2017/12/03

看守の決意

 

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「あーあ、運動したから腹が減ったな」
ガラガラの声でそう言うと、ヘンリーはリュカの隣に寝転んだ。
リュカとヘンリーは現場で暴れた罪を着せられ、洞窟のような牢に入れられていた。明かりも何もない、ほとんど視界の利かない空間だ。牢の外から辛うじて燭台の明かりが漏れている程度だった。
オサの死を目の当たりにし、二人はしばらく話もせずに牢の中でうずくまっていた。昼も夜もわからない牢の中では、好きに寝ていられる。
毎日、大した食事も与えられずに重労働を課せられるより、悪事を働いてこうして牢で休むのも悪くないと、ヘンリーはあくまでも軽い態度を崩さずにいる。それはリュカが苦悩の表情をしている時の彼の癖の一部だった。真面目な空気を打破したいのかもしれない。
「今回は三日間だってよ。案外軽い罪だったな」
「僕、絶対にここを出る」
ヘンリーの軽口がまるで聞こえていないかのように答えず、リュカは力のこもった眼差しでそう呟いた。隣で膝を抱えて座ってるリュカの雰囲気を感じながらも、ヘンリーは依然寝転がりながら軽い調子で言う。
「当たり前だろ。俺はともかく、お前だけは絶対にこんなところから出してやるからさ」
暗くて互いに表情はわからない。軽口を叩くヘンリーがリュカの背をばしっと叩くと、リュカは咄嗟にその手をつかんだ。
「何言ってるんだ。君も一緒に逃げるんだよ。君が僕一人を逃がそうなんてしたら、この手を無理にでも引っ張って連れて行くからね」
意外にも大きなリュカの声が牢の中に響き、ヘンリーは思わず口を噤んでしまった。言葉はいつも通りの穏やかさを持っていたが、その口調には逆らえない強さがあった。彼の真面目さにヘンリーは返す言葉を見つけられなかった。
「今僕がこうして生きていられるのは、ヘンリーがいてくれたからなんだよ」
今までにも何度となく聞かされた言葉だった。ヘンリーが自棄なことを言う度に、リュカは必死になってそれを打ち消そうとする。まるで恩を感じているのだと言わんばかりのリュカの言葉を聞くと、ヘンリーはいつも耳を塞ぎたくなった。他の誰でもない、自分がリュカをこんなところに連れてきてしまったのだと、リュカが優しい言葉をかけてくる度に罪悪感に苛まれた。その場の雰囲気に耐えられなくなり、ヘンリーは話を断ち切る。
「とりあえず、寝ようぜ。三日経ったら勝手に呼びにくるだろ」
そう言うと、ヘンリーはもう話をしようとはしなかった。牢の外には常に看守の姿がある。奴隷の中では頻繁に牢に入れられている二人には、看守の目も厳しい。ここから逃げたい、いつか脱走してやる、などと言う奴隷の常套句は看守も相手にはしない。しかし具体的な脱走の計画などをうっかり話してしまえば、看守は牢の外から聞き耳を立て、計画をも監視してしまう。リュカとヘンリーが脱走計画を話し合うのは、もっぱら牢を出てからが多かった。牢に入れられている最中は、互いに計画を頭の中で練っているだけだった。
奴隷たちが寝食を得る場所も相当にひどいものだが、今彼らがいる拘留場はさらに輪をかけてひどい有様だった。用を足したいからといって、牢の外に出られるわけでもない。なけなしの藁が敷かれた場所が彼らの寝床で、看守が忘れなければ一日に一度、それも到底若者には足りない量の食事が配給される。しかし目をつけられている彼らに食事が配給されることはまずない。これから三日間、ただ空腹に耐えるだけだ。
藁を敷いても地面のごつごつした感覚は拭えず、藁の意味はほとんどない。それでも気分だけはと、ヘンリーはそこらの藁を集めて、上に頭を乗せていた。それが牢に入れられた時の彼のスタイルだった。牢から出ることも叶わない、外で労働も強いられない、何もすることがない状況では体力を温存しておく外、することなどなかった。その隣でリュカは両足を投げ出して、鉄格子越しに外の様子を窺っていた。牢に入れられるのは何度も経験しているため、この洞穴に作られた牢屋がほとんど視界の利かないほどの暗さでも、リュカの瞳はおぼろげに内部の様子を見て取っていた。
牢屋の看守は二人いた。一人はひょろりと背ばかりが伸びた年配の髭面の男、もう一人はリュカたちと歳もさほど変わらないくらいの青年。その青年はただ難しそうな表情で俯いているだけで、牢屋に入れられているリュカ達などは全く見ていなかった。ちらちらと揺れる牢獄の明かりに照らされる彼の横顔は、並みの奴隷よりも憔悴しているようにリュカには見えた。彼の傍で鉄の槍を持っている年配の看守はそんな青年に気遣うように、やっと聞き取れるくらいの小さな声で話しかける。
「ここ最近、妙に元気がないようだな。何かあったのか」
寝そべっているヘンリーが鼻で笑うのが聞こえた。『元気がある時なんてあるかっての』と、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに吐き捨てていた。そんな彼の言葉も聞きながら、リュカは青年から目を離さなかった。その青年は年配の看守に言われたことに眉をひそめ、ただ首を横に振っている。そして息を吐き出すのも苦しいような溜め息をついた。
「ここの仕事ではなくて、現場での仕事をしたいのか。そういうことだったら俺が口を利いてやってもいいぞ」
年配の看守の言うことに、青年ははっきりと違いますと答え、まるで彼を睨むような目つきで見返した。年配の看守は驚いたように青年を見つめたが、次の言葉を吐く前に青年が話し始めた。
「僕の妹が奴隷にされてしまったんです」
