2017/12/03

お化け城(3)

 

この記事を書いている人 - WRITER -

「大広間を抜けて地下に降りればって言っても、私たち初めてこのお城に来たんだからわかんないわよねぇ」
「あっ、いた」
「どうしたの? ケガでもしたの、リュカ」
「いたー」
ビアンカの手を握ったままリュカは突然城の廊下を走り出した。あまり視界も利かない暗がりで走り出すリュカに慌ててついていくビアンカは、何が何やらわからないままただリュカとはぐれないよう手だけはしっかりと握り締めていた。
リュカの走る先には鬼ごっこを約束したゴーストがリュカの視線の高さにふよふよと浮いて楽しげにリュカを待っている。くるりくるりと身を翻すゴーストのぼんやりと光る姿にリュカは一直線に走り追いかけていった。ゴーストはまるで人間だった頃に記憶を戻して、その頃の鈍くさい走りを再現しながらリュカの前から走り逃げようとする。しかしとうとうリュカの手に捕まると、ゴーストはリュカの手が自分の身体をすり抜けるのも構わずに、『つかまっちゃった』と言うように大きな舌を出して大人しくリュカの後についてこようとする。
「じゃあ、他のコを一緒に探そうね」
リュカの言葉にゴーストは嬉しそうに三度も頷き、空いているリュカの右手を取ろうとする。しかしやはりその手はすり抜けてしまい、ひんやりとした感触に一瞬身震いしたリュカにゴーストは寂しそうに俯いてしまう。
「ごめんね。手はつなげないみたいだね」
しゅんとしたまま顔を上げないゴーストにリュカはかける言葉を失ってしまう。そんな時、ふとビアンカがリュカの前に乗り出してゴーストの顔を覗き込むように問いかけた。
「ねぇ、キミはお城の厨房がどこにあるか知ってる? 私たちそこに『聖なる火』を取りに行かなくちゃいけないの。一緒に手伝ってくれない?」
ビアンカのその問いにゴーストはぱっと顔を上げて今度はビアンカに向かってこくこくと頷く。そして今度はビアンカの手を取ろうと彼女の隣にすうっと飛んでいく。ビアンカは身の回りに起こる冷たい風に思わず小さな悲鳴を上げかけたが、リュカの手前、その悲鳴をぐっと喉の奥に押し込めた。手に感じた冷たい感触にもぎこちない笑顔で返し、ビアンカは右手に暖かな子供の体温を感じ、左手に冷たくまとわりつく空気を感じながら先を歩き出した。
城の至る所に赤絨毯が敷かれていたが、この暗がりではそれも分からず、御伽噺の本で読んだようなふかふかとした感触もない。レヌール城が滅びてから長い間放置されていたため、城を彩っていたものは全て夜に限らず色を無くしているに違いなかった。昼間に見る赤絨毯もきっと目の覚めるような色鮮やかな赤ではなく、元は赤だったことが辛うじてわかるくらいの赤茶けた古びたものになっているのだろう。その薄汚れた色を想像させるように、廊下の壁の要所要所には絶えない火が灯されている。
「あったかいね、この火」
「お城の中の魔物はこの火があんまり好きじゃないみたいね」
城に遭遇する魔物は明らかに城に灯される火を避けていた。火の明かりの届かない部屋の隅に魔物は潜み、リュカたちが少しでもその明かりの届かないところにくれば咄嗟に攻撃を仕掛けてくる。一方でリュカたちと共に行動しているゴーストはこの火が苦手と言うわけではないようだった。ビアンカは自分の魔法の火と何が違うのか、壁にかかる燭台を見上げながら首をひねっていた。
リュカたちに捕まったゴーストが大広間の扉をするりとすり抜けた後、リュカはその扉を威勢良く大きく開いた。埃っぽい広間の雰囲気にビアンカが顔をしかめる横で、リュカはまた顔を輝かせて「いたー」と叫んだ。
鬼ごっこで逃げていたゴーストたちはこの場所に隠れていた。どうやら一足早くリュカに捕まってしまったゴーストは彼らについていけないままあの場所でまごついていたらしい。リュカはすでに捕まえていたゴーストに「待っててね」と言うや否や、ビアンカの手を握ったまま広間の中を走り始める。
「私はあっちで他の子を捕まえるから、リュカは一人で違う子を捕まえてきてよ」
「いやだよ」
「何でよ」
ビアンカの問いにリュカはむすっとした顔をしたまま、やはりビアンカの手を離そうとはしない。ビアンカが真正面からリュカの顔を見てもリュカは顔を上げずに俯いたままでいる。
「そっか、そんなに怖いんだったら仕方ないわね。さっきも私にしがみついて泣いてたしね。しょーがないわねー、お姉さんが一緒についていてあげるわよ」
「怖くなんか、ないよっ。何言ってるんだよ、ビアンカ」
「あんたって変な子ね。お化けは怖くないのに一人になるのが怖いのね」
「だから怖くなんかないって言ってるだろっ」
「はいはい。そうよね、一人なんか怖くないわよね。リュカはパパスおじさまみたいに強い人になるんだもんね」
