2017/12/03
見える光に
大海原の上を、一つの樽が彷徨う。行く先は波に委ね、光輝く太陽の熱が樽の上を照らし続ける。樽の中から人の話し声がするなど、海の魚も気づいてはいない。
「暑いね」
「そうだな」
気だるそうな二人の男の声が樽の中にくぐもった。一人の少女が、二人の青年の様子を窺い、元気なく微笑んだ。
大神殿からの脱出にはひとまず、成功した。しかしその後の時間が無限に感じられた。外の様子を目で確認することも叶わないこの状況では、樽がどこかにたどり着くのをただひたすら待つしかない。
リュカは幼い頃に父に見せてもらった地図を頭の中に描いていた。世界の大半は海でできていた。その海のどこかに、自分たちは今いるのだ。そう考えると、このまま待ち続けることの空しさに既に気付き始めていた。
ヘンリーは世界の海流を思い出していた。もし同じところを周り続ける海流に乗ってしまったら、この樽は永遠に陸地には着かない。自分たちのいた大神殿建設の現場が一体どこなのかも分からない彼は、どこの海を彷徨っているのか見当もつかないでいる。世界の海流を思い描いたところで、それ自体、空しいことだった。
とにかく二人は、外の様子を知りたかった。もしどこかに陸地が目視できれば、そこを目的地として、新たにたどり着く方法を考えれば良い。何も分からない今の状況は、二人にとって最も怖いものだった。
その中で、マリアはただ二人の青年が助かることを祈り、信じた。唯一の肉親である兄ヨシュアが信頼し、願いを託した二人の青年を、神が死なせるはずはない、そう信じた。彼らは何も悪いことはしていないのだ。助からなければならない。そう信じ、祈っていなければ、今にも死んでしまいそうなほど、彼女の心は弱っていた。
樽の板張りの継ぎ目から微かに覗く明かりに、昼夜を確認することはできる。しかしそれは三人に大した意味をもたらさない。止まることを知らずに延々と水の上を漂い続ける彼らは、閉じ込められた暗闇の中で為す術もなく、じっと耐える日々を送った。
彼らの浮かぶ海は穏やかだった。強い陽光に照らされれば樽の中の温度は上がる。年中雪の降るような寒冷地から逃げ出した彼らは、その熱い陽光の力にみるみる体力を奪われて行った。ヨシュアの用意してくれていた荷物の中から水の入った皮袋を取り出し、三人は代わる代わる水分補給をする。数少ない食料を少しずつ口にし、だだっ広い海の上で何とか命を繋ぎ止めていた。
たまに波が樽を襲うと、木の継ぎ目から海水が入り込んでくる。その冷たさが心地よかったりもしたが、塩分を多く含んだ海水は、彼らの喉を潤すわけでもなく、ありがたいものではなかった。
「もうそろそろこの樽も限界なんじゃないか」
「うん、そうだね。水があちこちから入ってきてる」
「食料ももうあんまりないだろ」
「ここは海だから魚はたくさんいるんだろうね」
「……何をなさるおつもりですか」
二人の会話が飲み込めないマリアは、素直に尋ねた。付き合いの長い二人の青年の会話に、マリアは上手く入り込めない。会話をしながら、樽を内側からとんとんと叩く二人の様子を、マリアは訝しげに見つめた。
暗い樽の中で、リュカとヘンリーは互いに目を見合わせて、頷いた。マリアはただ首を傾げる。
「腹が減った、ただそれだけだよ」
「ヘンリー、マリアさんが落ちないようにしっかり支えてて」
「気をつけてやれよ、リュカ」
「ここの継ぎ目が一番外れやすそうだったんだ」
そう言いながら、リュカは頭上の板の継ぎ目に指をかけた。力を入れると、少し板が曲がる。一度手を離すと、リュカは両膝を下についたまま、態勢を整えた。
「何とかなりそうだね」
今でこそ波は穏やかだが、大海に流れ出てから、彼らを運ぶ大樽は荒波に何度となく飲まれそうになった。その度に大樽は波に揉まれ、樽の中で何度も天地がひっくり返り、三人とも痛い思いをしていた。その上、この閉塞した空間に長くいることは、彼らの精神にも影響した。大神殿建設の現場に戻りたいなどとは微塵も思わなかったが、それでもあの場所の太陽を拝める環境は、もしかしたら有り難いことだったのかと錯覚するほど、今の暗闇は彼らを追いこんでいた。あとどれくらいの時を過ごせば、どこかにたどり着くのか、延々と波間を漂うことになるのか。考えても詮無いことが、暗闇の中にいる彼らの頭の中を占め始めていた。