青年のその一言に、リュカとヘンリーは同時に息を呑んだ。ずっと青年から目を離さないリュカの隣で、身を起こしたヘンリーも同じように青年を見遣る。青年はうなだれていて、その表情は見えない。リュカと同じ黒い髪が、青年の横顔に濃い影を落とす。彼はまるで生気を失った奴隷のような雰囲気を身にまとっていた。壁を見つめる横顔が、一瞬リュカと重なって見えた時、ヘンリーは目を瞑って頭を振った。
「この前、教祖様の大事な皿を割ったとかで奴隷にされたあの女の子か。あの子、お前の妹だったのか」
「昔からよくヘマをやらかしていたんです。おっちょこちょいなところがあって。でも皿を割っただけで奴隷にされるなんて」
青年はそこで言葉を切ると、じっと押し黙ってしまった。年配の看守は青年を気遣うように、合わせて黙り込んだ。
「どうにかして助けてやりたいんですが、僕の力じゃどうにもできなくて」
その青年の言葉に、ヘンリーは思わず鉄格子に両手をかけて、何か言葉を吐こうと口を開きかけた。しかし隣にいるリュカに腕をつかまれ、寸でのところで出そうになった暴言を押し留められた。ヘンリーが鋭い目つきでリュカを振り返ると、友は悲しげな表情で首を横に振り、もう一度外の青年を見やる。ヘンリーはリュカを睨んだ後、鋭い目つきのまま格子の向こう側にいる青年に目を向けた。
牢の中のただならぬ雰囲気に気が付いたのか、看守の青年は牢の中の奴隷二人を見やった。互いの顔が判別できないほど暗い中でも、彼らは互いの姿をはっきりと認識した。青年は年配の看守に一言告げてからその傍を離れ、二人のいる牢へと近づいてくる。ヘンリーはもちろん、リュカも思わず少し身構えてしまった。
「お前たち、ここの常連だったな」
青年に言われ、リュカとヘンリーは互いに顔を見合わせた。何度となくこうして牢に入れられたことはあるが、今目の前にいる青年とは面識がなかった。それほど自分らのことがこの場所で噂されているのだと、二人は揃って複雑な表情を示した。
「だったら何だってんだよ」
「いや、いつも奴隷にされた人々を見ているが、お前たちはいつまで経っても奴隷になりきれない奴らだと、専らの評判なんだ」
青年の言葉は二人の予想通りのものだった。リュカもヘンリーも奴隷になりきるつもりはないが、かと言って決して目立ちたくもないのが本心だ。しかしこの現場で二人は格段に目立ってしまっている。不本意ではあるが、二人はその事実を認めていた。
「僕たちにはここにいなくちゃならない理由なんてないんです。いつかはここを出なくちゃいけない」
リュカが何の迷いもなくそう話す姿を見て、看守の青年は目を見開いた。ここにいる奴隷と言えば、目は死んだように濁り、身体もまるで自分のものであることを忘れたように、ただ動力だけが残った人形のごとく動き、日々を無気力に過ごすばかりだ。自分を自分で失くしてしまえば、この過酷な奴隷生活もいくらか楽になると考えた末、奴隷たちはそうしている。日々を無為に過ごすことが彼らの生活のコツなのだ。
だがそんな中、まだ当然のように希望を持ち続け、隙を見ては逃げ出そうと行動を起こす二人が信じられないと言うように、青年は目を瞬いた。暗がりの中でも光を持つ黒と空色の瞳を見ても、二人が共に同じ思いであることが分かる。どうにかしてこの絶望の場所から逃げ出そうと考え続ける二人に、青年は敬意さえ抱き始めた。
「あんた、マリアちゃんの兄貴だろ」
唐突に聞かれた事実に、看守の青年はひるんだ。一瞬の沈黙で事実を確認したヘンリーは、怒りを抑えるような震える溜め息を漏らす。
「どうして助けてやらないんだ。あの子の兄貴なんだろ」
「助け出せればとっくに助けてるさ」
ヘンリーのぶっきらぼうな物言いに、少し不満げな顔を見せて、看守の青年は答える。
「僕が勝手な行動を起こせば、周りにも迷惑がかかるんだ」
「そんなの逃げてるとしか思えない」
ヘンリーの間髪入れない返しに、青年は怒りと悲しみの混ざった目つきでヘンリーを見据える。
「逃げてなんかいるものか。どうして妹を助けることから逃げなきゃいけないんだ。ただ妹一人を助けるのに、他の人々を巻き添えになんかしたくないんだ。この場所で僕が勝手な行動を起こせば、僕だけの問題ではなくなってしまうんだ。分かるだろう、それくらい」
青年の怒気の含んだ言葉に、リュカは眉をひそめて視線を落とし、ヘンリーは腹立たしい思いを抱えながらも、彼の言葉を理解した。ヘンリー自身にも身に覚えのあることだった。
ヘンリーは思い出すことも忘れていた幼い頃のことを思い出した。幼い頃の自分が勝手わがままな行動をしていたのをヘンリーは自覚している。城で仕える者は多大な迷惑を被っていたはずだった。
己がわがままを通したせいで、女官を一人城から追いやったこともあった。大臣に呼び出されていた彼女を見た時、彼女が苦手だったヘンリーは「いい気味だ」くらいにしか思っていなかったが、その後しばらくして彼女の姿は城から消えていた。城での仕事を首になったのだ。そうやって人ひとりの人生を軽く動かしてしまった。
最も酷い迷惑を被っているのが、今隣にいるリュカだ。
幼い頃のある日、勇猛と名高かった父パパスに連れられ、リュカは訳も分からず突然城にやってきた。その理由は今となっても、リュカもヘンリーも知らない。自分が城の中でわがまま放題に振舞っていたせいで、結果的にパパスを死に追いやり、息子のリュカをこんな悲惨な場所にまで連れてきてしまった。その時の惨劇が頭に蘇ると、ヘンリーは思わず目が熱くなるのを感じた。手で目を覆う。
彼がもしマリアを助けるために単独行動を起こせば、看守ら全員が何かしらの咎を受け、奴隷たちへの監視は更に厳しくなるのだろう。妹一人助けるために、罪もない周りの人間を巻き込みたくない、そんな常識的思考が彼の行動を留めてしまっていた。
青年にとって、妹を助ける行動はわがままな行動なのだ。
「どうしてあなたはここにいるんですか」