ビアンカに父親のことを引き合いに出され、リュカは誇らしげに笑顔を見せたが、それでも本心は隠せずにずっとビアンカの手を離さなかった。ビアンカは内心でくすくす笑いながらも、大人しくリュカと手を繋いだまま大広間に逃げるゴーストたちを追っかけまわした。リュカに捕まっていたゴーストも一緒になって大広間の中を風のように飛び回った。
すぐには捕まらないと思っていたゴーストたちはまるで自分から捕まりにくるようにリュカたちに近づき、いざ捕まればまるでお礼でも言うようにリュカたちの周りを嬉しそうに飛び回る。それを見て同じように嬉しそうな顔を見せるリュカを隣に見て、ビアンカは複雑な心境で笑った。
物心つく前からずっと旅をしてきたリュカは父と共に行動をしていてもずっと一人だった。行く先々ではそれなりの出会いを経験したが、それは父の旅の経過に過ぎず、移動を繰り返すリュカが本当に親しい友人を作ることはできなかった。二年前にビアンカに遊んでもらっていたことも忘れていたリュカが、一体今までにどれだけ同年代との思い出を作れたのか、これからもそういった友人が作れるのか、彼は心のどこかで常に不安に思っているのかもしれない。だから彼は一瞬を大事にし、自分の目の前にある時間を逃がさないように目一杯使おうとする。
今ビアンカの目の前にいるリュカもまるで一秒を惜しむかのようにゴーストたちとはしゃいで遊んでいる。相手が人間だろうと何だろうと、リュカには関係ないようだ。とにかく自分の寂しさを紛らわすために一秒でも楽しい時間を増やそうと無意識に一生懸命なのだ。
「あれ、一人まだいないよね。どこに隠れてるんだろう」
捕まえたゴーストたちを数えてみれば五人で、あと一人、一番大きな体格だったゴーストがいない。それに気がついたリュカに合わせて捕まったゴーストたちは一斉にケラケラと笑い出す。そして彼らは広間の端にある扉に含んだ視線を送った。
「あっちにいるんだね。じゃあみんな一緒に探しに行こうよ」
リュカにぞろぞろとついてくるゴーストたちに一番恐怖を感じていたのは紛れもなくビアンカだったが、彼女はゴーストたちから感じる寒々しさに負けないようにリュカとぴったり身を寄せて歩いていった。
扉を開くと今度は地下に降りる階段があり、階下に下りるとそこはリュカたちが目指していた厨房だった。厨房は城の中でも地下に位置していたが、聖なる火のおかげで厨房の中は薄ぼんやりと隅まで見渡すことができた。
お城の厨房など見たことがない二人はその大きさに目を丸くした。アルカパの宿を住まいとするビアンカは自分の家のかまどだってかなりの大きさだと自慢したこともあったが、その大きさとは比べ物にならないほど大きな作りで、鍋もフライパンも洗い物用に水を張る桶だって見たこともない大きさだった。手入れを怠らなければそれらは今にも使えそうなほど立派なものなのだろうが、数百年も放置されたままになっているためにさすがに使い物にはならなそうだった。
奥には貯蔵用の壺がいくつか置かれていた。王様の話をしっかりと聞いていたビアンカは早速その壺の木蓋に手をかけて持ち上げようとする。隣にいたリュカも一緒にその蓋を持ち上げた瞬間、蓋をすり抜ける勢いで最後のゴーストが飛び出してきた。驚いて尻餅をついた二人の周りを心配そうに飛び回るゴーストたちに、リュカはお尻を手でさすりながら『大丈夫、大丈夫』と情けない笑顔を見せた。
壺の中には王様が言っていたように暖かな火が静かに保管されていた。見た目にはちろちろと頼りない火だが、それがもう数百年以上消えずに残っていると考えるだけですごいことなんだとリュカもビアンカもその火をじっと見つめた。リュカはかまどの中に残っていた木屑を片手におさまるくらいにまとめ、それを壺の中に入れて火種を移す。聖なる火はまるで生き物のようにリュカの作った松明にすんなりと燃え移り、壺の中は数百年ぶりに真っ暗になった。
「これで悪いヤツをやっつけられるのね。さあ、行きましょう、リュカ」
「待って、ビアンカ」
リュカがそう言いながら引く手にビアンカはやむなく立ち止まる。リュカの視線は厨房のかまどの前に来ている魔物に向けられている。そしてその魔物の横には透き通る姿のコックの姿がある。
「こんな子供を料理するなんて私にはできません」
またどこから聞こえるのか分からないような人の声に、リュカもビアンカも互いの手を強く握り合う。ゴーストたちはリュカの後ろで震えるようにして隠れている。
「私はもうとっくに死んでいるんだ」
コックのその言葉に後ろのゴーストたちがさらに震えるのが分かった。魔物は半透明のコックに厨房にあった巨大な包丁を向けている。
