2017/12/03
伝説の勇者
港町ポートセルミは夜になると昼とはまた違った雰囲気に包まれる。穏やかな波音が繰り返し聞こえ、普通の町では見られないような洒落た街灯にオレンジの火が灯り、町全体に艶が出てくる。そんな町の雰囲気を楽しみたい旅人も多く、リュカは町を歩きながらすれ違う旅人の多さに納得していた。
港の灯台に立ち寄った後、しばらく港から海を眺めてぼうっとしていたら、いつの間にか夕方になっていた。腹が減っていることにも気付かず、リュカは一度馬車の仲間の所に戻ると、明日には町を出ることを告げ、再び町の散策を始めていた。行き交う旅人に話しかけてみては、伝説の勇者や魔界のことについて聞いてみたが、詳しいことを知っている者は一人もいなかった。
「みんな色んな目的で旅をしているんだもんな、そうそう簡単には分からないよね」
リュカは自分に言い聞かせるように呟くと、思わず溜め息をついていた。
流れとは言え、明日はこの町を出てカボチ村というところへ向かうことになった。困っている人を放っておけないリュカは、酒場で悪者にからまれていたカボチ村からやってきた村人の頼みを断ることなどできなかった。ポートセルミにいる人からカボチ村のことを聞くと、とんでもない田舎だと彼らは言う。実際、カボチ村から来た村人の言葉はかなり訛りがきつく、リュカも何とか聞き取れたくらいだ。サンタローズも小さな村だったが、恐らくサンタローズよりも田舎らしい田舎なのだろう。
果たしてその村で勇者や魔界について何か話が聞けるだろうかと、リュカはあまり大きな期待は抱かないようにした。彼らの言う化け物というのが一体どれほどのものか分からないが、とにかく村を荒す化け物を退治して村の暮らしを守ろうと、それだけを考えることにした。内容は違うが、化け物に村を荒され、サンタローズのように荒廃してしまうのは悲しすぎる。
酒場は既に賑わっていた。建物の外にまで酒場の熱気が漏れだしているようだ。リュカは酒場内に充満する酒のにおいに覚悟しながら、扉を開けた。
その瞬間、大音量の音楽が聞こえ、リュカは思わず立ち止った。正面の舞台で煌びやかな衣装を身にまとった踊り子たちが踊りを披露している。その周りを大勢の男たちが囲み、思い思いに声援を送っている。リュカはその光景を遠目に見ながら、まるでオラクルベリーだと思った。オラクルベリーのカジノの施設ほど大きな場所ではないが、それでも舞台の華やかさでは負けていない。その舞台の上で一際輝いているのが、昼間に会ったクラリスだった。周りの男たちからもクラリスへの声援が多い。彼女が踊り子のとしての人気を耳にしながら、リュカは舞台をしばらく眺めた。
まだ踊り子たちの舞台が続く中、リュカは昼間も立ち寄ったカウンター席へと向かって行った。多くの旅人や商人が酒場には来ているが、手当たり次第に声をかけていたら一晩中かかっても終わらない。カウンター席の客に限られてしまうが、彼らからの話を聞いている酒場のマスターに話を聞くのが早いと、リュカは空いている席に腰を下ろした。
「おや、来たね」
昼間の騒動と共にリュカのことを覚えていたマスターがグラスを拭きながら話しかけてきた。
「昼とはやっぱり全然違いますね、人がいっぱいで」
「今日はいつも以上だよ、なんせ君も乗って来た大型船が着いたばかりだからね。旅人さんがたくさん来てるよ」
そう言うマスターの声は心なしか少し弾んでいる。いつもは町の船乗りや商売人が仕事を終えたら来る程度の人数に比べたら、今日の人の入りはいつもの倍以上だろう。売り上げも倍以上になると、マスターは機嫌よくカウンター席の客に接している。既に目の前の老人の客と打ち解けているところを見ると、もう様々な客と込み入った話もしているかもしれない。
「ところで勇者について、何か言っていた人はいませんか?」
リュカのその言葉に反応したのは、店のマスターではなく、マスターと話をしていた老人だった。
「おお! お主じゃな! 伝説の勇者を探していると言うのは!」
