2017/12/03

魔法使いの好奇心

 

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リュカは肩の上に積もる雪を手で払った。サラサラの雪は白い地面に落ち、すぐにそれと分からなくなる。地面にはまだうっすらと積もるだけの雪だが、これから降り方が強まれば、修繕したばかりの馬車を進めるにも、車輪が回らなくなってしまう。道半ばで立ち往生してしまうことを想像したリュカは、パトリシアに声をかけ、西に向かう馬車を速めた。
カボチ村を出て、一度馬車の修繕のためにポートセルミに寄った。港町に着いた頃には既に冬の気配が忍び寄り、港には冷たい風が吹いていた。東の大陸から来た時と比べて、冬を迎えようとしているポートセルミの町は、どこか寂しい雰囲気に包まれていた。
リュカは馬車の修繕を頼めるところを探し、数日かけて修繕を終えると、すぐさまポートセルミの町を後にした。港町に滞在している時も、以前町で出会った人と再会することはなく、新たに情報収集をすることもなく、ただ港に出て、東の海を見つめることが多かった。カボチ村での出来事から逃れるように、リュカは東の大陸にいるヘンリーやマリアのことを思い出していた。
しかし、彼らに手紙を出すことはしなかった。子供の頃、共に行動していたプックルと再会し、あの時父が装備していた剣が、今はリュカの腰ベルトに備わっている。決して旅自体が進んでいるわけではないが、特にヘンリーに伝えたいことができたのには違いなかった。父もプックルも知っているヘンリーに、今の状況を知らせたいと思い、リュカは再び便箋と封筒を買おうと道具屋に出向こうともした。しかし、その足をリュカは止めてしまった。
彼に手紙を書いたら、恐らく返事が欲しくなってしまうだろう。しかしリュカは常に移動し、もしヘンリーがリュカに返事を書いたところで、それは絶対にリュカには渡らないだろう。返事の見込みのない手紙を、リュカは出す気にはなれなかった。今は一方通行の手紙を書けるほど、リュカの心は回復していなかった。
カボチ村での村人たちからの冷たい視線が、今もリュカの心を秘かにえぐっている。村の畑を荒らす化け物の退治を依頼してきたカボチ村の人々は、人間と魔物は仲良くすることもできるのだという、リュカの考えに少しも心を動かさなかった。人間と魔物は対立するばかりではない、仲間として共に行動することもできる、というリュカの考えは、カボチ村の人々にとっては到底受け入れられるものではなかった。ましてや、退治を依頼していた化け物と仲良く村に戻って来たとあっては、村人がリュカの話を聞くはずもない。村から大金を出し、化け物退治を頼んだカボチ村の人々にとっては、リュカのそのような行動は裏切りとしか考えられないものだったのだ。
カボチ村のでの一連の行動を、リュカは反省していた。まさかこんなところで再会できるとは思っていなかったプックルと再会を果たし、心が浮足立っていた。幼い頃に、共に色々なところに言った思い出が蘇り、それらはリュカの気持ちを高ぶらせた。プックルならカボチ村の人々も受け入れてくれるなどと、プックルがキラーパンサーという人々に恐れられる獰猛な魔物だということを、リュカは冷静に考えることができなくなっていた。
見るからに恐ろしいプックルの姿を、カボチ村の人々が受け入れられるはずがなかった。ピエールもマーリンも、恐らくそのことに気がついていたに違いない。しかしそれを止めなかったのは、リュカがあまりにも嬉しそうにしていたからというのと、リュカが冷静になるためには一度カボチ村の人々から現実的な視線を向けられる必要があると思ったからだった。
