2017/11/24

伝説の勇者の真実

 

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アルカパの町を十余年ぶりに歩いたリュカは、この町のことをほとんど知らないのだと間もなく思い知らされた。記憶にあるのはビアンカに連れて行ってもらった装飾品などを売る道具屋や、町の入り口近くにある広場くらいのものだ。彼女と一緒に町の中を駆け回ったような記憶があったが、大して色々な場所には行ってなかったようだ。
それと言うのも、ビアンカと共に行動したのは、主に町の外。あの日、町の広場でいじめられていたプックルを助けるために、彼女はレヌール城のお化けを退治しに行くのだと息を巻いていた。彼女はあの時、プックルを助ける気持ちはもちろんあっただろうが、それ以上に外に出て冒険がしたかったに違いなかった。二人の男の子に捕まえられていたプックルを助けるのを口実にすれば、彼女の中では町の外に出ることに正当な理由がついたのだろうと、今になってリュカは彼女の無鉄砲ぶりに笑ってしまう。
もちろんこれから行こうとしている町の酒場など、幼い頃の記憶にあるはずもなかった。サンタローズでは宿屋の地下に酒場があり、そこで妖精のベラと出会ったことを思い出せたが、アルカパの宿屋にはそのような施設は設けられていない。リュカは宿を出る時に、宿の主人に酒場の場所を尋ね、『町の西の外れにある』という情報を得て、今ヘンリーと共に向かっていた。
町は夕焼けに染まり、西の空は燃えるように赤い。海辺の修道院を出た頃に比べ、日がかなり長くなってきた。夕闇が迫るまでにはまだ時間がかかるだろう。
町の東側が商業地区だとしたら、西側は居住地区と言っても良いほど、家々が立ち並んでいた。それぞれの家庭では夕食の支度をしているようで、家の窓や煙突から香ばしい匂いが漂う。リュカとヘンリーはその匂いに鼻をひくつかせ、盛大に鳴る腹の音を隠そうともせずに、ちらちらと家庭の様子を窺ったりしていた。
ある家の窓からちらりと覗くと、まだ小さな子供が家の中を駆け回っているのが見えた。母親に叱られ、しゅんとしたのも束の間、その直後には叱られたことも忘れてまたはしゃいでいる。叱る母親も、食事の支度をしている際に熱い湯などが子供にかかることのないよう、叱っているのだった。一瞬だけ見えた母子の愛情の姿に、リュカもヘンリーも互いに黙ったまま、静かに窓から目を離した。
住宅地の中を歩き続け、西日もそろそろ弱くなってきた頃、リュカ達の目の前に小さな酒場が見えた。中には既に明かりが灯され、少し開けられた窓からは煙草の匂いが漏れ出ている。看板は古めかしく、石造りの建物も角が取れて丸みを帯びているところを見ると、相当の年月、風雨に晒されていたのが分かる。宿屋の主人の言った通り、老舗の酒場のようだ。町には他にも酒場があるようだが、この老舗の酒場が最も常連客が多く、またその常連客の話を聞こうと、旅人も集まってくるらしい。
木の扉を開けると、ぎいぃと鈍い音が響いた。しかし酒場の客たちのほど良い喧噪で、扉を開けた音を気にする者は誰一人いない。唯一、カウンターの中にいる女性が明るい声で『いらっしゃいませー』と声をかけただけだ。
酒場の中は、カウンター席とテーブル席とに分かれている。テーブル席には先ほど宿屋のテラスで見かけた旅人三人組がいた。いかつい戦士風の男が大きなジョッキの酒をあおるように飲んでいる。その他にも数組の人々がテーブルを囲んで語り合っている。
「お好きな席にどうぞ」
テーブル席の客に酒を運んできた女性が、リュカの横を通りがけに親しげにそう言った。ヘンリーがカウンターを指差すのを見て、特に何も考えていなかったリュカは言われるがまま、カウンター席に向かって歩いて行った。
カウンター席にはリュカとヘンリーの二人の他には誰も座っていなかった。木目のあるカウンターテーブルも、長年に渡って客たちをもてなしたという、こなれた雰囲気を醸している。ヘンリーはカウンターの奥に掲げられているメニュー表を眺めた。オラクルベリーの相場と比べると、いくらか値段が安いように感じられた。