そう言いながら端のカウンター席に座ったリュカを見るや、老人は軽やかに高い椅子からピョイと下りて、リュカの隣に移動してきた。それまでリュカの隣に座っていた青年は追いやられ、渋々席を移動していった。
「信じられんかもしれんが、わしは勇者様を見たことがあるぞ」
老人の話にリュカは眉をひそめた。こんなに都合よく伝説の勇者に会ったことがあるという人に出会えるものなんだろうかと、思わず目の前の老人をしげしげと見つめた。老人はいわゆる至って普通のおじいさんではなく、彼もまたリュカと同じように旅をしている服装をしていた。老人が身につけているローブは旅に適した丈夫なものだ。また彼の目にも旅する者特有の隙のない雰囲気を感じた。もしかしたらリュカよりも旅慣れている人なのかも知れない。
「その時の話を聞きたいじゃろ? 一杯おごってくれたら話してもいいぞ」
老人は不敵な笑みを浮かべながら、横目でリュカを見てきた。この町に着いてからまだ何も情報を得ていないリュカは、旅がいきなり躓く恐れから逃れるためにも、老人の話を聞いて見ることにした。
「わかりました。好きなものを選んでください」
リュカが席に置いてあるメニュー表を老人に向けると、老人はそれを見るまでもなくこの店で最も高い酒を注文した。老人の狙いは初めからそれだったのかも知れないと、リュカはちょっとだけ後悔した。
黄金色の気泡が絶えず沸きだす不思議な酒が老人の目の前に差し出されると、老人はその酒を実に美味そうに一口飲み、至福の溜め息を漏らした。
「お主は何か頼まないのか?」
「僕はお酒が飲めないんで」
「なんと、不幸なことじゃ。こんな美味いもんが飲めんとは」
心底残念そうに首を横に振る老人を見て、リュカはこの老人はよっぽど酒が好きなのだろうと少し笑った。
「それで、勇者を見たことがあるって言うのは、どういうことなんでしょうか」
老人が酒について語り出しそうになるのを、リュカは遮るようにして話を始めた。すると老人も「うむ」と頷き、もう一口酒を飲むと、少し興奮した様子で語り出した。
「あれは十年以上昔じゃ! 天空の剣を探しているたくましい男に会ったことがあるんじゃ」
話の初めから天空の剣が登場し、リュカは心の中で狼狽した。老人の会ったことのある勇者は、今リュカが持っている天空の剣を探していた。勇者自身が探していたと言う話に、リュカは自分が十年以上前に勇者と会うことができていたらと、今さらどうしようもないことを悔やんだ。第一、十年以上前となると、リュカはまだ五、六歳か、それ以下だったか、若しくは生まれていなかったかも知れない。しかしこの老人にしてみれば、ほんの一昔前の話なのだろう。
「その男は天空の武器防具を全て集めて魔界に入ると言うとった」
「魔界、ですか」
リュカは老人の話を聞きながら、父パパスの手紙に書かれていたことを思い出していた。父の手紙には母が魔界に連れ去られてしまったとあった。魔界への扉を開けるのは天空の武器防具を身につけた勇者しかおらず、父はそれこそ命を賭けて勇者を探していた。
老人の話によれば、勇者自身も魔界に入るため天空の武器防具を集めていたと言う。だとすれば、天空の剣を持つ自分と伝説の勇者はいつか必ず会わなくてはならないはずだ。十年以上前から旅をしているとなると、当時勇者はいくつだったのだろうと、リュカはふと疑問に思った。
「おじいさん、その時勇者っていくつぐらいだったんですか」
「はて、二十後半か、三十路を越えとったかのう」
「じゃあ今はもう四十歳くらいなんですかね」
「そうかも知れん。もしかしたら今やもう魔界に入っているやも知れんのう」
天空の剣を自分が持っている限りそれはあり得ないと、リュカはつい口から出そうになったが、思い留まり口を噤んだ。父が生前、サンタローズの洞窟の奥深くに隠していたものを、たった今話し始めたばかりの老人に打ち明けてはいけないと直感でそう思った。
「身なりはボロボロだったが、国王のような高貴な顔立ち! あの男こそまさに勇者様じゃ!」