おかげでリュカは完全に目が覚めた思いだった。人間と魔物は遠い昔から、ずっと敵同士で、それはもはや普遍的なものなのだ。それはリュカ一人の力でひょいと変えられるようなものではない。中にはオラクルベリーに住むモンスターじいさんのような、魔物を手懐けてしまう人間もいるが、世界的に見てもそれはごく少数に違いない。
もちろん、これからもリュカは魔物の仲間と仲良く旅を続けて行こうと考えているが、それを他の人間に理解してもらうには時間が必要なのだと、改めて考えさせられた。魔物にも良いものはいる、というだけでなく、リュカ自身の人柄を良く知ってもらうことが必要なのだ。もしこれから、リュカが魔物の仲間を誰かに紹介する機会があれば、リュカはまず自分のことを良く知ってもらおうと、頭の隅で考えていた。
今、リュカは西のルラフェンという町を目指して馬車を進めている。ポートセルミの港町を出てから、もう二十日が経とうとしている。空には一面、寒々しい雪雲が広がり、つい一時間ほど前から強くはないが、細かな雪を降らせ続けていた。リュカのすぐ後ろを歩くプックルの背中にもうっすらと雪が積もっている。
「ところでリュカよ、なにゆえルラフェンを目指しておるのじゃ」
相変わらず馬車の荷台でのんびりしているマーリンが、パトリシアの前を歩くリュカに声をかけた。馬車の後方からのしのし歩いているガンドフも、身体中に白い雪を纏わせながら、ピンク色の耳をそばだてて話を聞いている。
「ルラフェンで呪文の研究をしている人がいるって聞いたんだ。だから行ってみようと思って」
「呪文の研究じゃと? どんな呪文なんじゃ?」
「さあ、どんなものなんだろう。そういう話はしてなかったと思うよ」
「しかし呪文の研究と言うからには、簡単には使えないような呪文なんでしょうね」
ピエールが緑スライムの身体を震わせて雪を払いながら言う。寒さに弱いわけではないが、時折は雪を払っておかないと、雪が凍りついてしまって身動きが取れなくなるらしい。同じような動きで、パトリシアの鞍の上に乗るスラりんが、ぶるるっと犬のように身体を震わせた。
「古の呪文かなんかかのう……」
「いにしえの呪文?」
「古代使われておった呪文が、今は誰も使い手がおらず、そのまま滅びてしまったものもある。そういう呪文を復活させようとしておるのかも知れんのう」
「そんなことできるの?」
「まだできないから、研究しておるんじゃろ」
「じゃあできるかどうかも分からないんだ」
「研究と言うのは、そもそもそういうものなのかも知れません」
ピエールの言う通り、研究をし続けていると言うのは、その先にある答えを求め続けているということでもある。そして、研究者はその状態をむしろ楽しんでいるのかも知れない。答えが出てしまったら、その研究はそこでおしまいだ。ただ、研究者というものは、一つの研究の答えが見つかれば、すぐに他の研究材料を見つけ、それこそ死ぬまで研究し続けるのだろう。研究することに、終わりはない。
「しかしそういう研究を続ける人間がおるとは……なかなか面白そうなヤツじゃ」
荷台から顔を覗かせながら、マーリンはニヤニヤした笑みを浮かべていた。リュカのすぐ後ろでは、プックルが全く興味のない顔をして、全身に付いた雪を払おうと大きな身体を震わせた。呪文を使えないプックルにとっては、古の呪文が研究されようがどうしようが、どうでも良いことだ。
「マーリン殿、何を考えておられますか?」
ピエールの声はどこか冷めている。何かを警戒している様子だと、リュカにはすぐに分かったが、それが何なのかは全く分からない。
「いやいや、人間にも面白いヤツがおるもんじゃなあと、そう思っただけじゃ」
「……そうですか」
