2017/12/03

幼い別れ

 

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「さあ、そのネコちゃんを放しなさい」
「ビアンカ、ウソばっか言ってんじゃねぇよ。あのレヌール城のお化けがいなくなるわけないだろ」
「じゃあ自分の目で確かめてくればいいでしょ。私たちが昨日の夜、お化け退治に行ったんだって絶対に分かるから。もうあのお城はお化けのお城なんかじゃないわ」
「大体よう、あの城まで歩いて二時間くらいはかかるだろ。そんなにあるのに昨日の夜に行って帰ってくるなんて、信じられるわけないだろ。それもあのお化けを倒してくるなんて、女のお前にそんなことできるわけないね」
「あら、女だからって戦えないわけじゃないわ。私はいつも魔法のお勉強だってしてるしね、あんたと違って」
ビアンカが自分の頭を人差し指でつついてそう言うと、ネコを持ったままの少年は悔しそうに歯をぎりぎりと言わせた。少年は持ち上げているネコに八つ当たりのように睨んだが、ネコは全身の毛を逆立ててまるで大きな虎のような威嚇の声を出すと、少年は驚いて思わずネコを放してしまった。
少年の手を離れたネコはそれまでの威嚇の姿勢などすぐに引っ込め、ビアンカとその後ろにいるリュカの間に入り込み、ビアンカの足元にじゃれ始めた。喉をゴロゴロと鳴らす様は、見ているだけで和む猫そのものの姿だった。
「ようやく自由になれて安心したのよね。こんなに可愛いのにどうしていじめられるのかしらね」
「どこが可愛いんだよ。そいつ俺のこと何度も引っかいたんだぞ」
「それはあんたがこの子をいじめてたからでしょ。ちゃんとかわいがってあげればこうやってなつくわ」
ビアンカが猫の喉をさすってやると、猫はいかにも気持ち良さそうにもっとさすってくれと言わんばかりに、自分から喉を上げて目を閉じる。その姿があまりにも可愛らしくて、それを見ていたリュカもしゃがみこんで猫の毛並みにそって温かい背中を撫でた。猫は完全に地べたに腹をつけて、ビアンカとリュカの手にじゃれつくまでになってしまった。いじめっ子の少年は悔しそうに歯をぎりぎりと言わせていたが、近づこうと足を踏み出した途端にビアンカとリュカの間で寝転がる猫に威嚇の声を上げられ、情けなくも恐れをなして二歩ほど後ずさった。
「可愛いわね。あ、でもうちのママ、動物だめなんだよなぁ。ねぇ、リュカのおうちで飼えないかしら」
「ボクのうち? うん、お父さんに聞いてみるよ」
「そうしたらこの猫ちゃんに会いに行くために、外にも出られるかも。うふふ、猫ちゃんにも会えて、お外にも出られて、これがイッセキニチョウってやつね」
「……外に出るのはダメだって言われたんじゃなかったっけ、ビアンカ」
「大丈夫よ、パパは大の動物好きだもの。お願いすれば、パパがサンタローズまで連れてってくれるわ。そしたらまた村で一緒に遊びましょ。この猫ちゃんも一緒に鬼ごっこも楽しいかもしれないわ」
ビアンカとリュカが楽しそうに会話をし始めているのを、いじめっ子の二人は悔しそうに拳を固めながら見ていた。そんな彼らの視線は主に猫の赤い鬣を撫でているリュカに向けられている。
「お、お前!」
急に大声を張り上げたいじめっ子の少年は、リュカを睨みながら二人に歩み寄ってくる。足元で低い唸り声を上げる猫にも今度はひるまない。その後ろをひょろりとした体格の一人の仲間がついてくる。
「何よ、まだ何かあるの? まだ疑ってるんなら、自分でレヌール城に行ってくればいいじゃない。もうお化けなんかいないわよ」
「そうじゃない。それは、もういいよ。信じてやる」
「何よ、偉そうに。じゃあ、もういいでしょ」
「よくない。俺は、俺が聞きたいのはさ……」
二の足を踏むようなにじにじとした言い方に、ビアンカはイライラしながら、リュカは何事かと首をかしげながら少年の言葉を待つ。
「ビアンカのこと、スキなのか、お前?」
少年が声を震わせながら顔を真っ赤にして言った言葉に、ビアンカはぽかんと口を開けて少年の顔を見上げた。体格も良く、腕っ節も強いガキ大将が、今やリュカよりも小さく見える。ビアンカが隣のリュカを見れば、リュカは表情も変わらず、ただただ首をかしげている。
「あんた、何言ってるのよ」