悦に行った様子で語る老人の言葉の通り、リュカは想像してみた。身なりがボロボロで高貴な顔立ちというのは、果たして奴隷の時のヘンリーみたいなものだろうか。しかし老人は逞しい男と初めに言っていた。ヘンリーは決して逞しい体つきではない。彼の弟のデールなら尚更だ。
一体どんな男だったのだろうかと、リュカは頭の中でぐるぐると勇者像を作り出そうとした。天空の武器防具を集め、魔界に入ろうとしており、逞しい体つき、身なりはボロボロ、当時の年齢で三十歳そこそこ……そこまで考えたところで、リュカは思考を止めた。リュカの頭の中にできる勇者像は、リュカにとっては勇者ではなかった。
「おお! 今、男の名前も思い出したぞ!」
老人が手にしていたグラスをダンっとカウンターテーブルに置きながら、大きな声で言った。老人の赤ら顔を見るに、相当酒が回っているようだ。恐らく、リュカの金で注文した酒は、度数の強い酒だったらしい。
「パパスじゃ! 確かにパパスと言う名前じゃったぞ!」
老人がその名を言う直前、リュカはその名が呼ばれるのではと直感していた。酒が回り、かなり酔っ払っている老人だが、決して嘘を言っている様子ではなかった。第一、老人が勇者と思っている男は、他の誰が見ても勇者と思えるような男だったのだ。ただ、リュカにとってその人は勇者であって勇者ではない、それだけの違いだった。
「お主、勇者を探しておるのなら、パパスという名を忘れるでないぞ!」
「僕、その名前は絶対に忘れません」
「うむ、それでよい。お主が探し続ける限り、きっといつか会えるであろう」
「早く、会いたいですね……」
リュカが力なく頷くのを見ていた酒場のマスターが、気を遣うようにリュカに声をかける。
「悪かったですかね。あんたが勇者を探してるってウワサをしゃべっちゃったんですよ」
「いいえ、いいんです、ありがとうございます。おかげで良いお話が聞けました」
リュカは本心でそうマスターに応えた。老人の話を聞いて、父のことをこれまで以上に誇らしく思えるようになった。父はきっと、他の誰にとっても勇者のような存在だったのだ。目の前の老人が自信を持って『勇者に会ったことがある』と言えるのも、父が勇者たる雰囲気を身にまとっていたからだ。
生前の父の本当の姿を、リュカはほとんど知らない。こうして全く見ず知らずの人から聞く父の姿が、恐らく本当の父だったのだと、少しだけ悲しくなった。
顔を真っ赤にしながら酒の注文を追加しようとする老人に、マスターがやんわりと注文を止めようとしている。リュカに酒を奢らせたくらいだ、あまり持ち金がないに違いない。マスターはそれを見越して、老人の注文を断ろうとしていた。
そんな酒場の活気ある雰囲気の中、リュカは老人におごった酒のお代をカウンターに置いて、静かに席を立った。後ろからマスターに声をかけられた気がしたが、リュカは振り向かずにそのままその場を立ち去った。
老人ともう少し話をすれば、生前の父の姿がもっと詳しく分かるかもしれない。しかしリュカにはそんなことを聞く勇気がなかった。子供の頃の自分は父のことを父としてしか見ておらず、何故旅に出ているのか、何故サンタローズに住んでいたのか、仕事は一体何をしていたのか、何も知らないで過ごしていた。
しかし父にとってはそれで良かったのだ。まだ幼い我が子に自分の旅の目的を話したところで、子供はその意味も理解できない上に、子供の力は役に立たない。むしろ子供がいること自体、旅の足手まといになっていたはずだ。
要するに、父の旅にとって幼い息子は邪魔だったのだ。そんな事実を突き付けられるのが怖くて、リュカは老人の話から逃げ出してしまった。父の過去を聞くことは、自分の存在を否定することだと、リュカはそう思いこんでいた。
気がつけば、舞台で披露されていた踊り子たちのショーは終わっており、ショーを見に来ていた者たちもそれぞれ席についたり、酒場を出ていたりしていた。施設全体の熱気が落ち着き、酒場の人々は再び各々談笑を始めていた。