歯切れの悪いピエールの返事に、マーリンは素知らぬふりをしてリュカの呪文書を開いて見ている。そんなマーリンを見ながら、「勉強熱心だなぁ」とリュカは思うだけで、特に何も疑問に思うことはなかった。それよりも、この冬の寒さに想像以上に寒気を感じる自分に、身体が弱くなったなと、奴隷生活の日々を振り返ったりしていた。



ポートセルミを出てからひと月が経とうとする頃、南に白い雪を被る険しい山々の景色が広がった。馬車を進める道はほとんど平坦で、時折旅人や行商人らの集団を見かけたりもする。魔物たちが仲間であるリュカは、遠くに人間の姿を見ると、皆に馬車の荷台に隠れてもらい、彼らと情報を交換したりした。東の大陸を出る際に使用した大きな木箱は、既に処分してしまっていたため、魔物の仲間が馬車の荷台に隠れる時は、ガンドフに他の仲間を覆ってもらうことにしていた。たとえ出会った人々に馬車の荷台を覗かれても、茶色い毛皮が見えるだけだ。リュカは人々には「サラボナに毛皮を運んでいるんです」と、さらりと嘘の説明をしていた。
ルラフェンよりも南西にあるサラボナには、世界的に有名な富豪がいるという噂を、リュカは耳にしている。そもそも、東の大陸のビスタ港から船に乗る際には、その富豪への物資を運ぶのだと、船に乗船していた。途中、行き交う行商人は皆口々に「ルドマン」と言う名を口にしており、彼らの多くはそのルドマンのいるサラボナという町に物資を運んでいるようだった。今向かっているルラフェンでも人々の話を聞くつもりではいるが、そこで特に有益な情報が得られなかったら、サラボナという町に向かってみようとリュカは一人考えていた。
南に望む雪山の景色は、澄んだ青空に良く映えていた。数日前までは雪が降っていたが、今は冬の弱い日差しがリュカ達を包みこんでいる。馬車を進める地面は平坦な土の道で、雪の跡も見当たらない。この辺りでは雪は降っていなかったようだ。リュカは安心してパトリシアの手綱を引きながら馬車を進めていた。
「みんなは寒くないの?」
リュカは濃紫色のマントの前を合わせ、身体を震わせながらそう問いかけた。プックルは自分に話しかけられているとは思っていないようで、ただ前方をじっと見つめている。スラりんはパトリシアの鞍の上で、身体を震わせるでもなく、ただパトリシアが歩くのに合わせて揺れている。
「我々の中で寒さに弱い者はいないでしょうね」
ピエールが仲間の皆を見まわしてから、そう答えた。ガンドフは分厚い毛皮に覆われていかにも暖かそうだが、マーリンなどは見るからに寒そうに見える。リュカは馬車の荷台から足を下ろしてぶらぶらとさせているマーリンに目を向けた。
「寒くないわけじゃないが、お主よりはマシじゃ」
そう言いながら、マーリンは緑色のローブの袖から、細枝のような手を差し出して来た。マーリンに近づいて、その手を掴むと、まるで氷のように冷たく、リュカは思わずびくっと手を引いてしまった。
「お主は人間、ワシは魔物。ま、そういうことじゃな」
「でも寒さに強い魔物ばっかりじゃないでしょ?」
「そりゃ、暑いところに住んどる魔物は、寒さに弱いかも知れんがの。それは魔物も動物もさほど変わらん」
「今ここにいる中で寒さに一番弱いのは、僕ってことか」
リュカはそう言いながら、また身体をぶるっと震わせた。南に広がる雪山の景色を見ると、尚更寒さが身体に襲って来るので、リュカはなるべく白い太陽を浮かべる青空を眺めるようにした。
「おかしいなぁ、こんなに寒さに弱いはずがないんだけど」
あの大神殿建造の地より逃れて、まだ一年は経っていない。あの場所での生活は、今感じている冬の空気などよりずっと酷く、容赦ないものだった。一日一日、生きていられるのがやっとの場所で十余年も過ごして来たというのに、もうこれほど寒さに弱くなってしまったのかと、リュカは自分の身体がこの普通の気候に甘え出したのだと感じた。
