2017/11/28
伝説の始まり
王命を直々に受けた時、アレルはようやくこの時が来たのだと身体が武者震いに襲われるのを感じた。
世間ではもうこの世と決別したと言われている父の背中を追って旅を始めることができるのだ。彼はまだ父がこの世に生きていると固く信じている。母もまたしかりだ。誰の目にも確認されていない噂を鵜呑みにすることなどできず、自分の目で確かめるまでは、家族の死なんてどうしたって諦めなどつかない。
空もアレルの旅立ちを祝福するかのように雲ひとつない青で、城を出たアレルは青空に向かって高々と手を挙げ、大きく伸びをした。そしてその手で逆立つ癖のある黒髪をわしわしとかき回す。十六の誕生日を迎えるのをひたすら待ち続けていた。ここアリアハンは島国で、他所の国に比べて成人の年齢が若い。まだまだ見た目には子供から抜け出せない十六の若者も、十六になった途端に大人の称号を得て、世界を旅することができるようになる。
そしてそんな成人への祝福として、成人の儀と称して国が経営する城下町のルイーダの酒場に行くことはもはや慣習になっている。本来、その儀式は一年に一度だけ、成人した若者を集めて行われるものだが、アレルはその日を待ちきれず、十六の誕生日を迎えた今日すぐにでもその儀式を終え、そのまま旅立つつもりでいた。
成人となった若者はそこで浴びるほどの酒を飲まされる。酒に強い弱いなど関係ない。祝いの酒を断る者はいない。多くの者がその儀式に逃げ腰になるのも事実だが、アレルはそんな慣習も遊びの一種のように楽しみにしていた。アレルは父の血を強く受け継いでいると言われている。父はアリアハンでも五指に入るほどの酒豪だったと聞いている。酒に強い弱いは血筋に関係があると言う常識に則って、アレルはいまだかつて酒など一度も飲んだことはないのに、不思議と酒には潰れない自信があった。だから酒場に向かう足取りも軽く、揚々としている。
バラモス打倒を掲げて父が旅立ったその日のことを国王は鮮明に覚えていた。その日は城中が大騒ぎになるほどに、人々はこぞって彼の父オルテガの旅の無事を祈願したと言う。知り合いだろうが何だろうが、オルテガの行く末を案じたと言う。当時、アレルはまだ言葉もおちおち話せないほどに尻の青い子供で、そんな父の武勇伝など覚えてはいない。しかし母や人伝に聞いた話を元に、彼の頭の中には一人の立派な父親像が出来上がっていた。物心がついた頃からずっとその背中を追いかけたいと思っていた。
城下町を歩きながら、抜けるような青空を仰ぎ見る。手を伸ばせば天にまで手が届くのではないかと錯覚するほど、彼は自分のこれからの旅に自信を持っていた。打倒バラモスはもちろん旅の主な目的だが、その実は父を探す旅になる。バラモス打倒という同じ目的を持って旅立つ自分が、父に出会うのは必然だとさえ思っている。いざ会った時にも父が分かるようにと、アレルは懐に小さな父の肖像画を納めたペンダントを母に持たされている。物心ついた時からずっと見ている小さな父の肖像画は既に古びて、絵も薄くなっていたが、父の面影はしっかりと残り、豪快な笑顔でアレルを見ている。そんな父の笑顔を見る度に、アレルは父は今もどこかで生きていて、きっとこの笑顔を周りに振りまいているに違いないとそう思うのだった。
この身体の内に沸き起こる妙な自信を人に説明するとするなれば、たった一言。
「偉大なオルテガの息子だから」
父を誇りに思う気持ちは誰にも負けない自負が彼にはあった。
「仲間かぁ」
国王にまず忠告を受けたのが、旅の仲間を得ることだった。このアリアハンなど世界のごくわずかな一部でしかなく、世界を旅するには共に助け合う仲間が必要不可欠だと王は必死に語っていた。国王が熱弁したのは、父が一人旅でこの国を出て行ってからいまだ戻ってこないことに起因している。