リュカが静かな声で問いかけた。青年の後ろには年配の看守がおり、彼が言い争いの雰囲気を出している三人を訝しんでいる。リュカは意図的に声を落として話を続けようとした。しばしの沈黙の間に青年は少し冷静になれたらしく、同じように声のトーンを抑えて答える。
「子供の頃に両親を亡くして、食うや食わずの毎日を過ごしていた時に、ここの信者の言葉に誘われたんだ。この教団に入信すれば、世界が滅びに向かおうとも助かると言われ、飢えで生き死にを彷徨っていた僕たちは迷わずこの教団に入信した。それまでの生活に比べれば、どんなところだってマシだと思ったんだ」
青年は苦々しい表情ではあったが、ぽつぽつと話をし始めた。リュカは鉄格子越しに青年を真っ直ぐに見つめながら、ヘンリーは格子に背を預けながら、それぞれ彼の話に耳を傾ける。
「ここへ来てからは飢えの心配はまったくなくなった。マリアも徐々に元気になっていった。ここにいれば世界に何が起ころうとも助かるんだと、しばらく疑いもしなかった。それまでの生活と比べたら天国に近い場所だったんだ」
青年は遠い昔になってしまった過去を思い出しながら、ごく小さな声で語っていく。そんな彼の遠い目を見ながら、牢の中の二人は返事もせずに、俯きながら彼の話を聞いている。
「そのうち教団の教えのおかしさに気が付きながらも、僕はそれを否定することもできずにいた。妹のマリアが見えない神に祈っている傍で、僕はその神をちっとも信じていなかった」
青年の告白を聞きながら、リュカは彼の背後を確認した。気づけば、彼と共にいたもう一人の年配の看守の姿がない。どうやら、ここを彼に任せて、年配の看守は他の場所に移動したようだ。その状況にリュカはほっと胸を撫で下ろした。
青年は今、この教団にあるまじき行為をしている。教団の者たちが信じて疑わない神を冒涜するに等しい言動をしているのだ。もし教団内の誰かに見られたら、きっと彼自身もマリアと同じように奴隷の身分へと落とされることは間違いない。たとえ彼自身がそれを望んでいようとも、リュカは目の前にいる青年がそうなることを懸念した。
「神への信仰というものが何なのか、僕にはよく分からなくなってしまった。飢えの苦しみから解放されて、今の生活を手放せなくなった僕は、列記とした罪人なんだろう。奴隷として働かされているお前たちを見過ごしてきたんだからな」
彼の表情には様々な苦悩が入り混じっていた。飢えの苦しみから逃れるために教団へ入団したこと、そこに妹のマリアを道連れにしたこと、見たこともない神に一途に祈りを捧げていたこと、奴隷の存在にしばらく気づかなかったこと、そして全部が見えた今となっても手に入れた生活を手放せなかったこと。全てが彼をがんじがらめにし、人に語ることもできない思いを抱えながら、彼はずっとここでの人生を歩んできたのだろう。彼がそこまで語らずとも、リュカには青年の気持ちがまるで自分の気持ちに入り込んでくるように理解していた。
青年はその不幸が彼自身だけに起こったことなら、まだ耐えられたのかも知れない。しかし実際に奴隷へと身をやつしたのは唯一の肉親であるマリアだ。その苛酷な事実が彼にのしかかり、今こうして重荷を少しずつ下ろすように彼は言葉を吐いていた。奴隷である二人にこうして話すことで、いくらか自身の心を浄化しているのかもしれなかった。
しかし彼はふと気付いたように、歳も変わらないほどの二人の奴隷に自嘲的な笑みを見せた。そしてふっと息を漏らすと、元の通りに看守の顔へと戻る。
「お前たちにこんな話をしても仕方がなかったな。お前たちの方こそ小さな頃から奴隷にされて、僕の数倍も苦労しているんだ。すまない」
青年はそう言って二人から視線を逸らすと、再びうなだれた。リュカもヘンリーも咄嗟にかける言葉を持たず、格子越しに彼と同じように俯くことしかできなかった。牢の外で揺れる蝋燭の弱い明かりが、看守の青年の横顔を照らす。
「あんた、名前は」
ヘンリーが暗闇に紛れるような小さな声でそう呟いた。青年ははっと顔を上げ、しばらく考えてから名乗った。
「ヨシュアだ」
そう名乗る青年の姿が、ヘンリーの目にはリュカとダブって見えていた。ヨシュアはどことなくリュカと同じ雰囲気を持っていた。同じ黒髪がそう思わせるだけなのかもしれない。同じ黒い瞳がそう思わせるのかもしれない。リュカ自身はそんなことには思い及ばなかったが、ヘンリーはヨシュアという青年を正面で見据えると、自然とそんなことを考えていた。
「お前たちはとんでもないヤツなのかも知れないな。何だか奴隷と話している気がしないよ。看守たちの間で噂になるのも頷けるというものだ」
「ヨシュアさん、僕たちはいつかはここを出て自分の目的を果たさなくちゃならないんです。ここで一生を過ごす気なんて全然ないんですよ」
「……何故かお前の口からそういうことを聞くと、嘘に思えないから不思議なもんだ。看守の立場からこんなことを言うのは許されないかもしれないが、応援させてくれ。できればその手助けもしたいところだが」
「そんなことをしたらあんたの身が危なくなるだろ。俺たちはどうにか自分らでやってみせるよ」
「だからヨシュアさんも、マリアさんとあなた自身のこと、諦めないでください」
二人の奴隷の言葉に、ヨシュアの黒い双眸は潤んだ。だが彼は、自分が二人とは敵対関係であると改めて思い直し、その涙をぐっと飲んだ。二人の言葉で涙することなど、許されない気がした。
その晩、ヨシュアは違う現場に移されたらしく、二人の牢の前には現れなかった。予想した通り、二人に食事は出されない。いかんせん、奴隷の中でも目をつけられすぎている。