「そういえば見に来てくれって言われてたんだっけ」
昼にこの酒場で会ったクラリスという踊り子に、夜はショーをやってるから見に来てくれと言われていたことを思い出し、リュカは少々気まずい様子で頭を掻いた。どうやら本日のショーは終わってしまったらしい。ショーの後に控室に寄って欲しいと言われていたが、たいしてショーを見ていない自分が果たして行っても良いものかと、リュカはしばし考え込んだ。
「でも今日しかこの町にいないし、今会っておかないと。何か話が聞けるかも知れないし」
舞台で踊り子たちが踊りを披露している最中、クラリスへの声援が目立って飛び交っていた。老人の話を聞きながらも、リュカはその声援を耳にし、間違いなく彼女が人気の踊り子なのだと分かった。
控室の前まで足を運んでみると、ちょうどリュカの目の前を一人の踊り子が通り過ぎようとしていた。その娘に声をかけ、クラリスを呼んでほしいと告げると、娘はリュカの頭から足の先までじろじろ見た後、控室へと入って行った。
「あら、来てくれたのね」
間もなく控室からクラリスが姿を現した。彼女はまだ舞台衣装のままで、その露出の多い衣装にリュカは少し目のやり場に困った。そんなリュカの様子を見て、クラリスはまだ落としていない真っ赤な口紅を塗った口を大きく開けて爽やかに笑う。
「慣れていないのね、こういうの」
「そうだね。あんまり得意じゃないかな」
「普通、喜ぶものだと思ってたけど、男の人なら」
「じゃあ僕は普通の男じゃないんだよ、きっと」
「面白いことを言うのね、顔に似合わず」
「僕の顔、そんなに面白くない?」
「面白い方がいいの?」
「……いや、面白い顔はちょっとやだな」
真剣に困った顔をして言うリュカを見て、クラリスは再び笑った。その笑い方にも落ち着いた態度にも、リュカは彼女が自分よりも二、三歳は年上なのだろうと感じた。
舞台裏の通路で会話している二人に、通路を行き来する踊り子たちが明らかに好奇の目を向けてくる。旅装に身を包んだ青年と親しげに話をするクラリスに羨望の眼差しを向ける娘や、はたまた軽蔑するような視線をぶつけてくる娘もいる。一番人気の踊り子の色恋に興味を持たない仲間はいない。もしクラリスが男と一緒になって踊り子を止めるとなれば、次の一番手に誰がなるのか、踊り子たちは互いに火花を散らして競い合うのだ。
そんな仲間の敵意さえ感じられる視線から逃れるよう、クラリスはリュカを酒場の外に連れ出した。人気のない酒場の裏手に回り、月明かりの下、再び会話を始める。
「こっちの方が静かで話しやすいわ」
晴れ渡る空に半分欠けた月が浮かぶ。外は冷たい風が吹き、足元の草を揺らす。舞台衣装を着たままのクラリスが両腕で自分を抱くようにして身体を縮こまらせているのを見て、リュカはマントを彼女に貸した。
「ありがとう、優しいのね」
「だって寒そうだから」
素直で飾りを知らないリュカの言葉に、クラリスは少し肩を落とした。
「あなたってまるで子供ね」
「君に比べたら子供なのかも知れないね」
「あら、それって私がおばさんってこと?」
「おばさんには見えないけど、僕よりは年上でしょ?」
あくまでも悪気なく率直なリュカの言葉に、クラリスは怒るでもなく、ただ溜め息をついた。
「まあね、普通の女の子ならもう結婚していてもおかしくない年よ」
ほぼ初対面の人と滞りなく会話できるのはリュカの特技のようなものだったが、それにしてもクラリスとはどこか話しやすい雰囲気を感じていた。彼女が単に男性のあしらい方に慣れているだけなのだろうかと思ったが、すぐにそうではないことに気がついた。彼女の少し偉ぶった話し方は、小さい頃のビアンカを思い出させるものなのだ。あの時のビアンカも、ただ二歳年上と言うだけでリュカに言い聞かせるような口調でよく話をしていた。
酒場の窓から漏れる明かりと共に、中の賑わいがささやかに伝わってくる。気にならない程度の音だが、クラリスは酒場から離れて歩きだした。
「この港町、夜はとっても雰囲気があるのよ。ちょっと歩きましょ」