樽の中にいれば、海に棲む外敵に身を晒すことはなく、身を守るには最適な場所だった。しかし、いくら身を守れても、このままでは飢え死にするのも時間の問題だ。残りの食料は限られている。なくなれば、自分たちで補充するしかない。
リュカは樽の継ぎ目に手を当てると、両膝で踏ん張って思い切り手に力を込めた。樽全体がきしみ、ミシミシと音を立てる。マリアが驚いて目を見開き、リュカを止めようとその腕に手をかける。
「大丈夫だよ、マリアちゃん。もうちょっと乗りやすい舟にしようとしてるだけだから」
穏やかな声でそう言うヘンリーの言葉にも、マリアはただ不安な瞳で彼の顔を見つめる。今は空に太陽が出ているのか、樽の中にはうっすらと光が差し込んでいる。しかし互いの表情を確かめることはできないほどに暗い。まだ不安な雰囲気を漂わせるマリアの肩を、ヘンリーはぽんぽんとあやすように叩く。その小さな行動で、マリアの気持ちが少し和らいだ。ヘンリーの隣で静かに座り、リュカの行動を見守ることにしたようだ。彼女が落ち着いたのを感じ、ヘンリーは足元にヨシュアから受け取った荷物を手繰り寄せ、貴重な食料や水を足で抱え込んだ。
「リュカ、行けそうか?」
「うん、ここの板を外すだけだから、多分、大丈夫」
リュカはそう言って一度手の力を緩めた後、一気に力をかけた。暗い空間に、危なげな板の軋む音が響く。そしてリュカが頭上の板を外そうと、渾身の力を込めた瞬間、足元の板が抜けた。リュカが慌てて膝を引きぬくと、途端に樽の中に怒涛のように海水が流れ込んできた。
「バカ、何やってんだよ!」
「足の方が力が入ってたみたいだね」
「何悠長なこと言ってんだ。このままじゃ溺れ死ぬぞ」
のんびり構えているリュカに苛つきながら、ヘンリーはマリアに荷物を渡すと、右手で頭上の板張りを力任せに殴り始めた。マリアは徐々に上がって来る水位に青ざめながら、必死に荷物を抱えていた。すると、樽も彼らと同じように自由を手にしたかったのか、まるで殴られるのを合図に、割れた。ちょうど、リュカが外そうとしていた頭上の板と、踏み抜いた形の板を境にして、真っ二つに割れたような形だ。しかし割れた二つの内一つは、樽の蓋部分がなくなり、すぐに海水に浸食され、あっという間に沈んで行ってしまった。
三人が乗る樽舟にも、彼らの重みで、樽の端から海水が入り込んでくる。リュカとヘンリーは慌てて樽舟から飛び降り、マリアだけが小舟の中に残された。なかなか海の中から上がってこない二人に、マリアは不安になり、樽の端に両手をかけ、海の中を覗き込んだ。すると、マリアが覗きこむ逆側から、二人が波間に上がって来た音を聞いた。
「ふう、危ないところだったね。でも無事でよかった」
「どこが無事なんだよ。これからどうするんだ」
「マリアさん、大丈夫?」
「あ、はい、私は大丈夫ですが、お二人は……」
「見ての通り。伊達にあの山で鍛えてないからね」
「久々に風呂に入った気分だよ。塩っ辛いけどな。マリアちゃんも入る、海?」
溺れる可能性もあったというのに、二人の青年は気持ち良さそうに海に浮かんでいる。久々に見る太陽は眩しいはずだったが、それを感じる一瞬は知らぬ間に過ぎ、三人は海を照らす太陽の光に慣れていた。きらきらと輝く海面があるというだけで、三人とも気付かぬうちに気分が高揚していた。
「私、泳げるかしら……」
「大丈夫だよ、これにつかまってれば」
リュカが樽舟の端につかまりながら波間に浮いているのを見て、マリアは樽舟の中にそうっと荷物を置いた。そして海に入ろうと樽舟の端に手をかけた瞬間、舟はバランスを崩し、マリアはひっくり返るようにして海に落ちた。派手な水しぶきが上がると、リュカもヘンリーも慌ててマリアの姿を探す。溺れかけていたマリアの手を引きあげ、リュカは彼女の手を樽舟の端につかまらせた。
上がって来たマリアの顔も髪も、海に洗われていた。茶色だった髪が、汚れがいくらか落ちたのか、本来の金色を戻していた。リュカもヘンリーも口をあいたままマリアを見る。
「本当に、お風呂に入ってる気分ですね」
「マリアちゃんって金髪だったんだ」
「え? あ、はい、そうです。そっか、それも分からないくらいに汚かったんですね」
「いや、汚いのは僕らの方が年季が入ってるよ。だからもうちょっと、洗ってくる」
リュカはそう言うと、再び海の中に潜りこんだ。ただ楽しんでいるだけの様子に、ヘンリーは呆れたような顔でリュカが立てた波を見つめた。
「あいつ、やっぱり緊張感ねぇな」