「お兄さんたち、新顔さんね。何飲む?」
いつの間にかカウンター内に戻った女性が、メニュー表を見上げるヘンリーに問い掛けた。酒を飲むことが前提になっている酒場で、ヘンリーは自分にも何とか飲めそうな酒を勘で探していたが、横からリュカが至って普通のことのように女性に話しかける。
「僕たち、酒が飲めないんです。だから違うもの、ありますか」
「お酒が飲めないのに酒場に来たの? 変わったコたちねぇ」
「とにかく腹が減っちゃって。安くて美味しい食べ物があれば助かるんですけど」
「このお店はそんな食べ物ばっかりよ。適当に出すけど、いい?」
「お願いします。お金が足りなくなったら、友達が働いて返します」
リュカがさらっと言った無責任な発言に、ヘンリーが顔をしかめて反論する。
「お前、何勝手なこと言ってんだよ」
「だって僕が働くよりヘンリーの方が慣れてるしさ、オラクルベリーで働いたんだから」
「オラクルベリーですって? いいなぁ、私も一度でいいから行ってみたい町なのよね」
店員の女性は手際よくつまみとなるものを出し、目の前に出されるなり、リュカとヘンリーは同時に手にとって一口に食べた。小さな堅パンにチーズが乗せられたものだったが、二人とも味わう余裕もなく胃の中に納めてしまった。
「ここでワインを出したいところなんだけど、本当に飲めないの?」
そう言いながら笑いかける女性の目尻には細かなシワが刻まれる。よく見ると口元にもシワが寄り、胸元を強調した派手な衣装とは裏腹に、相応に年を取っているのだとヘンリーはしげしげと女性を見ていた。
「僕はちょっとだけなら平気だけど、ヘンリーはてんでダメだよね。すぐ寝ちゃうから」
「うるせぇな。仕方ないだろ、そんなの」
「それだったらどうして酒場になんか来たの? 他にも食べるところはあったでしょうに」
そう聞きながら、彼女は他の客にも抜け目なく気を配っている。テーブル席から声がかかればすぐに返事をし、注文を聞きとって準備に取り掛かる。長年、この酒場で勤めていた彼女にとっては当たり前のことだが、手を動かしながらも話すのを止めない彼女を見ていたリュカは素直に器用だなと思っていた。
「色々と話が聞けるのは酒場だって教えてもらったんです。だからここに来てみました」
人懐こい割には丁寧な口調で話すリュカに、女性は口元にシワを寄せて微笑みかける。
「見たところ、旅人さんだものね。どんな話が聞きたいの?」
そう話しかけながら彼女がグラスに注いでいるのはアップルジュースだった。みずみずしい甘い香りが鼻を刺激し、腹をも刺激する。一気に飲もうとした二人だったが、ふと互いの懐の具合が心配になり、一口飲んだだけで恨めしげにグラスを置いた。
「伝説の勇者について知ってる話があったら、教えてもらえませんか」
リュカは今でも懐にしまっている父の手紙を、服の上から手で押さえながらそう聞いた。無意識に手が懐に伸びたのは、目の前の女性が伝説の勇者のことを詳しく知っている人だと期待を寄せてのことだった。一方でヘンリーは『そんなこと知らなくて当然だ』と言った様子で、二口目のアップルジュースを飲んでいた。
「伝説の勇者ねぇ……ちょっと待ってね」
そう言うと女性は思案顔をしたまま、カウンターの奥へと姿を消した。酒場の客はそれぞれに騒いでいて、店の主とも言える女性が姿を消したことに気づいていない。リュカは思わずカウンターに身を乗り出して中を覗きこんだが、女性の姿は見えなかった。
「どうしたんだろう。何か知ってるのかな」
「あんまり期待するなよ」
「でも知らないなら知らないって言ってくれるんじゃないかな」
「子供に読み聞かせるような絵本を持ち出してくるかも知れないぞ」
「おとぎ話ってやつ?」
「そう、それだ。何か知ってるって言ったって、その程度だろうよ」
「絵本って言ったって、どうしてここにそんな絵本があるのさ。酒場だよ、ここ」
「あの人が自分の子供に読み聞かせてるかも知れないだろ」