オルテガが一人で旅に出ることを止めるべきだったと国王は悲しげに語っていた。そしてその事実を顧みて、アリアハンは魔物退治を奨励すると同時に、旅の仲間を斡旋する酒場の経営を国の管轄下で始めた。アレルは国王にそこへまず行くことを勧められた。元々彼は成人を迎えたこの日にルイーダの酒場に行こうと考えていたため、ちょうど良いくらいにしか思っていなかった。
今となっては、旅の前にそのルイーダの酒場に立ち寄るのは旅人としての基本となっている。アレルはできることなら父と同じように一人旅をと考えていたのだが、国王の忠告はもっともであり、逆らう理由はない。そして今となっては、かえって新しい仲間に思いを馳せるなど、アレルの好奇心は既に動き出していた。仲間と助け合いながら旅をするなんて、楽しそうじゃないか。
彼は父が何故一人旅に出たのかを知らない。誰も巻き添えにしたくなかったと言う、まだ見ぬ父の本心を彼はまだ誰にも聞かされていない。
昼間のルイーダの酒場は食堂も兼ねており、昼夜問わず賑わいを見せている。今日も酒場の中には食事を楽しむ者や、旅人としての登録を済ませた後のひとときをのんびりと過ごしている者、はたまた昼間から酒を注文し、店員の女性にからんでいる者もいる。初めての雰囲気にアレルの好奇心が体中を駆け巡る。押さえようもないその高揚感は酒場に意気揚々と足を踏み入れるアレルの行動を止めるはずもなかった。
酒場に入ったアレルを、その場にいた者が一斉に振り返った。アレルはこのアリアハンで二番目に有名な人物と言っても過言ではない。もちろん、一番の有名人は彼の父、オルテガだ。だから彼は人々の好奇の的になることにも慣れている。幼い頃からずっとオルテガの息子として生きてきたのだから、今更なことだと彼は思っている。人々の興味本位の言葉や行動にもアレルは笑顔で応対するのが常だった。多くの人々はアレルに優しい言葉を掛けてくれる。彼らがいてくれるから、自分も母もここまでやってこれたのだとアレルは思っている。
酒場に集まっていた人々がアレルに近づき、助言とも忠告とも取れるような言葉を浴びせる。仲間は慎重に時間をかけて選ぶべきだとか、相性をまず確認した方が良いとか、自分こそが勇者のお供になるべきだとか、これからの旅を心配してくれる者や、応援の言葉を掛けてくれたりする者が大勢いる。大抵の人々がアレルの身を案じ、父の後を継ごうとするその勇ましい志に尊敬の念を抱く。
しかし彼らの言葉の中に、父の生存を期待する言葉は一つも含まれていなかった。やはり皆が父のことを諦めているのだと感じ、アレルは改めて悲しい思いを覚えた。
「おお、勇者サマのお出ましだ」
女性店員に絡んでいた屈強な男が店中に響くような大声でそう言った。皆がその男を白眼視する様子が見て取れる。おそらく酒場にしばしば訪れる厄介者くらいの扱いなのだろう。
「ちょっと、そんな言い方止めなさいよ」
同じテーブルについていた女性が男をいなすようにそう言った。静まり返ってしまった店内ではその女性の小声も十分届く。周りの客たちは何も言わないし、反応できずにいる。それは相手が旅慣れた雰囲気の、大柄な戦士の姿を表しているからだ。
食事の手も止め、談笑も止み、酒場の温度が一気に冷えたような感覚すらした。
男のいかつい顔を見れば、おそらくアレルの倍ほどの年齢で、見ればテーブルに投げ出されている太い腕にはいくつもの傷跡があった。短く刈り込まれた焦げ茶色の髪は戦士職に従事している彼の意気込みが見て取れる。一見、酒に溺れているのかと思われるふざけた口調も、男の目を見ると実は酒には酔っていない真剣さが伝わってくる。
アレルの興味は酒場での仲間探しというぼやけた目的から、この男一人に対してのものに変わった。
