2017/12/03
船出
西に傾いた日差しと共に、風も冷たくなってきた。日ごとに季節は進み、短い秋の季節はすぐにでも冬を連れてきそうな気配がある。真夏に比べて格段に弱々しくなった日差しを仰ぎながら、リュカはマントの前を重ね合わせた。
山間の道が続く。ヘンリーから譲り受けた地図を確認しながら、リュカは左右に山の稜線を眺めつつ、地図上の道を南下していた。山々はところどころに紅葉しており、楽しむ旅であればこの景観も人々に安らぎを与えるものになるのだろう。しかし今のリュカにとっては郷愁を誘う意味合いが強かった。
「リュカ殿、本当に立ち寄らなくて良かったのですか」
馬車の車輪の音の中で、ピエールの声が聞こえた。パトリシアを挟んで向かい側に、ピエールが外を歩いている。リュカはパトリシアの手綱を手にしながら、笑顔で前に続く道を眺める。
「立ち寄っても辛くなるだけかなって思ってさ」
「リュカ殿のことですから、村に立ち寄って挨拶をするものかと思っていましたが」
「それも考えてたけど、お互いに辛くなるかなって思っちゃったんだよね」
単調な馬車の車輪の音が耳に心地よかった。その音に紛れて、リュカは荒れそうになる心を鎮めることができた。
パトリシアが引く馬車は既にサンタローズの村を過ぎていた。村の手前に来るまで、リュカはサンタローズの村に立ち寄る心づもりでいたのは事実だ。しかし結局、村がある山々の景色に目をやりながらも、リュカはそのままサンタローズに立ち寄ることなく馬車を進めて行った。
もしサンタローズに寄れば、否応なしに村の惨状を目にすることになる。ラインハットに襲撃され、未だ傷の癒えない村の荒廃ぶりを再び目にすることに、リュカは耐える自信がなかった。サンタローズの村にはリュカや、生前のパパスを知る人物もいる。彼らに会い、話をすることが、今のリュカにとって決して救いにはならない気がして、彼は故郷の村に立ち寄ることを避けてしまったのだ。
それと同時に、今も村に残る人々にとっても、リュカがこの大陸を出て西に向かうことを知ったところで、またサンタローズを知る人が一人離れて行くのだと言う寂しさを与えるだけになるのではと想像した。ラインハットの襲撃で命を失った人々の他に、襲撃後に村を離れて行った人々も少なくなかっただろう。村を離れた事情は様々あるだろうが、そこからまた一人、村から人がいなくなることを、村に残る老人も神父もシスターも悲しむに違いないと思った。村に立ち寄ることでむしろ、より大きな寂しさを残して村を去ることになるのだろうと、リュカはサンタローズに向けていた足先をいつの間にか変えていた。
記憶もない幼い頃に父とサンタローズを旅立ち、六歳の時に父と帰郷したがその後早々に村を出てラインハットへ向かい、十余年の時を経て三度サンタローズに戻ってきた。サンタローズを故郷として認めてはいるものの、リュカの人生は常に一つ所に留まることのないものだ。そして今度は船に乗って、見知らぬ大陸へ向かおうとしている。
スラりんがパトリシアの鞍の上に乗って、過ぎゆく景色を眺めていた。常に笑顔でいるスラりんの表情がどこか悲しげに見え、リュカはふと仲間の魔物のことを思った。スラりんもピエールもこの大陸を出るのは初めてで、人間と旅をするなどという魔物にとって奇異な生き方を選ばなければ、彼らはずっとこの大陸で生きていたに違いなかった。ガンドフに至っては、リュカ達が神の塔の封印を解き、真実の鏡を求めなければ、ずっと鏡の神秘さに取りつかれたままでいたに違いない。それが今は、馬車の中から顔を覗かせて、パトリシアの尻越しに外の景色を大きな一つ目で眺めやっている。
そんな仲間たちの様子を見ていると、リュカは今一度確かめたくなった。目が合ったスラりんに、リュカは小さな声で問い掛ける。
「スラりん、本当はここに残りたいって思ってない?」
「ピ?」
「だって君はここで生まれてここで育ったんだよね。ここがスラりんの故郷なんだよね。それだったらここに残って暮らしたいなぁって思わない?」
「……ピィー」
力なく表情を崩したスラりんを見て、リュカは途端に自信がなくなり、思わず馬車を止めた。過ぎ去る景色を眺めるスラりんがどこか悲しげな表情をしているのは、やはりこの大陸を離れたくないからなのだと、リュカは鞍の上に乗るスラりんに近づいて手を差し伸べた。反射的にリュカの手の上に乗るスラりんだが、そのまま地面に下ろされてしまい、首を傾げるように身体を揺らしている。