「う、うるさい! 俺はそっちのガキに聞いてるんだ」
「ガキなのはあんたもおんなじでしょ」
「うん、ボク、ビアンカのことスキだよ」
ようやく少年の言葉の意味を解したように、リュカは満面の笑みを浮かべながらそう答えた。どうしてそんなことを聞くんだと言わんばかりに、リュカの言葉に迷いはない。
「私もリュカのこと、スキよ。弟みたいなものだもの。家族をスキじゃないなんておかしいでしょ」
「うん、そうだよね。ビアンカはボクのお姉ちゃん。お父さんも、サンチョも、みんなカゾクだからスキだよ」
思い切り的を外された二人の答えに、いじめっ子の少年はがっくりと項垂れた。そんな大将の肩を仲間の少年が叩いている。同情するようなその態度に、肩を叩かれた少年はムッとしながらも、なす術なくそのままとぼとぼと家へと帰って行った。
「まーったく、何だったのかしらね、あいつ」
ビアンカがふうっとため息をついている傍で、リュカはまだ猫の腹を撫でていた。少し大きめのその猫はようやく自由になれた喜びを体全体で表すように、今度は地面を飛び跳ねてリュカの傍を回り始めた。
「あはは、かわいいね、この猫」
「そうだ、この猫なんて名前じゃ可哀そうだから、名前をつけてあげましょうよ」
「名前? そうだね、名前つけよう。何がいいかな」
「チロル、なんてどうかしら」
リュカの周りを飛び回っていた猫は、今度リュカの足元に体を摺り寄せてきた。
「あら、猫ちゃんも気に入ったのかしら」
「……うーん、そういうんじゃないような気がするなぁ」
「あら、そう? じゃあ、ゲレゲレなんてどう? かっこいい名前じゃない?」
ビアンカの呼ぶ名前に反応しているのかどうなのか、猫は今度、ビアンカに背を向けながらリュカの足元でうずくまるように寝そべった。尻尾で地面をぱたんぱたんと叩き、のんびり欠伸をしている。
「あまり気に入ってないみたいだね」
「うーん、なかなかエリゴノミする猫ちゃんね。じゃあ……プックル! プックルってやんちゃそうで、猫ちゃんにぴったりじゃない?」
リュカの足元に寝そべっていた猫がすっと立ち上がり、今度はビアンカの足元にすり寄ってきた。まるで人間の言葉が分かるようなその素振りに、ビアンカは少しの驚きと大きな喜びとで、足元に来た猫の真っ赤なたてがみをそっと撫でた。プックルと呼ばれた猫は、気持ち良さそうに目を細めてビアンカの手にじゃれつく。
「プックルで決まりだね。気に入ってるみたい」
「じゃあ、今日からあなたの名前はプックルよ。私とはあとちょっとしか一緒にいられないけど、名付け親のこの顔をよーく覚えておくのよ」
そう言いながらビアンカが顔を近づけると、プックルは澄んだ青の瞳でまじまじとビアンカを見つめた。そして「にゃーん」とひと鳴きした後、しゃがんでいるビアンカの足に体をこすりつけた。町にいる他の猫に比べ毛が堅く、ビアンカは足に当たるプックルの毛がチクチクするのを感じた。
「リュカ、まだいるわよね? プックルを連れて広場に行かない? 一緒に遊びましょう」
「うん、行こう! おいで、プックル」
リュカが呼びかけると、何の躊躇もなく付いてこようとしたプックルだが、リュカの後ろに立つ大きな人影にさっと身構えた。今までだったら憧れの眼差しで見つめる人も、今だけは現れないで欲しかったと言わんばかりに、ビアンカはパパスを見上げて眉をひそめた。
リュカはビアンカとプックルの視線を追うように、後ろを振り向いた。父のパパスがすっかり病気を治し、いつもと変わらない様子でリュカを見下ろしている。咳も止まり、顔色は赤くも青くもない。サンタローズに走って薬を取って戻ってきたビアンカの父ダンカンの方が、少しだけ気分が悪そうだ。それと言うのも、昨晩遅くまで酒を飲んでいたせいだろう。
「心配をかけたな、リュカ。父さんの風邪もすっかり良くなったらしい」
パパスの声はいつものように野太く、風邪でかすれていた声も治っている。サンタローズの薬の効き目は相当なものらしい。
「これから村に戻るが……町の人に挨拶はすませたか?」
パパスはそう言いながら、リュカの隣に並ぶビアンカをふと見た。パパスと目を合わせたビアンカは、一度軽く唇をかみしめると、にっこりと笑った。
「おじさま、風邪が治って良かったですね」