二人が好き勝手なことを言っていると、奥に姿を消していた女性が再びカウンターの前まで戻ってきた。期待するようなリュカの瞳に出会うと、女性はウインクをしながら二人を手招きする。
「中に入って。うちのお父さんに話を聞いてみたらいいわ」
「お父さん?」
「そういう話が大好きなのよ。相手してくれる人がいると喜ぶわ」
女性が少し荒れ気味の手でカウンター内に入るバネ式の扉を開けてやると、リュカは残っていたアップルジュースを慌てて飲み干し、開かれた扉を通って行った。ヘンリーも続いて中に入るが、いくら話を聞いたところで腹を満たすことはできないと、女性に適当に食べ物を持ってきてくれと頼んでいた。
カウンターの奥には細い廊下が続いていたが、すぐに部屋とを隔てる扉があり、その扉は既に開いていた。
部屋にはまだ西日が差し込んでいて、リュカもヘンリーも眩しさに目を細めた。開かれた扉の奥に、光に紛れた人影が見える。その神々しさに、リュカはそこに伝説の勇者がいるのではないかと、見当違いの期待を寄せた。
目が慣れると、部屋にいる強面の男にじっと見られていることが分かり、その鋭い視線にリュカもヘンリーも緊張で背筋がしゃんと伸びるのを感じた。
「俺に何の話だ」
武骨な手で、テーブルの上に広げられた冊子に何やら書きこんでいる。どうやら店の帳簿のようだ。いかつい割には細かな仕事をしているようで、そのギャップにリュカの気持ちが少し緩む。
「あの、伝説の勇者について何か知っていたら聞きたい……」
「なに!? 伝説の勇者について話を聞きたいだと!?」
突然椅子から立ち上がり、その勢いに椅子が派手な音を立てて倒れた。酒場の方にまで響くような大きな音だったが、客たちはそれぞれの話に夢中で、その音に気付く者は誰一人いなかったようだ。酒場を切り盛りする女性も特に様子を窺いに来ることもなかった。
椅子から立ち上がった男はリュカよりも少し背が高いくらいで、それほどの大男ではなかった。しかし鍛え上げられた身体は服の上からも分かるほどで、リュカはまだ貧相とも言えるような自分の身体と比べて、羨む気持ちになる。
「すまん、つい気持ちが……まあ、そこにでも掛けてくれ」
男に勧められ、リュカとヘンリーは向かいの椅子にそれぞれ腰掛けた。男はテーブルの上に広げていた帳簿を閉じ、テーブルに両肘をついて祈るように手を組み合わせると、改めてリュカを見る。
「なんだって伝説の勇者の話を聞きたいんだ」
理由を聞かれるとは思わなかったリュカは、目の前の男の問いに言葉につまる。父の手紙を見せるべきかと思ったが、見も知らぬ人に覗かれたくないと言う妙な独占欲がはたらく。だが母を捜すために伝説の勇者を見つけなければならないと話をしたところで、男が信じてくれるのだろうかとリュカは一時悩んだ。
それほどに目の前に座る男は『勇者』という存在に傾倒しているように見えた。
「探しているんです」
リュカは一言だけで、真実を伝えた。そして目の前の男の目をじっと見つめた。一言だけ話して黙り込んだリュカを、ヘンリーは隣で邪魔立てせずに静かにテーブルの一か所に目を落としている。
今まで差し込んでいた西日が山向こうに落ち、部屋の中が急激に暗くなった。男は椅子を立ち、部屋の片隅まで歩いて行くと、テーブルに置くほどの小さな燭台を手に戻ってきた。中の蝋燭に火を灯すための火種が見当たらないようで、辺りをキョロキョロしている際に、テーブルに置かれた燭台にヘンリーが火を灯してしまった。
「あんた、呪文が使えるのか」
「これくらいならな」
ヘンリーは事もなげにそう言い、隣で真剣な表情を崩さないリュカは、ヘンリーの使うメラの呪文はもう見慣れてしまったとでも言うように、何も起こっていないような変化のない表情をしている。一方で燭台を用意してきた男は呪文を見るのも珍しいと言った様子で、蝋燭に灯った火を不思議そうにまじまじと見つめた。
テーブルに小さな火の灯りがゆらゆらと揺れている。再び椅子に座ってしばらく火を見つめていた男は、小さく息をついて、リュカとヘンリーの顔を交互に見た。
「よし、話してやろう」