「いくらそんなもので脅されようと死んでいるのだから怖くも何ともないぞ」
コックの強気な態度に魔物は怒りを露にし、手にしていた包丁を高々と振り上げるとそれを勢い良く投げつけた。包丁の鋭い刃は白い半透明のコックの身体をすり抜け、コックはそれと同時に掻き消えるように姿を消してしまった。その一部始終を見ていたリュカは思わずビアンカの手を離して松明を手にしたままコックのいた場所に駆けていった。
「どこ? どこに行っちゃったの?」
調理台の上に飛び乗ってキョロキョロと辺りを見回すリュカの背後から、巨大な蝋燭の形をした魔物はさも楽しげに頭の火をリュカに近づける。紫色のマントに火が燃え移ると、ビアンカが慌てて駆け寄ってそのマントの端をブーツで何回も踏みつけて火を消した。
「何するのよっ。ヤケドしちゃうじゃないの」
ビアンカは怒りの表情を向けたまま、腰に帯びていた茨の鞭を手にとって巨大蝋燭に向かって振り上げた。唸りを上げてしなる鞭の先に当たった魔物はぎゃんと悲鳴を上げて、二人の子供から素早く離れていった。
「リュカ、早く行くわよ」
「う、うん」
ビアンカが強引にリュカの手を引っ張って調理台の上から飛び降りようとした時、突然調理台がきしむような音を立てて地震のように不規則に揺れ始めた。バランスを失った二人は互いの身体を支えあい、徐々に上がっていく調理台の上でじっとその揺れが止まるのを待つことしかできなかった。下を見下ろせばゴーストたちが寄り集まって天井高く上がっていく調理台を不安な面持ちで見上げている。
揺れが静かに止まると、リュカとビアンカは揃って顔を上げて辺りを見渡した。彼らの目にまず映ったのは厨房にいた蝋燭型の魔物が五体、頭に大きな炎を揺らしながら大きな食卓を囲んでいる姿だった。リュカとビアンカが乗っているのはかつてレヌール王宮で使用されていた王族用の食卓で、その上に乗せられた二人の子供は魔物たちの食事だった。それを瞬時に悟ったビアンカは既に握り締めていた茨の鞭を更に力を込めて自分の前に構えた。
「リュカ、あんたは風の魔法を唱えるのよ」
「えっ、なんで?」
「まずあいつらの火を消した方がいいわ。火がなくなればあとは叩きのめせばいいんだから」
ビアンカはそう言いながらもじりじりと近づいてくる魔物に向かって鞭を振るった。唸りを上げて飛んでいく鞭が起こす風に魔物の頭に乗る炎が切れ切れになって宙を舞う。その火の粉が飛んできてリュカは慌てて身を屈めてそれを避けた。
ビアンカが必死に鞭を振るっている後ろでリュカは集中して魔法を唱えだす。完成した風はビアンカの横を通り過ぎて魔物の白い身体を切りつける。蝋が剥がれ落ち、床に白い欠片が散らばるも、魔物にはさほど痛覚がないようで変わらず二人に近づいてくる。
「火を消すんだってば。もっとマジメにやんなさい」
「マジメにやってるよ。難しいんだよ、これ」
リュカは文句を言いながらもビアンカに迫る魔物の姿を見て喋る余裕を失い、またすぐに風を飛ばす。ビアンカの目の前に巨大蝋燭の火が来たところでリュカの魔法が魔物に当たり、三体の魔物の火が消え、広間の明かりが一気に落ちる。暗くなった広間にもんどりうつ三体の巨大蝋燭の姿を見て、ビアンカは慣れない暗さに瞬きをしながら再び鞭を振り下ろした。脆い固形物が崩れる音と共に、一体の蝋の身体が広間の上に砕け散らばった。
「ビアンカ、すごいね」
「いいからあんたはあと二匹の火を消して」
「あ、う、うん」
コツを掴んだリュカは頭に炎をかざす魔物にしっかりと狙いを定め、離れる二体の魔物に向かって薙ぐように手を払い、風を散らした。風と炎が交じり合い、一瞬炎を大きくした後にそれは消え、広間はリュカの持つ松明の明かりでどうにか視界が利く程度になった。
「よくやったわ、リュカ! あとはとにかく叩けばいいのよ」
ビアンカに褒められてすっかり自信を持ったリュカは、腰紐に挿していた樫の杖を手に取ると、左手に松明を持ちながら魔物に向かって駆け出した。炎を失って自身を失いかけていた魔物は少年が走り近づいてくることにも気がつかず、樫の杖で思い切り叩かれた後には蝋の身体を崩す外何もできなかった。砕けた蝋の塊はまるでそれが魔物であったかも分からないくらいに普通の蝋燭で、長い年月が城の蝋燭を魔物に変えてしまった結果がこの場所にあっただけだった。リュカは砕けた蝋の山を見下ろしながら、少し悲しい顔をした。
炎が消えてしまった後、魔物の抵抗はさほどなく、二人は目の前の魔物をすぐに倒すことができた。しんと静まり返った広間には二人が肩で息をする音と、リュカの持つ松明がちりちりと炎を上げて空気を焦がす音だけが響いた。
「ビアンカ、大丈夫?」