「途中でちゃんと気付いてあげればよかったね。もうここまで来ちゃったけど、スラりんの行きたいところに行っていいよ。僕の旅はこれからどうなるか分からないからさ、無理に付いてくることなんてないんだから」
「リュカ殿、違いますよ。スラりんは呆れていたようですよ」
「呆れてた?」
「今さら何を言っているんだと、呆れていたのでしょう」
「ピキ」
ピエールの言う通りだと言わんばかりに、スラりんは地面からリュカを見上げて身体を前に傾けた。まるで頷くようなその仕草に、リュカは更に確かめたくなってスラりんの前にしゃがみこんだ。
「僕に呆れたの?」
「ピッ」
弱い口調で問いかけるリュカに、スラりんは諌めるようなきっぱりとした音で返事をする。呆れられる理由が分からないリュカは、スラりんの前でただ首を傾げるばかりだ。
「人間には故郷と言う意識があるのかも知れませんが、私たち魔物には特にそういう感情はありません」
ピエールの整然とした言葉に、スラりんも頷くように身体を揺らしている。
「故郷と言うのはその土地に対する思い入れ、みたいなものですよね。縄張り意識を持つ魔物はいますが、生きていける環境であれば私たちはどこでも構わないんです」
「ピイピイ」
スラりんは自ら人間の言葉を話すことはできないが、リュカやピエールの話す言葉を理解する能力は十分に備わってる。全ての意味を理解した上で、『そうだそうだ』というような返事をしているのだろう。
「その中でも私たちはリュカ殿と旅をするという目的ができたのです。魔物の中では非常に幸運なことだと思います」
「でもそれだけ危険が増えるよ。特に君たちは魔物なんだから、同じ魔物と戦わなくちゃならないなんて苦しいんじゃないかな」
「私は魔物と戦うというわけではなく、目的に向かって進むリュカ殿を無闇に邪魔立てする者と戦うという意識で常にいますよ。それにこうしてリュカ殿と旅をご一緒することに楽しみを見つけてしまいました。今さら何を言っても手遅れです」
ふと垣間見えたピエールの本心に、リュカは思わず顔を綻ばせた。ピエールはリュカとの旅を楽しいと感じているのだ。振り返ってみれば、ラインハット近くで遭遇したピエールとはなりゆきで行動を共にすることになった。きっかけはピエールが言葉を人間の言葉を話すことができ、それに興味を持ったリュカがそのままずるずると仲間に引き込んだ、というのが正しいところだ。初めからリュカがピエールに惚れ込んで、というわけではない。またその逆で、ピエールがリュカと言う人間に好意的であったわけでもない。仲間になったきっかけなど、ないに等しいものなのだ。
それはスラりんもガンドフも同じことだった。初めにリュカ達と行動を共にするようになったスラりんも、まさかその時はこの大陸を出るようになるまでの行動を共にするとは思ってもいなかっただろう。旅の途中、逃げ出そうと思えばいつでも簡単に逃げだせたのがスラりんだ。それが今では、リュカの前で『一緒にいるのが当たり前』みたいな顔をして、リュカを見上げている。
馬車が止まり、何事かと思ったガンドフが馬車の荷台を下りてリュカ達のところへゆっくりと歩いてきた。背を丸めた熊のような体格でのしのし歩いてきたと思ったら、スラりんの隣にぼふんと座り、スラりんと同じような表情でリュカの顔を覗きこむ。
「リュカ、ドウシタ」
人間の言葉を片言くらいにしか話せないガンドフだが、その言葉の種類は日ごとに増えている。神の塔で遭遇した時には既に少しの言葉を使うことができたのは、ガンドフが初めから人間の言葉に興味を持っていたからなのかも知れない。そしてそれは、神の塔で見たあの父と母の幻影に関係していることなのかも知れないと、リュカは勝手にそう思っている。
「ガンドフはここに残りたいとは思ってない?」
「ココ。ドコ?」
「君がいたところだよ。あの南にある塔。鏡のあった塔のこと」
「カガミ、アル。リュカ、ドウシタ?」
