ、中を覗きこむヘンリーに、兵士が混乱したように説明する。
「二人の太后様が会った途端、取っ組み合いの喧嘩になってしまったのです」
「今も何だか騒がしいみたいだけど」
「何とか二人を引き離したが、王様にもどちらがどちらか分からなくなってしまったのだ」
「……自分から行動してみたらこの結果かよ」
国王の私室にまで上って来た二人の青年を、もはや兵士は疑ってかかるようなこともしなかった。おまけに彼ら二人に伴われる形で立っている修道女の姿を見ると、まだ年端もいかない娘だが、彼女がこの事態をどうにか収めてくれるかもしれないとすら思っているようだ。その目は見知らぬ三人を警戒するどころか、縋るような情けない顔つきになっている。
開かれた国王の私室の扉を通り、部屋の中に入る。足音を完全に消すような毛足の長いふかふかの絨毯が敷かれ、王室内の装飾品は煌びやかを通り越して、ごてごてした下品な印象で埋め尽くされている。一日この部屋にいるだけで、目がおかしくなりそうだ。その上、部屋の中には香水を瓶ごと何本も零してしまったようなむせかえるような花の匂いが充満している。ヘンリーもリュカも、マリアでさえ、すぐにこの部屋を出たい気分になった。
私室の奥で、二人の女性が、国王デールを挟んで睨み合っていた。老婆にも見える二人の女は薄汚れた髪やドレスを振り乱し、デールの腕を両方から掴んでいる。まるで同じように見える二人の老婆だが、デールに対する態度はまるで違うようだ。
「デールや、この母が分からぬのですか? さあ、こっちへいらっしゃい」
「ええい! 私が本物だと何故分からぬのか! この薄汚い女を早く牢へ入れておしまい!」
デールが地下牢から連れだした本物の太后は、何年も牢に入れられていた為、今のような年不相応の老婆の様相を呈しているに違いなかった。だたその老婆の姿に合わせて、偽物の太后も同じような姿に自ら変わったのだろう。そうしてデールの目をごまかしている。
「あの方がラインハットの国王様ですか?」
マリアがリュカに問いかけると、リュカは何でもないことのように「うん、そうだよ」と簡単に答えた。マリアは背筋を伸ばして、一国の王の前でどのような振る舞いをしたらよいのかと、顔を強張らせる。
「あっ、兄上」
二人の母に腕を掴まれたままのデールが、私室に現れたヘンリーを見るなり顔を綻ばせた。まるで子供のような緊張感のない笑みに、ヘンリーは苦笑する。
「何だか苦労してるな、デール」
「兄上だけに苦労させてはと、ボクなりにやってみるつもりだったのに……。どうもボクのやることはヘマばかりで」
「自分でも分かってるんだな。一応王なんだし、もう少ししっかりして欲しいもんだぜ」
「え、兄上って……・」
マリアが困惑した様子でリュカのマントを引っ張ると、リュカが端的に説明する。
「そう、デール君はヘンリーの弟なんだ。ヘンリーはこの国の王様のお兄さんってわけ」
「……一体、何が何だか分かりませんけど、ご兄弟の割にはあまり似ていないんですね」
マリアにとってはあまりに唐突な出来事で、頭の中が整理できないまま、ただ見ただけの感想を述べるに留まった。ヘンリーとラインハット国王が兄弟である関係性などには、まだ彼女の頭は追いつかないらしい。
「ボクは息子失格ですね、実の母が分からないなんて」
「偽物がそれだけ巧みに化けてるってことだ。今までだって気付かなかったんだから、それくらい本物と見分けがつかなくなってるんだろうよ」
ヘンリーが私室に入り込んでくると、デールを両側から挟む二人の太后は同じような鋭い視線をヘンリーに浴びせる。
「俺ならもしかしたら分かるかなと思ったけど。憎たらしい方が継母だろうからな」
「兄上……」