早々に食事は諦めていた二人だったが、もう真夜中を過ぎた頃、二人のいる牢の中に何かが投げ込まれた。時間の感覚などない真っ暗な牢の中で、二人は投げ込まれたものを恐る恐る手にし、手探りで確かめた。何かが麻布に包まれている。ヘンリーがそれを開くと、中からカビたパンと、木の実がパラパラと地面に転がった。それと革袋に入れられた雪解け水。それがヨシュアの厚意であると二人は気付いたが、牢の外には既に人の気配はない。二人は感謝の言葉を心の中で何度も唱え、その食事を平らげた。いくらか腹が満たされた二人は次の逃亡計画についてこそこそと話し、その後ゆっくりと眠りについた。
三日間の拘留のうち、ヨシュアが彼らの前に現れたのは、初めの一日だけだった。もちろんのこと、残り二日間の食事は出ない。しかし初日に食事が出ただけでも、二人にとっては予想外の幸運だった。
ヨシュアはローテーションで他の場所の警備を担当しているのだろうとリュカもヘンリーもさして気に留めなかった。闇に包まれた牢の中で三日間、二人は大人しく、問題など起こさずに静かに過ごしていた。



三日間の牢生活を終えて現場に戻ってみたところで、やはりそこが絶望に覆われた場所であることには変わりはなかった。相変わらず奴隷たちの目は生気を失い、看守たちの楽しみ混じりの奴隷への制圧が続く。冷たい風の音、岩を転がす地響きのような音、鞭が地面や人を打つ音、砕石を乗せて運ぶ滑車の音が何も変わることなく続いている。十余年そんなことを繰り返して、この場に良い変化が訪れたことは一度もない。
二人は牢から出ると、外の冷たく凍るような空気を吸い、改めて自分に言い聞かせた。いつかこの場所から抜け出す。逃げる目的を忘れないように努めた。
三日間の交流の間中ずっと狭苦しい牢の中で生活をしていた二人は、なまった身体を懸命に動かした。長年ここで奇しくも培ってきた体力は二人の想像を遥かに超えていた。たかだか三日間、何もせずにいたところで、まだ若い二人の体力はそうは落ちない。労働自体、苛酷なものであるにもかかわらず、二人とも看守の厳しい監視の下でも根を上げることなく労働に従事した。
牢から出されて初日、二人はそれぞれ違う現場に回された。看守たちが彼ら二人に一目置いているのは確かなようで、彼らは現場を離されることが多かった。牢を出て初日の今日は、当然のように現場を離された。リュカは大神殿の祭壇が祭られる予定の広場に、ヘンリーは採石場のある地下の坑道へ回された。看守の監視が厳しくなるにつれ、その目から逃れる術も彼らは必然と身に付けていた。たとえこうして現場を離されたところで、互いに会って話をすることができないわけではないのだ。表向きには命令に従順になり、看守の目を盗んでまた互いに話をするつもりでいた。
外の現場に回されたリュカは重たい雲が立ち込める空を見渡し、身体を震わせた。常に寒さに凍えそうな場所ではあったが、この日は常より数段寒く、牢で大人しく拘留されている方がよっぽどましのようにさえ思われた。袖のない奴隷の服に身を包む人々の手足は赤く腫れ、痛々しく、リュカはそんな光のない光景を目にしながら、今日は何人の人たちが犠牲になるのだろうとぼんやりと考えた。ただその人数が少ないことを祈るしかできない自分に腹を立てていた。
リュカは回復呪文で身近にいる人間の怪我を治したりすることがままあった。しかしたとえそうして身近な人間を助けたところで、この絶望に覆われた神殿では大半の人間が死んでいく。その度にリュカは自分の無力さを痛感する。幼い頃と何も変わっていない自分の無力さを嘆く。
今自分の傍らに亡き父がいれば、どんな救いの言葉をくれるのだろうと詮無いことを考えてしまう。たとえそれを想像したところで、それは父の言葉ではなく、自分が勝手に思い浮かべる言葉であるというのに、リュカはつい空を見上げて父の姿を探そうとしてしまう。空を見上げてもそこに青空はなく、寒々とした白い空が広がるばかりで、そこに父を望むことなどできなかった。
しばらくすると、ちらちらと舞い降りていた粉雪は勢いを増し、空を望めば目を開けていられないほどの雪になった。そして程なくして、雪は山に吹き付ける風と相まって、大吹雪と変わった。ごうごう吹き荒れる雪に横っ面を殴られ、視界も利かなくなり、大神殿での作業は一歩も進まなくなってしまった。奴隷たちが右往左往するのに混じって、看守たちも経験したことのない大吹雪に判断しかねている様子だった。
大神殿を創ろうとしているところに吹き付ける吹雪に、奴隷も看守も一様にして神の怒りだと慄き、その怒りを静めようと天に祈りを捧げ始める。しかしいくら彼らが祈りを捧げても、山に起こった吹雪は止むことを知らず、神殿をあっという間に真っ白埋め尽くそうとする。
「全員、下に戻れ。今日の外の作業は中止だ」
看守の命令が吹雪の中、かすかに奴隷たちの耳に響いた。寒さで身体がうまく動かない奴隷たちをよそに、看守らは早々と地下へと姿を消した。看守の命令が聞き取れずにまだ戸惑っている人々に呼びかけながら、リュカも地下の坑道へ続く階段を下っていく。足形がつくほどに積もり始めた雪は、その後も一日中止む気配を見せなかった。翌日の外での作業を考えると、リュカは思わず溜め息をついていた。
地下の坑道の中、砕石現場にいるヘンリーの姿を目にした瞬間、リュカはひとまず胸を撫で下ろした。三日間の拘留中、二人はそれぞれに新しい逃亡策を思い描いていたが、それを一言も話していない。互いに話をするのは、こうして労働の合間を縫っての時だった。
外から流れ込んできた奴隷たちを驚きの目で見ていたヘンリーだが、リュカと目が合うと、含みのある笑みを見せた。だが、その視線はすぐに逸らされた。目立つ場所での会話はなるべく避けるのは、二人の暗黙の了解で決まっている。