「ああ、ありがとう、ビアンカちゃん。だが、もう少しゆっくり風邪を引いていた方がよかったかな」
「あら、おじさまがずっと風邪を引いていたら、いつまでたってもリュカが泣きやまなくなっちゃうわ」
「ぼく、泣いてなんかいないよ!」
ビアンカの売り言葉に、リュカは心外だとでも言わんばかりに声を荒げた。父の病気がこのまま治らなくなったらと考え、ベソをかきそうになったこともあったが、それはリュカの中では泣いていないことになっている。
それよりも、父が元気になった今では、ビアンカとの別れの方がよっぽど辛い。プックルも一緒に二人と一匹で広場で遊びに行こうとした矢先だったのだ。父の風邪が回復して、本当ならばこれほど嬉しいことはない。しかし今のリュカは元気になった父の顔を元気な笑顔で迎えられる状態ではなかった。
「ぼく……町の人たちにあいさつしてこなきゃ」
俯きながら言うリュカの言葉に、パパスは一つ頷いた。
「じゃあ父さんはここにいるから行ってきなさい」
「うん……」
そう言いながらも、滞在が数日のリュカにとって、挨拶するべき町の人たちはさしていなかった。いるとしても、目の前の大きな宿屋を営むダンカン夫婦と、宿で世話になった人たちくらいだ。
それでも、リュカはどうしても時間を稼ぎたかった。すぐにアルカパの町を離れるのは嫌だった。
「ビアンカちゃん、ついて行ってくれるか? リュカ一人ではこの町の地理も良く分からないだろうから」
「ええ、もちろん。リュカ、一緒に行きましょ」
パパスのお願いに、ビアンカは喜んで頷くと、リュカの手を引いて町を歩きだした。プックルも尻尾を振り振りついてくる。リュカがどこそこに行きたいとも言わないまま、ビアンカは迷うことなくリュカを引っ張って歩いて行く。
あまりに迷いのない歩きぶりにリュカは不思議になり、しばらく歩いた後でビアンカに尋ねてみた。
「ビアンカ、ぼく、誰にあいさつすればいいのかな」
「あら、誰かに挨拶するつもりだったの? 私は最後にリュカとプックルと一緒に遊ぼうと思っただけよ」
しれっとそう答えるビアンカに、リュカは口をあんぐり開けたまま、しばらく何もしゃべれなかった。
「広場でかけっこしましょ。どっちが早いか競争よ」
パパスの言葉の優しさに、ビアンカは気づいていた。パパスも、リュカが挨拶するような町の人がいないのは重々承知している。それを分かった上で、あえてリュカに「挨拶をしてきなさい」と言ったのだ。
それはつまり、「二人で遊んできなさい」と言ってくれたも同然のことだった。少なくともビアンカはそう解釈していた。
「何だか、ビアンカって、すごいよね」
しみじみと言うリュカを見て、ビアンカはにっと歯を見せて笑った。
「あったりまえじゃない。リュカったら、気づいてなかったの?」
すると、そんな楽しげな雰囲気に気付いてのことか、パパスの声が後ろから飛んできた。
「リュカ、昼前には出発するから、それまでには戻ってきなさい」
「はーい!」
ビアンカの隣ですっかり元気を取り戻したリュカは、振りかえってパパスに大きく手を振った。ビアンカもパパスにペコリとお辞儀をすると、リュカと一緒に駆け出して行った。プックルが遅れまいと二人に追いつき、一気に追い越して走って行った。
「無邪気なもんだね。子供はああでなきゃね」
ビアンカの母がパパスの隣で目を細めて子供たちを見ていた。ビアンカのお転婆ぶりをしょっちゅう叱っている母だが、それだけ一人娘を愛しているからこそだ。叱りながらも、お転婆な愛娘のことが誰よりも好きなのだ。
「リュカ君に変な里心がつかないといいんだけどね」
妻の横で、ダンカンが困惑した表情で言うと、パパスは小さく見えるリュカの後姿を見つめながら、微笑しながら言う。
「しばらくはサンタローズに留まるつもりだから、アルカパにも遊びに来れるだろう。リュカにも『友達』が必要だしな」
「そうだよ、パパスさんの旅の目的も大事なことだけど、リュカ君の人生も同じように大事なんだ。一人息子を不幸にさせるなんて、今あんたが探してる奥さんだって喜ばないよ」
「そんなこと言われなくたって、パパスが一番悩んでるんだ。追いつめるなよ」
「それでも言わずにはいられないんだよ、母親としてね」