「だけど憎たらしさに関してはどっちも一緒だもんな。俺をいじめ抜いた奴と、この国を滅ぼそうとした奴。どっちも憎いよ」
「僕なんか、どっちもぶん殴りたい気分だよ。どっちも許されないことをしてるんだから」
「そなたは……」
二人の太后の声が重なる。本物も偽物も、それぞれ思うところは違うのだろうが、ヘンリーとリュカを疑るような視線に変わりはない。
「マリア、鏡を」
「はい」
ヘンリーに言われるままに、マリアは道具袋に丁寧にしまってあった真実の鏡を取り出し、彼に渡した。古びた鏡がヘンリーの顔と国王の私室の一部を映し出す。そこには何も変わったものは映り込まない。
「偽物め、正体を見せろ」
ヘンリーが手にした鏡をくるりと裏返し、デールを中心にして二人の太后の姿を同時に映してみせた。その鏡に映った二人の太后の姿を見て、デールは息を呑んだ。自身の右腕を掴んでいる母は、見たこともないような化け物の姿に変わっている。
化け物も人間ではない自身の本物の姿を鏡の中に見ると、うろたえたように自分の頭や髪を撫でつけた。手で触れたところから化け物は本当の形を見せ、顔から順に胴体、足と魔物の姿に戻って行ったようだが、裾の長いドレスを身にまとっているため足元は見えない。ただその顔は誰が見ても魔物そのものだった。両耳に届くほどの大きな口を開け、瞳は血を思わせるように赤く、耳はどんな音も聞き逃すまいと思わせるほどに大きく、先がとがっている。長い袖から出る手は骨ばり、異様に長い指が三本生え、各々の指には大きな宝石のついた指輪が光っている。品位も何も感じられない魔物が豪華な指輪をしたところで、指輪の価値はそこに感じられなかった。
「意外に小さいな」
ヘンリーの言う通り、偽太后の身丈は魔物の姿に変わってからもさほど変わらない。リュカやヘンリーよりも小さく、マリアとそれほど差はないように見える。
「こうなったら皆殺しにしてくれるわ!」
小柄ながらも威勢の良い言葉を吐く偽太后に、リュカとヘンリーは咄嗟に身構えた。念のため、彼らは常に腰に剣を差している。
「マリア、一応下がってて」
剣を手にしながらリュカがマリアを部屋の入り口の方へと下がらせた。リュカの声を聞いて、母に腕を掴まれたままのデールも、慌てて魔物との距離を取ろうと後ずさった。長年の牢生活から抜け出し、まだよろよろしている本物の太后が必死になってデールについていき、部屋の隅にその小さな身体を潜ませる。
正体をばらされ、頭に血が昇った偽太后は、怒りに任せて口から炎を吐きだした。誰に向かってというわけでもなく吐きだされた炎は、毛足の長い豪華な絨毯を見事に焼き尽くした。国王の私室が火の海になり、逃げられなくなる危険を感じた本物の太后が、その弱々しく骨ばった腕からは想像できないほどの力を込めてデールの腕を引っ張った。魔物が吐き散らす炎に呆然としていたデールは、母に腕を引かれるまま、部屋の入り口の方へともつれるように移動した。
自分とリュカの後ろに移動してきたデールと継母の姿を見て、ヘンリーは安心したような笑みを浮かべる。そんなヘンリーの笑みを、彼の継母は警戒するようにデールを後ろに庇いながら見つめる。
部屋の絨毯からぶすぶすと煙が上がり、広範囲に渡って床石がさらけ出されていた。リュカとヘンリーはその床石の上に立ち、偽太后の正面で武器を構えた。偽太后は大きな口の間に見せる歯をぎりぎりと言わせると、再び炎を吐くべく大きな口を閉じてもごもごと動かした。
炎を吐きだされる直前、リュカは飛び込み、偽太后の腕に斬りつけた。ドレスの袖が大きく裂け、斬りつけられた腕をもう片方の手で押さえて、偽太后が鈍い叫び声を上げる。口の中で準備していた炎が、大きく開けられた口から全て力なく漏れてしまった。