神の塔で手に入れた真実の鏡は今、馬車の荷台にある袋の中に入っている。ラインハットで偽太后の正体を暴くために使用した後、本来であれば神の塔を管理する海辺の修道院に返すべきものだったが、ガンドフがいかにも悲しい顔をして返却を拒んだため、そのまま持ち続けている。このことについてはマリアから修道院長へ話をしてもらうつもりだった。
「ガンドフに旅についてくる理由を問いかけても答えは返ってきませんよ、きっと。彼自身も恐らく分かっていないでしょう」
ピエールの言うことが全てなのだと、リュカはガンドフの無垢な表情を見ているにつけ分かったような気がした。ガンドフは旅をしている意識すらないのかも知れない。そもそも気がついたらあの神の塔の中に棲みついていて、真実の鏡に惹きつけられ、リュカたちと出会い行動を共にし、そしてこれからビスタ港に向かって、いつの間にか貨物用の箱に入って船に乗ることになるのだ。その一つ一つが、ガンドフにとってはどうでも良いことなのだろう。生きてここにいる。それがガンドフにとっては全てだった。
「それに、ガンドフに答えを求めても私たちがそれを言い当てられるかどうか。リュカ殿には自信がおありですか」
「……ないかも」
「私にもありません。ガンドフが本当は何を考えているのか、恐らくこれからも分からないのではないかと思います」
スラりんよりも人間の言葉を話せるガンドフだが、その心を読み取るのはスラりん以上に難しいことだと、リュカもピエールも深く頷くしかなかった。何かを深く考えているようには見えないが、何を考えているのか分からないだけで、本当のところはリュカには思いもつかないほどの深部にまでガンドフの考えは及んでいるのかもしれない。しかしそれを確認する手立てはなく、リュカはただガンドフの澄みきった大きな一つ目をじっと見つめるしかなかった。パチパチと音まで立てそうな瞬きをするガンドフの瞳は、いつまで経っても子供のような無邪気なものなのだろう。
「私たちはあなたについていくだけです。あなたがどうしてもついてくるなと言うのであれば、仕方ないと諦めるかも知れませんが、そうでなければこのまま共に旅を続けさせてください」
「そんなの、僕からお願いすることだよ。僕の旅に巻き込んでるんだから」
「我々はこれでも、結構楽しんでるんですよ。リュカ殿に会わなければ、各地を回るなどと言う経験はできなかったでしょうから」
「ピーピー」
「スラりんもそう言っています」
いかにも楽しげな鳴き声を上げるスラりんに、リュカは心の底からほっとした。万が一、ここでスラりん、ピエール、ガンドフがこの土地に残りたいと言い出して、船旅に出ることを拒んだら、リュカは西の大陸へ一人で向かう意志が挫かれる自信があった。折角ヘンリーが手配してくれたビスタ港に停泊する船への乗船も、勝手に見送ってしまうことすら考え、何の解決にもならない「逃げる」という手段を取ることまで考えていた。
しかしピエールもスラりんも、リュカとの旅を楽しいと感じてくれているようだ。そんな彼らの気持ちが、リュカの足を再び進めた。パトリシアの手綱をしっかりと握り、安心したように馬車を動かし始めたリュカを見て、ガンドフがのそのそと馬車の荷台に向かう。ゆっくりと動く馬車の荷台にガンドフが飛び乗ると、荷台が大きく揺れ、パトリシアがブルルルッと不快感を露わにした。
「ガンドフ、パトリシアが痛いって」
「ゴメンナサイ」
幌の中から顔を覗かせるガンドフを見て、リュカは思わず笑ってしまった。大きな目を困ったように俯き加減にし、いかにもシュンと落ち込んでいる姿は、子供が怒られている姿に似ていた。そしてパトリシアを気遣うように、大きな毛むくじゃらの腕を伸ばしてパトリシアの大きな尻をぽんぽんと手で叩いている。
「ガンドフは優しい子だね」
「リュカ殿がそうさせているんですよ、きっと」
「それならいいんだけどね」
「我らがリーダーにはもっと自信を持ってもらいたいものです」
「そうできるように頑張るよ」
山間の道にはつい数日前に通ったばかりと思われる馬車の車輪の跡が残っていたりした。それはリュカ達と同じようにビスタ港に向かう人たちのものなのか、はたまた既にビスタ港に船が到着し、そこから北に向かって行った人たちのものなのか。いずれにせよ、長い年月の間封鎖されていたビスタ港が開けていることが想像できる跡に、リュカはこの大陸を離れる寂しさから一転、新しい大陸への期待を胸に抱いた。