男が柔らかい笑みを見せると、リュカは静かに息を吐きだした。どうやら息を止めていたらしい。その鼻息で、たった今点けたばかりの蝋燭の火が大きく揺れ、部屋全体の灯りが揺れた。
「あまり期待するな、大した話じゃない」
「何でもいいんです。お願いします」
リュカの真面目で必死な様子に、男はリュカを信用したようで、淀みなく話し始めた。
「だいぶ昔の話だが……闇の帝王エスなんたらが復活し、世界を滅ぼそうとしたことがあったんだ。しかし天空の武器防具を身につけた勇者がな、そのエスなんたらを倒し、世界を救ったっちゅうことだ」
「その話は子供に読み聞かせるようなおとぎ話とおんなじだな」
「ああ、確かにな。だがこれは事実だ。おとぎ話じゃない」
男も小さい頃にこの話をおとぎ話として聞かされ、しかし彼はそれをおとぎ話としてではなく、伝説の勇者に憧れる少年の心のまま、その話を真実として信じていたのだろう。その後も、彼が今まで伝記などで調べたことや、酒場に来る旅人が落して行く勇者にまつわる話をかき集め、おとぎ話は史実なのだと確信したことをつらつらと話し続けた。
途中、酒場の店から店を切り盛りするさきほどの女性が現れ、適当に用意した食事をテーブルに並べて行ってくれた。話に夢中になっていたリュカとヘンリーだったが、湯気の立つ食事を提供されると、忘れていた空腹を思い出したように腹が鳴りだし、男から聞く話は一時中断となった。
「しっかり食っておけよ。伝説の勇者を探すなんてことをやるんだから、体力はつけておかないとな」
自分にはできなかったことを成し遂げようとする若者を応援する気持ちで、男は二人の青年が食事をがつがつ食べるさまをにこやかに見ていた。リュカはスープに堅パンを浸したまま、男の様子を窺うように小さな声で問い掛けてみる。
「あの、一応聞いておきたいんですけど」
「なんだ」
「この食事、タダじゃないですよね」
リュカがそう言った瞬間、隣のヘンリーの手も止まった。二人の青年がまるで子供が泣く寸前のような頼りない顔つきで見つめてくるのを、男は豪快に笑い飛ばしてしまった。
「俺のおごりにしといてやる。その代わり、伝説の勇者を見つけた暁には、俺にも紹介してくれよな」
「もちろんです。絶対に連れてきます、いつになるか分かりませんけど」
「俺が生きているうちにしてくれよ」
「頑張ります。ありがとうございます」
「それじゃあもうちょっと注文してもいいか?」
すでに出された食事を終えてしまったヘンリーは、食欲に拍車がかかったのか、まるで店にいる気分でメニューがどこかにないか探している。そんなヘンリーの姿を見て男はまた笑い、自ら店に行ってメニューを取ってきてやった。
「好きな物を頼んだらいい。どうせお前たちが食いたいのは肉だろ」
「分かってるな、おやじ」
ヘンリーはそう言うと、メニューに載っている肉料理を片っ端から注文しようとしたが、冷静にリュカに止められ、結局半分程度を注文することにした。
勇者の話を聞きに来た青年二人と、酒場のオーナーである男も一緒に夕食を済ませると、男は話に出すのを忘れていたと言ったように、一言二言付け足した。
「ちなみに勇者の武器防具とは、天空の剣、天空の鎧、天空の盾、天空の兜の四つだったそうだ」
「鎧と盾と兜って、防具は三つもあるんですか」
天空の剣をすでに手に入れているリュカにとっては、父の手紙に書かれていた天空の防具をあと一つ見つければ良いのだとばかり思っていた。ただ天空の剣がこの世にある以上、天空の鎧、盾、兜も世界のどこかにあることは疑いようもない。そしてその武器防具を身につける伝説の勇者も確かに過去、存在していたはずだった。ただ、世界中を旅して探すものが増えたことに、リュカはちょっとした徒労感を味わった。
てっきり若者が興味を示すのは剣だとばかり思っていた男は、珍しそうにリュカを見た。
「防具に興味を示すとはな。まあ、あんたを見てるとなんとなくわかるけど。戦いが嫌いそうだもんな」
「……弱そうですか?」