じっと俯いたまま黙りこくっていたビアンカにリュカはそう話しかけた。ビアンカははっと顔を上げると、すぐに笑顔を見せて「当たり前でしょ」と気丈に振舞った。そして顔を覗き込んでこようとするリュカから顔を背けたまま広間を出ようと歩き出す。
「早く悪いヤツをやっつけなきゃ。それでネコちゃんを助けるのよ」
「うん。行こう。ボクたち強いもんね」
ビアンカに褒められたことが嬉しかったリュカは心からの笑顔を浮かべながら前を行こうとするビアンカの手を握った。手を握ったと同時に伝わってきた彼女の手の震えにリュカは彼女の後ろ姿をじっと見つめたが、ビアンカは意地でも後ろを振り向かなかった。そして広間の外の廊下に出て、階段を昇り、上階に進むにつれて、彼女の手の震えは少年の小さな手から体温を分け与えてもらうことに安心し、収まっていった。



途中道を塞いでいたユウレイの姿は、リュカの持つ松明の明かりに照らされるとその姿を一段と薄れさせた。一見普通の松明の火にしか見えないその聖なる火はユウレイに対して絶大な効果をもたらし、リュカがそれを持って近づくだけで幽霊はまるで忌むものを見るような視線を投げながらもおずおずと道を明け渡した。
「ボクたちには普通の火とどこも変わらないように見えるんだけどね」
「私たちは良い子だから平気なのよ」
「ふうん」
ユウレイが近づいてこないようにリュカは注意深くタイマツを手に持ち、ビアンカを庇うようにじりじりと扉へ向かって進んでいった。勝気なビアンカはリュカの手に庇われることを不本意に思いながらも、自分たちを凝視し続けるユウレイの冷えた視線を直接見ることはできず、ただリュカと共に道をゆっくり進むことしかできなかった。
ユウレイが取り巻いていた部屋が城の中でも一際豪壮な場所であることはその大きな重々しい扉からも分かった。色が剥げて立派な彫刻もところどころに崩れていたが、それでも大事な部屋を守ろうとする扉の重さは変わらない。松明の揺れる明かりに扉の彫刻が浮き出して、両扉に彫られている獣の姿が見えると、リュカとビアンカはその場所で少し佇むようにしてその扉をじっと見上げた。
「行くわよ、リュカ」
「うん」
リュカは松明を左手に持ったまま、ビアンカは右手に鞭を手にして、同時にその重々しい玉座の間の扉を押し開いた。低く軋む音を立てながら扉は徐々に開き、一人がようやく入れるくらいの隙間を空けると、リュカ、ビアンカと順番に部屋に入っていった。扉が開いたと同時に部屋を取り巻くように集まっていたユウレイはさらに姿を薄れさせ、もう目ではほとんど見えないくらいの存在となった。
玉座の間には明かりがなかった。城中に点々とあった火がこの広い玉座の間には一つも見当たらなかった。外ではさらに強い雨が降り続いているようで、玉座の間から外に出るテラスの窓に時折強い雨粒が殴りつけるように激しい音を鳴らす。まるでずっと夜の闇に包まれていたのではないかと思えるようなそんな空間で、リュカの持つ松明の明かりはかつてエリック王の場所であった玉座を眩しいくらいに照らした。
玉座には闇よりも更に濃い黒の姿が居座っていた。それが影などではなく、実際にその場所にいるものなのだということをリュカもビアンカも疑わなかった。真っ黒な塊のように見えたその者は、幼い二人の気配を感じると、君の悪いゆっくりとした動きで二人に目を向けた。
「ほう。子供が二人でこの城に何の用じゃ」
王様気取りで話す言葉遣いは姿かたちとかけ離れたものだった。老齢の魔法使いのような闇色のローブを身にまとい、フードから覗く顔は人間にあるまじき灰色で、骨ばった顔に浮き出る大きな目玉はまるで周りのものを全て目の中に取り込むような狡猾で卑しい目つきだった。一振りしたら折れてしまいそうな古びた杖を床に打ち、いくら王様を気取った格好をしても、リュカとビアンカの目にはただ老いさらばえながら生き続けてきた魔法使いにしか見えなかった。
「あんたが悪いやつね」
「悪い奴、とな? はて、何のことを言っておるのか分からんが」
「すっとぼけるんじゃないわよ。あんたのせいでこのお城はめちゃくちゃになっちゃったんでしょ。そこはあんたの椅子なんかじゃないし、そっちの椅子にはきれいなお姫様が座るはずなのよ。それをあんたが奪っちゃったから、王様もお姫様も困ってるんだから。代わりに私たちがあんたをやっつけてやるんだから」
ビアンカは捲くし立てるように一気に喋ると、唾を飲み込んで震える喉を落ち着かせようとした。そして茨の鞭を両手で構える。
リュカは隣で啖呵を切った勇ましいビアンカの姿を見て、自分も勇気が沸いてくるのを感じた。左手に持っていた松明を床にコトリと置くと、サンチョに買ってもらった樫の杖を両手に持って身構えた。
「子供二人で、私と戦うと言うのか」
