2017/12/03

諦めない心

 

この記事を書いている人 - WRITER -

空には今日も抜けるような青空が広がっている。太陽の熱を近くに感じる。周りには白い靄のような雲海が広がっている。まるで肌を刺すように浴びる陽光をありがたいと思うことは、この場所に連れて来られてからはあまりなくなってしまった。山の頂近くのこの場所で太陽が顔を出しても、万年雪を解かすことはない。それ程に外気は冷たい。
何もかもに見放されてしまったこの地は、彼らから全てを奪おうとする。
父を目の前でなくし、この忌まわしい場所に連れられ、もう十余年が経っていた。空一面を染める青の色を見ても笑顔は出ない。幼い頃に見上げた空とは違っていた。空にいると話に聞いた神の存在はないのかもしれないと、リュカは痛みに麻痺してしまった身体を起こしながらそう思い始めていた。端から神を信じていたわけでもないが、絶望しそうになる環境で、絶対無二の存在は必要なんじゃないかと何度となく思った。しかしそれは、神という存在ではなく、何か違うものだとリュカはおぼろげに考えていた。
それほどの絶望に苛まれながらも、リュカは一度として自ら命を絶とうと思ったことはない。彼は忘れてはならない目的を常に胸に秘めていた。
幼い頃、魔物に攫われ、連れて来られた場所が一体どこなのか、さすがに十余年の生活を余儀なくされれば大方把握していた。とある宗派の教祖を奉るために、この山の頂近くに途方もない大神殿を造ろうとしているらしい。世界でも最も高い山のに大神殿を建造するのは何故か、それは空にいると言われる神に近づくためなのだと、リュカはまだ幼い頃に聞いた。
そのために駆り出された、ボロボロの衣服を見に纏った奴隷が大勢この場所にひしめき、声もなく労働に従事している。その表情はみな同じで俯き、顔色はすでに死んでしまったように色がない。彼らはもうここに連れて来られてからは、太陽を仰ぎ見ていないのかもしれない。ただ課せられた労働に手をつける毎日が無為に続く。
何人もの人間が束になってかかって、ようやく動き出す大岩を前に、リュカは一人青空を眺めた。気づけば、ほとんどの時の行動を共にしている友の姿がなかった。
「またさぼってるのかな」
リュカは溜め息混じりにそう呟くと、その場をこっそりと離れ、死んだように歩く人の流れを縫って、心当たりの場所へと歩き始めた。
奴隷に与えられた袖もない粗末な服は、高く聳える山の頂上ではほとんど衣服の意味をなしていない。むき出しになっている腕や足にはあかぎれができ、労働でアザや切り傷をこしらえるなど日常茶飯事だ。しかしそんな痛みなど分からなくなるほどの重労働を強いられ、人々は身体の痛みにはすっかり鈍くなり、気力を失い、次第に心を失っていく。自分というものを失くしてしまえば、いくらか負担が軽減することを知った人々は、それを実践した結果、すっかり人形のようになってしまった。しかしそうなった人々は、死んでしまうのも早い。抜け殻の人形になった人々の死に顔は、やはり人形のままだった。
毎日数人は命を落とすこの大神殿の現場で、リュカは心を見失うことなく生き続けた。人形になってしまった人々に話しかけ、彼らの心を戻そうとしたことも何度となくあった。心を取り戻し、今もこの地獄のような現場で汗水垂らして働いている人間もいる。しかしリュカの言葉など聞き入れずに、あっさりと命を絶ってしまった者も数多くいる。リュカはその度に自信を失くし、何が合っていて何が間違っているのか、分からなくなる時もあった。
しかしリュカは人形になることだけは頑として拒否した。父が最期にリュカに伝えた言葉が、父の姿と共にリュカの脳裏に鮮明に残っている。