ビアンカの母は真面目な顔つきをしてパパスに言うが、パパスは困惑した表情を返すことしかできなかった。旅の最中、常に頭をもたげるジレンマだった。一人息子はやはり国に置いてくるべきだったのかと、考えない日はないくらいだ。
しかしこうして旅の途中で様々な人に出会い、リュカが日々成長しているのが嬉しくもある。過酷な旅に連れて来ていることに負い目を感じる反面、息子を城に置いてきていたら一人の人間としてここまで成長していただろうかと、思うこともある。
リュカを長旅に連れて来たきっかけは、パパスが旅に出る時にリュカが泣いて泣いてどうしようもなかった、という単純な理由だった。喉を枯らして、涙が出尽くしても、リュカは泣き声を止めなかった。そのまま泣いて死んでしまうのではないかと、その場にいた誰もが不安になったくらいだ。
しかしそんなリュカをパパスが抱き上げると、途端に泣きやみ、パパスの腕の中ですうすうと眠り込んでしまった。その寝顔が妻のマーサにそっくりだったのを、パパスは今でも覚えている。
今になってパパスは気がついた。リュカを旅に連れて来た理由は、自分がリュカの傍を離れることに耐えられなかったからなのではないか。泣いてどうしようもないとか、自分が傍にいなければ息子はどうにかなってしまうのではないかとか、そんな客観的な理由ではなかった。
妻に似たリュカに、傍にいて欲しかった。そんな子供じみた理由だったのかもしれないと、パパスは見えなくなったリュカの後姿の残像を目で追いながら、考えていた。



「プックル、早いよー、待ってー」
リュカが息を切らしながら叫ぶと、前を気持ちよく走っていたプックルが急ブレーキをかけて止まり、リュカとビアンカを振り返った。真っ赤な尻尾の毛先をゆらゆらとさせ、二人をもどかしい様子でその場で待っている。
「プックル、広場はこっちよ、おいで」
プックルに追いついたビアンカが息を切らせて誘導すると、プックルは大人しく歩きながらビアンカについて行く。時折、ビアンカの足元にまとわりつきながら歩くプックルに、ビアンカも遊ぶようにあちこち飛び跳ねるように歩く。
広場に着くと、午前のまだ肌寒い時間帯にもかかわらず、町の人々の姿がちらほらしていた。走ってきた二人は顔を上気させていて、寒さはあまり感じていないが、口から出る息は白い。時期は春を過ぎているはずだが、冬の気候がまだ続いている。
プックルは傍に歩いてきた猫に興味を持ち、ゆっくりと近づいて行った。その大きな猫の姿に気付いた町の猫は、驚いて一目散に逃げて行ってしまった。大きさが二回りほど違うようなプックルに近づかれて、その大きさだけで怖くなってしまったようだ。
「あの猫ちゃんはきっと、他の猫ちゃんと遊ぶ約束をしてたのよ」
ビアンカがそう言いながらプックルの赤い背中の毛を撫でつけると、プックルは目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。猫に逃げられたことなど気にしていない、と言った様子だ。
「ねぇリュカ、そういえば木登りが得意って言ってたわよね?」
「うん、できるよ」
リュカが自信を持ってそう言うと、ビアンカはぱっと顔を輝かせて、広場の中央に生える大きな木を指さしながら言った。
「じゃあ、あの木に二人で登りましょ」
ビアンカが指さした木は、子供のリュカから見ればまるで天にまで届くのではないかと思えるほどに高い木だった。さすがにまだ幼いリュカにあの木の天辺まで登ることはできない。あれほど上から落ちたら、大人でも命はないだろう。
「……あんなに高い木に登るの?」
「さすがにてっぺんまでは登らないわよ。そんなに高いところまで登らなければ、落ちたってたいしたことないわ」
「えっ、落ちるの?」
「気をつければ大丈夫よ。さぁ、レッツゴー!」
また走り出したビアンカに、プックルは何も考えずについて行き、リュカはちょっとした不安と大きな期待とを抱え、後を追った。
近づいてみると、やはり大きな木だった。しかし幹のかなり下の部分からも枝が伸び、木登りには向いているようだった。現に、木の枝には子供たちが登ったであろう土の跡が付いている。その土の跡を辿れば、どこに足を引っ掛けて木を登っていけばいいのか、リュカにも分かった。
「私が登る後をついてくれば平気よ。リュカはゆっくり来ていいからね」