「こんなんじゃマズイな、ちょっと気を引き締めて行かないと」
言葉とは裏腹に、リュカの身体は小刻みにカタカタと震えだす。隣を歩くプックルが、そんなリュカを気遣うような目で見上げる。プックルがすり寄ってくると、リュカはその温かさに、思わずプックルの背中に手を置いて温めた。
「プックルの体温は僕に比べてかなり高いのかな。ああ、あったかい……」
プックルの背に置く手も震え、リュカは自分の上下の歯がカチカチと小さな音を立てるのを感じた。単純に冬の寒さを感じているわけではないことに、リュカは自分では気付いていない。
「リュカ、ヤスム」
馬車の後ろを歩いていたガンドフが、いつの間にかリュカのすぐ後ろにまで来ていた。ガンドフの声に気付かないリュカは、ただぼうっと前の景色を見つめている。瞼が重く、視界が少々歪むが、ただ眠いだけだろうと、リュカは両頬をバシバシと手で叩いた。
「リュカ、ヤスメ」
「ん? ああ、ガンドフ、どうしたの?」
リュカがぼんやりと聞き返すと、ガンドフは大きな一つ目を困ったようにしかめて、リュカの顔を覗きこんだ。目前に迫るガンドフの大きな瞳を、リュカはただ見つめ返す。そんな反応の鈍いリュカを見て、ガンドフは何を思ったか、リュカの身体をひょいと抱え上げてしまった。突然の浮遊感に包まれ、リュカは一瞬慌てたが、身体が思うように動かない。むしろガンドフの温かい毛皮に包まれ、心地よく目を閉じてしまった。
「ガンドフもあったかいなぁ……」
リュカは夢うつつの状態で、ガンドフの腕に包まれたまま、移動させられた。ガンドフは馬車の荷台にリュカを下ろすと、中で待っていたマーリンがリュカの身体を荷台の中へと引きずりいれた。
「我らがリーダーは本当に自分のことに鈍いですね」
「困った奴じゃ。子供のように熱を出しおって……。スラりん、ちとこっちへ来い」
「ピィ」
マーリンに呼ばれたスラりんは、パトリシアの背中を移動して馬車の荷台の中へ入ってくると、マーリンの横にちょこんと並んだ。スラりんをリュカの額の上に乗せると、マーリンはやれやれと溜め息をつく。
「お主は熱冷ましをしてやれ」
「ピ」
「これくらいで熱を出してしまうなんて、人間は不便ですね」
「少し疲れが出たんじゃろうて」
「そうかも知れませんね。しかしリュカ殿がこうなっては、あそこに見えるルラフェンの町に入れるでしょうか」
リュカにはまだ見えていなかったが、ピエール達には既にルラフェンの町は見えていた。人々の気配を、魔物である彼らはいち早く察知する能力がある。
「すぐに治ると良いのですが」
「なぁに、心配せずとも、ワシがリュカを町の宿へ連れて行って休ませてやるわい」
「……すぐに治ると良いのですが」
「そんなにワシが人間の町に入るのが不安か? ワシなんぞ、見た目は人間とそう変わらんから、バレないと思うがの」
マーリンの声はどこか弾んでいる。人間の町に入りたくてうずうずしているのだ。ルラフェンの町に住む呪文を研究する人間を、見てみたいのだろう。
ピエールがまた一言マーリンに言おうとした時、馬車の荷台がガタンと大きく揺れた。リュカを心配したプックルが、荷台に乗りこんできたのだ。幸い、パトリシアのサイズに合わせて作られた馬車の荷台は、通常のサイズよりも遥かに大きい。プックルが荷台に乗りこんだところで、まだ荷台のスペースは十分に余っている。
「がうがう」
プックルがリュカの顔を舐めると、リュカが何事かを呟いたが、既に夢の中のようだ。プックルはリュカの身体を包むようにして身体を丸めると、馬車の荷台を覗きこむマーリンとピエールを一瞥してから、何事もなかったようにリュカを包んだまま目を瞑った。熱を出し、寒さに震えていたリュカは、プックルの体毛に顔をうずめると、少し微笑んだような寝顔になった。