リュカのマントを羽織りながら歩いて行くクラリスの後を、リュカもついていく。洒落た街灯が並ぶ石畳の道を歩く二人と同じように、すれ違う男女が数組いた。いずれも仲睦まじい様子で、腕をからめたり、手を取り合ったりしていたが、リュカはそんな様子には特に気がつかなかった。ただ町の様子を眺めているリュカを後ろに見て、クラリスは再び溜め息をつく。
「ねえ、どうして私が町を歩きたいって思ったか、分からない?」
口を尖らせて不機嫌そうに言うクラリスを見て、リュカは真顔で首を傾げた。
「寒いのにどうしてだろうなって思ったけど、どうして?」
「……もう、いいわ」
夜の海は暗く穏やかで、静かな波音がポートセルミ全体に染みるように聞こえる。秋も深まった冷たい海の気配に、クラリスのような華やかな踊り子は似合わないと、リュカは彼女の後姿を見ながらそう思った。彼女の踊りをしっかり観賞したわけではないが、ちらっと見た舞台の上の彼女は、美しい踊りを数人の踊り子たちの真ん中で披露していた。客席から飛ぶ歓声も、彼女の名を呼ぶ声が圧倒的に多かった。昼間に彼女自身が言っていたように、このポートセルミでの一番人気の踊り子なのだろう。
「実はあまり君の踊りを見なかったんだけど、すごい人気みたいだね」
リュカの言葉に、クラリスは振り向かなかった。ただ灯台の消えない火を遠くにじっと眺めている。
「今はね……。でも若いうちだけ」
ずっと絶やされない灯台の火とは違い、踊り子としての人生の灯はいつか消える。とても儚いその人生を、クラリスは踊り子になる以前から意識していた。そしてここポートセルミで一番手の踊り子となり、観客の声援を全身に浴びるようになってからは、その意識が更に強まった。一番手になったら、あとは落ちて、最後は去るだけだ。
「いつまでも続けられるお仕事じゃないし……」
「そうなの? 君ならずっと続けられそうだと思うけど」
「女はね、すぐにおばさんになるのよ。お客さんが求めているのは若くてきれいな娘なの。そんなの、一時」
「じゃあいずれは踊らなくなるの?」
「そうね、踊れなくなるわ」
沈んだクラリスの声は、暗い海に聞こえる波に消されそうなほど小さかった。今の彼女は冬間近の冷たい風を身にまとうのが似合うほど、悲しい雰囲気を漂わせていた。華やかな衣装に光に満ちた舞台、その中央で堂々とした踊りを披露する美しいクラリスは、今リュカの前にはいなかった。 リュカのマントを羽織る彼女の背中は、誰かの助けを求めているような気がした。リュカはクラリスの隣に並ぶと、顔を覗きこむようにして声をかける。
「踊り子さんって、踊りを辞めたら何をするんだろう」
「そりゃ決まってるでしょ、若いうちにお嫁さんになるのよ」
即座に返って来たクラリスの言葉に、リュカは素直に納得した。すっかり踊り子と言う職業が特別なものだと思い込んでいたが、世の女性の大半は時期が来れば結婚し、子供を生み、家庭を築いていく。神に仕え、修道院に暮らすマリアのような修道女は別として、いわゆるおばさんになった女性にはすぐ傍らに子供がひっついているイメージがある。恐らくクラリスにもそのイメージがあり、それが至って普通のことだと思っているのだろう。
「じゃあ君はすぐにでもお嫁さんになれるよ、だってすごい人気だから」
「あたしがすごい人気ですって? それって踊り子としての人気なのよ。一人の女としてなんて、誰も見てくれちゃいないわよ」
「そうかな、君をお嫁さんにしたい人だって何人もいると思うけど」
クラリスには未来が見えていないのだろう。踊り子としての人気は輝かしいものを得たが、実際に得てみるとそれはとても空しいものだと彼女は気付いてしまった。そして輝く踊り子人生の先に待っているものが何なのか、想像するだけ怖いとでも言うように、彼女は未来に目を瞑っていた。
「ねえ……」
「うん?」
「あたしと結婚してくれない?」
一瞬何を言われたのか理解できなかったリュカは、彼女の言葉を頭の中で反芻した。何気ない雰囲気で口にした割には重い内容に、リュカは答えに詰まった。