山間の道に差し込む日差しは、既に西の山の稜線に隠れようとしていた。秋の日差しは短い。ヘンリーが話をつけている船は数日間はビスタ港に停泊する予定だ。そして船長へも『ラインハットからの大事な商物を積むために一人馬車で向かわせている』という連絡を済ませている。リュカの懐には、デールがしたためた一通の手紙があり、それを船長に見せることで乗船の許可を得ることになっている。リュカがビスタ港に着かなければ、西の大陸への船は出港できない状態にあるのだ。
「慌てて行くこともないか。明日には着くだろうから、今日はどこかで休もう」
サンタローズにもアルカパにも寄らずに真っ直ぐビスタ港に向かうリュカだが、もう少しだけこの大陸に留まり、思いに耽りたいと思った。決して楽しいばかりの思い出ではないが、それでも子供の頃の無邪気な思い出は、今のリュカの心を温める力を十分に持っている。
「サンチョの作ったシチューが食べたいなぁ」
言った途端にお腹が鳴り、リュカは思わず吹き出してしまった。真っ先に思い浮かんだ思い出が食べ物だということに、リュカはまだまだ自分は大丈夫だと、心の中で力強く頷いた。
見渡す限りの水平線には、静かな朝日が燦々と降り注いでいた。目の前に広がる海を見ると思い出すのは、海辺の修道院での平穏な暮らしだった。十年以上も奴隷として働かされ、命からがら逃げ出して来た先に辿り着いたのが海辺の修道院だった。海の壮大な景色を見ているだけで何やら助かったような気になるのは、そうした経験からくるものなのだとリュカはぼんやりと気がついていた。
しかしここは神に仕える修道女たちが生活をする穏やかな海辺の修道院とは違い、世界各地から人々が集まる港だ。今はまだ、封鎖が解けたばかりでそれほどの人出ではないが、ラインハットが復興への道を辿る限り、徐々に港にも人が増えていくのだろう。
リュカが乗り込もうとしている船は、港に足を踏み入れる前からその姿が見えていた。停泊する船の中で一際大きく、立派な造りをしている。その他にも港には船が停泊しているが、それらの多くは漁船で、近海で漁をする船乗りたちがそれぞれの船の具合を確かめたりしていた。
「みんな、窮屈じゃない?」
リュカは馬車の荷台に声をかけた。ビスタ港に入る前から、スラりん、ピエール、ガンドフには馬車の積み荷として大きな木箱に入ってもらっている。まさか魔物が堂々と港に入るわけにも行かず、西の大陸に着くまでは積み荷として木箱の中で我慢してもらうことになっていた。
「リュカ殿、積み荷に話しかけると人々に不思議がられますよ」
木箱の中からピエールの小さな声が聞こえた。スラりんの鳴き声も微かに聞こえる。カリカリと聞こえるのはガンドフが内側から爪で木箱を引っ掻いているのだろう。ピエールに怒られている。
「我々のことは気になさらず、手続きを済ませてください」
「うん、分かった」
港にはリュカのように馬車を引く者も何組かいる。彼らはリュカが扮しているような商人だったり、旅人だったり、はたまた家族だったりする。それぞれがどのような思いを抱え、このビスタ港から旅立とうとしているのかは分からないが、彼らの表情は一様に明るいものだ。この地を離れる寂しさよりも、西の大陸に向かう楽しさが勝っている雰囲気が、港全体に漂っている。
リュカが馬車を進めながら港を見渡していると、馬車の横を小さな子供が走り抜けて行った。まだ十歳そこそこの少年は目を輝かせながら、海を一望できる港の高台に駆け足で一気に上りつめて行く。その後を、一人の少女がおぼつかない足取りで追いかけて行った。面影の似ている少年の後ろに辿りつくと、息を切らしながらも目をキラキラと輝かせて、少年と同じように目の前に広がる真っ青な海を見渡した。
「すげぇよな、俺たち、これからこんなでっかいところを渡って行くんだぜ」
「でもお兄ちゃん、本当に大丈夫なのかな。わたし、およげないよ」
「あの船で行くんだから、泳げなくたって平気だよ」
「でももしマモノがおふねをおそってきたらどうするの?」
「魔物なんて俺が呪文でやっつけてやる」
得意気にそう言いながら、少年は指先に小さな火を浮かべた。少年の妹は、兄の指先に浮かぶ火を見て、驚いたように目を見開いている。
「お兄ちゃん、いつ火のじゅもんをおぼえたの?」
「これくらい、俺が子供の時から使えたよ」