「子供だからってバカにしないで。あんたみたいなガリガリよりずっと強いわよ」
「そうだよ。ビアンカもボクも魔法だって使えるんだ」
「魔法? こういうものかな」
玉座に座ったままその気味の悪い魔法使いはすっと前に手を伸ばした。伸ばされた手もやはり骨ばっていて、灰色の皮から透けて見えそうな白の骨を想像して、リュカは一瞬眉をひそめた。
その直後、伸ばされた手から闇を焦がすような閃光が二人の前に現れた。その光景に目を奪われる余裕もなく、はじけた炎の閃光は二人の身に迫る。咄嗟にビアンカはリュカを両手で押しのけて、一緒に床に這い蹲るように身を伏せた。床に置いていた聖なる火をリュカの手が触れたが、リュカはその火に熱さを感じずに、ただ暖かい空気が手を包んだのだとそう思っただけだった。
「私だってそれくらいできるわっ」
ビアンカは立ち上がるなりそう言うと、リュカが耳にしたこともないような魔法の文句を紡ぎ、相手が放ったものと同じ魔法を玉座に向かって放った。炎の帯が敵に向かって走っていくと、玉座の上に居座っていた魔法使いがさすがに慌てたようにその場を退いた。ビアンカの放った炎の帯は玉座に直撃し、瞬時にして豪奢な椅子が炎に包まれた。
「王の椅子を燃やすとは、なかなか悪い子じゃ」
「あんたがそんなところに座ってるのが悪いんじゃない」
「威勢の良い子供じゃ。……実に美味そうだ」
骨に皮が張り付いた顔に薄気味悪い笑みを見たビアンカは鞭を手にしたまま思わずあとずさる。
それまで老齢で動きも鈍いと思っていた魔法使いは、すばやく手にしていた古びた杖をビアンカに向かって投げつけた。そのあまりのスピードにビアンカは避けることができずに、ただその棒切れを見て固まっていることしかできなかった。
ビアンカの身体が串刺しになる寸前に、彼女の目の前で不自然な突風が起きた。それがリュカの魔法の力だと気がついたのは彼の一言を聞いてからだった。
「何するんだよっ。危ないじゃないか」
リュカの怒りの声と共に散らばった古びた杖の破片を、ビアンカは呆然とした目で見下ろした。そしてのろのろと視線を上げれば、リュカが両足を踏ん張って怒りに眉を吊り上げている顔が見えた。今にも犬のように牙を向いて唸りだしそうな表情をしていた。
「そっちも威勢が良いのう。ではまずは小僧から……」
「いいよ。ボクが相手だ」
敵に相対するリュカの横顔はとても六歳の子供のものではなかった。ビアンカはじっと敵から目を逸らさないリュカの真っ直ぐな黒の瞳を見て、自ずと勇敢で逞しい彼の父の姿を思い出した。
リュカは幼い頃からずっと父に連れられて旅をしてきている。その旅の道中、リュカは幾度となく父の戦う背中を見てきた。ずっと街中で暮らしてきたビアンカと比べて、リュカは外のことをずっと多く経験してきた。父に憧れ、父の背中を追いかけてきた少年は、いつの間にか父の戦う姿が自分に染み付き始めていることに気がついていない。しかしその強い眼差しは紛れもなく彼の父パパスのものと重なってビアンカの目には映っていた。
しかし彼に勇気付けられたなどとは言えないビアンカは、気づかれないように再び感覚の戻る手に力を込めて茨の鞭を握り締めた。そして無言のままリュカの隣に立つ。
「こっちから行くよっ」
リュカは一言叫ぶと、手の中に準備していた風を相手に向かって投げ放った。その風は敵のローブを煽り、見えない真空の力が服や手や顔を切りつける。敵の魔法使いは玉座の間に甲高い悲鳴を上げ、両手で顔を押さえて前かがみになった。自分から視界を覆ってしまった敵に向かってリュカが迷いもなく走り出す。
リュカの動作そのものが風のようだとビアンカは感じていた。一連の動きがまるで流れるように、止まることなく動き続けている。リュカは自ら戦うことはそうなくとも、戦う場面には慣れている、そう思わせるに十分な動きをしていた。
敵の目の前にまで一気に走り寄ったリュカは、手にしていた樫の杖を頭上高々と振り上げると、それを相手に向かって容赦なく振り下ろした。鈍い音が玉座の間に響き、敵は更に甲高い声を上げて殴られた頭を押さえてその場に蹲る。リュカは追い討ちをかけようとまた杖を振り上げるが、不意にその手を骨ばった長い手に捕らえられ、動けなくなる。骨と皮でしかできていない敵の腕には、信じられない力が残っていた。
「いい気になるなよ、小僧」
魔法使いの手には研ぎ澄まされたような鋭い爪があった。それをリュカに向かって薙ぐように下から振り上げる。避けることも防ぐこともできないリュカは、自分の右頬に冷たい筋が走るのを感じ、その直後には頬に流れる暖かい筋が床に落ちていくのを感じた。ビアンカが後ろで息を呑む音が聞こえた。
「実に美味そうだ」
