「モモ」を読んで

 

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小学5、6年生にオススメの図書として挙げられるものに、「モモ」という本があります。以前からこちらの本の存在を知っていて、今回読む機会もあり、興味はあったので読んでみることにしました。

本当は息子と一緒に読めればなぁと思っていたのですが、息子と一緒に読む場合、私が音読することが殆どなので、今回のこちらの「モモ」という本はページ数も多く、確実に喉がやられると思い、私一人で黙々と読むことにしました。小さい頃からの読み聞かせの習慣から抜け出せない……それほど長いお話でなければいいんですけどね。

「モモ」とは、主人公の女の子の名前です。日本人? とも思いましたが、作者の方は外国の方。ドイツ人のミヒャエル・エンデ。……ここでまたどうでも良い感想なんですが、エンデで思い出すのは、ドラクエ6の伝説の防具職人エンデ。本当に私の知識と言うのは偏っていてどうしようもない(笑) でも、知識の順番がそうなっちゃったんだから、もう戻せないんだよなぁ。

作者のミヒャエル・エンデさんは1929年生まれで、お父さんが画家という、ちょっと普通とは違う家庭環境?とも思える方です。

高等学校で演劇を学び、ミュンヘンの劇場で舞台監督を務めたり、映画評論などもしていたようですね。このように、その人の歴史や背景を少しでも知ると、その思いごと作品に落とし込まれているんだなと想像しながら本を読む事も出来て、より面白いです。

「モモ」という作品が発表されたのは、1973年ということですから、思ったよりも最近だなと感じたのが正直なところです。もっと古い作品なのかと思っていました。私はまだ生まれていませんが、今はまだこちらの作品が生み出されてから半世紀というところですね。

さて、こちらの本の内容はと言うと、現代世界に警鐘を鳴らすファンタジー小説という位置づけでしょうか。本の初めに「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」とあります。この文言だけで、ファンタジー要素を確実に感じさせてくれますね。主人公が女の子ということにも、どこか物語自体の優しさを感じさせます。

本の構成は、第1部から第3部とあり、第1部では主人公の少女モモを中心とした、彼女のごく周りにある小さな世界を描いています。児童文学の位置づけということもあり、説明は丁寧で細かく、易しいものです。難解な言葉はほとんど見当たりません。小学生を対象にした図書というのも頷けます。

主人公の「モモ」はいわゆる浮浪児で、家族はおらず、ただふとした時から廃墟となった円形劇場に住みつき始めました。彼女が一体何者なのかは、とうとう最後まで分からなかった辺りは、こちらで勝手に想像するに、天から遣わされた子だったのかしらと、これもまたファンタジーの域内で考えてしまうところです。いいんです、あやふやな部分を残すお話は個人的には好きです。想像の余地が残されているって、それだけで楽しいもので。

主人公の少女「モモ」と最も仲良しなのが、道路掃除夫のベッポ、観光案内のジジです。ベッポはおじいさん。とてもじっくり考える人で、何かを答えるにも1時間も2時間もかかるようなゆっくりとした性質を持っています。ジジは、ベッポとは正反対とも言えるほどの口達者な器量よしの若者です。その二人が、「モモ」の親友の二人という設定にも、こう、わくわくさせられませんか?

第1部では、彼ら二人や、その他の「モモ」の友達との他愛無いやり取りが描かれています。その中で、「モモ」が持っている特別なことが分かります。

それは、『あいての話を聞くこと』。

この性格を特別なものと置いたことに、当時の世界観を垣間見るような気がします。それほどせかせかと急いだ世界になっていたんだろうなと想像できます。相手の話を聞くことが特別なことだなんて、どれほど余裕がないんだと。

一見、平凡にも思えるその特性で、「モモ」は様々な人々の問題を解決してしまいます。誰かと誰かが喧嘩をしていたら、彼女はひたすら双方の話をじっくりと聞く。何が原因で喧嘩をしているのかも分からないながらも、ただただ話を傍で聞いている。喧嘩の当事者たちは、そんな「モモ」の大きな目に見つめられていることに、自分の姿が映った鏡を突きつけられた気持ちになる……この現象に、私は人間の本質があるなぁと感じました。