まだまだ子供の少年が「子供の時から」などという言葉を口にするのを見て、リュカは口元を綻ばせた。少年は恐らく、ビスタ港の封鎖が解け、西の大陸に渡ると決まってから、急いでメラの呪文を覚えたのだろう。指先に灯る火はごく小さく、まだ呪文の操作に慣れていない感じが見受けられる。
妹に自慢するうちに、少年の気が高ぶったのか、指先に灯る火が突然大きく上がった。その火が近くを通りかかった旅人の服に燃え移りそうになり、少年は慌てて手をひっこめた。幸い、旅人はそのことに気付きもせずに通り過ぎて行く。
「こらっ、何をしてるの」
鋭い女性の声と共に、少年は後ろから頭を叩かれた。二十代後半くらいだろうか、兄妹の母親と見られる女性が怒りの表情で少年を見下ろしている。
「こんなところで呪文を使うなんて、危ないでしょう」
「……ごめんなさい」
「もし船の上で使ったりなんかしたら、許しませんからね」
「はーい」
怒られ慣れているのか、少年の返事にはさほど切羽詰まった反省の色は見られない。今までにも何度となく無茶をして、その度に今と同じように母親に怒られているのだろう。そんな少年の姿を見ながら、リュカはアルカパの彼女を思い出さずにはいられなかった。
「まるでビアンカみたいだ」
幼い頃に、子供二人だけで魔物のいる町の外に出て、お化け城に行った。その理由と言うのも「猫を助けるため」といういかにも子供らしい理由だった。今考えればたったそれだけの理由で、命知らずな行動をしたものだと、リュカは当時を振り返る。今ほど外をうろつく魔物の数は多くなかったが、それでも子供だけで外に出るなどという暴挙を考えると、今のリュカでもそれを止めるかも知れないと思った。
そのビアンカは今、アルカパにはいない。しかしこれから向かおうとしている西の大陸のどこかにいるのかも知れない。つい今しがた母親に連れられ船に向かった少年くらいの年齢の時に、彼女もこのビスタ港から船で西の大陸に渡って行ったのかも知れないと考えると、途端にリュカの心が弾んだ。
リュカは懐から丸めた地図を取り出した。ラインハットでヘンリーからもらった世界地図だ。そこには主要な国や町の名が書かれている。ビスタ港を出てまず船が向かうのがポートセルミという港町だ。リュカには港町がどういう場所なのか想像できなかったが、そこが楽しい場所であることが勝手に頭の中に描かれ始める。きっと彼女ならどんなところでも楽しんだに違いないと、地図から顔を上げ、目の前に広がる無限にも思われる海を見渡した。
馬車を動かし、停泊する大型船に向かう。既に船には馬車を乗せている商人や旅人が何組かいるが、パトリシアほどの巨馬が引く馬車は他にない。堂々たる大きな白馬が引く馬車は否応なしに人目を引き、次いでリュカが人々の注目を浴びる。馬車の荷台に魔物の仲間を積んでいるリュカにとって、なるべく人目につくことは避けたかったが、パトリシアを小さくする呪文などリュカは知らない。
幸い、この大型船には馬だけを収める厩舎のような場所が設けられているようだった。積み荷は陽の当たらない船底近くに運ばれ、馬は専用の世話人がつき、船旅の間ずっと世話をしてくれる。ラインハット国王直々の手紙がなければ、リュカが扮するような一般の商人など乗れないのかも知れないと、リュカは改めて立派な大型船を眩しそうに見上げた。
港から見上げる大型船の光景に、リュカは過去の記憶が一部、蘇るのを感じた。まるで今回の船旅が初めてのような気になっていたリュカだが、幼い頃より、記憶が遡れないほど小さい頃から、彼は父に連れられ旅をしていた。
「サンタローズに行く前、僕はここにいたんだ」
十年以上前、リュカはどこからか船旅をし、父と共にこのビスタ港に降り立った。長い航海だったのだろうか、船から港に下りた時、まだ海の上にいるかのように身体がふらついた覚えがある。
そしてその時、リュカは一人ではなかった。傍にいたのは父ではなく、同じ年頃の誰かだったような気がするが、今のリュカにはそれが誰だったか思い出せなかった。ちらりと脳裏を掠めるのは、鮮やかな夏の空のような青だった。それと、どこか控えめな子供の泣き声。何かを話したような気がする。しかしそれが一体何なのか、どのような記憶なのか、リュカにははっきりと辿ることができなかった。