すかさずヘンリーも攻撃に移る。短めの剣を偽太后の頭上に振り下ろす。咄嗟に避けた偽太后は致命傷こそ免れたものの、頭に乗せただけの人間用の金髪カツラがだらしなくずり落ちた。
「何だ、カツラを被ってるのか。魔物なら魔物らしく、ちゃんと正体を現せよな」
「うるさいうるさいっ、オレだってオシャレがしたかったんだ」
偽太后はどうやら長年人間に化けているうちに、人間の女に対する憧れが生まれていたようだ。それこそまるで、本物の太后と変わりなく、毎日違うドレスを身にまとい、派手な化粧をし、高価な宝石を体中に身につけ、自分のためにかしずく人間たちを見て、日々満足を得ていた。その行動自体はもしかしたら、奢った人間がするものと大して変わらないものかも知れない。
言葉通り、化けの皮が剥がされて行く偽太后は、こみ上げる恥ずかしさと怒りで、目の前のヘンリーの頬を思い切り平手打ちで張った。その力は人間の女とは雲泥の差で、ヘンリーはたまらず部屋の隅まで吹っ飛ばされた。
回復に向かおうとするリュカの前に立ちはだかり、偽太后はリュカにも平手打ちを喰らわせた。腕で防御し、顔への直撃は避けたリュカだが、それでもヘンリー同様に身体ごと吹っ飛ばされた。頭の中が揺さぶられるような衝撃に、ヘンリーもリュカも床に身体を投げ出したまま、しばらく立てないでいる。
「見た目によらず、力技だな」
「小さいからってちょっと、油断したかも」
すぐ近くで言葉を交わす二人に、近づいてくる偽太后の姿があった。リュカに斬られた腕を抑えているところを見ると、怪我を回復する術は持っていないようだ。
「俺に恥をかかせやがって……」
目の前で異様な熱を感じ、リュカは目の前に立つ偽太后を見上げた。その大きな口の中に、再び炎が蓄えられている。この至近距離であの炎を吐かれたら、リュカもヘンリーもひとたまりもないのは明らかだ。
リュカはヘンリーを庇うようにして身を乗り出し、呪文を唱え始めた。直後、炎の熱を顔面近くに感じたが、咄嗟に繰り出したバギマの呪文で迫る炎を何とか散らした。切れ切れになった炎が、部屋の中に舞い、偽太后は自分に向かってきた炎に反撃される格好となった。ずれたカツラから伸びる長い金髪に炎が燃え移るのを見て、偽太后は手でバタバタと髪を燃やす炎を消しにかかる。
どうでも良いことに気を取られている偽太后に、今度はヘンリーが呪文を浴びせる。部屋中に轟く爆音に皆が耳を塞ぎ、偽太后の身体は爆風に飲みこまれた。部屋の石壁に叩きつけられ、どさりと落ちた魔物の姿は、もう太后として煌びやかな生活をしていた風体は微塵もない。ドレスはびりびりに裂け、頭に乗せていた金髪のカツラは爆風でどこかへ吹き飛び、代わりに髪のないつるりとした魔物の頭が現れている。大きな口に厚く塗りたくられた口紅も、口から血を流していてはおどろおどろしいだけだ。
「どうだ、降参するか?」
「オレが降参するだと? 人間がナメた口を聞きやがって」
上下の歯をぎりぎりと言わせて睨みつけてくる偽太后に、リュカとヘンリーは立ち上がり、再び戦闘態勢を整える。長年に渡りラインハット国を操って来た偽太后は、もう魔物として生きて行く選択肢を失ってしまっているようだ。人間に化け、人間であり続けたせいで、魔物として外で生きて行く術を忘れてしまっている。ここで戦いに降参したところで、偽太后は外で魔物として生きてはいけないのだろう。
懲りもせず、偽太后は口の中に炎を溜め、リュカ達に向かって吐きつけてこようとする。リュカとヘンリーは足元で焦げている絨毯を剣で切り取り引っぺがし、魔物の口から吐き出された炎を受け止めるべく、絨毯を盾にして構えた。そして炎が絨毯に燃え移った瞬間、それを偽太后に向かって投げつけた。