他の「モモ」の友達も、彼女と一緒にいるだけで楽しい遊びがどんどん思い浮かんでしまうという……「モモ」は世の中の安らぎの部分なのかも知れません。そもそも、人が声を出して話すというのは、人に話を聞いてもらうことが前提ですよね。人に話を聞いてもらいたいから、話をする。だから、あいての話を聞くことに集中できる「モモ」は、それだけでとてつもない価値ある人間とも思えます。

第1部は平和な日常を描いたもの、と言えるでしょうが、第2部から雰囲気が変わります。敵となる「灰色の男たち」が現れます。

この灰色の男たちがいわゆる「時間どろぼう」となる敵です。時間貯蓄銀行の外交員として、町の人々に話を持ち掛けます。人生における時間を財産とみなし、その財産を節約しましょう、無駄な時間を過ごさないようにしましょう、時は金なりを地で行く状況に、人々を追い込んでいきます。

時間は確かに大事です。それは本当のところでしょうね。しかし時間を節約することばかりに気が向けば、それは同時に時間を無駄にしているとも言えるのかも知れません。

人生は限られた時間ですが、その時間をいかに本当の意味で有意義に過ごすかを考えるのは大事だと思います。ただただせかせかと、目の前の事をこなして行って時間を節約して喜んでいては、そこに意義はないように思えます。

本の中に”時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです”とあります。ここ、大事だなぁと思いながら読みました。せっかく人として生きているのだから、心を大事にしないといけないよなぁと、改めて教えられたような気がしました。

大人たちが時間の節約に走る一方で、犠牲になるのが子供たち。お父さんもお母さんも仕事を頑張っているお陰で家は裕福になり、高価なおもちゃも買ってもらえて、一見満たされたような状況の子供たちですが、その本心は……という状況。分かりますよね?

このような、忙しない時間を過ごす状況と言うのは、現代にも当然のように当てはまるから、すんなりとこのお話を理解できるんでしょう。時間は大切、だけど時間そのものよりももっと大切なものがあるでしょうと、きっと多くの人が気づいているはずのことを、この本では改めて明言して警告しているのだと思います。

大事なことと言うのは、分かっていても、忘れがちですもんね。そう言うことを思い出させてくれるのが、このような本であったり、映像であったり、話であったりするわけですね。そしてこのような創作物の力というのは、人の心に直接入り込んでくれることだと思います。頭で理解できるというよりも、心の中に染み込んでくれる、という状態を起こせるのが、お話などの創作物の大きな力なのではないでしょうかね。

この後も第2部の終わりに、主にRPGゲームをプレイしてきた私としてはワクワクする展開があったりします。マイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラの名前にもわくわくしてしまうのは、クロノトリガーをプレイしたからかも知れません(笑) ……時の賢者。

しっかりと敵側である灰色の男たちの状況も描かれていたりと、この「モモ」の世界観が大いに広がって見えて、それもまた楽しいところです。そしてこういう悪い奴らって、現代にも通用してますよ。何となくですが、はっきりとは申しませんが、現代に既視感を覚える……。

それもそのはず、本の後ろの方に掲載の「作者のみじかいあとがき」にこんなことが書かれています。

『「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」』

作者のエンデさんは、この「モモ」の話を、ご自身が長い旅に出ている時に、同じ車室に乗り合わせた人から聞いた話だと、白状(?)しています。そして、その話をしてくれた人が、上記の言葉を残して行ったと。

……いいですねぇ。この、あとがきも交えておはなしとしてしまう辺り。好きです。このあそびごころがたまりません。

ということで、この「モモ」のお話は、過去でも将来でもどちらでも大きな違いないのだと、そうはっきりと述べておられます。だからいつの時代に読んでも通じる話なのだろうと、小学生へのオススメ図書として挙げられる理由に納得が行きました。

でも、この本、本当に必要としているのは、大人の方かも知れませんね。

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