「いやあそういうわけじゃないけど、戦わなくて済むんならそれがいいってクチだろ。うちの酒場に来る旅人さんたちはさ、結構血の気の多い戦士さんが多いんだ。そういう人たちと比べると、あんたは正反対のような雰囲気だからな」
今はこうしてリュカとヘンリーの話に付き合っているが、普段は酒場の営業を娘と二人でしているのだろう。長年酒場を営業していれば、数えきれないほどの人々と様々な話をしてきたのは間違いない。伝説の勇者に深い興味がある男にとっては、旅人から得る生の情報は何よりもの楽しみだった。そういう話をする旅人はほとんどが、筋骨たくましい戦士風の男たちだった。勇者に憧れ、探し求める旅人は皆、勇者に負けないようにと身体を鍛え強くあろうとするのかもしれない。
男の話を聞いている途中から、リュカは話の内容と自分の追い求めるものに食い違いがあることに気付いていた。男の語る勇者という存在は、もう遥か昔のもので、今の話ではない。おとぎ話にされてしまうくらいの遠い昔に恐らくいたであろうという、人々の夢にも近いあやふやな存在なのだ。
グラスに入っていた水を少し飲むと、リュカは素朴な疑問を男に向ける。
「勇者って、大昔の人なんですよね。世界を救って、その後はどうしたんでしょうか」
「え? その後の勇者かい? う~ん、一説には天空に戻ったとも言われてるけど、そこまでは知らんなぁ」
「天空に戻った?」
「まあ、大昔のことだし、どっちにしてももう生きてはいないと思うぞ」
さらりと言った男の一言に、リュカもヘンリーも固まった。彼らの中では勇者という存在はもはや神様のような存在で、決して死ぬことなどないのだと、根拠のない確信を持っていた。世界が勇者を必要とした時に、自然と現れるのが当然だと、生き死にとは別の次元に存在しているのだと思っていた。
「死んじまってるのかよ。それじゃあ俺らが探してるのは無駄ってことか」
「かつての勇者はもういないだろうけど、勇者の子孫くらいなら、どこかにいるかも知れんがな」
「勇者の子孫?」
「かつての勇者は男とも女とも分からないらしいけどよ、その勇者だって半分は人間の血を引いてるんだぜ。だったら誰かと恋に落ちて、結ばれて、子孫がいてもおかしくないだろ」
勇者という至高の存在と恋というのが、リュカにもヘンリーにも上手く想像できなかった。勇者は勇者であって、ただ一人の者であって、誰とも相容れない者なのかと勝手に想像してしまう。
「そもそもその勇者本人が、天空人と人間の間の子なんだ。勇者誕生の話としても、人間の男が天空人に恋をして……ってのは有名なところだぞ」
「へえ、そうなんですか。知ってた、ヘンリー?」
「いいや、知らない。伝説の勇者ってくらいだから、なんかこう、もっと特別なもんかと思ってた」
「特別は特別だけど、勇者だって人の子なんだ。恋くらいはしただろうよ。君たちだって年頃なんだから分かるんじゃないのか、そういう気持ちがさ」
男にそう言われ、リュカもヘンリーも互いに顔を見合わせた。リュカが首を傾げる一方で、ヘンリーはすぐに目を逸らして視線をテーブルに落した。二人の仕草に違いに気付いた男だったが、言葉で追究することはせずに、ただ視線を逸らしたヘンリーをちらと見て笑みを浮かべていた。
「しかし良く食ったなぁ、あんたら」
テーブルの上には皿が何枚も重ねられ、その全てが舐めたようにきれいに平らげられていた。テーブルの上に揺れる燭台の灯りが、肉の脂の残る皿の表面をてらてらと照らす。
「あの、僕たちお金が……」
「それはいいんだ。その代わり、俺の夢を果たしてくれよ。必ず勇者を見つけて、会わせてくれよな」
「はい、必ず。必ず見つけてみせます」
目の前の男のように、勇者という存在に憧れを持つ人は世界中を歩けば他にもいるのかも知れない。そんな人たちの中には、自分の足で歩き、旅をしながら勇者を追い求めている人もいるのだろう。現に話をしてくれた男は酒場に訪れる多くの旅人から、長年に渡って勇者の話を聞いている。