魔物の身体に絨毯がかぶさり、偽太后の身体は自分で吐き出した炎に巻かれた。部屋の床でもんどり打つ魔物の姿に、リュカもヘンリーもほとんど勝利を確信していた。
「早いところ降参して、とっととこの国を出て行け。そうしたら見逃してやるから」
「悪いことしたらこういう痛い目に遭うってことをちゃんと覚えておいてね」
黒こげ寸前にまで追い込まれた偽太后は、もうドレスもかつらも完全に炎の餌食になり、ごてごてした指輪と耳飾りと、片方だけ脱げないでいるハイヒールだけを身につけたみっともない格好をしている。偽太后が炎に巻かれてもんどり打ったおかげで、部屋中の絨毯のいたるところが黒く焦げていた。それは今魔物がいる部屋の入り口の方にまで及んでいる。
身体中で呼吸をするようにぜいぜいと息を吐いている偽太后は、悔しそうにリュカとヘンリーを睨みつけている。しかし彼らに反撃する気にはなれないようで、ただイライラしたように頭を掻きむしった。
「オレはこの国を強くして、世界の王になりたかっただけなんだよ」
「国を強くするって意味を、お前は何にも分かってない」
「それに世界の王になって一体どうするつもりだったの。みんなから嫌われて世界の王になったって、空しいだけだと思うんだけど」
「うるさいっ、世界の王になれれば、それで良かったんだ」
偽太后の目的はただそれだけだった。人間の世界の頂点に立ち、人間全てを見下せれば、それで目的は完遂したことになる。その先に何か目指していたものがあるわけではない。
それを全て否定され、偽太后はヒステリックな悲鳴を上げた。その悲鳴がかつて聞いたことのある本物の太后の悲鳴に似ていて、ヘンリーは思わず顔を歪ませ、両耳を塞いだ。
「お前たちでは話にならん……」
偽太后は今、部屋の入り口近くに移動していた。そこには戦いから避難しているデール、本物の太后、マリアがいる。魔物の鋭い視線と出遭った三人は、一様に身をすくませた。
「この者たちと相談することにしよう」
魔物の姿になった偽太后の言葉に、リュカの背筋が凍った。まるで舌なめずりするような粘着質のある口調で言う魔物の姿に、リュカの過去の記憶が重なる。
背後に感じる熱の塊。それが暗い洞窟内を太陽の光のように明るく照らす。目の前で力なく横たわる父をも照らし、意思を持ったようにそれは父に近づいて行く。そしてあっという間に父を飲み込み、真っ赤な炎の中で、黒い父の影が徐々に小さくなっていく。
脳裏に過った光景を振り払うように、リュカは床を蹴った。まるで隣で突風が起きたのかとヘンリーが思うほどの速さで、リュカは偽太后になりふり構わず突っ込んだ。彼の手には剣すら装備されていない。素手のままただ走り、偽太后に体当たりでも食らわせる勢いだった。
「人質を取るなんて……イヤだ」
リュカは自分が背負っている罪を吐き出すように、小さく呟きながら偽太后に向かって行った。尋常ではないその気配に、偽太后は振り向き、既に口の中に蓄えていた火炎を向かって来るリュカに一気に吐き出した。瞬間、リュカの全身が炎に包まれ、ヘンリーはその光景を見て、ようやくリュカの突発的な行動を理解した。炎の中にいるリュカの影が、パパスの最期の姿と重なる。
「リュカ!」
幼い頃とは違い、ヘンリーの身体は動いた。暴れるリュカの両腕を持ち、ヘンリーはリュカの身体を引きずるようにして、浴室の扉を蹴破り、常に浴槽になみなみと張られている水の中へリュカを投げ込んだ。炎は水の中に収まったが、リュカは水の中から浮かび上がってこない。しかしヘンリーはリュカの生命力を信じた。
「てめぇ、俺の大事な親友に何しやがるんだ」
「今ので死ななかったら大したもんだ」