「母は生きている」父が最期に遺した言葉は、最も息子に伝えたかったことなのだと、リュカはその時の父の表情を思い出す度に、そう思った。父に憧れ、尊敬し、ずっとその大きな背中を追い続けていたリュカにとって、父の願いは自分の願いだった。命を賭して守ってもらった命を、父の願いを叶えるために使うのは、リュカにとって当たり前のことだった。自分だけの命ではないのだ。父がいて、母がいて、初めて自分がいる。強制的にこの場所に連れて来られた幼い頃より、父の遺志を継いで母を探すというリュカの秘めた意思はずっと変わらないままだった。
施工から少なくとも十余年は経っている神殿の姿は、まだ土台が出来上がろうとしている段階で、その全容は全く見えない。至る所に石が積み上げられ、その巨大な石を数人の奴隷たちがただひたすらに運んでいく。神の住まう神殿を建造するという目的など、ほとんどの奴隷たちにとってはなんの意味もないものだ。彼らの殆どは既に神の存在を諦めている。
積み上げられた石の隙間を通り抜ければ、身を隠す場所はそこかしこにある。リュカは鞭を手にする看守の目をすり抜け、労働の現場から一時避難した。
造りかけの壁がでこぼこと並ぶ中、リュカは雲で霞んで見える壁の裏側へと回った。周りを見渡せば、リュカのように自分の意思で動き、歩く人間は数少ない。壁の内側は神殿の内部にあたる場所で、そこからは様々な音が鳴り響いてくる。岩を運ぶ荷台の転がる車輪の音、看守が鞭を打つ音、それらをかき消すほど強く吹き付ける冷たい風の音。リュカはそれらを耳にしながら顔をしかめ、友と会う間だけだと自分に言い聞かせ、雲海広がる壁の外側を歩いて行った。
友の姿は雲間に霞むようにして立っていた。身を切るような風が吹く中、彼は右肩を壁に預けるようにして立ち、俯いていた。空色の瞳は何かを考え込んでいる様子だ。
「ヘンリー、またここにいたんだね」
リュカの呼びかけに驚いた様子も見せず、ヘンリーは近づいてくるリュカを振り返った。
「リュカ、お前も仕事サボって気分転換に来たのか」
「違うよ。気が付いたら君の姿がなかったから、ここだろうなって捜しにきたんだ」
 リュカが素直にそう言うのを聞いて、ヘンリーは思わず溜め息を漏らした。
「相変わらず真面目なこった。けど俺はまだ戻らねぇからな。あのヤロー、しこたま打ちやがって。壁に寄り掛かれもしねぇよ、ったく」
 ヘンリーは舌打ちをしながらそう吐き捨てると、積み上げられた切石の上に腰を下ろした。丸まったヘンリーの背中には、赤く腫れた痕が生々しく残っている。何か行動を起こして、看守に鞭打たれたのだろう。リュカはそれを見て取ると、彼の背に手を当てて、幼い頃より習得した治癒魔法をかけた。青白い光が友の背中を撫で、痛々しい赤がみるみるうちに引いていく。
「いつも悪いな」
「これくらいはどうってことないよ」
「お前も自分の怪我、治しておけよ」
「僕は大丈夫。痛みには鈍感みたいだから」
「そんなこと言いながら、他人の怪我治した後で、魔法力尽きてぶっ倒れるような奴だからなぁ。信用できねぇよ」
ヘンリーは苦笑いを浮かべながら、痛みの引いた背中を壁に凭せ掛けた。いくらか安らいだ彼の表情を見て、リュカは満足したように隣に腰を下ろす。
この過酷な日々が始まってからもう十余年が経つが、リュカは常にこのヘンリーと共に過ごしていた。人間の限界以上の労働を強いられ、毎日のようにこの場所から誰かしらがいなくなっていく。いなくなってしまった人々の行く末を想像するのは難くない。ここでの人間は道具として使われ、不要になった道具がどのような末路を辿るのかくらいはリュカにも分かった。そのような惨状に慣れつつある自分にリュカは恐怖すら抱き、毎日自身に向かって、慣れてはいけないと言い聞かせ、自分がまだ人間でいられるよう、忘れないよう努めていた。そんな中で、この友の存在は大きかった。彼がいなければリュカはもしかしたらとっくに心を失って人形になっていたのかもしれない。
リュカはちらとヘンリーの様子を窺い見た。ヘンリーは壁に寄りかかって座り、両足を投げ出してじっと目を下にやっている。その空色の瞳が生きているのを感じ、リュカは彼に問いかけた。