そう言うと、ビアンカは土の跡がついた枝に足を乗せ、その上の枝に手を引っ掛け、すいすいと登り始めた。リュカも同じように枝に足を乗せてみる。しっかりとした枝で、リュカの体重ほどではびくともしない。この枝で何人もの子供たちの体重を支えて来たのだ。リュカは安心して足を踏ん張ると、先を行くビアンカの跡を追ってゆっくりと木を登り始めた。
「下を見ちゃダメよ。上だけを見るのが木登りのコツなのよ」
そう言うビアンカはリュカを見るために下を見ている。そんなビアンカが手をかけている枝に、ぴょいっとプックルが飛び乗った。そしてビアンカの顔に頭を擦り付ける。
「プックルちゃんはさすがね。でもちょっとここで待っててね」
ビアンカは空いている左手でプックルの頭を撫でてやると、プックルは猫らしく「にゃあん」と鳴いた。
「リュカ、大丈夫? 怖くない?」
「うん、大丈夫」
レヌール城に忍び込む時には、この木よりもずっと高いような、ぐらぐらする階段を必死で登った。夜で目が利かない上、雨が強く降っていた。鉄製の階段梯子は錆ついていて、じかに手でつかむこともできなかった。
それに比べると、ビアンカとプックルとの木登りは怖いはずもなく、楽しいの一言だった。空気は冷たいが、太陽の光が当たるところはほんのり暖かい。木漏れ日を顔に受けて、リュカは気持ち良さそうに目を細めた。
「うちの宿屋から見る景色もいいんだけどね、この木の上から見れる景色もいいのよ。ほら」
リュカの手を引っ張って同じ枝木に腰掛けさせると、ビアンカはぽっかりと空いた葉の間から景色を望んだ。既に二人が座る枝に着いていたプックルは、枝の先から戻って来て、リュカとビアンカの間に身を詰めるように座る。
まだ陽の上がりきらない午前の日差しは透き通り、アルカパの町全体をはっきりと見せた。広場を囲む濠に溜まる水の青さは、晴れ渡る薄青色を取りこんで反射している。遠くに見えるのはビアンカの両親が営む宿屋だ。その直線上の手前に堂々と見えるのが、町の教会の屋根に掲げられる十字架だった。
父と町に入ってきた時も、ビアンカと町を歩いている時も、リュカは教会の屋根の上の十字架を意識したことはなかった。屋根の上にあるため、遠くから見れば小さく、近くから見上げると角度的にそれは見えなかった。
「私ね、悪いことをして反省する時、ここに来るのよ。十字架、良く見えるでしょ?」
ビアンカが静かにそう言うと、リュカも無言で頷いた。白い石で造られた十字架が陽を受けると光り輝いて見えることを、リュカはこの時初めて知った。
「神様、リュカを危ない目にあわせてごめんなさい」
ビアンカが両手を組んで目を閉じ、そう呟いた。リュカはふと下を見てみた。思ったよりも木登りをしたようで、想像以上に高いところに座っていたことに、一瞬身震いがした。
「ビアンカ、ぼく、大丈夫だよ。危なくなんかないよ。怖くないよ」
リュカは腰掛ける枝をしっかりつかみながらそう言った。ビアンカはリュカに振り向き、一度首を傾げると、笑いながら答える。
「そうじゃなくって、レヌール城に無理やり連れてったでしょ。そのことよ」
「レヌール城……?」
「そうよ。あの時はちょっと必死になっちゃったけど、リュカを連れていくことなかったのよ。ほんとに危なかったんだもの。あの時何かあったら、私のせいだわ」
ビアンカは見たこともないような真剣な顔つきで十字架を見つめている。
「だから神様に謝らなきゃ、と思ってね」
「どうして? ぼく、楽しかったよ。ビアンカがあやまること、ないと思うよ」
リュカはプックルの背を撫でながら笑って言う。プックルもつられるように一声「にゃあ」と鳴いた。
「だってビアンカともプックルともユウレイたちとも一緒に遊べたんだもん。ぼく、あんなに楽しかったの初めてだよ。あんなにいっぱい遊んだことなかったんだもん。だから、ビアンカ、神様にあやまらないでよ。ビアンカは楽しくなかったの? 楽しくなかったから神様にあやまるの?」
リュカがこれほど矢継ぎ早に話すのを、ビアンカは初めて聞いた。何日かしか一緒に遊んでいないが、自分が十話せば、リュカはそのうちの一もないほどに口数が少ないと彼女は思っていた。あまり何も考えていないのだろうと思っていたくらいだ。