「勇者サマを勇者サマって言っちゃいけねぇのか? これくらいで気を悪くするような勇者サマだったら、俺はがっかりだね。勇者って言われるくらいなんだから、どーんと構えてて欲しいもんだ」
男にとって冷えた酒場の雰囲気など屁でもないらしい。酒の勢いがあってのものでもなさそうだ。ただ彼は思っていることを話しているだけ。その泰然とした態度にアレルはますます興味をそそられる。何故興味をそそられるのか、アレルには分からないが、とにかく目の前のこの変わり者と見られている男を凝視していた。
「勇者様だって人間よ。何でもかんでも特別なわけではないわ」
女性の反論に周りの客が控えめに頷いているのが分かる。皆がそう思ってくれることはアレルにとってありがたいことだが、それを堂々と言ってのける人は今、この女性しかいない。いい大人がまだ成人したばかりの子を相手にみっともない言いがかりをと、周りの客たちは呆れるやら睨みつけるやらしているが、男と面と向かってそれを言える勇気と無鉄砲さを備えた者はここにはいない。戦士を生業としている男に楯突くなど、馬鹿者がすることだとでも言いたげで、客たちができることと言えば、陰から女性の言い分を支援することだ。
アレルは二人のやり取りを聞きながら、好奇心が湧き上がってくるのと同時に、冷静にその会話を聞いていた。
彼らの言い分は双方とも合っている。
自分はかのオルテガの息子であり、勇者であると少なからず自負を持っている。そんな自分はやはり男の言うとおり、肝を据えて構えていなければならない部分がある。
しかし自分も一人の人間であり、女性の言うとおり、何でもかんでもできるような神様のような者ではない。
周りの客たちは男の勝手な言い分に怒りを表していたが、当事者のアレルは腹を立てることなく、むしろ戦士の言い分をもっと聞いてみたいとすら思った。
アレルが二人に近づくと、今度は少し酒場の空気が熱くなるのを感じた。観客と化した周りの客たちが、アレルが戦士に喝を飛ばしてくれるものだと期待しているのが目に見える。勇者の一言でこの厄介な戦士がこてんぱんに伸されるのだと、ギャラリーはやはりアレルを神か何かと勘違いしていた。
強面の戦士もアレルが近づいてくると、さすがに横柄な態度を少し潜め、警戒心を持った目つきでアレルを見た。ほとんど残っていない酒を煽り、少しでも勢いをつけようとしている戦士を見て、隣の女性は小さく息をついていた。
「勇者サマともあろうお方がこれくらいで怒ったか? お前、これから旅に出るんだろ。そんなんじゃとてもとてもやっていけねぇぞ」
旅慣れた戦士の言葉は重い。まだアリアハンの城下町すら出たことがないアレルにとっては逆らいようもない一言だ。言い方こそ無愛想でつっけんどんだが、戦士の言葉に何も言い返せない自分をアレルはあっさりと認めた。
どうしてこうもあっさりと認められるのか。自分はそこまで正直者だっただろうか。
その理由を考えた時に、アレルは懐に忍ばせる小さな父の肖像画を思い出した。
「ああそうか、そうだったのかぁ」
間延びしたアレルの声に、戦士はもとより、酒場中の客が揃って肩透かしを食ったように「えっ?」という顔をした。
「あなたは父に似ているんだ」
喜びながらそんなことを言うアレルに、戦士の男は素直に目を見開いて驚きを示した。しかしそれも束の間、すぐに無理やり表情を戻し、見れば相手が慄くような強面に戻る。
「お前が親父さんのことを覚えているわけがないだろう」
確かにアレルにとって父に対する記憶はないに等しい。後付で植えつけられた記憶が、今懐に収めている父の小さな肖像画と、母や人伝に聞いている父を賞賛する様々な言葉だ。アレルにとって父の思い出とは後から創造された産物に過ぎない。
「じゃあ、僕がそう思いたいんだ」
「……何を言っているんだ、お前は」