そう言いながら魔法使いが鋭い爪についた血を舐めるのを見て、リュカは自分が怪我をしたことに初めて気がついた。しかし不思議と痛くはない。ただ信じられない勢いで頬を伝って床に血がぼたぼたと落ちていくだけだ。
「リュカ、傷を治しなさい!」
ビアンカの大声が少し遠くから聞こえた。耳に膜が張ったような聞こえ方だったが、彼女の言葉の意味をゆっくりと解すると、リュカは覚えていた治癒の魔法を唱え始める。その間に彼の横をぼんやりとした金色の明るい光が駆け抜けるのをリュカは目にしていた。ビアンカの魔法が敵に向かって飛んでいった光だった。
リュカの目の前で敵と光が弾けた。老齢の魔法使いの闇色のローブが炎に燃え盛り、玉座の間が一瞬真昼のような明るさに包まれる。おぞましい叫び声を上げてローブを千切り、炎ごと床に投げ捨てる敵の身体はその手以上に骨張っていて、それが白ければきっと骸骨だと勘違いするほどに敵の身体には何もなかった。
「リュカ、大丈夫?」
駆け寄ってきたビアンカがリュカの腕をぐいっと引っ張り、顔をまじまじと見る。リュカの頬の傷は治癒魔法で塞がれていたが、少し痕が残り、その引き攣れ塞がった痕が聖なる火が灯された松明の明かりに見えたり隠れたりしている。
「大丈夫だよ。痛くないよ」
「本当に? あんた、無理してない?」
「大丈夫だってば。それよりもあいつを倒さなきゃ」
そう言いながら敵に目を向けるリュカの姿は、やはり父パパスの横顔を継いでいた。ビアンカは二歳年下の彼のそんな表情を見ているだけで、再び手に力が戻ってくるのを感じた。そして二人は同時に敵に向かって走り出した。
「覚悟しなさいっ」
「ボクたちがやっつけてやる」
ビアンカの茨の鞭が空気を切り裂きながら飛び、魔法使いの骨の身体に絡みつく。茨に締め上げられる魔法使いにリュカが樫の杖を振り上げて一気に止めを刺そうと全力で振り下ろした。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
樫の瘤が敵の眼前に迫った瞬間、その魔法使いは哀れな声でリュカにそう言ってすがった。今にも飛び出しそうな大きな目玉が必死に何かを訴えている気がして、リュカは思わず振り下ろした両手を止めた。
「俺は、俺はさ、ただこの城が気に入って住んでただけなんだ。この城を滅ぼしただなんて、そんなこと俺は知らないんだ」
「何言ってるのよ。じゃあどうしてそんな偉そうに王様の椅子に座ってたりするのよ。どうしてあんたを守ろうとしてたユウレイが外にいたのよ。どうしてこのお城が怖いってみんな近づかなくなっちゃったのよ。全部、あんたのせいでしょ。あんたがここにいたからでしょ」
「違う。違うんだ。俺はただ、ちょっと、王様になってみたかっただけなんだ」
「王様に?」
「ああ。王様になれれば色んな贅沢ができるだろ。城のやつらは王様の言いなりだし、このでっかい城が俺の家になるんだ。俺に逆らうやつなんていないし、逆らえば俺の一言でどうとでもなるんだ。どうだ、気分がいいと思わないか?」
肺から息を漏らすようなゼイゼイとした喋り方で、その魔法使いはリュカたちに同意を求める。世の中の王様がどんなものであるかを知らないリュカだが、サンチョに本を読んでもらっていたため王様に対するイメージはおぼろげに頭の中にあった。サンチョはいつも教えてくれた。王様は世のため人のために働き、みんなの暮らしが良くなるようにいつも勉強し、いつでも人に頼られるような立派な人なのだと、サンチョの言葉がリュカの頭に巡り始める。
「違うよ。みんなが王様の言いなりなんかじゃなくて、王様がみんなの言うことをちゃんと聞いてあげるんだよ。それにここは王様のお城じゃなくて、みんなのお城だよ。王様が一人で住んでるわけじゃない。みんながいなきゃ王様だってきっと寂しいよ」
リュカの静かな言葉に、破れたローブをまとった魔法使いはただでさえ大きな目を更に大きく見開いた。そしてその直後、その大きな目はしぼむように細められ、視線がリュカから外された。
「一人は、寂しいよね」
つい先ほどこの敵に傷を負わされたというのに、リュカは不用意に相手の顔を覗き込んでそう言った。しかし相手は床に腰をついたままリュカを見上げようとはしない。ただぼんやりとリュカの後方でゆらゆらと変わることなく揺れ続けている聖なる火を見つめている。その火はレヌール城が滅ぼされる以前よりずっと絶えることなくこの城を照らし続けている。
「なあ、坊主。俺をここから逃がしてくれないか」
その言葉を後ろで聞いていたビアンカは耳を疑った。滅び、亡くなってしまった王様やお姫様の眠りを妨げ、ずっとこの城で好き放題してきた者が目の前で逃げることをお願いしている。かっとなったビアンカはリュカを押しのけるように前に進み出ると、腰に手を当てて叫ぶように言う。