ヘンリーの言葉にマリアが小さな声を出して笑う。太陽の光の力は、大樽の暗闇の中にいた彼らの心を自然に浮上させた。光を浴びるだけで、沈んでいた気分が浮き上がり、海水で涙の跡も消えたマリアの頬に、太陽の光が反射した。
砕けてしまった樽の木片が波間に漂っている。海から飛び出てきたリュカは、大きな木片の一つにしがみつきながら、ふと海の彼方に霞む景色を見やった。海面から上がる水蒸気のせいか、その景色はぼんやりとしか確認できない。しかし、その中で明らかに、周りに広がる海とは異なる景色が彼の目に入った。一面、群青色に染まる海の上に浮かぶように、十余年ぶりに目にした自然の緑があった。
「ヘンリー、あれって陸だよね」
リュカはそう言いながら、方角も分からない彼方の景色を指差した。海面の切れ目に見える、白く霞む景色の中に、ごくわずかな緑を見たヘンリーは、樽の小舟にかける手に力を込めた。小舟が不安定に揺れ、マリアが必死に樽の縁を掴むのにも気付かず、ヘンリーは目を凝らして遠くの景色を見遣った。
「俺たちが疲れてるから、錯覚を見始めてるんじゃないよな」
「そんなに疲れてないと思うんだけどな」
「お前の疲れてないはアテにならない。マリアちゃん、一つ頼みがあるんだけど」
「はい、私にできることでしたら」
「俺を思いっきり引っぱたいてくれ」
「……え?」
「痛かったら錯覚でも夢でもないって、実感できそうだ」
ヘンリーはそう言いながら、夢うつつの状態でまだ遠くの陸地と思しきものを見つめている。逡巡するマリアの横で、リュカが「大丈夫、大丈夫」と笑いかけている。マリアは覚悟を決めて、小さな手を振り上げると、ヘンリーの頬を渾身の力を込めて引っぱたいた。ヘンリーが海に沈む。リュカがその腕を掴み、引き上げると、ヘンリーは張られた頬を手で押さえていた。
「いってー」
「ご、ごめんなさい」
「でもこれで、俺にも実感が湧いたぜ。ありがとう、マリアちゃん」
「そんなことなら僕にもできたのに」
「お前に殴られたら、そのまま昇天しかねないだろ。夢でも錯覚でも、なんでもなくなっちまう」
「手加減くらいするよ」
「どうだかな。お前は真面目だ」
「そうかな」
「そうだよ」
二人の会話を聞きながら、マリアはくすくすと笑った。彼女の控えめだが明るい笑い声に、リュカもヘンリーも安心したようにマリアを見上げた。小舟に乗るマリアの様子は、あの大神殿脱出の直後からだいぶ回復しているように見えた。
リュカがもう一度遥か遠くに見える陸地を眺めると、ヘンリーもマリアも同じように霞む陸地に焦点を合わせた。見えるということは、間違いなくそこにある。しかし改めて見たその距離に、ヘンリーは思わず溜め息をもらさずにはいられなかった。
「結構な距離だよな。どんだけ泳げばいいんだろう」
「でも見えるってことは、いつか着くよ」
「まあ、そりゃそうだろうけどさ。その前にへたばんないようにしないとな」
「僕たちはあんなひどい場所でも生きてこられたんだから、こんなところでへたばるわけないよ」
ヘンリーの言葉をことごとく否定するリュカの姿を見て、ヘンリーはふっと息を漏らした。
「そうだよな。せっかく助けられた命だ。みすみすこんなところで落としてたまるかってんだ」
「僕たちはこんなところで死んでちゃいけない。生きなきゃいけないんだから」
笑顔はそのままに、瞳には強い意志を込めて、リュカは遥か遠くに点のように見える緑色を眺めた。太陽の光はありとあらゆるものを照らし、遠くに見える陸地の緑は青々と輝いているようだった。
幾日かぶりに頭に浴びる強い陽射しは、本来彼らの体力を徐々に奪うだけのものだが、樽の中の蒸し風呂状態に比べれば過ごしやすい環境だった。海面の上を渡る海風が彼らの頬を撫で、海水の温度も季節的に丁度良いものだ。
奴隷として過ごした十余年の間、季節も感じられないような寒く凍える山の中での生活をしてきた彼らにとって、太陽の光や暖かさは彼らの意志を強めるに十分な働きをした。目に見える太陽は、姿を見せない神よりも神々しく見えた。まともに見ていられない太陽に、二人は陸地に辿りついてやる、という意志を遂げる誓いを立ててもいいかもしれない、と思った。
波は穏やかで、彼らの行く道を応援しているようだった。樽の中に入っていた時には何度となく波に揉まれたが、今は彼らの行く手を阻まない。遥か彼方に見える景色に変化があるのかどうかもよく分からず、陸地が近づいているかどうかなどはほとんど分からない。しかしリュカもヘンリーも着実に進んでいるという手ごたえを感じていた。見える陸地に辿りつくことを信じて疑わなかった。