船のマストに大きな帆がゆっくりと張られる。間もなく出港するという合図のようなものだ。帆が風をはらみ、船の後方へと膨らむ。錨を上げてしまえば、晴天の下、順調な航海が始まるだろう。
リュカは船の甲板から港の外に広がる景色を眺めた。ビスタ港へ着くまでの山々に囲まれた景色が遠くまで広がっている。先ほどまで靄のかかっていた山々だが、時間と共に靄は晴れ、朝日を受ける山のところどころが紅や黄に染まっている。船に吹く風も心地よい涼しいものではなく、マントで肌身を隠したくなるほどに肌寒い。秋の気候が自然と郷愁を誘い、リュカは遠く山々に隠れるサンタローズ、果てはラインハットまでを見渡すように目を細めて、その風景を思い出そうとしていた。
幼い頃の楽しかったサンタローズ村での生活を、リュカは思い出そうと目を瞑った。しかし瞼の裏に移る村の景色は荒廃し、ラインハットに滅ぼされてしまった後の村の姿だ。十余年の後、ヘンリーと共に足を踏み入れた時のあの空虚な気持ちが蘇り、幼い頃の美しい記憶が全て踏みにじられた感覚が、ありありと全身を駆け巡る。
「こんなこと、思い出したって仕方がないのに」
リュカは目を開け、甲板を移動した。郷愁を誘う山々の景色から目を遠ざけ、船首の先に広がる広大な海の景色を求めて、木製の甲板の上を軽快な音を立てて歩いて行く。甲板には他にも旅人が多く乗っており、港を離れるまでのわずかな時間を好き好きに過ごしている。中には港で別離する者もいるようで、船に乗る者と港に残る者とで別れを惜しんでいる人々もいる。先ほど呪文を得意気に見せていた兄妹たちは、家族と共に西の大陸に渡り、これから新しい彼らの人生が始まる。それがどのようなものなのか誰にも分からないが、少なくともあの兄妹はこれからの人生を楽しもうとしているようだった。彼らの目は朝日を照り返す海にも劣らず、キラキラと輝いていた。
船首近くの甲板に立ち、リュカは眼前に広がる海を眺めた。リュカと同じように海を眺め、これからの長い航海に夢を見たり、案じている旅人や商人などがいる。商人を装っているリュカもその中に混じって、これから西の大陸に向かう航海を、過去を振り返るのではなく未来を見つめようと、遥か遠くに境目も定かではない水平線に目をやった。船の上には秋風が吹くが、遠くまで広がる海の景色に季節は感じられない。常に変わらないような海の景色がかえって、リュカの心を穏やかにさせた。
何者かに連れて行かれるのでもなく、どこかから逃げ出して来たわけでもない。母を捜すと言う自らの目的のために、ひと月ほどもかかる長い航海に出る。それは普通の人にとって、希望に満ちた人生なのではないだろうかと、リュカは肺に入り込む冷たい秋風と共に冷静にそう考えた。
「僕の人生は、ついてる」
ヘンリーはラインハットでこれからも国のため、家族のために身を粉にして働き続ける覚悟なのだろう。マリアは海辺の修道院であの大神殿建造の地に残して来た兄ヨシュアや奴隷たちの無事を祈りながら人生を過ごす覚悟なのだろう。そんな二人に比べてリュカは自分のために、こうして大型船に乗りこんで西の大陸に向かおうとしているのだ。
「みんなのおかげで自分のやりたいことができるなんて、僕は今、世界一幸せなのかもね」
無限にも思えるような広大な海が、リュカの独り言を波と共にさらっていく。海は数えきれないほどの人々の言葉をこうしてさらって、どこかに届けているのかもしれない。いずれはリュカの言葉も、遠い場所にいる誰かに届き、反応し、そのうち出会うことになるのかもしれない。
船首近くにいるリュカの後ろで、ばさりと大きな音を立てて帆が下ろされた。続いて身体中に響くような汽笛が鳴らされると、海風をはらんだ帆が膨らみ、船がゆっくりと動き出した。縁から首を出して下を覗くと、船首が波を掻いて海の上を滑り出していた。海風は冷たく、マントの前を合わせていないと、身体が一気に冷えてしまう。そんな寒さの中だが、リュカはひたすら船の進む方角へと目をやっていた。
西の大陸に行けば母に少しは近づけるのだろうかと言う大きな期待と共に、この旅を仲間と共に楽しみたいという欲求が溢れ、リュカの心に残る不安はそれらにかき消されていた。進む先には希望しかないのだと、リュカはもう後ろに遠ざかって行く景色を見遣ることはなかった。