「今度はいつにしようか。一週間前くらいにやったばかりだから、まだ早いかな」
「そうだよなぁ、こんなとこさっさとオサラバしたいんだけど、うまく行かねぇもんだよな」
思ったとおりヘンリーが逃亡計画を考えているのを確信でき、リュカは顔を綻ばせた。
まだ連れ去られて間もない頃は、リュカの父の死や、急激に変わった環境に対応するのに必死で、二人に逃げ出そうと言う意志が生まれることもなかった。その頃から周りには自分らと同じほどの子供もいて、互いの状況を慰め合ったりもした。しかし徐々に大人になるにつれ、状況のひどさを実感し、周りが見えるようになると、ここにいたら確実に殺されてしまうと理解できた。同年代の者のうち、既に何人かはこの場所からいなくなってしまっている。それほど劣悪な環境の中で生き残り、目の前で人の命が消えていく様を否が応でも目にすると、その度にリュカはここから逃げなければと胸に言い聞かせる。こんな場所で死ぬつもりは毛頭ない、自分は父の遺言の通りに母を捜しに行くのだと、改めて心に誓うのだった。
「やっぱり何か騒ぎを起こさないとさ。どさくさに紛れてってのが一番逃げやすそうだもんな」
「でも前にヘンリーがあのど真ん中で魔法を使った時、大騒ぎにはなったけど、ひどく打たれたね」
リュカは奴隷たちが作業をしている広場を壁越しに指差して、その時の状況を思い出して思わず顔をしかめた。ヘンリーもそのことを思い出したのか、小さく舌打ちをして同じように顔をしかめる。
「あれでホントに逃げられたら儲けモンだったんだけどな。打たれた上に、飯は五日間抜きだったから、マジで死ぬかと思ったぜ」
「でも諦めないよね。絶対にここから逃げなきゃ。君のためにも」
リュカの言葉にヘンリーは俯いたまま返事をしなかった。リュカの最後の言葉に、ヘンリーは素直に頷くことができなかった。連れられたこの場所が良い場所だとは間違っても思わない。しかし十年以上経った今でも、ヘンリーはかつて住んでいたあの城に戻りたいとは思えなかった。逃亡計画を考え、地上に戻ることを諦めないのは、偏にただこの地獄から逃れたいだけだった。リュカと一緒に逃亡計画を練るに当たって決定的に違うのは、リュカには逃げ出した後の目的があり、ヘンリーにはないことだった。
「今日はあんまりいいのが思い浮かばない。ぼちぼちあっちに戻るか。戻りたくはねぇけど」
「そうだね、ここで見つかったらまたヒドイ目に遭うから」
 意見を同じくした二人は同時に立ち上がると、無限に続くような雲海を横目に見ながら、しぶしぶ奴隷たちの働く現場へと戻っていった。日が暮れたら、とりあえず仕事は一時中断し、なけなしの配給がなされるはずだ。二人は常に空かしている腹を押さえて、力ない足取りで神殿の内部へと歩いていった。



日が完全に沈み、辺りが月と星明りだけの世界になると、奴隷たちは洞穴の中にとってつけたような部屋の中に収容される。そこでは蝋燭の頼りない明かりがあるばかりで、人々の表情などあまり分からないくらいだ。しかしここでは個人の顔を見ようとするものはいない。彼らは自分のことで精一杯で、他人をあえて見るという面倒なことはしなかった。
同じような粗末な奴隷の服に身を包んだ女が、束の間の休息を与えられた奴隷たちに水を配っている。奴隷たちは我先にとそこへ集まり、水を貰っている。リュカもヘンリーも喉のひりつきを堪えながら、彼らの後ろに列を作って順番を待った。
そのような暗がりの中、地面に腰を下ろしたまま動かない人の姿をリュカは見た。奴隷の服から出ている手足は細く、白い。辺りが暗く、あまり良くは見えないが、その人が女性であることはすぐに分かった。腰まで伸びた髪は泥のせいだろうか黒茶に染まり、彼女を気遣う年配の女性に必死に笑顔を見せている。話し声がかすかに聞こえる。
「私は大丈夫ですから、どうぞ先に水をもらってきてください」
「でもマリア、あんたどう見たって大丈夫なんかじゃないよ。足、折れてるんじゃないかい」