「なーんてね。カンタンに決められたらいいんだけど……」
困惑したリュカの態度をかき消すように、クラリスはすぐに茶化した。
「簡単には決められないよね、結婚なんて」
そう言いながら、リュカは今まで考えたこともなかった結婚という言葉に、ぐっと近づいた気がした。考えてみれば、相手さえいればもう結婚できる年齢になっているのだ。ただいつ終わるともしれない旅を続ける自分が結婚することは不可能だとも思った。
「あなただっていつかは結婚するんでしょうね」
「どうだろうね。僕は旅をしているから結婚は難しいかも知れないよ」
「でもいつかはその旅も終わるんでしょう?」
「終わるのかな……終わらせなきゃいけないんだけど」
父の手紙に書かれていたこと以外まだ何も分かっていない状況で、リュカは自分の旅が果たして終わる時が来るのだろうかとふと不安になった。見も知らぬ母の存在、どこにあるのかも分からない魔界、いるのかどうかも分からない勇者、何一つ分かっていない中で自分が誰かと結婚するなど到底考えられないことだ。先の見えない危険な旅について来てくれる女性など、どこを探してもいないだろう。
「あなた、どうして旅をしてるの?」
クラリスの問いかけに、リュカは『勇者を探している』とだけ答えた。魔界に連れ去られた母を助け出す目的を話しても、その話を聞いた人は魔界という言葉に不穏な印象を持ち、リュカを怪訝な目で見るに違いない。
「勇者って、あのおとぎ話に出てくる勇者? 本当にいるのかしら」
「絶対どこかにいると思う」
「すごい自信ね」
クラリスが珍しがるのも無理はなかった。人々にとって伝説の勇者はあくまでも伝説上の存在だけであって、実在していたと考える人はごく少数に限られる。しかし天空の剣を持っているリュカにとっては、伝説の勇者は確実に存在するものだ。
今は馬車に置いてある天空の剣を見つけた父も、この世のものとは思えない美しい剣を見て、勇者の存在を確信したに違いない。サンタローズの洞窟奥深くに眠らせた希望を、父はずっと信じて追い続け、そして息子に託した。
「伝説を追ってるなんて、先の見えない旅をしてるのね」
「だから僕はきっと結婚しないよ。しても旅に連れてはいけないしね」
「あら、分からないじゃない。一緒に旅をしてくれる女性が現れるかも知れないわよ」
「僕の勝手な旅に付き合わせるわけにはいかないよ」
今も馬車で待つスラりん、ピエール、ガンドフという魔物の仲間に対し、リュカは日々助けられ、有難いと思う気持ちと同時に、彼らの命を常に危険に晒してしまっているという負い目を感じている。付いて行きたいから付いて行くのだとピエールに言われたこともあったが、それでも彼らの自由な人生を自分の旅に縛り付けていることには違いない。
魔物の仲間に対してでさえそう思うのに、そんな自分がどうしてお嫁さんをもらえるだろうか、とリュカは結婚と言うものに何ら憧れを抱かなかった。共に旅に出るにしても、どうしたって自分よりも弱い女性は守らなくてはならない。正直リュカは、そんな女性は足手まといになると思い、そして幼い頃の無力な自分を振り返り、気持ちが塞いだ。
「明日にはカボチ村へ行くのよね」
「うん、約束したし、お金ももらってるから、早く行ってみるよ」
「思うんだけど、カボチ村へわざわざ行く必要もないと思うわよ。だってあなたの旅には全く関係のないことじゃない。それに魔物退治をお願いされてるだなんて、もしそこで命を落としたらどうするのよ」
クラリスの言うことはもっともだと思った。しかしもし行く必要もないと考えても、それができるリュカではなかった。
「お金だけもらってこのまま逃げたら、もし勇者を探し出せたとしても、堂々と顔向けできないよ。僕は僕で勇者に助けて欲しいってお願いするのに、お前は村の人のお願いを金だけ騙し取って断ったのかって言われそう」
「勇者にお願いするって、世界平和でもお願いするの?」
「えーと、うん、そんなところ」
「とてつもなく大きな目的で旅をしてるのね、あなた」