まだ成長し切っていない子供が何を言っているんだとでも言いたげに、戦士はアレルから目を逸らしてテーブルの酒をとジョッキに手を伸ばすが、酒は既になくなっている。所在なさげに宙に浮いた無骨な手をテーブルの上に置いた男の隣で、女性が枝のように細い腕を挙げて酒を注文する。夫婦のような阿吽の呼吸だ。
「父があなたみたいな人だったらいいなぁって思ったんです」
それは何故かアレルが無意識に思ったことだった。彼の中で出来上がっていた父親像は今目の前にいる戦士の男が程近い。しかしそんなアレルの純朴な思いを砕くように、戦士はまるで憤慨するかのようにアレルを睨み上げた。
「冗談じゃねぇ。あの人が俺なんかと同じなわけがないだろ」
その一言にアレルは思わず首を傾げた。戦士は自分のことは何の遠慮もなく揶揄したが、父のことを非難する素振りは見せない。
テーブルに運ばれたジョッキを手にして、戦士はそれを一気に煽る。一体どれだけ彼の体内に酒が入っていけるのだろうかと思わせるほど、ジョッキに並々注がれていた酒を喉の奥へと流し込んだ。その姿さえ、アレルにとっては憧れるまだ見ぬ父の姿に重なる。
戦士の隣でじっと彼らのやり取りを聞いていた女性がふっと息を漏らし、テーブルに肘をつきながらぼそりと言う。
「あんたはオルテガさんに憧れて戦士になったんだもんね。だからこの子に嫉妬してるだけなんでしょ」
横槍に入った女性はアレルよりも年上で、肩口で綺麗に切り揃えた赤い髪が特徴的な人だった。彼女は灰皿から吸殻を取り出し、それを真っ直ぐに伸ばしてから呪文で火をつけた。煙がアレルの方へ向かうのも気にせずに、灰をトントンと灰皿に落とす。
「そ、そりゃあ、あのオルテガさんて言ったら、このアリアハンじゃあ知らない人はいないってくらい有名で、あの人に憧れて勇者になりてぇって奴は何も俺だけじゃなくて、他にも五万といるはずだ」
「だからってその人の子供に嫉妬するなんて大人気ないにも程があるわよ」
女性はそう言った後、煙草の煙を男に向かって吹きつけた。酒は嫌と言うほど煽るのに、どうやら煙草は好きではないらしい。戦士の男はゲホゲホと咳き込みながら煙を手で払っている。そんな少し情けない姿でさえ、アレルは父の姿を重ねて見てしまう。
父だって完璧な人ではなかったはずで、きっと今のこの戦士のように相手の女性には言い返すこともできないような人なんじゃないか。父だって母には頭が上がらなかったんじゃないか。そんな想像は今までに何度もしてきた。だから目の前で交わされる彼らの会話を聞いていても、アレルはどこか嬉しくなる気持ちを抑えられないでいる。
「その点、この子の方がよっぽど大人ね。お父さんに似てるだなんて、あんたにとっちゃあこれ以上の褒め言葉はないじゃない。あんたを怒らせずにおだてようってなもんよ。あんたも少しはこういう謙虚なところ、見習った方がいいんじゃない?」
「……うるせぇ」
「あの僕はそういうつもりで言ったんじゃ……」
アレルが言いかけるのを女性は彼の腕を軽く叩いて止めさせる。アレルが女性を見ると、彼女はきつい言葉とは裏腹にとんでもなく穏やかな笑みを見せている。切れ長の目には厳しさよりも優しさの方が宿っている。言葉など交わさずとも、彼女はアレルの気持ちを分かっているようだ。
戦士の男がふてくされたように空のジョッキを見つめている。アレルは言葉をかけるなら今だと思った。
「あの」
「何だ」
「僕と一緒に旅に出てくれませんか」
アレルの言葉に今度は戦士だけではなく隣の女性も、周りの客たちも一斉アレルを見た。ふざけたことを言っているのかと周りの客たちがアレルを見てみれば、彼は至極真剣な顔をして戦士と魔法使いの女性をじっと見ている。
「あなたが気に食わないのは僕で、父さんではないですよね」
「ああ、そうだ。俺はお前が嫌いだ」