それに今は昔と比べて、町の外をうろつく魔物が数を増し、人々はそんな不安から逃れるためにも勇者の存在を追い求めている。伝説の勇者なら物騒になってしまったこの世界を救ってくれるのではないかと、人々の期待は無責任なのが常だ。もはや神格化している伝説の勇者は、会っただけで幸せを呼び込んでくれるような福の神にも近いものと考えられている節すらある。
リュカの考えもそれとさほど変わらないものだった。ただ彼の場合は目的が明確なだけだ。母を助けるためには勇者の力が必要だと言うこと。そう考えると、普通に勇者に憧れ、追い求める人々よりも、よほど自分勝手な理由で勇者を探しているのだと、リュカは内心自分を笑った。世界を救うためなどという大仰な目的ではなく、ただ父の遺志を継ぎ、母を救うためだけに勇者を追い求めることが善いのか悪いのかも分からないが、リュカにとってはたった一つの行動の理由だった。
「宿は取ってあるのか」
「はい、町一番の大きな宿屋に。これから戻ります」
「また何かあったら寄ってくれよ。お前たちならいつでも話に付き合ってやるよ」
男は男で、酒も飲めないのに酒場に訪れたこの二人の若者に何か特別なものを感じていた。他の旅人のように憧れだけで勇者を追い求めるような、純粋な少年のような心で旅をしているのとは訳が違うと、二人の雰囲気から感じ取っていた。いるかどうかも分からない勇者を追い求めるには、あまりにも必死なのだ。伝説の中にしか存在しないかも知れない勇者を探し出すことは、彼らにとっては必ず成し遂げなければならない人生の目的と言い切れるほど、二人の若者の姿勢は真剣そのものだった。
リュカとヘンリーの二人は食事を提供してくれた男に何度も礼を言いながら、酒場を後にした。酒場を出る時、既に空には白や黄色や赤の星が明滅していて、白く輝く月が町を静かに照らしていた。町の人通りもほとんどないが、ただ民家が立ち並ぶこの辺りでは、家の中に灯される灯りもが町全体をぼんやりと照らし、温かく包みこんでいる。町の灯が消えるまでにはまだしばらくの時間がかかるだろう。月明かりと町灯りとで、二人は足元にもさほど気をつけることなく、宿までの道を歩いて行った。
「明日も町を回ってみるんだろ」
ヘンリーが通り過ぎる民家の灯りに目をやりながら、リュカに言葉を投げた。
「そうだね、ビアンカがいないとは思ってなかったからなぁ」
リュカの中では、このアルカパの町を訪れ、ビアンカと再会し、あれよあれよと言う間に彼女が次の行き先を決めてくれて旅を続ける、というような楽観的な考えしかなかった。彼女の性格が変わっていることなど考えられなかったし、冒険好きの彼女のことだから、旅に出るということになったら色々と喜んで調べ始めるだろうし、既に行きたいところが決まっていたかもしれない。
「まだ今日来たばかりで町の中も歩いてないし、明日はまた色んな人に話を聞いてみよう」
「町の商店街も突っ切ってきただけだしな。お前、そろそろその檜の棒を卒業した方がいいんじゃないのか」
「武器屋も防具屋も覗いてみて……って言っても、見るだけで終わるかも知れないけどね」
「金がなぁ。さっきみたいにただで食事にありつけるだけでもありがたいけどよ」
「お金って必要なんだね。子供の頃はそんなことちっとも考えてなかった」
「俺もだよ。金なんて、必要だったら沸いて出てくるもんだと思ってた」
親の庇護の下にいる子供の時には、特に金銭を必要とする事態にはならない。何か欲しいものがあると言ったところで、それは生き死にに直結するような重大なものではないからだ。お菓子が欲しい、おもちゃが欲しい、リボンが欲しい、などと言うようなことは我慢をすればどうにか過ごせる。食べ物が必要であれば、親がそれを用意してくれる。
リュカはふと、自分の子供の頃を思い出した。父と世界中を旅していた頃、自分はさほどひもじい思いをした記憶はない。父パパスがどうにかしてリュカに食べ物や水を与え、生かしていたはずだ。町や村での時間も、さほど不自由した記憶はない。町や村に着けば、宿に泊まったり道具を揃えたりするのに、金銭を必要としたはずだ。その時父は一体どうやって金を工面していたのだろうかと、リュカは一人首をひねった。