「……楽しかったわよ、決まってるじゃない」
「じゃあ、神様にあやまることなんかないよ」
「でもそれとこれとは別じゃない。私はリュカを危ない目に……」
「それって『楽しくなかった』って、そういう風に聞こえるよ、ぼく」
リュカが眉をひそめて言うのを見ていると、まるで自分が反省ではなく悪いことを言っているような気がして来て、ビアンカは少し混乱した。しかし母にはこっぴどく叱られたのだ。パパスの息子を危ない目に遭わせたと言って。
しかしビアンカの母が叱りつけた本当の理由はそれではない。彼女は冒険好きな自分の一人娘が無鉄砲にも町の外に出て、魔物と戦い、多少なりとも傷を負って帰ってきた事実に、一瞬死んだような気持ちになったのだ。一歩間違えれば、魔物の攻撃に倒れ、命を失っていたかもしれない。
娘が無事に帰ってきたとは言え、頭の中を何度もよぎった娘の死に、母は気がおかしくなりそうだったのだ。
「ぼくはね、お父さんにあやまったよ」
少し居心地悪そうに言うリュカに、ビアンカは首を傾げながら問いかける。
「おじさまに怒られたの?」
「うん。ほめられたけど怒られちゃったから」
「ほめられたの?」
「強くなろうとするのはいいけど、あぶないことをちゃんとみきわめることも大事だって。あぶないって思ったら、逃げるのも大事だって」
「……逃げるだなんて、おじさまらしくないわね」
ビアンカは自分の頭の中にある憧れのパパス像を崩したくないために、顔をしかめながら言う。パパスが魔物を前にして、背中を向けて一目散に逃げるという場面が、上手く想像できない。
「ぼくもそう思ったよ。でもお父さん、今までに何度もまものから逃げてるって言ってた。危ないと思ったら、まずどうやって逃げるかって、考えるんだって」
「へぇ……イガイだわ」
パパスが過去、魔物との戦闘から逃げた主な理由は、リュカだった。幼いリュカを連れて旅をする最中、幾度となく魔物の手を逃れて来ていた。疲れたリュカが眠っている時は、片手に抱きかかえながら敵の視界に入らぬよう静かにその場を去った。リュカを庇いながらの戦闘が難しいほどの強敵に遭遇すれば、リュカの気を紛らせながら茂みに身を隠した。
巧みに魔物の目を逃れて来たパパスの努力を、リュカは知らなかった。強く逞しい父が魔物から逃げることなど、父から教えられるまで想像したこともなかった。
「相手がすごい強いマモノでもたたかわなきゃいけないって思うな、って。お化けにはたまたま勝てたけど、もしかしたら死んでたかも知れないんだって、怒られたよ」
「おじさま、リュカのことがとても心配だったのよ」
「ビアンカのお父さんもお母さんも、同じだと思うよ」
「……そうね。私、後でちゃんとパパとママに謝ってくるわ」
「ね。あやまらなきゃいけないのは、カミサマじゃないでしょ?」
「そう、ね。そうかもしれないわ」
ビアンカはリュカと話している内に、胸の中がすっと澄み渡るのを感じた。
悪いことをして主に母に怒られた後、毎回のようにこの木に登り、教会の十字架に向かい合ってきた。見えない神様に手を合わせ、『もう悪いことはしません。ごめんなさい』と謝るのは日常茶飯事だった。しかしその後、必ず家に帰ってから素直な気持ちで父や母に頭を下げて謝っていたのだ。
結局、悪いことや危ないことをして謝るのは、父や母や友達など、実際に迷惑をかけたり、心配させたりした人だった。神様に手を合わせるのは、言わば自分の心を落ち着ける時間を作るためだった。
「リュカはおじさまに謝ったのね?」
「うん、悪いことをしたんだなって思ったから」
リュカには心を落ち着けるための場所は必要ではないらしい。その場で自分の行動を反省し、素直に謝ることができる。ビアンカは悔しながらも、リュカを少し尊敬した。
しばらくぼんやり町の風景を見渡していた二人だったが、プックルが欠伸をしたのをきっかけに、時間の流れに気がついた。いつまでもこうしてゆっくりいられないことに、リュカもビアンカも改めて気付かされた。リュカはもうすぐパパスと共に、サンタローズの村へ帰る。
「おじさま、待ってるわね。リュカ、行きましょ」
「……うん」