余裕の笑みで浴室を覗きこんできた偽太后に、ヘンリーは呪文を唱えながら駆け出した。偽太后は浮かべていた笑みをしまい、再びデール達に向かって浴室を飛び出した。しかし先ほど部屋の入り口近くに身を寄せ合っていた三人の姿は既になかった。部屋の番をする兵士の機転により、彼らは部屋の外へと誘導されたようだ。
背中を見せて逃げ出すように走る偽太后の背後から、ヘンリーはイオの呪文を炸裂させた。部屋の入り口ごと爆風で吹っ飛び、偽太后の身体も再び壁に叩きつけられた。崩れた石壁がガラガラと音を立てて、倒れた偽太后の上に瓦礫を積む。
「くそっ、お前も食らえ」
身に降りかかる瓦礫を払いのけながら、しぶとく口の中に炎を構える偽太后に、ヘンリーは短剣を構えた。そして狙いを定めて短剣を投げつけた。その剣は深々と偽太后の喉を貫き、発せられる寸前だった口の中の炎は行き場を失い、裂けたような大きな口の両端からちりちりと流れ落ちる。
「俺はいざって時は、リュカみたいに甘くはないんだ」
入り口近くの壁にもたれかかるようにして絶命した魔物を、ヘンリーはまだ睨み続けていた。しかし浴室からバシャバシャと騒がしい音が聞こえると、慌てて部屋の中へと戻って行った。
浴室ではずぶ濡れになったリュカがターバンを手に取り、犬のようにぶるぶると頭を振って水を切っていた。顔の水を手で拭い、浴室に姿を現したヘンリーを見て、事の次第を思い出したように言う。
「あいつは?」
「倒した、もう大丈夫だ」
「そう、良かった」
「お前は大丈夫か?」
「うん。ごめん、ちょっと訳が分からなくなっちゃって」
「それは仕方ない、俺もそうなりかけた。とりあえず怪我の手当てをしておけ」
「早めに水に突っ込んでくれて助かったよ。これじゃあまるであの時の……」
「猫みたいだな」
ヘンリーはリュカに猫の名前を言わせなかった。過去の酷い記憶が鮮明に蘇るのは、互いに避けたいところだった。
「あ、兄上、ご無事ですか」
恐る恐る顔を出すデールを見ると、ヘンリーは片手を上げて「なんともない」というようにひらひらと軽く振った。
「俺は平手打ちされた顔がひりひりするだけだ」
「リュカさん……」
デールの後に顔を出したマリアは泣き顔を見せていた。炎に包まれるリュカの姿をまともに見てしまった彼女の身体は恐怖で震えている。今もリュカの姿はあちこちが焼け焦げ、旅の途中では風雨などから身を守るためのマントなどはほとんど形を留めていない。焼けた布の切れ端が、浴槽に張られた水の中にいくつも漂っていた。
「ごめんね、マリア。怖い思いをさせちゃったね」
「ご無事なんですね、良かった……」
意外にもリュカの元気そうな様子を見て、マリアは今度は安心したようにしくしくと泣き始めた。国王として女性の扱いはいくらか慣れているデールが、隣にいるマリアの肩に手を置いて静かに宥める。
一同が浴室から出ると、そこにはしおれたような太后が静かに立っていた。もちろん、偽物の太后は先ほどヘンリーがとどめを刺して絶命させた。今彼らの目の前に力なく立っているのは、本物のデールの母だ。その表情には力も覇気もなく、意思も感じられず、ただ空気のような存在で部屋の中に目をやっている。戦いの後の国王の私室は荒れに荒れた状態だ。豪華な絨毯は大方焼け焦げ、石床が露わになり、室内の調度品なども爆風などで吹き飛ばされ破壊されている。石壁も崩れ破片が床に散らばり、国王の居室として再度使用するには相当の時間が必要になるだろう。
「わらわは、どこから間違っておったのか」
呆然と立ち尽くす継母の後ろ姿を、ヘンリーはただ無表情に見つめる。幼い頃に今の太后の姿を見ていれば、ありとあらゆる罵詈雑言をヘンリーは継母に浴びせることができただろう。しかし彼は地下牢に捕えられ、長年の間、最愛の息子から遠ざけられるという罰を被った彼女の姿を見てしまった。デールと共にいた時はあれほど煌びやかに若々しく日々を過ごしていたというのに、何年も我が子から引き離され、地下牢に閉じ込められた彼女はすっかり年老いてしまい、まるで老婆のような姿に成り果てている。