時間は確実に過ぎ去り、日差しは徐々に柔らかくなって、海の色も青から橙色に変わり始めている。今はまだ汗をかくほどの気温だが、夜になれば遮る物のないこの場所では風を冷たく感じるだろう。マリアが半分になった樽の中に身を沈ませた。彼女は既に、風を冷たく感じているのかも知れない。
ヘンリーは樽舟の中から、ヨシュアに預かった荷物を漁り始めた。彼らがもし町に出るようなことがあればと、ヨシュアは自分の服を一着荷物の中に入れていた。ヘンリーは服を取り出し、マリアの背にかけた。陽に晒されていたマリアの肌はとっくに乾き、肌には塩が浮いている。
荷物を包んでいた布を開くと、それ自体が外套になっていた。荷物を舟の中に転がし、ヘンリーはその外套もマリアの身体にかけた。
「あの……」
「いいから、かけとけ。寒いんだろ」
「い、いえ、私は大丈夫ですから」
「夜になりゃ、もっと冷えてくる」
「私はあなたたちと同じ、あの場所にいたんですよ。こんな暖かいのに、寒いわけがありません」
マリアは背にかけられた兄の服や外套を手に取ると、小舟の中に散らばった荷物をまとめて、元の通り荷物の包みを作った。再び晒されたマリアの細い腕は、それまで陽を浴びていたため、少し赤く腫れていた。肌は熱を持っているが、マリアの身体は小さく震えている。
「あの、もし私が足手まといのようでしたら、私を置いて先に進んでください」
か細いが、しっかりと聞こえたマリアの声に、リュカが振り返った。ヘンリーは驚いた表情でマリアを見上げている。西日に照らされた彼女の顔には明らかに疲労の影が見て取れた。自然と微笑んでいるように見えるマリアだが、その表情ももしかしたら義務的なものだったのかもしれないと、リュカは彼女を少し疑った。
彼女の深海色の瞳は、周りに広がる海の色よりも一層深く、光を失いかけているようだった。そんな彼女を見上げながら、ヘンリーはまるで怒ったような表情でマリアの顔を覗き込む。
「何言ってるんだ、君も生きなきゃいけないんだ。俺たちはヨシュアさんと約束したんだ、君を地上まで無事に連れて行くって」
「もう、ここまで連れてきていただけただけで、私は幸せです。ですから……」
「よく聞け。無事に地上まで連れて行くってのが俺たちとヨシュアさんの約束だ。まだ約束を果たしていないんだ」
「聞いていましたが、でも、私のせいでお二人が危険な目に遭うのでしたら、そうするのが一番だと思うんです。私がいるせいで、あなたたちが危険な目に遭うなんて、だめです」
まだ子供のように見える小さなマリアだが、その意思は驚くほどに固い。ヘンリーに正面から向き合い、言葉を返す女の人を、リュカはこの時初めて見た。
無言で睨み合うかのように、二人は互いの意思をぶつけあっていた。リュカはそんな二人を見ながら、どこか安心していた。二人はまだ、元気だ。己の意思をしっかりと持っている。
「マリアさん、僕たちはいつだって諦めが悪いんだよ」
リュカは小舟のへりに腕をかけながら、ぼんやりとした調子で言った。ヘンリーとマリアの間に張りつめていた糸が緩み、二人は力が抜けた様子でリュカを見る。
「そうだよ、諦めが良かったら、とっくにあの場所でくたばってるって」
「それにマリアさんにはちゃんとこの荷物を見ていてもらわないと。せっかくヨシュアさんが僕たちに預けてくれたんだから、無くすわけにはいかないよね」
そう言いながら、リュカはマリアがまとめた荷物を彼女の足元に寄せた。寄せられた荷物を何の気なしに、マリアは両手で抱える。
「陸地に着いたら絶対に必要になるものが入ってるんだ。だからマリアちゃん、ちゃんと見ててくれよ」
「え、あ、はい、分かりました」
リュカが雰囲気を和らげ、ヘンリーが便乗し、マリアの真面目をはぐらかしたことに、三人とも気付いていなかった。現実から目を背けてはいけないが、現実ばかりに囚われていると前が見えなくなってしまう。先を行くために、リュカは今を見ない選択をした。マリアが弱気になっていることも、ヘンリーが意地になってマリアを連れて行こうとすることも、全てひっくるめてリュカは先を見た。
樽の舟の後方から舟を押し出すように泳ぐリュカを見て、ヘンリーも前方から舟を引いた。二人の青年の前を向く姿勢に、マリアはもう口を挟む隙を見い出せなかった。