ヘンリーは砕石を運ぶ手を休めないながらも、その視線は常に現場を見渡している。そうしてどこかに隙がないか、いつも周りの様子を窺っているのだ。リュカも同じように周囲を何気なく見渡し、逃亡の糸口を見つけようとする。昨日気付かなかったことに、今日突然気づくこともあるのだ。
通常では外と中とで現場を分けている奴隷が一度に集まったため、地下の現場の温度が少なからず上がったようだ。常に寒さと戦わなければならない状況と違い、奴隷たちの動きが図らずも良くなった。各々、そんな意識は全くないが、手先にも足先にも体温が通うことで、身体を動かそうという気になっている。それでも奴隷たちの話し声は聞こえないが、現場に響く労働の音はいつもより活気づいていた。
まだ拘留から解かれたばかりの自分らが特に目をつけていられていることは、二人とも、嫌でも気が付いている。しかし、リュカとヘンリーは互いに仕事をしながら徐々に距離を詰めていった。いつも以上に人で溢れている地下の現場は、看守の目くらましにもちょうど良かった。
岩に隠れ、人に隠れ、作りかけの柱に隠れ、二人は互いに移動していく。そして人ごみの中、二人は間近に顔をつき合わせると、ほぼ同時に言葉を吐いた。
「チャンスだね」
「どさくさに紛れるにはな」
小声でそう言い交わし、二人はそ知らぬふりをして作業を続ける。これだけの奴隷に対して、看守として現場にいるのは六人。その中にヨシュアの姿は見られなかった。だが彼がいないことで、彼を巻き添えにすることもないと、リュカは少しばかり安心していた。
その時、ヘンリーは人ごみの中に見覚えのある姿を見つけた。まだ幼ささえ残る少女が両腕で懸命に大きな石を運ぼうとしている。それはマリアの姿だった。とてもその細腕にはおさまりそうもない大きな石を彼女は必死に持ち上げようとしていた。やっとの思いで持ち上げると、マリアは他の奴隷たちに習って採石場へと運ぼうとよろよろと歩き始めた。
ヘンリーはその様子をじっと見ていたが、見ていても不安が募るだけだった。あまりにも頼りないのだ。リュカの傍を離れ、人込みを掻き分けて、ヘンリーは少女の方へと足を向けていた。
ヘンリーが近づく間にも、マリアは必死になって、石を抱えたままふらふらと歩き続けていた。そんな少女の様子を看守がすぐ側でにやついた表情で眺めている。ヘンリーはその看守に魔法をぶつけてやりたい衝動に駆られたが、背後についてくるリュカの気配に気が付き、何とか冷静さを取り戻した。
「マリアさん、だね」
「あの調子じゃ、看守に鞭打たれるのも時間の問題だろ」
「ただでさえ、もう目を付けられてる」
リュカもそう言いながら、マリアのすぐ傍でじっと彼女を監視している看守の姿を目で捉えていた。現場は奴隷たちで溢れていたが、歩きづらいほどではない。ヘンリーとリュカは再び奴隷たちに紛れて移動した。まだ彼らの存在に気が付かないマリアに声が届きそうなほど近くまで来たが、ヘンリーはそこで足を止めた。少し間を開けて付いてきていたリュカは、何事かと思いながらも、距離を保ちつつ様子を窺う。
直後、マリアに目をつけていた看守が、突然彼女の足元に爪先を出して、彼女を転ばせた。その拍子にマリアが両腕に抱えていた石が滑り落ち、看守の足近くに落ちた。看守が大袈裟な悲鳴を上げる。奴隷たちが一瞬にして凍りつくのがわかる。
しっかりと現場を見ていたリュカとヘンリーは、その石が看守の足にはかすりもしていないのが分かっていた。しかし、看守はここぞとばかりに足を両手で押さえ、片足立ちでその場を跳ねながら、しきりに痛さを訴えている。ニキビ面の、まだ年若い看守だ。
「ご、ごめんなさい」
マリアの消え入るような謝罪の言葉は意味を成さない。石はただ地面に落ちただけなのだ。だが、マリアの言葉は看守に好機を与えてしまった。
看守は鋭い目で少女を一瞥すると、手にしていた鞭を慣れた手つきで振るった。しなやかに弧を描いた鞭がマリアの細い腕を打った。
「人の足にこんなくそ重い石を落としておいて、謝るだけで済むと思っているのか」
「ごめんなさい。怪我をされたのではないですか」
看守の嘘には微塵も気づかずに、マリアはただ申し訳ないといった表情で謝る。心から看守の身を案じている。打たれた彼女の細い腕には赤い跡が残り、余程そちらの方が痛そうだとリュカは思った。しかし少女はそんな痛みには気が付かないとでも言うように、その腕さえ伸ばして看守を心配そうに見つめている。
周りにいる奴隷たちはその様子を一歩引いて傍観することしかできないようだった。彼らはこれから起こる事態を予測しながらも、やはり少女を救う術を持たず、ただ自分の周りに悲劇が起こらないことだけを祈った。リュカとヘンリーはその中に混じりながらも、少女をどう助けるべきか頭を巡らせていた。
真剣な表情で顔を覗き込んでくる少女に、看守は足をさすりながら彼女に鋭い視線を向ける。マリアは思わず肩を震わせ、それでも心配そうに彼の顔を恐る恐る見上げる。看守は弱々しい少女の様子に満足したのか、口元に笑みを浮かべた。
突然、看守はマリアの泥に汚れた髪を力任せに掴んだ。髪ごと顔を上に向けられ、マリアは痛さに顔をしかめた。そして看守の卑下た笑みに気が付くと、看守を心配するマリアの心は恐怖に取って代わられた。
「足の指が折れてるかも知れねぇな。さて、どう責任を取ってくれんのかね、お嬢ちゃん」
骨が折れてなどないことは、誰が見ても明らかだった。看守は初めから目標をマリアに定め、故意に彼女を陥れた。それはリュカにもヘンリーにも分かっていた。唯一分かっていないのは当のマリアだけだった。
マリアは髪を引っ張られている痛さよりも、恐怖に瞳を見開き、金縛りにあったように看守から目を離せないでいる。まだ幼い少女の顔を見て、看守は勝ち誇ったような顔つきでさらに彼女の髪を引っ張り上げた。
「ごめんなさい。私、怪我を治すことなんてできませんけど、何かできることがあれば……」