「父さん、旅の最中はお金をどうしてたんだろう」
「パパスさん、もしかしたら行く先々で働いてたのかも知れねぇぜ」
どうやらヘンリーも同じことを考えていたようで、リュカの独り言にすぐに反応してきた。
「働くにしてもどういうところで働いてたんだろう。想像つかないな」
「商人って感じはしないよな。店のカウンターで愛想を振りまくなんて、しないだろうし」
「雇われ戦士っていうのもいるみたいだけど、それって魔物の出る外に出て行くってことだよね。僕がずっと一緒だったから、外に出て働くなんてできなかったと思うんだよな」
「お前がずっと小さい頃から旅に出てるんだもんな。どこかに預けられた記憶もないのか」
「ないと思う。サンタローズは別だけどさ、家があって、サンチョがいたから」
「じゃあサンタローズでは何してたんだ、パパスさん」
そう言われて、リュカはサンタローズにいた頃の記憶を掘り起こして見る。そこに父の働く様子は見当たらず、ただ定期的に家を出て村の北に向かう父の後ろ姿を見送った景色が脳裏に蘇る。当時はそれが『仕事』だと思っていたが、今ではそれも仕事ではなかったと知っている。パパスは生前、サンタローズの洞窟に行っては、そこにこもって調べ物をしていたり、天空の剣の様子を見に行ったりしていたのだろう。リュカには見せたくないものを閉じ込め、リュカには見せたくない感情をあの場所に落していた。パパスにはそういう場所が必要だった。
「サンチョが何とかしてくれてたのかもな。村の人たちにお金を貸してもらってたり」
「……少しだけ、がっかりだな」
ヘンリーのパパス像というのは、リュカ以上に輝かしいものだった。男らしく、強く、素直で、曲がったことを許さない気質は、ヘンリーにとっても憧れの存在だった。しかしその実、甲斐性のない一人の頼りない男だったら、ヘンリーはパパスという大人の男に期待し過ぎていたのかも知れないと思い始めた。
「ヘンリーのお父さんはお金をどうしていたんだろう」
リュカの問いがあまりにも純粋過ぎて、ヘンリーは応える言葉を失った。まさかラインハット王がお金をどう工面していたかなど、誰も考えるところではないだろう。リュカも言った直後にその事実に気付き、『あ、そうか、王様なんだよね。お金には困らないか』と納得したように頷いた。
ヘンリー自身は子供の頃、それこそ金銭に不自由したことはない。一国の王子であった彼にとって、金銭の問題など無いに等しいものだった。食事も服も湯浴みも本も、要求すれば苦もなく手に入れることができたどころか、要求せずともそれらは用意されていた。
ただ生活に不自由しなかったとは言え、彼にとっては毎日が孤独の日々だった。ラインハット王子という身分のため、城の者たちが不用意に近づいてくることもなく、距離を取った形でご機嫌取りをしているのが見え見えだった。もちろん、友達と呼べるような人間もいない。自ら『王子に友達はいらないんだ』と強がりを言っていたが、本当はそんなはずはなかった。
城の者たちにおべっかを使われるのはまだ良かった。ヘンリーの場合、家族との距離が遠いことが、一番の孤独だった。ヘンリーは実の母親を知らない。自分を生んですぐに病床につき、そのまま帰らぬ人となったらしい。それも父であるラインハット王に話を聞いただけだ。
そして父王は数年後、ヘンリーの継母をラインハットに迎える。その頃ヘンリーはまだ二歳ほどで、継母に初めて会った時の印象など、今では覚えていない。たとえ思い出すことがあったとしても、良い印象ではないことは分かりきっている。恐らくそれは、継母である彼女もそうだったに違いなかった。
その後ほどなくして、義理の弟のデールが生まれる。継母はもちろんのこと、実の子供であるデールを溺愛し、ヘンリーをより一層遠ざけるようになった。しかしそんな継母の濁った思いなど知らず、デールはヘンリーの後を追いかけるようになった。ヘンリーにとってデールは、母親の愛情を独り占めする憎しみの対象などではなく、唯一自分を恐れずに近づいてきてくれる可愛い弟だった。