景色の変化が感じられない海の真ん中で進むこと数時間、東の空が闇を連れ始めていた。西を見やれば橙に染まる空の中心に、一日の最後の力を振り絞る夕陽が彼らを強く照らしている。三人はその眩しさに目をしばたき、眩んだ目を再び目的地へと戻した。
全く変わらない景色だと思っていた中、マリアは陸地に占める緑の中に、違う何かを見つけた。遥か遠くに霞むように見えていた陸地の上に、建物らしき影を見つけると、マリアは思わず小舟の上で飛び上がりそうになった。
「リュカさん、ヘンリーさん、あそこに何か見えます」
マリアの弾んだ声に、リュカとヘンリーが彼女を振り向く。マリアの細い腕が伸びる先の景色を、二人は目を細めて見遣った。ずっと霞がかって見えていた陸地は西日に照らされ、その太陽の影に人工的な四角い形を見つけた。二人の目が驚きで丸くなる。
「あそこにはきっと人がいるよ。僕たちは助かるんだ」
リュカの目に映ったその人工的な建物の傍には、暖かい火が灯されているようだった。間もなく訪れる夜の闇に備え、人間が灯したものに違いなかった。ずっと海の上に漂い、泳ぎ続ける彼らの疲労は常人には既に耐えられない域に達していたが、彼らの喜びはその疲労をも吹き飛ばした。
まだ遥か遠くの景色には違いないが、海の彼方に陸地を見出し、人口の建物まで確認できただけで、リュカもヘンリーも助かることを信じて疑わなかった。安穏と暮らしているだけの人間であればとうに諦めているような距離だ。しかし火の明かりが見えるだけで、彼らは簡単に希望を見出すことができる。リュカとヘンリーが力を込めて舟を進め始める。進みが早くなった小舟の上で、マリアは二人の体力に驚いたように目を瞬いた。
希望の光を頼りに泳ぎ進めているうちに、間もなく辺りは暗くなり、穏やかだった海はさらにその静けさを増す。幸い、今夜は大きな月が出ており、彼らの道を助けてくれた。今まで太陽の強い光に照らされていた海面は、今度は月の柔らかい光にゆらゆらと揺れている。改めて希望を見出した彼らを包む海は、想像していたほど冷たくはなく、彼らは着実に陸地との距離を狭めることに成功していた。
言葉少なに泳いでいる途中、リュカは海の中に何かが動く気配を感じた。足元に妙な流れが生じ、足にまとわりつく感覚を与える。リュカの身体に一瞬緊張が走ったが、直後に彼は笑顔になり、支えていた樽の小舟から手を離した。そしてそのまま海に潜った。リュカが生み出した波にバランスを崩した小舟はマリアを乗せたまま波間に揺れたが、ヘンリーが舟を押さえてどうにかひっくり返らずにすんだ。
「おい、何やってんだよ」
ヘンリーは海の中にいるリュカには聞こえない言葉を吐いた。そんなことを言われているとも思っていないリュカは、足にまとわりついたのが魚だと思い込んだまま、それを捕まえようと長いこと息をつめて暗い水面下を目を凝らして泳いでいる。
「リュカさん、大丈夫でしょうか。ヘンリーさん、私は平気ですから様子を見に行かれた方が……」
マリアが最後まで語る前に、海に潜っていたリュカが勢いよく水の中から飛び出してきた。頭から全部ずぶ濡れになった彼の表情はヘンリーの予想を裏切って真剣そのものだった。長いこと呼吸を止めていたせいで息が上がり、ぜいぜいと肩で息を整え、リュカは彼らに伝える言葉を探す。
「どうしたんだよ、一体」
ヘンリーが少しいらついたようにそう問いかけると、リュカは唾を飲み込んでから、ようやく状況を話した。
「下に魚がいると思って潜ったらさ……」
「潜ったら?」
「魔物だった」
リュカの言葉がすぐには飲み込めないヘンリーとマリアの前で、再びリュカの姿が海の中に消えてしまった。それも彼自身の意思など微塵も感じさせない勢いで、海の中に引きずり込まれるように格好だった。穏やかだった波がその場所だけばちゃばちゃと暴れ始める。リュカが水面下で魔物と対峙しているとようやく理解したヘンリーは、慌てて彼を追って海の中に潜っていった。
音の鈍い水の中で、リュカが対峙している魔物は、巨大化したくらげのような相手だった。月明かりが差し込むおかげで、辛うじて魔物の姿を見ることができる。リュカはその青い触手に足を絡め取られて、水の中でもがいている。