クラリスはまるで自分とは異次元にいるものを見るような目でリュカをしげしげと見つめた。勇者を探して旅をしていると言うだけでも珍しい旅人だが、命がけで苦労して見つけ出したら、世界を平和にしてほしいと、小さな私利私欲とはかけ離れたお願いをするらしい。クラリスは結婚してくれないかとリュカに言った自分の願いがとても小さく感じられて、先ほどの発言を取り消したい気持ちになった。
「じゃあくれぐれも気をつけてね。カボチ村に出る魔物がとんでもない化け物だったら逃げちゃいなさいな。さすがに見知ったばかりの旅人に死なれちゃ、村の人たちも夢見が悪くなると思うわ」
「そうかもね。そうするようにするよ」
クラリスの言う通り、カボチ村の人には申し訳ないが、リュカは依頼された魔物退治に命を賭けることまではできない。もし自分や仲間の身が危うくなったら、魔物退治を諦め、村に戻って前金を返すようにしようと、リュカは冷静に考えていた。カボチ村の人々をがっかりさせることになるだろうが、きっと許してはくれるだろう。
「もう宿で休む?」
「いや、もう少し酒場で話を聞いてみるよ」
「そうね、それがいいわ。明日になったらあなたみたいな旅人さんはほとんどこの町を出て行っちゃうかも知れないものね」
このポートセルミという港町は、西の大陸の玄関口だ。船に乗ってやってきた旅人や商人たちにとってポートセルミは一つの通過点でしかない。そろそろ冬の気配を感じる季節、皆厳しい冬の移動を避けるために、先を急ぐに違いない。若しくはこの町でゆっくりと冬を越す、急がない旅人もいるかも知れないが、それはほんの少数だろう。
「酒場まで一緒に戻りましょうか」
クラリスはそう言うと、リュカのマントを羽織ったまま歩きだした。リュカは彼女の後姿を見ながら、どうして彼女は自分を控室に来るように言ったのだろうと、ふと首を傾げた。クラリスが軽い調子で言った『結婚してくれない?』が彼女の本気の言葉だったことに気が付けるほど、リュカは女性の心に理解がなかった。
酒場に戻ると、クラリスは借りていたリュカのマントを返し、そのまま舞台の控室へと戻って行った。夜も深まり、酒場の空気は出た時と比べてかなり落ち着いていた。明日の朝、早くにこの町を出る者たちは既に宿の部屋で休んでいるようだ。酒場に残る人の数はまばらだ。
その中に、昼間教会で見かけた船乗りの姿があった。昼にもこの酒場で仲間たちと酒を飲んでいたはずだが、夜も更けたこの時間に再び酒を飲みに来たようだ。よっぽど酒好きの船乗りなのだろう。赤黒い顔は陽に焼けているだけではなく、酒焼けもしているように見える。
当初、彼らに話を聞いてみようと思っていたリュカは、昼間の騒動で話を聞いていなかったからと、船乗りに近づいて行った。もうかなりの酒量を胃袋に収めているはずだが、その船乗りの男の表情は意外にしっかりしていた。自分に近づいてくる人の気配に顔を上げると、リュカとはっきりと視線を合わせた。
「ここ、座ってもいいですか?」
「ああ、あんたは昼間の……いいよ、座りな」
四人が座れるテーブル席に男は座っていた。テーブルの上には彼の使うグラスの他にも三つのグラスがあり、酒瓶も五本が空になって置かれていた。どうやら少し前までは彼は仲間の船乗りと酒を飲んでいたらしい。
「さっきまであんたの話をしていたんだ」
「僕の、ですか?」
「人は見かけによらねぇもんだなってな。そんなにヒョロヒョロしてんのに、あの三人のタカリ屋をやっつけちまったじゃねぇか」
「たまたまですよ」
「そうかねぇ」
男はそう言いながら伸びかけの顎ひげをざらざらと撫でた。そして船乗りの男が『酒でいいか?』と空いたグラスに酒瓶から注ごうとするのを、リュカは慌てて止めた。
「酒が飲めないんです」
「じゃあなんだって酒場なんかに来たんだよ」
「ここには色んな人が集まると思ったから、何か話が聞けるかなと思って」
「それで昼間はあんな騒ぎに巻き込まれたのかよ。ツイてねぇなぁ」