「こっちに来い」
マリアの言葉を最後まで待つことなく、看守は長い髪をつかんだまま、彼女をどこかへ連れていこうとする。奴隷たちの間に、悟ったような雰囲気が漂った。これから起こる彼女への仕打ちを、ほとんどの奴隷が理解したのだ。
看守が向かうのは、看守たちの寝泊まりする場所だ。看守がマリアの長い髪を掴みながらも、もう片方の手で彼女の体を触っている。マリアの小さな身体が震えているのが分かった。しかし、彼女は何かを諦めた様子で、大人しく看守についていくだけだ。
ヘンリーは奥へ消えようとする二人の背中を見ながら、自分の中のどこかの神経が、音を立てて切れるのを感じた。そして隣にいるリュカを振り返る余裕もなく、ヘンリーは独り言のように言葉を吐いた。
「俺、もう我慢できねぇ」
リュカの返事を待たずして、ヘンリーは奴隷たちの間をすり抜け、マリアを連れて行こうとする看守に掴みかかった。マリアの髪を掴んでいた看守の腕を掴み、ひきはがす。そして間髪入れずに、ニキビ面の横っ面を思い切り殴った。鈍い音と共に、看守の身体はマリアから離れて地面を滑っていった。気持ちが昂ぶったままのヘンリーはすかさず追い討ちをかけようと、鼻血を流す看守の襟首を掴み上げる。
「貴様、こんなことをしてただで済むと思っているのか」
「うるせぇ。このクソ野郎」
看守の言葉などには耳も傾けず、ヘンリーは掴んだ襟首を高く持ち上げると、それを一気に地面に叩きつけた。頭への直接の攻撃に、看守は運良くその一撃で気を失ってしまった。
奴隷の抵抗を見た他の看守らが、反乱者を抑えようと一斉にヘンリーに向かって駆け出してきた。ヘンリーは怯えるマリアを守るように構えると、覚悟を決めて拳を固めた。しかしその時すでに、隣にリュカの姿があった。
「リュカ、お前はすっこんでろ」
「僕だって君とおんなじ気持ちなんだ。好きにさせてよ」
そう言うリュカの黒い瞳はまだ生気に満ちている。リュカはこんな状況になっても、まだ諦めてはいない。ヘンリーは自分の感情の中に少し見えていた諦めをどこかに追いやった。そして奴隷たちを掻き分けて進んでくる看守らを見据えながら、二人は徹底的にやってやろうと心に決めた。
まず始めにヘンリーに手をかけた者を、リュカが後ろから殴り倒した。ほぼ同時に自分に飛び掛ってきた看守をリュカは引き剥がし、顔面に肘鉄を食わせた。まだ恐怖の中にいるマリアを中で守りながら、多勢に無勢の中、二人はこれまでの恨みつらみを一気に晴らすかのようにがむしゃらに戦った。
現場にいなかった看守も、騒ぎを聞きつけ、姿を現していた。多勢に無勢、総じた力では到底適わなかったが、奴隷として知らず育てられた強靭な精神力は看守らを圧倒した。
「おやめください。私なんかに構っていたら、あなたたちが……」
マリアが叫びながらヘンリーの足にすがったりもしたが、彼女に言われるまでもなく、ヘンリーもリュカもこの騒動後の自分らの処遇をとっくに想像していた。三日の拘留を終えてすぐにこのような騒ぎを起こした。それこそ先ほどの看守の言葉のように『ただですむ』わけがない。来るべき結果は明らかだ。今度は死を免れないだろう。そんな絶望を予感しながらも、二人はこの場を見過ごすことなどできなかった。
そして、まだ完全に人生を諦めたわけでもない。奴隷になり十余年、今こうして生きているのが奇跡のようなものだ。奇跡に恵まれ、命が続いているのなら、まだこれからも奇跡は起きるに違いない。リュカもヘンリーも心のどこかでそう信じていた。
二人が勢いづいて看守らを圧倒していたのは初めのうちで、間もなく彼らの状況は劣勢に向かった。あっという間に敗色が濃くなりながらも、二人は諦めずに何度も看守に楯突いていった。
地面に膝をつき、もう立ち上がれなくなってしまった二人に、マリアが泣きながらすがりつく。リュカとヘンリーは、マリアに「平気、平気」と声にならない言葉をかけると、なけなしの魔法力で看守らに最後の一発をお見舞いしてやった。一人は腕に鋭い切り傷を受け、一人は顔面に火の玉を浴びた。その二人がその場に残っていた最後の看守だった。
最後に勝ったという印象だけ頭の中に残して、二人はそれからの記憶を失くした。



二人が再び目を覚ましたのは、見慣れた牢の中だった。乏しい明かりの中でも、何度も出入りしている牢の中の様子は、見渡さずとも分かる。つい昨日までここにいたせいもあり、牢の記憶がずっと続いているようにさえ感じられる。この場所に拘置されて、リュカもヘンリーも反省の念を抱いたことはない。信念を貫いて行動した結果、捕まってしまう己の行動を、間違っているとは思えなかった。
三日間の拘留を終えたばかりのこの騒動に、以前から看守の鋭い視線を集めていた自分らはすぐにでも殺されるのだと思っていた。人が死ぬことにさほどの衝撃がないこの現場で、まだ命が続いている。リュカはまだ希望を捨てずに、ぼんやりと暗い天井を見つめていた。
「ヘンリー、身体は動く?」
「うーん、まだちょっと無理っぽいな。ま、じきに動くようになるだろ。その前に死ななきゃの話だけど」
口だけは元気な友の様子に安心して、リュカは自分も寝転んだまま彼に回復呪文をかけた。鞭打たれ、殴られ蹴られ、ひどい怪我を負っている状況は同じだ。彼の傷を見もしないで手探りで癒すと、リュカは疲れたようにその手をぱたっと地面に下ろした。怪我を治してもらったヘンリーは、怒ったような口調でリュカに言う。
「自分の方がひでぇ怪我してんだろうが。何でいつもお前は……」
「怪我を治したのに怒られるなんて心外だね。こういう時はお礼を言うもんなんだよ、ヘンリー」
「ああ、はいはい、分かったよ。ありがとうな」
「心がこもってないね」
「いいから自分の怪我をとっとと治せよ」