幼い頃、父と一緒に旅をしていたリュカにとっては魔物と戦うことは久しぶりだったが、ヘンリーにとっては初めてに近い経験だった。子供の時分、ヘンリーはよく城から抜け出して城下町に行くことはあったが、魔物のいる外に出たことは一度もない。言葉の通じる人間にはいくらでもいたずらできたが、言葉の通じない乱暴な魔物を相手にすることなど、考えたこともない。あの大神殿の建設現場でも、魔物に襲われることはなかった。今までどれだけ守られた世界にいたのかを、ヘンリーは身をもって知った。
今、目の前で起こっているリュカと魔物の対峙に、ヘンリーは一瞬震えた心を抑えつけた。こんなところで死んでたまるか、という思いだけでヘンリーは行動することにした。
海の中、会話のできない二人は互いに目配せする。リュカが巨大くらげの頭を押さえつけると、ヘンリーはリュカにまとわりつく青い触手を掴んではぎとった。くらげは新しく現れた獲物にその触手を伸ばしかけたが、リュカに頭を足で蹴られ、水の中でひっくり返っていた。その隙に二人は慌てて海から顔を出し、そこらじゅうにある酸素をかき集めるように激しく息をついた。
「死ぬかと思った」
「魔物じゃなくて、こんなところで溺れ死ぬなんてシャレにもなんねぇ」
海水でずぶ濡れの二人に、樽の小舟に乗っていたマリアが安心したように声を掛ける。
「ああ、良かった。もしこのままお二人が出てこなかったら、私どうしたらいいか」
「ごめんね、ちょっと手こずっちゃって……」
そう言いかけたリュカの後ろに、一瞬大きな波が立った。と思ったら、先ほどの巨大くらげが水面から白い顔を半分覗かせながらリュカを睨んでいる。その青い触手が海面を這って伸びてくるのを、リュカは困ったように見つめ、自分も手を伸ばした。
「僕たちはあっちに行きたいだけなんだ。君のジャマはしないから、僕たちのジャマもしないでくれるかな」
リュカはまだ肩で息をつきながらそう話しかけたが、相手は魔物、人間の言葉は通じない。巨大白くらげは青い触手をリュカの腕にぐるぐると巻きつけると、彼の腕を締め始めた。そしてリュカがそれを解こうと手を掛けた瞬間、くらげはリュカの腕に刺すような痛みを与え、リュカはそのしびれるような痛みに思わず短い悲鳴を上げた。くらげの毒はあっという間にリュカの身体から自由を奪い、リュカはそのまま力なく海の上にぷかりと浮かんでしまった。目はしっかりと開き、意識ははっきりとしているようだが、リュカの身体は完全にしびれて、もう海上に漂うことしかできなくなっていた。
白くらげは次に緑色の人物に、その悪意のあまり感じられない目を向けた。ヘンリーはリュカの様子を窺いながらも、目の前にいるくらげの青い触手が自分の方へと伸びてくるのを見ていた。
「俺の子分に何してくれるんだよ」
人語を解さない魔物はまだヘンリーのことを睨みながら、海面から出る青の触手をゆらゆらと動かして新しい標的に向かってそれを伸ばしてくる。身体がしびれて動かないリュカの手を引き、マリアが乗る樽の小舟にその手を預けると、ヘンリーは唯一身につけている魔法の文句を唱え始めた。それは奴隷時代にも何度か使ったことのある魔法だ。
人工的な力で生まれた火は、彼の意思の通り火球となり、彼の手を離れてくらげに向かって飛んでいった。海に棲息するものにとっては想像できないような熱さに、くらげは丸い目を見開いて、伸ばしていた触手を引っ込めてしまった。飛んできた火球が身体に当たると同時に、くらげからじゅっという音と、白い水蒸気が上がる。くらげは自分の身体の一部が蒸発してなくなってしまったと分かると、慌てて海の中に潜っていってしまった。海水に浸かって身体を再構築でもするのだろうか、くらげはもうそれきり海から姿を現さなかった。ヘンリーはいささか緊張していた震える手を押さえ、詰めていた息を吐き出すと、リュカとマリアのもとへと泳いでいった。
「まだ身体は動かないか、リュカ」
「うん、ごめん、油断した」
「まあ、いいさ。マリアちゃん、このままこいつの手を離さないでくれ」
「はい、分かりました」
マリアはそう答えて、まるで力の抜けたリュカの手をしっかりと掴んでいた。マリアに手を掴まれていることなど気付いている風でもなく、リュカは海の上に浮かびながら、呑気に星空を見上げている。ヘンリーはそんなリュカを見て、少しいらついたように彼の頭をはたいた。そんなことをされても、リュカは横目でヘンリーを見るだけだ。痛みも感じないらしい。