「いえ、少しくじいただけですから。私、すぐこうしてヘマをやらかしてしまうんです」
マリアと呼ばれた少女は、額に脂汗を浮かべながら、必死に笑顔を取り繕っているようだった。そんな彼女の姿を見たリュカは、水を受け取ると、すぐにその列を離れていった。リュカが無言で歩いていく背中を見て、ヘンリーは訝しげな表情で彼の後を追った。
「大丈夫ですか」
リュカは水を片手に持ちながら、少女の前に膝をついた。突然話しかけられたマリアは驚いたように深海色の瞳を見開いた。彼女の隣で親身になって心配していた年配の女性も、リュカを挑むような目つきで睨む。
「なんだい、あんた」
「僕、治癒魔法が使えるんです。もしよければ見せてもらえませんか」
「あの、本当に大丈夫なんです。お構いなく」
リュカがじっと少女の顔を見ている横に、ヘンリーもしゃがみこんだ。そして少女が隠している足首から手を取り払うと、少女は痛そうに小さく悲鳴を上げた。
「挫いただけでこんなひどい怪我になるもんか。リュカ、治してやれよ」
少女の足首は擦り傷や切り傷などではなく、岩か何かで砕かれたようなひどい有様だった。彼女を心配していた女性は、そのあまりのひどさに思わず顔を背けていた。
リュカがそっと彼女の足首に手を置くと、マリアはまた痛そうに目をきつく閉じた。そしてリュカが中級の治癒魔法を唱えると、青白い眩い光が彼女の足を包み込む。その間中彼女はきつく目を閉じ、額からは汗を流し、痛みに堪えていた。そしてその光が静かに止むと、マリアはゆっくりと目を開けた。
「……治ってる」
「もう痛くないですか」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
マリアは呆然としながら礼を述べ、確認するように足首を擦る。まだ血の跡は残っていたが、痛みはすっかり引いていた。
「よく我慢したな。ほら、これ飲んどけよ。ひどい声してるぞ」
「え、だってこれはあなたの水ではないですか」
「俺は平気だ。仕事も結構サボってたしな。だから飲んどけよ。おばさんも水を取りはぐっただろ。だからこれやるよ」
ヘンリーはそう言いながらマリアの小さな手を取り、半ば強引に水を手渡した。マリアは顔をくしゃくしゃにして涙し、ヘンリーに礼を述べる。
「涙なんて流すなって。ここでは水は貴重なんだ。もったいないじゃないか」
ヘンリーはマリアの頬に流れる涙を拭いながらそう言った。まだほんの子供に見えるマリアは、その彼の優しさにさらに涙を止められずにいた。マリアの傍らにいる女性が、彼女の泥に汚れた長い髪を優しく撫でる。マリアは赤く腫らしたままの目で、目の前にいる二人にもう一度礼を述べた。
「僕たちはこの上の広場で働かされてます。だからまた何かあったらいつでも呼んでください。怪我くらいだったら治せますから」
「そんな何度もお呼びするわけにはいきません。怪我をしないように気をつけますね」
マリアの表情にもう傷の痛みが感じられないと思った二人は、立ち上がって、次に列をなす配給を受けに歩いていこうとした。しかし彼らの後ろで呟かれた女性の一言に、思わず足を止める。
「まったく、あんたの兄さんは妹がこんなひどい目に遭ってるってのに、よくも平気でいられるもんだね」
その女性の愚痴交じりの言葉に振り向いたヘンリーは、無表情のままマリアを見下ろした。マリアはまた首を横に振って、必死に誰かを庇っているような泣きそうな顔をしている。彼女の言葉が聞き取れていなかったリュカは、振り返ったヘンリーが再びマリアの前に行くのを見て、首をかしげながらもついていった。
「マリアちゃん、君には兄貴がいるのか」
ヘンリーの突然の問いかけに、マリアは驚いた様子でヘンリーを見上げた。しかし隣にいる女性はよくぞ聞いてくれたとばかりに、ヘンリーに向かって愚痴をこぼし始める。