ヘンリーに急かされてから、ようやくリュカは自分の怪我の具合を顧みた。一番鈍い痛みを発していた左腕にひとまず呪文をかける。ヘンリーが怒るのも無理はなかった。彼の左腕は乏しい明かりの中でも分かるほど腫れ上がり、血に塗れていた。呪文が効いていくらか痛みは治まったものの、まだ元気に振り回すまではいかない。リュカはその左腕をゆっくりと上げてみたが、まだ自分の腕であるという感覚が取り戻せなかった。
二人とも少し落ち着き、改めて牢の外の様子に注意を向けた。常に一人か二人いる看守の姿はなく、牢獄の周りにいる人物は二人の他には誰もいないようだった。
先ほど起こした騒動に、ここにいる看守のほとんどが集まっていたのだろう。その大半に痛い目を合わせたと思うと、ヘンリーの気はいくらか晴れた。いい気味だと言わんばかりに鼻で笑った。
監視の目もなく、二人は久しぶりに伸び伸びと地面の上に寝転がっていた。それが束の間のことだと分かっていても、彼らはとにかく頭と身体を休ませたかった。しかし誰もいない牢獄は異常なほど不気味で、休ませたいと思っていても、頭は勝手に思考を巡らせ始める。
「マリアちゃん、どこにいるんだろう。無事だといいんだけど」
「ここには誰もいないみたいだし、何かひどい目に遭ってなければいいんだけどね」
それだけ言葉を交わすと、二人は会話を止めた。救いたかった彼女が傍におらず、リュカもヘンリーも表情を暗くし、彼女の身を案じた。思う存分暴れた挙句、彼女が無事でなければこの騒動は何の意味もなさない。確認しようもないマリアの安否に、リュカとヘンリーはどうにかその場から身を起こして、誰もいない牢の外を見渡し始めた。
それから程なくして、牢獄に通じる扉が遠慮がちに開けられた。薄ぼやけた外の明かりが差し込み、二人の人間のシルエットが浮かび上がる。そのうちの一人は隣の人物に腕を支えてもらってようやく立っているようだ。その二人は真っ直ぐにリュカとヘンリーのいる牢の前まで歩いてくる。
「お前たち、怪我は大丈夫か。一応薬を持ってきた。これで手当てをするといい」
「ヨシュアさん」
名を呼ばれた看守は、妹のマリアを連れてきていた。マリアは手当てこそしてもらったのだろうが、まだショックから立ち直っていないようで、兄に身体を支えてもらってようやく立っていられる状態だ。マリアは兄の腕につかまりながら、牢の中の二人と目を合わせると、申し訳なさそうに深く頭を下げた。
「私のせいでこんなことになってしまって……。謝っても謝りきれません」
「そんなことよりマリアさんが無事で良かった。これでマリアさんが危ない目に遭ってたら、僕たち何のためにあんなに暴れたのか分かんなくなっちゃうよ」
「あんたが助けてくれたのか、マリアちゃんも俺たちも」
ヘンリーは妹の身体を支えてやっているヨシュアに問いかけた。ヨシュアは伏せていた視線を上げて、その黒い双眸を二人の若者に向けた。瞳の奥底に意思の強さを秘めている。
「助けてもらったのはこっちの方だ。おかげでマリアも助かった。本当にありがとう」
ヨシュアはそう言って、鉄格子の間から手を差し出した。彼の手とリュカとヘンリーは交代に握手を交わした。ヨシュアの手の平には硬い豆ができていて、ごつごつとした印象が強かった。そして手を離したヨシュアは、ふとズボンのポケットから銀色に光る小さな鍵を取り出し、鉄格子の錠前に手を伸ばした。
「僕はお前たちに賭けることにした」
ヨシュアの言葉の意味が分からず、リュカもヘンリーもただじっとその青年の顔を見つめた。ヨシュアは決めた意志を揺らがせることなく、ただ銀色の鍵を回して、錠前を外すことに専念していた。
「ヨシュアさん、僕たちをここから逃がそうって言うんですか」
「ああ、そうだ。僕からの礼だと思って欲しい」
「当然あんたも一緒に逃げるんだよな」
「ただお前たちを逃がす代わりに、一つ条件をつける」
ヘンリーの言葉には答えず、重い錠を外したヨシュアはそれを手の中に収める。呆然としている二人の前に立ちふさがる鉄格子を静かに開けた。兄の腕に寄りかかって立っているマリアも、リュカとヘンリーと同じような表情で兄を見つめている。三人の感情など置いてけぼりに、ヨシュアの黒い瞳は希望に満ちていた。それだけで、看守の決意は、何も言葉はなくとも二人の若者に伝わった。
「マリアを、無事に地上まで連れて行ってくれ」
ヨシュアは手にしていた錠を土の上に投げると、支えていたマリアの手をリュカに渡した。まだふらつくマリアを支えながら、リュカはヨシュアを見る。肉親を守りたいという強い想いは、リュカにとって忘れられない父の最期の姿を思い出させた。リュカは喉の奥にこみ上げる熱を押しとどめると、震えるマリアの小さな手をしっかりと掴んだ。
「分かりました。約束します」
「兄さんは、どうするの」
マリアは震える声で兄に尋ねた。ヨシュアは冷静に、笑みさえ浮かべて妹に答える。
「兄さんはここでお前たちを逃がすために、装置をいじらなきゃいけないんだ。だからお前たちだけで逃げるんだ」
ヨシュアはそう言いながら、マリアから視線を逸らすと、そのまま三人を誘導するべく歩き出した。その足取りには何の迷いも感じられない。マリアは覚束ない足取りをリュカに支えてもらいながら、ヨシュアの行く後を付いていく。
連れられた部屋には数え切れないほどの大小様々な樽と、部屋中にどうどうと激しい水の音が響いていた。滝のように水飛沫を上げて流れる大きな水路は、この山に流れる川を利用しているのか、いやに澄んだ水が流れていた。この部屋に連れてこられた三人は、ヨシュアの後姿を見ながら、まだ彼のしようとしていることが分からずに、ただ無言で立ち尽くす。
「この場所は奴隷たちの墓場のようなところなんだ」