「プックルとスラりんで、リュカ殿の熱もすぐに引くかも知れません。さて、馬車を進めましょう」
「まあ、熱が引かないようじゃったら、ワシが町の中まで連れて行ってやるわい。安心せい」
「……リュカ殿のその時の状態と相談することにしましょう」
ピエールはそう言うと、パトリシアの前足をポンポンと叩き、馬車を進めた。プックルの乗る荷台をものともせずに、パトリシアは今までの速さと変わらず馬車を引っ張って行く。ルラフェンの町はピエールの目にもマーリンの目にも、ガンドフの大きな一つ目にも、もう見える距離にある。ピエールはマーリンに悟られないよう、なるべくゆっくりと馬車を進めることにした。その間にリュカの状態が回復することを、秘かに願っていた。



「リュカ殿、着きましたよ」
夢の途中のようなぼんやりとした感覚に、リュカはその声が仲間のものであることにしばらく気がつかなかった。目を開けても、見える景色は暗い。しばらくぼんやりと馬車の中から外を見ていると、ようやく空に明滅する星に気付いた。冬の夜空に光る星は、氷のように冷たく感じる。
「ルラフェンですよ」
ピエールが馬車の荷台を覗きこみながらそう言っている姿に、リュカはぼんやりと気がついた。しかしまだ頭がはっきりとしない。旅の途中、寝起きはかなり良い方だと思っていたリュカは、ずっとはっきりしない頭に、何か違和感を感じた。額からつるんと落ちたスラりんは、リュカの顔を覗きこむと、小さな声で「ピィ」と鳴いた。頬にすり寄って来たスラりんの心地よい冷たさに、リュカは自分が熱を出していたのだと自覚した。プックルの毛皮に包まれた身体は、起こす気にならないほど、だるい。
「まだ熱が引いておらんようじゃのう」
マーリンの声は何故か少し弾んでいる。リュカは自分と同じように馬車の荷台に乗るマーリンの顔を見上げると、マーリンは手に火を灯しながらニヤニヤと笑っていた。
「リュカ殿、町に入るのが無理であれば、身体が回復するまで馬車で休んでから……」
「何をバカなことを言うとるんじゃ。人間が休むべきは、人間の町の宿屋じゃろうが。その方がリュカの回復も早まるじゃろうて」
「しかし、リュカ殿がこの状態では、町に入ることは難しいのでは」
「ワシが連れて行ってやらんでもないと言うとるじゃろ」
「身体を休ませるだけなら、どこで寝ていても同じだと思うのですが」
「お主は人間のことがなーんにも分かっておらんのう。宿屋にはふかふかのベッドと言うものがあるんじゃ。そのベッドで眠れば、リュカの熱なんぞも一気に吹っ飛んでしまいよる」
「……本当ですか、リュカ殿?」
「…………ん? なに?」
ピエールとマーリンが何を話しているのか、リュカには全く分かっていなかった。仲間の声でやり取りされているのは気付いていたが、話の内容までリュカの頭の中には入ってこないようだ。
「しかしどうしてそんなに人間の町について詳しいのですか、マーリン殿」
元々人間だったマーリンだが、とうの昔に魔物になってしまった彼に人間の頃の記憶はない。ピエールは訝しむような目をマーリンに向けると、マーリンは手にしていた火を消して、とぼけるように馬車の荷台から外を見渡した。視線の先には、ルラフェンの町の灯りが見える。
「人間の町に入ったことがあるんですね?」
「……ま、そういうことじゃ。じゃが、近頃はやっとらん。じゃから久々に入ってみようかと思うての」
マーリンが火を消したことで、暗くなった馬車の中、リュカは再び眠くなってくるのを感じた。しかし頬にザラザラとした感触が走るのを覚え、目をパチリと開ける。プックルがリュカの頬を舐めたのだ。
「どうしたの、プックル?」
「がうがう」