「そうなんだよ。この子の兄さんはここで警備兵として雇われてるんだ。警備兵って言ったって、単なる監視役なんだけどさ。身内がこんなひどい目に遭ってるってのにさ、この子の兄さんはまだ平気で警備兵をやってるらしいんだ。あたしには信じられないよ」
「いえ、でも私の兄が警備兵だからと言って、私だけが良い扱いを受けるわけにはいきません。ここではこんなにも多くの方々が苦しい思いをしているのですから、ここに来た私だってこの苦しみに耐えなきゃいけないんです」
そう言いながら瞳を伏せたマリアを見て、ヘンリーは思わず拳を固めた。もし目の前にいるこの少女が自分の妹だったら、そう考えるとヘンリーの怒りの表情が直接マリアに向けられる。
「君の兄貴は今どこにいるんだ」
ヘンリーの問いの意味が初め分からず、マリアはヘンリーの怖い表情にただ身を縮こまらせた。隣に座り込んでいる女性もヘンリーの真剣な表情に言葉を返せずにいる。リュカは友が睨むようにマリアを見つめているのを見て、思わずそれを止めようと口を挟もうとした。
「兄は牢獄の警備を任されています。ですから私と会うことはないんです。お互いその方がいいだろうって上の方の計らいで……」
「何だよ、上の方の計らいって。こんな場所に計らいもクソもあるかよ。」
「ヘンリー、よしなよ。マリアさん困ってるよ。悪いのはマリアさんじゃないんだから」
「でも、許せないだろ。自分の妹がこんな奴隷なんかにさせられてるってのに、自分はのうのうと上で働いてるのかよ。結局は自分の事しか考えてねぇじゃねえか」
ヘンリーは憮然とした表情で吐き捨てるようにそう言う。その言葉にマリアを看ていた女性は深く頷いている。しかしマリアはまだ涙を湛えた瞳をヘンリーに向けると、必死に兄を庇う言葉を口にする。
「兄も、身動きが取れないんです。上の方からの命令は絶対ですから。それに逆らえば兄が鞭を受けます。仕方のないことなんです」
「仕方ないことだとしても、俺は君の兄貴が許せない」
そう言うヘンリーが今何を思い浮かべているのか、リュカには分かっていた。彼は地上に残された自分の弟のことを思い出しているのだ。
この場所に連れて来られてから、リュカはヘンリーからぽつぽつと彼の弟の話を聞いていた。異母兄弟とはいえ、彼の弟デールは兄を慕っていたようだった。リュカも一度だけデールに会ったことはあったが、今隣にいるヘンリーとは似ても似つかない、むしろ対極にいるような子だった。兄ヘンリーはいたずら好きで我儘と称される一方で、デールは聞き分けの良い素直な子供と城の評判になっていたことも覚えている。会った印象もデールは大人しく、人の後に付いて歩くような静かな子供だった。そんな弟の話をする時、ヘンリーはいつになく穏やかで悲しい表情になることもリュカは知っていた。ヘンリー自身はもちろんそんなことには気が付いていないようだったが、彼が弟のことを大事に思っていることは明らかだった。
そんな弟が今のマリアのような状況に置かれていると知れば、行動派の彼のこと、きっと迷わず弟を助けに行くのだろう。自分のことなど顧みず、弟を救うことだけを考えてすぐにでも行動を起こすのだろうとリュカは分かっていた。ヘンリーがマリアの兄を許せないと思うのは当然だとリュカには分かっていた。
しかし、今一番傷ついているのがマリアだということも、リュカは気が付いていた。ヘンリーの言葉を聞いている間中、マリアは何も言えずに俯いて唇を噛み締めている。もう涙は流すまいと必死に堪えているようだが、伏せられたその瞳は涙に揺れていた。
「お腹空いてるよね。今ちょっと配給をもらってくるよ。ヘンリー、行こう」
ヘンリーがまだ何か言い足りなさそうに口を開きかけたところで、リュカは彼の腕を強く引っ張って立たせた。不服そうに睨んでくるヘンリーには構わず、リュカは彼の腕を掴んだまま、再び配給の列に並び始めた。