体を摺り寄せてくるプックルの頭を撫でると、リュカはもう一度アルカパの町を見渡した。教会を飛び越えて遥か向こうに見えるのは、ダンカン家が営む大きな宿屋だ。木の上から望む宿屋の前には、ダンカン夫婦とパパスが並んでいるのが米粒のように小さく見えた。三人とも、リュカとビアンカの方を向いている、リュカはそんな気がした。
「プックル、行かなきゃ」
「にゃあ……」
リュカとプックルがためらいがちにその場に留まる横で、ビアンカは何も言わずに下の木の枝に足をかけた。スッスッと軽やかに枝から枝へと下りて行き、最後に飛び降りて草地に着地した。
「リュカ、プックル、気をつけて下りてくるのよ」
木の下から二人を笑顔で見上げるビアンカに、リュカは勢いをもらった。木の上から見えた小さな父の姿を思い出す。ビアンカとずっと遊んでいられるわけではないのは、初めから分かっていたことだ。父と共にサンタローズの村に帰らなくてはならない。
リュカはプックルのお尻を押して、木を下りるよう促す。プックルは四足を踏ん張ってそこから動こうとしない。仕方なくリュカはプックルを置いて、先に木を下り始めた。プックルがにゃあにゃあ鳴いてリュカの頭を見下ろすが、リュカは下りるのに必死になってプックルを見上げることができない。プックルは仕方ないと言った様子で、リュカの後を追って木を下りて行った。
「じゃあ、行きましょ。おじさま、待ってるわ」
「うん」
木の上から見えていた小さな父の姿が今は見えない。しかし父は今も静かに息子を待ち続けている。このアルカパの町には成り行きで立ち寄っただけで、リュカもパパスもこの町に来たこと自体が偶然だった。この偶然がなければ、リュカはビアンカと友達になることもなかった。サンタローズの村では一方的に知られていただけで、リュカの記憶にビアンカの存在はなかった。
二人の子供だけでの冒険は、リュカに忘れられない思い出を作った。そして、リュカにとって、ビアンカは無二の友達になった。父と旅を続ける中で、これほど同じ時間を密に過ごした同年代の子はいない。しかも子供のお遊びではなく、一歩間違えれば命を落としていたかもしれないような、大冒険だったのだ。
この大冒険の記憶と共に、リュカの記憶の中でビアンカの存在が生き続けることになる。
ビアンカはリュカの手を取り、意気揚々と歩きだした。リュカは半歩後ろからビアンカの金髪のお下げがぴょんぴょん跳ねるのを見ていた。気が強くて、負けず嫌いで、意外に真面目で、面倒見が良くて、お姉さんぶってて、ちょっと怖がりで、なんだかんだで優しいビアンカに、リュカはこの時、ちょっと憧れた。しかしそんな感情を言葉にする術を、リュカはこの時知らなかった。特に伝えることでもないと思っていた。



二人がアルカパの宿屋に戻った時、陽はちょうど中天を仰ごうとしていた。ちょうど昼時だからと、ダンカンはパパスに昼飯だけでも食っていけと勧めたが、妻が既に弁当を二人分差し入れてあるのを見て、少し肩を落とした。
「まあ、隣町に住んでいるんだから、また時間を見て来てくれよ、パパス」
「そうだな、少し落ち着いたらまたアルカパに来ようか」
大人二人の社交辞令な挨拶に気付いていたビアンカは、口出しせずにじっと大人しく横で聞いていた。パパスが忙しいのは分かっている。だから、気軽な調子でアルカパに寄ることはないだろう。ビアンカは誰に説明されることなく、分かっていた。
「リュカ君も元気でな」
「うん」
リュカはニコニコしながら返事をした。リュカは大人二人の言う通り、またすぐにでも会えるのだろうと、気軽に考えることにしたのだ。リュカ一人の足では遠い隣町も、父と来ればあっという間だろう。
サンタローズ付近の魔物はパパスの相手ではない。リュカが「アルカパに行きたい」と言えば、きっと連れて行ってくれる。リュカはそう考え、ビアンカとの別れを辛く思わないことにしていた。
「さて、そろそろ行くとするか。世話になったな、ダンカン」
「改まってそんなこと言うなよ。しんみりしちまうだろ」
「女将さんも、世話になった。風邪など引いて迷惑をかけて」
「何言ってんだい。うちのが風邪を伝染しちまったんだからさ、パパスさんがそんなこと言わなくたっていいんだよ」
そう言いながら夫の背中をバシンと叩くダンカンの妻に、パパスは微笑んだ。そしてリュカを見下ろすと、リュカも父を見上げた。
「リュカ、行くぞ」