「ああ、そうだ、ベラはどこにいるんだろうね。探しに行かないと」
目は覚ましているものの、リュカはまだ夢うつつの状態にあることを、ピエールはこの時気がついた。リュカは幼い頃にプックルと一緒に言った妖精の村での冒険のことを、夢見ていた。プックルはプックルで、リュカの寝ぼけた様子に首を傾げている。
「くれぐれもマーリン殿が魔物だとばれないようにお願いします」
「任せておけい」
マーリンの調子の良い返事に、ピエールは更に不安を募らせたが、まだ熱が引かないリュカの状態に、止むなくリュカを人間の町で休ませることに賛成した。時間をかけてリュカを馬車の外まで連れ出すと、マーリンは自分の倍ほどもあるリュカを支えながらルラフェンの町に向かって行った。その姿を見ていたガンドフが、「魔物も入れる町があるのだ」と勘違いしたのか、マーリンとリュカの後から意気揚々とついて行ってしまい、ピエールとスラりんが慌ててガンドフを止めていた。



「あまり人間が外におらんのう。つまらん」
ルラフェンに着いた時間は夜も遅い時間で、町の人々の多くは既に眠りに就いている頃だった。まだ熱の引かないリュカの目に移るルラフェンの町は、眼前に迫る星空のようだった。町の明かりが奥に広がるのではなく、上に向かって広がっているのだ。それがどういうことなのか、まだ意識のはっきりしないリュカにはさっぱり分からなかった。
「マーリン、とにかく宿屋へ……」
「言われなくとも分かっとるわい、安心せい」
フードを目深に被り、魔物だと悟られぬよう気をつけているマーリンだが、リュカの身体を支えるか弱い老人に見えるだけで、町では目立ってしまうだろう。リュカはまだ寒気を感じる身体を縮こまらせながらも、すぐ隣でキョロキョロと好奇心を丸出しにしているマーリンに、少なからず不安を覚えていた。先ほどまで非情な不安を覚えていたピエールの感情が移ってしまったのかもしれない。
「町の宿屋って、多分、町の入り口からあんまり遠くにはないと思うよ。外から来た人がまず向かう場所だから……」
「うるっさいのう。お主は黙っておれ。この町はやたらと道が入り組んでおるんじゃ」
魔物であるマーリンは、町の明かりがなくとも、町の景色をしっかりと見ることができているようだった。ギョロギョロと大きい目が、ルラフェンの町を楽しそうに見渡している。一刻も早く宿で休みたいリュカだが、宿屋がどこか分からない自分には決定権はないのだと、不安を覚えつつもマーリンに託すしかなかった。
「ここをこう行って、あそこを曲がって、そのまま道なりに行って……うーむ、あそこから先が分からん。とにかく行ってみないことには……。リュカよ、とりあえずお主は宿で休んでおれ。その間にワシが一人で町を見回しておこう」
「マーリン、その宿屋を探すのが先だよ」
「何を言うとる、宿は目の前にあるぞ。すぐに連れてってやる」
マーリンの指差す先に、宿屋の看板を掲げた建物が立っていた。看板は今も明かりに照らされ、今でも旅人や行商人を迎えてくれるようだ。リュカは拍子抜けしたように、全身の力が抜けるのを感じた。
「これ、しっかり立たんか。重いじゃろうが」
「お願いだから早く宿に連れて行ってよ。僕、かなり辛いんだけど」
「そうじゃの、お主を早く宿に預けた方が、ワシも気楽に町を回れると言うものじゃ。すまんすまん、では連れてってやろう」
リュカは間もなく宿で休めると思うと、それだけで身体の疲れが少し取れたような気がした。まだはっきりとしない意識では、マーリンが「一人で町を歩いて回る」などという、勝手極まりない不穏な言葉をしっかりと捉える事ができなかった。とにかく宿のベッドで休みたかった。
「ごめんね、助かるよ」