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ。あんたのせいで王様やお姫様がどれだけツライ思いしたか分かってんの? それをあんたは逃げるだなんて、許されると思ってるの?」
「ボクはいいよ」
ビアンカはまた自分の耳を疑った。そして今度はリュカに向かって眉を吊り上げる。
「リュカ、あんたまで何言ってるのよ」
「でもこのお城のみんながキミを許すかどうか、僕には分からないよ。だからお城を回ってきて、みんなに謝ってこなきゃダメだよ。悪いことをしたら謝らなきゃいけないんだよ」
リュカは日々父に言われていることをそのまま敵の魔物に話して聞かせる。子供の真っ直ぐな発言に魔物は言葉も返せずにただ黙り込んで聞いている。リュカの言うことが正しいだけに、隣のビアンカも口を出せずに、ただ魔物の反応を待つばかりだった。
ボロになったローブを骨ばる手で拾い上げると、魔物はそのまま床を滑るように玉座の間を横切っていった。言葉を待っていたビアンカはその後を追いかけようとしたが、リュカに手を掴まれてまま動けずに、魔物が逃げる後姿を見送ることしかできなかった。
「どうしてやっつけないのよ。あんなに悪いやつなのに」
ビアンカは地団駄でも踏みそうな勢いでリュカにそう噛み付いた。人間は良くて魔物は悪いと言う常識的な考えを持つビアンカにとっては、リュカの甘すぎる行動に納得が行かなかった。しかしリュカと共に行動するうちに、その常識的な考えも少し間違いがあるんじゃないかと気がつき始めていたのも事実だった。
「きっと今、みんなに謝りに行ってるんだよ。それでみんなが許してくれれば、それでいいと思うよ」
「私だったら、許せないわ」
「それはお城の人たちが決めることじゃないかな。ずっと前に死んじゃったお城の人たちが許せないって思うんだったら、しょうがないかもね」
リュカはそう言いながら、誰もいなくなった玉座をじっと見つめた。ずっと居座り続けた魔物が去っても、この城を回り続けるエリック王もソフィア王妃も戻ってこない。その場にはただ魔物との戦いの痕が残されているだけだ。玉座を陣取っていた魔物が去ると共に、親分を取り巻いていたユウレイたちもいつの間にか姿を消していた。先ほどまでの冷え冷えとした空気が消え、どこか穏やかになった雰囲気に、リュカは忘れていた睡魔を思い出したように大きな口を開けて欠伸をした。
「今ってどのくらいの時間なんだろうね」
「もう真夜中も過ぎた頃よね。今から出れば朝になる前にはアルカパに帰れるわ」
「ビアンカ、眠くないの?」
「あんたこそ、よくこんな時に眠くなるわよね」
リュカは尊敬の眼差しで、ビアンカは呆れたような眼差しで二人はお互いのことを見て、それから笑った。
「王様もお姫様も、これからちゃんと眠れるかしら」
「そうだ。上にお墓があったよね」
「あの二つの立派なお墓のこと?」
「うん。あれって王様とお姫様のお墓だったんじゃないかな」
リュカの言葉にビアンカは自分がその墓石の下に置き去りにされたことを思い出し、思わず身震いした。階下の入り口を目指すはずの足先を、リュカは突然上階へ向けてビアンカの手を引く。
「ちゃんとお墓参りしてこよう。あんなに大きなお墓があるのに誰もきてくれないなんて、きっとさみしいよ」
相変わらずリュカは死んだ者に対する恐怖というものがないようで、迷わない足取りで城の階段を昇り、屋上を目指して進む。ビアンカはそんな少年と共に歩きながら、彼のことを考えていた。
ユウレイもゴーストも怖がらないリュカだが、行動するときはずっとビアンカの手を離さないままでいる。死んでしまった人たちを怖がりはしない上、彼らに対する同情の気持ちさえ持ち合わせる。しかしその反面、彼は一人になることを人一倍恐れている。彼の口から度々出る『寂しい』という言葉が、ユウレイやゴースト、エリック王やソフィア王妃に向けられていると同時に、彼自身に問い聞かせるようなものにもなっている。
ビアンカはすぐ前を歩く男の子の背中がやけに小さいことに、今更ながらに気がついた。繋がれていた手に力を込めると、リュカは驚いたようにビアンカを振り向き見る。
「どうしたの、ビアンカ」
「あんたにはあんなに強くて優しいパパスおじさまもいるし、なんでもできるサンチョさんだっているし、これから助けるネコちゃんだってあんたのお友達になってくれるわよ」
ビアンカの言っていることがよく分からず、リュカはただ彼女の水色の瞳をじっと見つめた。
「私だってあんたのお姉さんなんだからね。あんたは一人じゃないの」