リュカの不遇をからっと笑うと、男は空になった自分のグラスに酒を注ぎ足した。昼間も飲んで、今もこうして酒を飲んでいるところを見ると、空の胃袋は全て酒で満たされているのではないかと、リュカは驚く気持ちで彼を見た。
「じゃあツイてねぇあんたに、一つ、情報をやるよ」
陽に焼け、皺の深くなった顔で笑みを浮かべながら、男は一口、酒を飲んだ。
「これはウワサだがな。西の町には呪文の研究をしている老人が住んでるそうだ」
「西の町……それはどの辺にあるんですか?」
リュカが懐から世界地図を出そうと手を伸ばすと、男はその行動を遮るように首を横に振った。
「さあ、それは知らねぇな」
「そうですか。でもその呪文の研究って、一体どういうことをやっているんでしょう」
「昔あった呪文を調べてるんじゃねぇの? その呪文を使えたら旅が楽になるって話だが、俺には信じられねぇよ」
「旅が楽になる……どんな呪文なんだろう」
リュカは今までの旅で辛いと感じたことを考え始めた。魔物との戦いでは常に命を落とす危険と隣り合わせだ。常に喉の渇きや空腹の感覚がある。町の外を移動中はまともな睡眠が取れない。夏には強い日差しと戦い、冬には厳しい寒さと戦う必要がある。もしこれらの中で一つでも解消できれば、旅はぐっと楽になるだろう。
「魔物と会わなくなる呪文とかでしょうか」
「それは別の呪文があるんじゃねぇのか? 俺は良くは知らねぇけどよ」
男にそう言われ、リュカはヘンリーが使っていたトヘロスという呪文を思い出した。トヘロスは聖水と同じ役目をし、魔物を遠ざける効果があるが、相手が強い魔物となるとその効果は期待できない。もしトヘロスよりも強力な呪文があれば、魔物との戦闘を避け、外の移動が今までの数倍早くなる。
「食べ物が出てくる呪文なんて、ありがたいなぁ」
「だったら俺は瓶から酒が溢れ出る呪文の方がいいや」
「歩いててもぐっすり眠れる呪文もいいかも」
「目ぇ瞑りながら歩くのかよ。眠れても絶対どこかにぶつかるぜ」
男と『旅が楽になる呪文』について語り出したリュカだが、どんな効果にせよ、もしその呪文が会得できるのならしてみたいと、カボチ村での約束を果たしたら今度は西の町に行ってみようと考え始めていた。話をしている船乗りの男は呪文の存在を疑っているため本気で話してはいないが、火のないところに煙は立たず、噂が立つと言うことは西の町に何かしらがあるはずだと、リュカは新しい大陸に着いて初めて次の展望を見出していた。
「ここから西の町へ行く人も多いですよね」
「そうだろうな。ただその町もただの通過点だと思うぞ」
「どういうことですか」
「そこから更に西に行くんだよ、ほとんどの商人はな。ずっとずっと西に行ったところに大きな町があるんだとよ。そこまで物を売りに行くみたいだぞ」
リュカは懐から丸めた世界地図を出し、テーブルの上に広げた。リュカに身なりからは考えられないような立派な地図に船乗りの男は目を丸くしていたが、リュカはそんなことには気付かずに地図の上に目を走らせる。呪文を研究している老人が住む西の町は恐らく地図には載っていない。しかし世界地図の西の端に、はっきりと『サラボナ』と書かれた町が記されてあった。
「商人の人たちが目指しているのはここですね」
「ああ、そうだそうだ、確かサラボナって言ってたな。あんたも旅を続けていればそのうち行くことになるんじゃないのか」
「そうかも知れませんね。大きな町だったら色んな人がいるだろうし、色々聞けそうですもんね」 勇者の存在、伝説の防具、魔界の入り口、母の居所、未だ何一つ分かっていない状況だが、リュカは自分の旅が進み始めている実感を得ていた。
父の旅もきっとこうして少しずつ前へ進んでいたのだろう。そして父は旅の途中で天空の剣を見つけた。その事実がある限り、リュカは自分の旅が確実に進んで行くことを信じていた。いつになるかは分からないが、絶対に勇者を見つけ出し、天空の防具を見つけ出し、魔界に入り母を助けるのだと、リュカは改めて懐に収める父の手紙に静かに誓った。