「なんなら数日、宿のベッドで寝ていても構わんぞ。その間にワシも色々と見て回れると言うものじゃ」
今やもう、マーリンは当初の目的である「リュカを宿屋まで連れて行く」ということは達成したも同然で、その先の目的である「町の中を一人で散策する」という目的達成のため、息を巻いていた。ピエールに釘を刺されたことなど、マーリンにとってはただの小言に過ぎなかったようだ。
「さて、宿へ行くとしようかの」
ようやくマーリンが歩き出し、リュカもほっとした思いで一緒に歩き出した。町の人にはまだ出会わない。それほど夜も更けて、町の人々は寝静まってしまった時間のようだ。
宿の手続きはマーリンがすんなりと済ませ、宿の人間も特に不審がる様子もなく、リュカはマーリンと共に部屋に通された。仄かな明かりに照らされる部屋のベッドを見るなり、リュカは久しぶりのまともなベッドの上に倒れ込んだ。まるで子供のように一瞬にして寝入ってしまったリュカを見て、マーリンは部屋のテーブルに置かれた水差しから直接水を少し飲むと、意気揚々と部屋を出て行ってしまった。

部屋の窓から差し込む朝日に、リュカは顔をしかめた。目を覚ました途端、全身が強張っているのを感じたが、昨夜まで感じていた寒気はなくなっていた。締め切った窓が白く曇り、この部屋が外の寒さから守られているのが分かる。
「おお、起きたか」
しゃがれた老人の声が聞こえ、リュカはその声のする方に顔を向ける。マーリンがどこかさっぱりした様子で、椅子に座っている。
「おはよう、マーリン」
「よう寝とったのう。どれ、宿の者にお主の飯を運ぶよう頼んでおこう」
そう言いながら部屋を出ようとするマーリンに、リュカは慌てて呼びかける。
「ちょ、ちょっと待って、マーリン、部屋を出ちゃマズイよ。魔物だって知れたら……」
「なかなか美味かったぞ、この宿の飯は。さっき、宿の女にお主の分も取っておくよう頼んでおいたから、すぐに来るじゃろう」
リュカの寝ている間、マーリンはかなり好き放題に町を散策していたらしい。夜中とはいえ、人目につく可能性は十分にあったはずだ。現に、宿の女将とは朝食についての話もしている。しかし町が騒ぎになっていない様子を見ると、特に問題はなかったようだ。
「よくバレなかったね……」
「それほど他人には興味がないということなんじゃろ。夜中、一人でふらつく分には何の問題もありゃせん」
「でも宿の女将さんと話をしてるんだよね?」
「ワシは病人の連れじゃ。お主が人間じゃから、ワシも疑われん」
「そういうものなのかな」
「単純なものじゃよ、人間の目というのは」
マーリンはそう言って、笑いながら部屋を出て行ってしまった。言葉も話せて、人間のように二足歩行で歩けて、魔物の顔つきはフードを目深に被って隠せば、マーリンは立派な一人の老人になってしまうことに、リュカは驚きを禁じ得なかった。まさか町の中に魔物が入っているなどと、町の人々は全く考えないらしい。特にこの町のような、町の入り口に門番のような者がいないところでは、マーリンは好き放題町に出入りができるのかもしれない。
リュカが遅めの朝食を済ませ、身体を軽く清めると、まだ不安を抱えながらもマーリンと共に宿を出た。マーリンがこざっぱりした様子に見えたのは、どうやら部屋の風呂を先に使っていたからだったようだ。思えば、部屋の椅子に水に濡れた布が一枚、掛けられていた。宿の風呂を使うのに慣れた様子は、マーリンが度々人間の町や村に出入りしていることを物語っている。人間の町を歩いているマーリンの後ろ姿を見ながら、リュカはそれほど不安に思うことじゃないのかもしれないと、マーリンとの町歩きを楽しむことにした。

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