しかし彼ら二人が並び始めたところで、割れ鐘を鳴らしたような音が辺りに響き渡り、休憩終了の合図を奴隷たちに送った。鐘の音が鳴り終わる前に、看守の鞭が地面を打ち、束の間の休憩に身体を休めていた奴隷たちを急き立てる。不衛生な皿に配られたなけなしの飯を舐めるように食べ、奴隷たちはそれぞれ無言で自分の現場へと向かう。とっくに食事を終え、睡眠を取っていた奴隷は悪夢を見るために飛び起きて、寝ぼけ眼のままふらふらと歩き出す。配給を貰いそびれたリュカとヘンリーは顔を見合わせて、同時に息をついた。
「ごめんなさい。私なんかにかまっていたせいで、お二人ともご飯が食べられなかったなんて」
後ろからぱたぱたと小走りに駆け寄ってきたマリアは、すっかり足の痛みを忘れたように二人を気遣い見上げた。マリアの後を心配そうに女性が付いてくる。マリアは申し訳なさそうに何度も頭を下げ、二人に謝罪の言葉を掛ける。そんな泥と涙に汚れた彼女の顔を、リュカもヘンリーも決して咎めるような目で見ることはなかった。
「あの、次の配給の時は私の分も食べてくださってかまいませんから」
「そんな、マリア、あんたこの前もそんなこと言って二食続けてご飯を抜いていたじゃないか。無理するんじゃないよ」
「いえ、本当に大丈夫ですから。私もともと食が細いんです。だから大丈夫ですから……」
 そう言うマリアの言葉を遮って、ヘンリーは彼女の口に人差し指を当てた。マリアは驚いたように目を見開き、肩をびくっと震わせてヘンリーを見上げる。
「看守らがこっちを見てる。早く自分の場所に行った方が身のためだ」
「それに僕たちはただでさえ目を付けられてるから、こうしてると君たちにまで迷惑がかかる。だから早く行った方がいいよ」
ヘンリーは自分よりも頭一つ小さいマリアの頭に手を置くと、彼女を安心させるように笑顔を見せた。リュカも隣にいる女性に一度頭を下げる。そして後を引かないよう、二人は看守が近づいてくることに気が付きながら、早々と休憩所を後にした。マリアと女性も看守の打ち鳴らす鞭の音から逃れるために、足早にその場を立ち去る。鞭の餌食を失った看守はつまらなさそうにただ地面を何度か鞭で打ち鳴らしているばかりだった。
まだようやく柱を立てただけの大神殿からは、満点の星空が仰げた。しかしこの奴隷の地から眺めるその星空は、ただ白々しいだけで、何の感動もないものだった。こうして月や星明かりがある日は、労働時間が長引く。むしろ空は雲に覆われ、月も星も見えない方が奴隷たちにとっては都合がよいのだ。今夜は満月とあって、月明かりはまぶしいほどだった。リュカは周りから奴隷たちのため息が一斉に聞こえたような気がした。
月明かりに照らされる中、ヘンリーの緑色の頭が遠くの方に見える。友人は地下から滑車に乗せられて運ばれてきた石を細かく砕く作業に従事させられていた。彼が振るう石槌は、彼の空腹など感じさせず、力強いものだった。友はまだあの少女の兄に対して怒りを感じているようで、それはすなわち彼が弟のことを大事に考えているということだ。リュカは看守に目をつけられない程度にヘンリーを見遣り、その度にまた彼と本気で脱出計画を立てねばと、目の前の大岩を押す手に力を込めた。



翌日も空を見上げれば恨めしいほどの青空が広がっていた。高くそびえる山の頂に建てられようとしているこの神殿に雨が降ることは滅多にない。降るものと言えば雪や雹、あられなどだった。今日も例外なく寒い。
このような酷い環境の中で生き延びる者は体力の高い男性が多い。老人に至ってはあっという間に体力を奪われ、寒さと飢えの中で命を落としてしまう。リュカたちがここへ連れてこられる前から、もう何十年も前から奴隷の身に落とされ、労働を強いられている者もいたが、その者の多くは既にこの世のものではない。彼らのための墓などはなく、命を失くした彼らがふと姿を消し、その直後にはもう何事もなかったように人々は働き始める。日常的に起こる人の死に、ほとんどの人間が慣れてしまったようで、そこに感情を連れてくることも少なかった。皆が自分のことに必死で、周りに構っていられないほど余裕のないこともリュカは理解していた。しかし彼自身はそうなることを断固として拒絶した。