リュカを見る度に、頭の隅をちらっと掠めるのは、どうやらデールの記憶なんだとヘンリーは今になって気がついた。二人は全く似ていない。しかし何の隔てもなく、感情を無理に隠すこともなく、愛想笑いを浮かべることもなく接してくる態度は、二人ともよく似ていた。
今でもデールの顔がすぐに思い出せることに、ヘンリーは内心驚く。自分もそうだが、まだほんの子供だった。言葉も上手く操れないほどに幼かったデールだが、継母の目を盗み、しょっちゅうヘンリーの部屋を訪ねては、遊んで欲しいとせがんできた。髪は茶色で癖があり、目も同じ色でヘンリーよりも大きな瞳だった。陽に当たることを良しとされていなかったデールの肌は透き通るように白く、両頬だけが丸く赤みがかっていた。
「ヘンリー、どうかしたの」
リュカに問いかけられるまで、ヘンリーは過去の記憶に無言のまま浸っていた。いつの間にか宿近くまで戻ってきたようで、さきほどまで辺りを照らしていた家々の灯りは既になく、ただ白い月明かりだけが夜空に映えていた。ホウホウと、どこかで鳥が夜の鳴き声を響かせている。宿屋の大きな三階建の建物が、月明かりに照らされ静かに青く映し出されている。
「何でもない。ところで明日はどこから行くんだ」
「とりあえず武器屋や防具屋を覗いて、それからは……宿に戻ってから考えるよ」
「そうだな。まだしばらくはこの町にいるんだろ」
「次の目的地が決まらないと、どこにも行けないからね」
リュカがそう言うと、二人ともしばし沈黙した。歩き進む二人の足音が、静まりかえった町の中に響く。まだ夜遅い時間ではないが、既に町の人々は眠りに就こうとしているのかもしれない。アルカパの町はオラクルベリーの町よりも眠りに就くのが早いようだ。
「ヘンリーはどこか行きたい場所、ある?」
リュカが様子を窺うように聞いた。ヘンリーはその言葉に釣られて、思わずラインハットの名を口にしようとしたが、思いとどまった。
「さあな、どこに行ったらいいもんか……」
ラインハットの名を出したところでどうなるものかと、ヘンリーは故郷に帰ることに未来を感じなかった。ただでさえ居場所がないと感じていたあの城に、十余年も経った今、新たな居場所が用意されているとは微塵も思わない。それどころか、ヘンリーは既に亡き者にされているのだ。たとえラインハットに戻ったところで、不審者として扱われ、城に入ることすら叶わないのは目に見えている。
そしてヘンリーは、リュカの前でラインハットのことを口にする勇気がなかった。
普段は何も感じさせない穏やかなリュカだが、彼にとってラインハットは憎しみの対象でしかないに違いない。幼いあの時、ラインハットにさえ来なければ、リュカの人生が転がり落ちることはなかった。その事実がある限り、ヘンリーはリュカの前でラインハットに帰りたいなどと口にすることは到底できない。
「いっそのこと、もう一度オラクルベリーに戻ってみるのもいいかも知れねぇぜ」
そう言いながら月を仰ぐヘンリーを、リュカはじっと見つめた。そしてふっと息を吐き出すと、同じように白く輝く月を見上げる。
「そうだね、あの町は楽しい場所だから、何かに辛くなったらもう一度行くのもいいかも」
「だろ。金に困っても、あれくらい大きな町なら何とかしてくれそうだし」
「今度は酒場じゃなくて、武器屋とか防具屋とかで働いてみるとか」
「お前がな」
リュカにそう言い捨てるようにして、ヘンリーは一人先に宿へと入って行った。リュカもその後を追おうと歩きだしたが、今一度足を止めて、夜空を見上げる。白く輝く月はまだ、東の空に浮かんでいる。周りには無数の星が煌めき瞬いている。これから夜更けに向けて、空は一層濃い闇に向かって行くが、そんな夜空を月や星が照らし、完全な闇に包まれることはない。
「怖がる必要なんて、ないんだよね」
独り言を呟くリュカは、月の下に見える山々の影の、更に遠くを見通すような目をして、遥か遠くを見つめていた。

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