リュカにはやはりビアンカの言っていることがよく分からなかった。しかし彼女の強い眼差しを見ていると、頷かずにはいられなかった。リュカのその反応に満足したように、ビアンカは再びリュカと上階を目指して歩き始めた。
屋上に着くと、城を叩きつけるように降っていた雨はもう止んでいた。夜のしんとした空気が辺りに漂い、雨に濡れた城の側壁が月明かりに照らされて光って見える。二人は足元に広がる水溜りをバチャバチャと音を立てて蹴りながら、背丈以上もある墓石の前に歩いていった。
見ると、墓石の文字が変わっている。文字が読めないリュカにもそれだけは分かった。もう自分の名前が墓石にはない。
「きっと、二人があの魔物を許したのね」
「うん、よかった」
リュカがそう言いながら笑顔になる様子を見ていたビアンカは、ようやく自分がとんでもないことを成し遂げたのだと言うことを実感し始めた。ずっと何百年も前からお化け城として人々から恐れられ避けられていたこの城からそのお化けを追い払い、ずっと眠れずにいたお城の人たちを眠らせてあげることができた。もうレヌール城には不気味な静けさが漂うのではなく、穏やかな静寂が訪れ始めていた。
ふと月を見上げたリュカの視線の先に、まるでもう一つの月が現れたように、眩しい金色の光が夜空から降ってきた。その眩さにリュカは目を細めながらも、ゆっくりと降りてくる光り輝く宝玉に向かって手を伸ばす。触れられるわけもないと思っていたもう一つの月は、リュカの小さな手に吸い寄せられるように徐々に光を抑えて、リュカの両手に収まった。感触は石のような硬さだが、それはほんのりと温度を持っている。
「きれいな宝石ね」
リュカの手を覗き込みながらビアンカは夢見心地の表情でそう言った。リュカは手にしている宝玉から目を離すと、それが落ちてきた夜空に視線を向ける。そこには月光に透かされるような二人の姿が映っていた。
『ありがとう』
それは音として届いたものではなく、リュカとビアンカの胸にしみこんできた言葉だった。二人寄り添うエリック王とソフィア王妃の姿はまるでいつしか本で見た永遠の幸せを手にした王と王妃の姿そのものだった。二人の顔からはもう悲壮の感情は消え去り、ようやく訪れた国の平和に心から喜び、それをもたらした小さな二人に感謝の意を込めて国の宝玉を空から渡したのだった。
夜空を見上げていた二人は、次第に薄れていくエリックとソフィアの姿をじっと見つめ、そしてとうとう月明かりに何も映し出されなくなると、今度は二人で顔を見合わせた。
「大丈夫よ。二人とも天国に行ったんだから」
「そうだね。良い子は天国に行けるんだもんね」
「そうよ」
「ボクは、同じところに行けるのかな」
「バカね。あんたはまだ行くところじゃないでしょ。ほら、早く帰らないと夜が明けちゃうわ」
ビアンカに手を引かれた拍子にリュカは手にした金色の宝玉を取り落としそうになった。腰紐に結び付けてある道具袋に丁寧にしまいこむと、リュカは改めてビアンカの手を取った。道具袋の中で薬草と一緒にごちゃ混ぜになった宝玉は、またリュカの下で新たな眠りに就いたようにひっそりと彼の運命と共に生き始めた。
もう西に傾き始めた月は万物の上に等しい光を照らし続ける。リュカにもビアンカにも同じく光を与え、彼らの帰途を迷いのないものにする。襲い掛かってくる魔物の姿は月が地平の彼方に消えていく朝の訪れを予感して、その気配を薄れさせている。帰途についている間中、リュカとビアンカはレヌール城から悪い奴を追い払ったことを互いに誇らしげに話し、街に戻ったらあの猫と一緒に遊ぶことを楽しげに話した。互いに今の時分が真夜中を通り越してすでに夜明けが目の前まで迫っていることなど忘れ、眠さなど少しも感じないまま思うことを話し続けた。
街に着く頃にはもう朝の光が地平から現れ、アルカパの街を横から静かに照らし始めていた。町はそろそろ起き出す時刻だが、二人は朝の光を頬に受けながら真っ直ぐに宿へと戻り、すでに厨房に立っているだろうビアンカの母をやり過ごして部屋に入った。隣の部屋ではパパスがまだ病床に伏せていることを思い、思わず眉をひそめたリュカだが、ビアンカに『すぐに寝たフリをしないと』と言われ大人しくベッドに入る。
ベッドに入っても訪れないだろうと思っていた眠りは、思いの外すぐに彼らのもとにやってきた。気だけは興奮していてずっと起きていられると思っていたが、魔物との戦いを経てきた身体は相当に疲れていて、彼らを寝かせることに躊躇はしなかった。
ベッドに横になった二人の子供はずっと離さなかった手をいまだ繋いだまま眠りに就いた。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© LIKE A WIND , 2014 All Rights Reserved.