そうして人々が日常茶飯事に消えていく中で、リュカは子供の頃から見知った老人の姿を広場の中に見つけた。腰が折れ、杖をついてもおかしくはないその老人は、砕石を集めてかごに入れる作業をしている。しかしその動作は当然遅く、人の数倍かかってようやく砕石をかご半分ほど集めているほどだった。
老人がどのようないきさつでこの場所にいるのかは誰も知らなかった。それほど長い間この地で奴隷として働いているようだった。鞭で叩かれ、ボロボロになった奴隷の服も、何度となく交換しているはずだが、今彼が着ているものもやはりボロボロだった。骨と皮でできているような老人の身体からは、奴隷として生きてきた厳しい月日を感じざるを得なかった。老人を慕う数人の奴隷は、彼のことを口々に「オサ」と呼んでいた。
朝早くに配給されたカビたパンが身体に力を与え、底力だけで奴隷たちは労働をこなす。労働開始の割鐘の音が彼らの地獄の始まりだ。中にはこの鐘の音を聞いただけでショックで死んでしまうものさえいる。そうして死んだ者を羨ましがる者もいる。「そうやって楽に死ねたら、どんなにいいか」と愚痴をこぼす者の横で、リュカは複雑な表情で両手を合わせることもあった。
砕石を集める作業に従事させられているオサは、周りのペースから見ると明らかに遅く、目立っていた。砕石を集め入れたかごを引っ張るため、かごに括り付けられた紐を手にするが、彼の力ではほとんど動いているようには見えなかった。そんな老人の姿を鋭い視線で睨む看守の姿を、リュカの瞳が捉えた。そして彼が近づくよりも早く、リュカは自分の仕事の手を止めて、オサに近づいていった。
「手伝います」
リュカが静かに言った一言を、オサは何とかその耳に入れた。そしてゆっくりとリュカを見上げると、穏やかに微笑む。
「お前は前にも手伝ってくれたな」
オサは視力の弱くなった目でリュカを眺める。リュカはオサにあまり構わず、看守の目も見ないように、かごの紐を掴んだ。そしてオサを岩場の陰に休ませてから、切り崩した石を上の広場に続く滑車の木箱に流し入れた。陽の光が届かないこの坑道は、看守の目を免れて、比較的休みやすい場所ではあった。しかし既にオサに目をつけていた看守が一人、遠くからわざわざ彼らの方へと歩き近づいてきた。常に頼りない松明の明かりが照らされている坑内で、看守の鞭が一際高く地に打ち鳴らされた。近くにいた奴隷達が肩をビクリと震わせて振り向く姿を見て、看守は満足そうに笑みを浮かべ、陰で休憩を取っている老人へと歩み寄っていく。
「爺さん、休むにはまだ早いんじゃないかねぇ。周りの奴らは一生懸命に働いてるってのに、あんたの心は痛まないのかよ」
看守は獲物を見つけた嬉しさが顔からにじみ出ているようで、言葉とは関係なく口元がにやけている。老人はただ弱い目で目の前の看守を見上げ、次に起こることをぼんやりと予想している様子だった。周囲で働く奴隷たちは、オサに忍び寄る嫌な予感から目を逸らしている。しかしリュカは手を止めて、オサの方を振り返った。そして看守がオサの前に行くのと同じペースで、リュカもオサへと歩み寄っていく。少し離れたところで作業をしていたヘンリーはその様子を見て、静かにリュカを追って歩いていった。
「この人に休んでくださいと言ったのは僕です。だから打つなら僕だけにしてください。この人は悪くありません」
リュカの堂々とした逃げない態度が、看守の神経に触れる。看守の男は歪んだ口元を更に歪めると、愉快そうに鞭を振るった。リュカの右頬を掠めた鞭は、そのまま地面を打ち、土ぼこりを立てて跳ねた。
「またお前か。ガキの頃からずっとイイ子でいるようだな。いい加減周りの奴隷を見習ったらどうなんだ」
「いい子でなんかいません。僕はただ本当のことを……」
「口答えは許さん」