パパスは一言声をかけると、ダンカン夫妻にもう一度頭を下げて、くるりと背を向けた。リュカも父を追って歩き始めた。あえて振り返らないようにしていた。
「リュカ!」
後ろから高い声で呼ばれて、リュカは何も考えずに振り返った。ビアンカが走って来る。リュカの期待が一瞬膨らんだ。一緒にサンタローズに来るんだろうか。今度はサンタローズの村で一緒に遊べるんだろうか。
しかしビアンカはリュカの目の前に来ると、金髪のお下げを結っていた黄色いリボンを一つ外し、リュカに差し出した。
「しばらく会えないかも知れないから、これをあげる……」
弱い風に揺れている黄色いリボンをリュカはただ見つめていた。それを受け取ったら、ビアンカとはもうお別れになってしまうのがはっきりしてしまう気がして、リュカは手を出すのをためらった。
「そうだわ! プックルちゃんにつけてあげるね」
手を出さないリュカにビアンカはいてもたってもいられなくなり、リュカの横でビアンカを見上げていたプックルの尻尾にリボンを結びつけた。プックルは自分の尻尾でひらひらと揺れているリボンを、誇らしげな目で見つめている。
「リュカ。またいつか一緒に冒険しましょうね! 絶対よ」
片方の髪に三つ編みの癖がついたままふわりと肩に落ち、もう片方はぴんぴんと元気に三つ編みが跳ねている。対照的な髪形のせいで、今のビアンカの表情が元気なのかしおらしいのか、リュカには分からなかった。
「元気でね、リュカ」
笑顔を崩さずに別れを告げるビアンカに、リュカも笑顔を返すように口元を上げようとしたが、結果少しひきつってしまった。
「ビアンカも元気でね。また遊びに来るね」
「今度来た時は『ちゃんと』遊びましょうね」
ビアンカがそう言うと、リュカの後ろでこっそりパパスが笑っていた。ビアンカがそれに気付き、少し気まずい顔をしたが、パパスは何も言わなかった。
その後も何度も何度も町を振り返り、パパスとリュカはダンカン家族に別れを告げた。彼らの姿が見えなくなると、パパスは町の外に目を向け、自らの装備品を今一度確認した。村へのちょっとした旅の再開だ。
「ところで、リュカ……お化け退治のこと、この父も感心したぞ」
父にそう言われ、リュカは鼻高々になった。父に褒められるのは最大のご褒美だ。
「お前が朝方帰ってきた時は、心配のあまりつい怒ってしまったがな」
パパスはまさか、まだ六歳の我が子が魔物のうろつく外に飛び出して、しかも女の子と一緒に冒険に出かけているなどとは夢にも思っていなかった。擦り傷切り傷をこさえただけで、大した傷も負わずに帰って来た時、パパスは安堵した直後、初めてリュカを叱りつけた。決して怒鳴るわけではなく、静かに低い声で、父がどれだけ息子を心配していたかを語ったのだ。
「しかしお前はまだ子供だ。あまり無茶をするでないぞ」
感心し、男の子としての勇猛さを褒めてやりたい気持ちを抑え、パパスはリュカに今一度注意した。この冒険の成功は、リュカに少なからず自信を与えている。人間、自信を持つのは良いことだが、自らの力を過信するとロクなことは起こらない。
「うん、ムチャしないようにするよ」
素直なリュカは、父の苦言を素直に受け止める。パパスはそんなリュカに、少々物足りなさを感じた。どうせなら反抗するくらいの言葉を期待していたのだが、今のリュカは見た目にもしょんぼりしている。
それも仕方のないことだ。たった今、リュカに自信をつけてくれた友達と別れたばかりなのだ。
「うむ……。では、行くとしよう」
息子が強く生きていく為には、自分の力だけではどうにもならないことがあると、パパスは息子の将来を案じた。
命がいつ奪われるかも分からないような旅を続けるに当たり、もし自分が倒れるようなことがあったら、今のリュカでは一人で生きて行くことはできないだろう。息子が強くなるためには、息子を支えてやれる友人が必要なのかもしれない。その友人が今別れたばかりの女の子なのか、これから出会う誰かなのか、それはパパスにも分からない。
自らの旅の目的もあるが、大事な一人息子の将来を導くのも忘れてはならないと、パパスは探し続けている妻に心の中で誓った。

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