「僕の父さんに憧れて戦士になったんですよね」
「オルテガさんは素晴らしい人だ。お前なんかが足元にも及ばないくらいにな」
「僕もずっと父さんみたいな人になれたらなぁって思ってました。父さんのことは全然知らないけれど、でも周りの人たちがみんな口を揃えて父さんのことを讃えてくれます。だからそんな人になれたらなぁって、今も思ってます」
「お前は無理だよ。全然あの人とは違う」
戦士の男の言うことにやはり周りは腹を立てたように男を睨んでいるが、アレルにとっては新鮮な響きだった。
ずっと父に似ていると言われていた自分は、まるで父の分身でもあるかのように勇者になるのが当たり前だと思っていた。オルテガの息子として、周りの期待に応えるのは当然のことだと思っている。それはきっとこれからも変わらないが、自分は自分であって父ではない。戦士はあまりにも的確なことを教えてくれた。
戦士の言うことが真実だとすれば、自分はまた一から全てを築いていかなくてはならない。父の権威の庇護の下にいられるのはおそらくこのアリアハン内でだけ。一度外の世界に出れば、きっとこの戦士のように自分を嫌う者など数え切れないほど出てくるかもしれない。
しかしだからこそ、アレルはこの戦士と共に旅をしたいと思った。戦士が自分を嫌いだと思っていても、絶対にその気持ちを覆してやると、アレルは闘志にも似た思いを抱いた。
父に憧れる気持ちはこれからも変わらないし、勇者たるもの皆に好かれる者だという考えも変わらない。だから自分を嫌いな者がいれば、どうしたら認めてくれるのだろうかと考えるのも自分の役目だと、アレルは今までは考えもしなかった新しい目的に、胸が躍るのを止められなかった。
こんなところで負けてはいられない。
僕は勇者オルテガの息子なんだ。
「絶対にあなたに認めてもらえるように頑張ります。いつかあなたに「さすがはオルテガの息子だ」と言わせて見せます」
自信満々なアレルの態度に戦士はフンと鼻を鳴らした。そんなことはありえないとでも言いたげな戦士の態度を見ながら、アレルは彼らのテーブルについた。
「勝手に座るな。誰が一緒に旅するなんて言ったんだ。誰でもお前の言うことを聞くと思うなよ」
「でも父に憧れる気持ちはきっと僕とおんなじくらいでしょう? だったら一緒に旅をして、父を探してくれませんか」
「嫌だね。俺は俺であの人を探す」
戦士のその一言をアレルは望んでいた。
やはり彼は父が死んだとは思っていない。
このアリアハン中でオルテガがもう過去の人になりつつある中で、
この戦士はずっと憧れの勇者に会うことを求めている。
「あ、そう。あんたが一緒に行かないってんなら、あたしがこの子と一緒に行くわ」
「はぁ? 何言ってるんだよ、お前」
魔法使いの女性の言葉に戦士は面食らったような素っ頓狂な声を出した。女性は手にしていた煙草を灰皿に押し付けると、アレルの顔をみてにっこりと微笑んだ。真っ赤な口紅が横に引かれる。
「あんたみたいなオッサンと一緒にいるよりか、ずーっといいもの。この子の方がずっと可愛いし、これからの旅にも潤いが出てくるってものよ」
「な、何バカみたいなこと言ってんだ。お前だってもういいオバサン……」
「何か言った?」
女性は煙草に火をつけた時の様に、指先に構えた火を戦士の目の前でちらつかせた。大柄で屈強な戦士の姿が突然小さく見えてしまう。
「これからよろしくね、アレル」
「ちょっと待て、俺はまだ……」
「ああ、往生際が悪いわね。だったら男同士、勝負で決めればいいわ。勝ち負けがはっきりしてればどちらも納得して一緒に旅をするかしないか、決められるでしょ。ちょうどアレルは十六になったばかりだし、飲み比べで勝負よ。いいわね」