しばらくすると、彼らの頭上には完全な星空が広がった。夜の海は殊更静かに感じられる。運が味方しているのか、波が荒れることもなく、雨が降るような空でもない。麻痺していたリュカの身体もすっかり回復し、小さな波を立てながら彼らはひたすら遥か前方に見える明かりを頼りに道を進める。美しい星空と柔らかい月明かりが彼らの道を示し、こんな時でもなければ彼らは揃ってその星空を見上げていたかもしれなかった。
彼らの漂流生活中、少しずつ分け合っていた食糧と水は徐々に減り、今ではもうほとんど残されていなかった。だが、奴隷の時には五日間食事抜きという罰を与えられたこともある二人の青年にとっては、まだ耐えられる環境ではあった。極限とも思える空腹の状態でも、力を出すコツのようなものを、二人は生きるために身に着けていた。樽の小舟を進める力にも、まだそれほど衰えはない。そんな二人を見ながら、マリアはただただ驚くばかりだった。
日中陽の光に全身をさらされていたマリアは、顔も手も日に焼け、その熱を体中に閉じ込めていた。彼女自身、そんなことには気が付かなかったが、身体がやたらとだるいことは感じていた。ただ懸命に前に進む彼らに、身体の不調を伝えることなどできなかった。海水に手を浸して、心地よく感じる冷たさに紛れ、マリアは身体のだるさは気のせいだと思い込もうとしていた。
しかしもう、マリアの目に空の星が映ることはなかった。マリアの目は霞み、煌々と辺りを照らす月明かりも、彼女は見失いかけていた。
「少し涼しくなってきたな。マリアちゃん、大丈夫か」
ヘンリーに遠くから呼ばれたような気がして、マリアはゆっくりと顔を上げる。反射的に答えるマリアの口調は、彼女が思っていたよりも滑らかだった。
「ええ、私は大丈夫です。お二人の方がお辛いでしょう」
月明かりは陽に焼けたマリアの赤い肌を隠し、青白く照らす。彼女が柔らかく話しかける声に、ヘンリーは彼女の異変に気づくことはない。
「マリアさん、ちょっと水をもらってもいいかな。まだあったよね」
リュカの声は枯れていた。唾を飲むのも躊躇するほど、喉がひりついていた。リュカの声が聞き取れなかったマリアは、ただ暗い海に目を落とし、ぼんやりとしている。リュカは彼女の様子を窺いながら、水の入った革袋を探り、それがほとんど空であることを知った。まだ陸地までの距離はある。リュカは水を諦め、今度はマリアを注意深く見詰めた。彼女がリュカの視線に気づくことはない。目を開けながら意識を失ったかのように、彼女は何も気付いていない。
リュカは樽の小舟からだらりと下がっているマリアの手が、海水に浸されているのを見た。不思議に思いながら、リュカは彼女の手を舟の上に上げようと、腕を掴んだ。彼女の腕は驚くほど熱かった。
「マリアさん、熱があるんじゃ……」
リュカが言い終わらないうちに、夜の静かな海に突如、波飛沫が上がった。魔物だと、リュカもヘンリーもすぐに気がついた。月や星は彼らの視界の助けにはなるが、相手は夜の闇の中でこそ視界の利く魔物だ。リュカとヘンリーは背後に現れた魔物の姿を振り向き見たが、月明かりを背にするその影しか確認できなかった。
「くそっ、順調に進んでたのによ。邪魔すんなっての」
ヘンリーは苛ついたようにそう吐き捨てると、小舟から手を離して呪文の言葉を呟き始めた。傍ではリュカも一足遅れて呪文を唱え始め、周りには俄かに波が立つ。しかし海に現れたその魔物は、彼らには目もくれなかった。彼らの後ろにいるマリアの姿を見つけると、下品な笑みを浮かべる。
辺りは暗く、魔物の影しか見えないが、海に棲息する魔物にしてはあまりにも海に適していないと、リュカもヘンリーも感じていた。耳が尖りぴんと立ち、口の中には獰猛な牙を何本も覗かせ、毛皮でも着込んでいるかのような体毛を海水に浸している。まるで狼のような魔物は、自分らに向けられる二人の人間の魔法から逃れるように、海の中に潜ってしまった。リュカもヘンリーも肩透かしを食らったように呪文の詠唱を途中で止め、暗い辺りを注意深く見渡し、耳を澄ます。
再び飛沫を上げて海から出てきた狼型の魔物は、マリアの乗る樽の小舟に手をかけていた。新たに波飛沫が上がった場所を見て、リュカとヘンリーは慌ててマリアを振り返るが、当のマリアは目の前に現れた魔物に気が付いていない様子だ。小舟が傾き、海に放り出されそうになり、マリアはそれでもぼんやりと辺りを見ているに過ぎない。自分が魔物に襲われそうになっていることに、彼女は全く気付いていない。