「どこからだったんだろうな。俺にもよくわかんねぇや」
もう強く、派手で、高飛車で厭味ったらしいかつての継母の姿はそこにない。背を丸め、薄汚れた金髪をぼさぼさに下ろし、顔にも手にもシワを作ったまだ若いはずの女が一人、壊れた息子の私室で立ち尽くすのみだ。
「でもあなたは取り返しのつかない罪を犯しました。それはこれから一生を賭けて、償ってください」
継母の後ろ姿を見ながら同じように呆然と立つヘンリーの横で、リュカが毅然とした態度で言葉を発する。彼にとって太后は、大事な友の運命を陥れた張本人に変わりはない。もし彼女が実の息子であるデールと同じような愛情でヘンリーに接してさえいれば、ラインハットに変事は起こらなかった。
「本当は僕がこの手で懲らしめてやりたいけど、それができるのはヘンリーだけだと思うから」
「今さらそんなことしたって……どうしようもないさ。それに俺がそんな暴挙に出ようもんなら……」
「ボクが止めるでしょうね、たとえそれが間違ってるって分かってても、多分、止めると思います」
「というわけだ。あんたはこれから国王に守られながら、一生賭けて自分の犯した罪を償ってくれ。俺が思うに、死ぬより辛いと思うぜ」
ヘンリーの言葉に振り向いた太后は、無表情のまま頬に涙を流していた。恐らく自分でも何故涙を流しているのか、分かっていないのだろう。ただ彼女の琴線に触れたのは、紛れもない息子たちの愛情と許しだった。
「これからこの国を立て直さなきゃならないんだ。それこそ死ぬ気で働いてもらうからな」
「できることから順に初めて行きましょう。それにはまず兄上が王位を……」
「デールが立派な国王として認められるようになら、あんた、いくらでも頑張れるよな」
デールの言葉を遮り、ヘンリーは太后に話しかける。太后は一も二もなく頷き、その反応に太后の息子への愛情が変わらず続いていることをヘンリーは改めて確認した。
「もちろんじゃ、デールのためとあらばわらわは何でもする」
「いい心がけだ。じゃああとはお前が指示するだけだ。案外簡単そうだな」
「そんな、兄上、ボクは……」
「子分が親分に口答えするとは何事だ。お前の役割はこの国のトップだ。やることはたんまりあるぞ。たとえば……まずはこいつの服を作り直してやれ。城の針子たちに旅装の作成指示を出すんだ」
次々と出てくるヘンリーの言葉に、デールは追いつくのがやっとといった様子だ。しかしその表情は今の状況を楽しんでいる。
「兄上のそういうところ、全く変わっていませんね」
「変わってなくて良かっただろ。とりあえず今日は一日休ませてくれ。適当に部屋を用意してくれると助かる」
「すぐに手配します。ゆっくりお休みください。食事も湯浴みも声をかけてもらえればすぐに使えるよう準備しておきましょう」
「お城で食事ができるなんてすごいね。さっきの焼き立てのパンとかも出てくるのかな」
「何でも仰ってください。できる限り用意します。あなた方はこの国を救ってくれたのですから」
先ほどまで火ダルマになって瀕死の状態だったリュカは、既に回復呪文で体力を回復させていた。しかしその見た目は酷く、何とか布一枚で身体を隠しているに過ぎないような状態だ。
「とりあえずこいつが食事の席で露出狂にならない内に、何か着るものをやってくれ」
ヘンリーのおどけた言葉に、これから平和を築いていくラインハットの新しい歴史が始まった。

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