魔法使いの女性の勢いに圧倒され、戦士の男もアレルも、二人並んで席につくことしかできなかった。次々とジョッキが運ばれ、アレルは今まで口にしたこともない酒が目の前に並んでいくのを緊張感と高揚感との間で見つめていた。
「飲み比べなら負けねぇな」
「僕だって強いはずです」
「青っちょろいガキが何言ってんだ」
「おじさんこそ、あまり無理しない方がいいですよ」
「お前のその鼻っ柱、きれいに折ってやる」
「そっちこそ僕みたいな子供にせいぜい負けないでくださいよ」
「ったく、クソ生意気なガキだ。本当にオルテガさんの息子かよ」
「僕は絶対に負けませんからね」
「言ってろ、言ってろ」
「二人とも、うるさい、黙りなさい。はい、まず一杯目」
魔法使いの女性に言われ、戦士の男は迷わずジョッキを一気に空けた。飲むと言うよりも流し込む飲み方を見て、アレルはそれを真似しようと同じように酒を身体に流し込んだ。生まれて初めての酒だが、飲み終わった後、アレルは余裕の笑みを浮かべた、つもりだった。
「全然大丈夫です。降参するなら早い方がいいですよ」
「ん? 何か言ったか?」
「いや、だから、僕は全然平気……」
言ってる途中で、アレルは目の前の景色がまるで地震でも起こったかのようにぐらぐらと揺れるのを感じた。戦士の男を見れば厳つい強面がこれでもかと言うほどに歪み、魔法使いの女性に至っては印象的な真っ赤な口紅しか目に映らず、あとはのっぺらぼうのように見えた。実は彼が言っている言葉も、相手には伝わらない不可解な言語になっていた。世界が回っているのが、自分の目が回っているからだと気がつかないまま、アレルは座っている椅子から後ろに転げ落ちた。ちょうど酒を運びに来ていた女の子にぶつかり、彼女を巻き添えにしながら床に倒れてしまった。
「あらあら、全然ダメねぇ」
「何だこいつ、てんで弱いじゃねぇか」
呆気に取られた二人は床に倒れたアレルを見ながら笑い始めた。すると、周りで見ていたギャラリーもつられて笑い出し、運んできたお酒をひっくり返した傍で、アレルの頭を膝に乗せている女の子が一人、アレルが勝ち誇ったような顔をして眠っているのを困ったように見下ろしていた。
「大事な旅のリーダーに怪我はないかしら?」
魔法使いの女性がアレルを上から覗き込むと、倒れる時に椅子の背もたれにでも引っ掛けたのか、腕に擦り傷があるくらいで、他には大した怪我はしていないようだった。
「一応治してあげないとねぇ。旅に出る時は万全でありたいし」
そう言いながら戦士の男から薬草をと催促しようとした彼女だったが、その前に彼の腕に魔法の光が宿るのを見て、はっと振り返った。見れば、アレルの頭を膝に乗せた女の子が治癒呪文を唱えて、あっさりと彼の怪我を治してしまったところだった。
「ちょっとあなた、治癒呪文が使えるの?」
魔法使いの女性の物言いに、女の子は恐る恐る頷く。そしてすぐにアレルに目を落とし、他に怪我はないかと様子を窺い始めた。床にひっくり返った酒が服にしみこむのも構わず、女の子は事細かにアレルの状態を確認する。そんな女の子の真摯な態度を見ながら、魔法使いの女性は連れの戦士にこそこそと相談を持ちかけていた。
翌日、アレルは旅の面子が一人増えていることに驚きはしたが、二日酔いでそれどころではなく、新しく仲間になった自分と同い年の女の子に適当な返事をしただけで、再びベッドに突っ伏してしまった。僧侶として冒険者登録を済ませたばかりの女の子は、そんなアレルの情けない姿に苦笑しながら、一緒に旅立つことを決めたことがまだ信じられないように、どこか上の空のまま彼の傍に椅子を据え付け、空色の髪をそよ風に揺らしながらじっと座っていた。
勇者アレルの旅は、そんな流されるような形で始まった。
後年、勇者の伝説がはっきりと残されなかったのはこんな馬鹿馬鹿しい始まりだったからだと、後の子孫たちは知る由もない……。