まるで身を守ろうとしないマリアを見て、リュカは慌てて魔物に呪文を投げつけた。ほとんど完成していた真空の刃は、幸いにも狼の右肩を切り裂き、魔物がおぞましい悲鳴を上げる。その間にヘンリーはマリアの乗る小舟を押さえ、何が起こっているのか分かっていない彼女の身体を舟底に抑えつけた。力なく倒れ込んだマリアを見て、ヘンリーも彼女の異変に気がついた。
「マリアちゃん?」
ヘンリーの呼びかけに、マリアは答えない。彼女が荒い息をしながら意識を失ったことを知ったヘンリーは、思わず敵の存在を一瞬忘れてしまった。
月の明かりがかげったかと思ったら、ヘンリーは背中に、鋭く尖った氷で薙がれるような感覚を受けた。夜の闇に紛れていたのがまだ良かったのかもしれない。周りの海があっという間に黒くなるのを、彼自身何が何だか分からずに見つめていた。ただ樽の小舟にかける手から力が抜けていくのを感じていた。
「ヘンリー!」
魔物に抉られたヘンリーの背中を見て、リュカは思わず大声を上げた。そして狼の魔物はまたもヘンリーの後ろでその腕を振り上げる。リュカは素早く魔法を唱え、半ばがむしゃらに魔物に向かって飛ばした。真空の刃を顔に受け、魔物はたまらず身体を仰け反らせて悲鳴を上げる。リュカは怒りに任せて魔物の首を掴むと、力任せに海の中に引きずり落とした。
海の中で、リュカは狼の反撃を受ける前に、立て続けに魔法の刃を至近距離から飛ばし、魔物を追い込む。敵に攻撃の隙を与えなかった。狼型の魔物はリュカの攻撃を散々受け、傷ついた身体を塩水に浸してうめき声を上げながら、目の前の獲物を諦めて去っていった。
再び海の上に静けさが戻った。その静けさの中にヘンリーとマリアの声がない。リュカは慌てて彼らの元へと泳いでいくと、小舟に寄り添う二人は静かに目を閉じて意識を失っていた。ヘンリーはぐったりと小舟の端に頭をもたげて、波間に身体を委ねている。彼の背中からはまだおびただしい出血が続いていた。リュカはもう尽きかけている魔法力を込めてヘンリーの背中に手を当て、傷を癒し始めた。出血こそは止まったものの、怪我そのものを治すまでには至らなかった。
遥か遠くに見えていた陸地の明かりは、今ではかなりはっきりと見えていた。しかしそこに辿り着くにはまだ相当の時間がかかるだろう。
リュカはぐったりとしているヘンリーの身体を抱え上げ、樽の小舟の上に乗せた。二人を乗せた小舟だが、沈む気配はない。月明かりに照らされる二人の顔は、疲れきっている。リュカは二人の体力を過信していたことに、強い罪悪感を覚えた。
「ごめんね、二人とも」
リュカが小さく声をかけても、二人は何も反応しない。リュカは不安になって、二人が呼吸していることを確かめた。ヘンリーの呼吸は浅く、マリアの呼吸は速かった。
リュカは小舟に乗せる荷物の包みをほどき、一着の外套となったその包みを二人の上に掛けた。そして再び陸地に光る一点の光に目をやった。満点の星空の中そこだけオレンジ色にゆらゆらとゆれているのが分かる。目に見えて松明か何かの炎だと分かる距離にまで来ている。その火が自分たちを助けるのだと信じて、リュカは舟の後方に回った。
「僕は諦めが悪いからね。絶対にあの場所までたどり着いてやるんだ」
リュカの意思はこの状況に置かれて、尚強まった。小舟の中に散らばった荷物の中から、水の入った革袋を手に取り、最後の一滴まで飲み干した。身体の中を駆け巡る命の強さを感じた。二人のためにも、諦めるという選択肢は端からなかった。
リュカは泳ぎ続けた。黙々と、一点の光を目指して進んだ。頭では何も考えられなかった。ただ彼の身体は二人を無事陸地に連れていくという使命に燃えるように、疲れなど忘れていた。
そんなリュカの雰囲気に気圧されたのか、周囲の魔物の気配はなりを潜めた。リュカは魔物の存在なども忘れ、徐々に近づいているはずの陸地だけを見つめる。リュカの目には陸地に揺れる光だけしか映っていなかった。延々と続く波の音は、もうリュカの耳には入らなかった。
夜が白々と明け、リュカは目指す光が既に消されていることにも気付かなかった。建物に住まう人が、朝早くに火を消したのだろう。しかしリュカの目にはまだ、目指す火の光が映っていた。
身体全体が麻痺しているように何も感じなくなっていたが、リュカは意識を失う直前、波の音ではない音を聞いた。
それが澄んだ鐘の音だったと、リュカは数日後に気がつくことになる。