墓場と説明されても、まだ三人にはヨシュアの意図が見えない。そこには奴隷のための墓標もなければ、亡くなった者たちを埋める土も存在しない。大小様々に積み重ねられた樽に死んだ奴隷が入っているならば、腐敗臭が漂っているはずだ。第一、奴隷たちが死のうが何をしようが、ここにいる看守たちが彼らを手厚く葬ること自体、リュカにもヘンリーにも想像できなかった。
「奴隷たちは死んだらこの樽に入れられて、海まで通じるこの水路から流される」
ヨシュアの言葉を聞いて、二人は何故かほっと胸を撫で下ろしていた。この場所で惨たらしく死んだ後、奴隷がこの場所に葬られたとしても、それは彼らの安息の場所になりえるはずがない。この忌々しい場所に埋められるくらいなら、樽に入れられて少しでもこの場所から離れたいと思うだろう。
ヨシュアは上に積み上げられている小さめの樽を何個か下ろし、下に埋もれていた大きな樽を水路の前まで転がして運んできた。それは大人であれば優に四、五人ほどは収まるほどの大きさだった。
「この中にお前たちが入ったら、僕が外から蓋を閉める。それから水路の流れに乗せる」
ヨシュアの有無を言わさぬ言葉は、彼の決意の固さを如実に表していた。
「いやだ、兄さんも一緒に……」
「マリア、分かってくれ。兄さんは一緒には行けないんだ」
深海色の瞳に涙をためるマリアに近づくと、ヨシュアは彼女の前髪越しに軽くキスをした。それがまるで別れの合図のようで、マリアは声も出せずに涙を落とし始める。
「俺が、やるよ」
兄妹の別離の場面に耐えられなくなったヘンリーは、そう言ってヨシュアの肩を掴んだ。
「マリアの恩人のお前にそんな役目を負わせることはできない。さあ、中に入ってくれ。あまり時間がない」
「いいから俺に教えろ。マリアちゃんはあんたを必要としてるんだ。だから一緒に行ってやれ」
ヘンリーの声は少し震えていた。一人ここに残った後の処遇が一瞬、ヘンリーの頭をよぎったのだ。人生の末路を想像し、ヘンリーは恐怖に襲われるのを抑えられなかった。ヨシュアの肩に置く手も微かに震えていた。
ヨシュアはそんな心優しい彼を振り返ると、肩に置かれたその手を取って青年の空色の瞳を見つめた。
「ありがとう、その気持ちだけで十分だ」
ヨシュアはそう言うと、リュカが耳にしたことのある魔法の文句を呟き始めた。ヘンリーもその正体にすぐに気が付いたが、ヨシュアの呪文は止められなかった。呪文が完成すると同時に、ヘンリーの足から力が抜け、頭を揺さぶるような睡魔が彼に襲いかかる。何とか抗おうとするヘンリーの身体をヨシュアは支え、そのままヘンリーは彼にもたれかかったまま眠ってしまった。ヨシュアは無事に眠ったヘンリーにもう一度礼を述べると、そのまま彼の身体を抱え上げて、樽の中へと運んだ。
「さあ、お前も入るんだ。友達一人では行かせられないだろう」
ヨシュアの決意に、リュカはただ頷いて答えた。離れそうになるマリアの小さな手をしっかりと掴み、リュカは横たわるヘンリーの傍らに乗り込む。部屋中にごうごうと滝の音がうるさく響いていたが、その音がまるで遠い世界から流れてくるように彼らの会話を邪魔しなかった。
「あと、用意できたものだけだが、これだけ荷物を入れておく。僅かばかりだが、水と食料が入っているから分けて食べなさい。お金も少しだが入っている。それと僕の服が一着入ってる。街に着いてもその格好ではどうにもならないだろう。使うことがあれば使ってやってくれ」
「ヨシュアさん」
「何だ」
「本当にこうするしかないんでしょうか」
「お前たちでなければ、僕はこんな危ない賭けはしない。くれぐれもマリアを頼む」
そう言って微笑んだヨシュアの顔は、達成感に満ちていた。これから行うことの後悔など微塵も感じさせない表情だった。
今まで、ヨシュアはずっと罪悪感に苛まれていた。飢えから逃れるためとは言え、こんな酷い場所に妹のマリアを連れてきてしまった。その上、彼女を奴隷に身に落とされても、救うこともできなかった。罪を償う気持ちで、ヨシュアは今、本懐を遂げようとしている。
マリアはもう力なくリュカの隣に身を寄せて座っているだけだった。兄がいつものように微笑んでいる姿を見て、マリアはこれが幸せな夢なのではないかと、現実から目を逸らし始めた。
ヨシュアの手で樽の蓋が閉じられると、樽の中は一筋の光も通さない暗闇と化した。その闇は、ぼんやりとしていたマリアの頭を覚醒させるに十分な効果をもたらした。マリアは自分の手を掴んでいたリュカの手を振り払うと、閉じられた蓋を内側から強く叩き始めた。
「兄さん、兄さん……!」
樽が地面を擦る音と振動が彼らに響く。マリアは手が赤く腫れ、血が出るのも構わず、蓋を叩き続ける。間もなく樽は大きな振動と共に水の中に落とされた。
「マリア、僕はお前の幸せを祈ってる」
ヨシュアが装置を動かす機械的な音が部屋に響いた。初め緩やかだった水の流れの中で、マリアの叫び声が響く。しかしやがて水は激流となり、マリアの悲痛な叫びも激しい水の音にかき消された。水が全てを飲み込んで行く。
マリアの痛々しい姿に耐えられなくなったリュカは、マリアの腕を掴んで引き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めた。樽の隅で、ヘンリーの身体を片腕で支えながら、暴れようとするマリアを抑え込む。マリアは大声を上げて泣き続けていたが、その泣き声は激流に飲まれて聞こえない。
水の流れはいよいよ勢いを増し、樽が滝の中で急降下を始めた。果たして水の流れに乗っているのか、宙に放りだされているのか、分からない。
果てしなく落ちていく死体用の樽の中で、マリアはとうとう気を失った。

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