リュカよりも歳が一回りほども上と見られる看守は、冷酷にそう言い放つと、右手に握り締めていた鞭をリュカに容赦なく振るった。右腕を押さえて顔をしかめるリュカに近づき、ヘンリーは看守を睨みつける。しかしリュカは自分に構うなと言うようにヘンリーの前に立つ。その一方では、周りの奴隷たちは見て見ぬ振りを決め込んでいる。彼らは自分の身を守ることで精一杯だった。心の中では助けたいと思う人間がいても、その鞭を食らったことのある奴隷はその時の激痛を思い出して身をすくませてしまう。その後も何日か痛みを引きずりながら労働を強いられる、そう考えるだけで身体が動かなくなってしまうのだった。
リュカは腕に受けた痛みにも悲鳴を上げずに、ただ看守をまっすぐ見つめている。
「何だ、その目は。まだ何か言いたいのか」
いくらかひきつった表情の看守から、リュカはずっと視線を逸らさずにいた。ただまっすぐな瞳で看守を見る。リュカの澱みない黒の瞳を見ているうちに、看守はたじろぎ、自ら視線を逸らしてしまった。
「あなたはどうしてここにずっといるんですか」
リュカが問う堂々とした態度に、周囲の空気が止まったようだった。看守はいつまで経っても死んだ目にならない奴隷を目の前にして、いくらか顔を引きつらせて応じる。
「決まってるだろう、教祖様にお仕えするためだ」
「僕には、あなたがもう死んでしまっているように見える。本当のあなたはどこに行ったんですか」
想像だにしていなかったリュカの言葉に、目の前の看守も後ろにいるヘンリーも息を止めた。ヘンリーはリュカを止めようと彼の左手を掴んだが、リュカはそれを静かに払った。一時、自身の中に残る良心の欠片と戦っていた看守は、その戦いの結果、結局鞭を持つ手に力を込めた。そして表情を消した。
傍らに座ったままで動かない老人に再び視線を移すと、看守は完全に元に戻ってしまった。まるで悪魔が乗り移ったかのような気味の悪い笑みを浮かべる。
「まあ、元はと言えばこの爺さんが悪いんだよなぁ。爺さんがいなけりゃお前だってこんな痛い思いをしなくて済んだんだ」
いくら叩いても効果の現れない、むしろ自分の精神をかき乱すリュカの存在から看守は目を背け、彼は対象を老人へと変えた。自分の目の前でうなる鞭を、オサは静かに目を細めて見ている。しかしその目は最期まで死んではいなかった。
「今動けと言われても、もう一歩たりとも動けん。儂はもう先も長くはない。儂を打って若者が助かるんならそうするがいい」
「ずいぶん威勢のいいことを言うじゃねぇか、爺さん」
看守は自分よりもはるかに弱い獲物を見据え、いかにも楽しげに鞭の柄をパシパシと手で叩く。岩場に腰掛けたままの状態で、オサは微動だにせずに看守を見上げている。リュカがオサの前に立ちはだかろうとしたが、オサはその細い手でリュカの手を掴むと、信じられない力でリュカの手を引いた。
「ありがとうよ、リュカとやら」
この忌々しい場所に連れてこられて以来、リュカはヘンリー以外にそうやって名前を呼ばれたことはなかった。唐突に呼ばれた自分の名に、リュカはオサを振り返った。オサは常より細い目を更に細めて、微笑さえ見せている。そして呆然としているリュカを手で押しやると、オサは看守の振るう鞭の前で、目を閉じた。リュカが庇うよりも早く、看守の鞭がオサの骨と皮だけの身体を打ちつけた。木の枝のような老人の身体は、鞭の一振りで地面に強く叩きつけられた。それからもうオサは動かなかった。何十年もここで奴隷として働かされた老人は、看守の鞭の一振りでこの世の地獄と決別した。
「……ヘンリー、ごめん」
「謝るな、俺も同じ気持ちだ……」
オサの死を目の当たりにした二人は、互いに声を震わせてそう呟いた。そして何の合図もなく、二人は同時にその看守へと飛び掛かっていった。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© LIKE A WIND , 2014 All Rights Reserved.