2017/12/03
春を呼ぶフルート
氷の階段を上る途中で、上から雪がぱらぱらと落ちてきた。上の階に着くと、頭上遥か上には灰色の空が広がり、柔らかな雪が舞い落ちてくる。風も吹いておらず、雪も激しくなく、穏やかな冬の景色だ。氷の床の上にはうっすらと雪が積もっているが、さほどではない。リュカは慎重に足を前に出して、氷の床を歩き始めた。
部屋の中央には青白く巨大な氷の椅子が置かれていた。その椅子の前で、小さなドワーフの少年が遠くの景色を眺めている。少年の視線の先は南の方角、妖精の村に目を向けているのかもしれない。
まっすぐに少年のいるところまで進みたいリュカだが、氷の床を思うように歩けず、結局椅子の後ろを遠回りしながらゆっくり進んだ。まだドワーフの少年には気づかれていないようだ。リュカの後ろをプックルが、その後ろをベラが魔物の気配に敏感に耳をそばだてながら進む。
椅子の近くまで来ると、それが氷の玉座であることがわかった。繊細な氷の彫刻が、大きな椅子全体に施されている。しかしその彫刻が悪魔を象ったような禍々しいものであることに気づくと、ベラは一層警戒心を強めた。
そんなベラの警戒心などどこ吹く風のように、玉座の間近なところで、リュカはザイルと出くわした。ザイルは驚いたように飛びのき、冷たい石の床にしりもちをついた。リュカたちの存在にはまるで気がついていなかったようだ。
見ると、玉座の前だけは石が敷かれた床になっている。リュカは氷の上を滑って、石床のところまでたどり着いた。
玉座のすぐ前には蓋が開いている大きな宝箱が置かれていた。ザイルは慌てて手にしていた細長い鉄のようなものを宝箱の中に投げ入れ、蓋を閉じた。しかし鍵の掛け方は分からない様子で、しばらく錠をガチャガチャといじった後、諦めたように錠を投げ捨ててしまった。
「君がザイル?」
問いかけたリュカの前には、自分とさほど変わらないくらいに小さな少年が立っていた。顔を覆面で隠し、二つの穴から小さな目だけがギョロリと覗いている。手の大きさも人間の子供とさほど変わらないが、その手には重々しい鉄製の斧が握られている。刃こぼれしているのを見ると、かなり使い古しているようだ。
「なんだ、お前は? このザイル様になんの用だ?」
声もリュカと同じように、高い。覆面のせいで声がくぐもってはいるものの、言葉ははっきりと聞こえた。
「あっ! さてはポワンにたのまれてフルートを取り返しに来たんだなっ?」
ザイルが円らな小さな目でにらみを効かせるが、邪気がないため怖くはない。プックルが一応姿勢を低くして身構えてはいるが、本気ではない。その証拠に足元の氷を鋭い爪で掻いて遊んでいる。
ザイルは持っていた斧で氷の床を叩いた。その音にプックルが飛び上がり、慌ててリュカの後ろに逃げ込んだ。切れ味の悪い斧は氷に刺さることなく、床の氷が一部砕けてしまった。
「ポワンはじいちゃんを村から追い出した憎いヤツだ!」
ザイルの目は怒りに燃えている。しかし氷の館の寒さに震え、歯がかち合わないような状態だ。妖精の村のポワンは春を呼ぶことができずに困っているが、目の前のザイルも寒さに震えている。ドワーフは比較的寒さに強いが、この氷の館にこもり、空からは雪が降り続けるこの場所では、さすがのドワーフも参っていた。
「世界に春を呼べなくなって困るのはポワン様だけじゃないのよ。世界中の人たちが困ってるわ。あなたのおじいさんだって、きっと……」
「うるさい! じいちゃんを追い出したポワンが悪いんだ!」
ザイルはそう言いながら斧を投げつけてきた。ベラはすんでのところでそれを避け、斧は石の床を削りながら滑っていった。まるで聞く耳を持たない。
「フルートが欲しければ力ずくでうばってみろ!」
小さなドワーフの子供だが、人間や妖精に比べれば比べ物にならないほどの腕力を備えている。子供ながらに手がゴツゴツしているのが分かる。リュカは春風のフルートを取り返すために、しぶしぶブーメランを構えた。
ザイルは宝箱を後ろにして、その場からあまり動かない。意地でも春風のフルートを渡さないつもりらしい。ザイルは今、祖父を大事に思うことを忘れ、ただ目の前の敵に嫌がらせをしたいという底意地の悪い感情になっていた。
氷の上でじりじりと足を踏み固めていたプックルが飛び出した。玉座の前に小さく仁王立ちしているザイルに飛びかかる。牙を剥かれたザイルだが、戦い慣れているのか、プックルの動きをじっくり見て、猫の身体を斧で打ち払った。プックルも大分戦闘が様になってきたように、身体を一回転させて上手く着地した。つもりが、氷の上で足を滑らせた。
小さな身体に闘気を漲らせている。迂闊には近づけない雰囲気を身体から発しているようだ。そんなザイルを見ながら、リュカはブーメランを後ろに構えて、飛ぶ軌道を頭の中に描いた。
ザイルが一瞬後ろを気にした素振りを見せた瞬間、リュカはブーメランを思い切り放った。冷たい風を切って弧を描き、ザイルに向かう。
ザイルは斧を素早く出し、ブーメランを打ち払おうとしたが、その勢いはザイルの想像を超えていた。斧にかすっただけのブーメランはザイルの左肩に直撃した。そして軌道を保ったまま、ブーメランはリュカの手元に戻って来る。
左肩を抑えながら、覆面から覗くザイルの両目は痛そうにきつく瞑っている。だがそれも一瞬で、二回ほど左肩をさすった後、すぐにザイルは体勢を立て直し、何事もなかったようにリュカたちに鋭い円らな目を向けてくる。ドワーフという種族は妖精よりも人間よりも、丈夫に作られているようだ。
「よぅし、お前がその気ならオイラも本気になってやる!」
「いや、ぼくはあんまり戦いたくないんだけど……」
リュカは本心をつい漏らしたが、ザイルの耳には届いていない。手にしている斧をぶんぶんと振り回し、攻撃態勢を取る。覆面から覗く両目は、どこか楽しそうだった。
氷の玉座のある壇上から、階段をひとっ飛びしてリュカに打ちかかって来た。リュカは咄嗟に青銅の盾を両手に持ち、ザイルの斧の攻撃を防いだ。ザイルと同じドワーフに造られた盾は難なく攻撃を跳ね返したが、その衝撃はリュカの両手に響いた。
リュカとザイルの二人はしばし互いに間合いを計っていた。滑る氷の上で足を踏ん張り、リュカはブーメランを後ろ手に、ザイルは斧を右手に振りかざしてじりじりと間合いを詰めて行く。
その時、リュカの目には一瞬、ザイルの頭がぐらりと揺れたように映った。円らなザイルの目が細かく瞬きを繰り返し、それが終わった後、ザイルの視点はリュカから逸れていた。
「行くぞっ、カクゴしろ!」
「えっ? なに、どうしたの?」
ザイルが話しかけたのは氷の柱に映るザイル自身の姿だった。リュカは訳も分からずザイルの後姿を見ている。
「今よ、リュカ、ブーメランで攻撃して」
ベラの声にリュカはふと後ろを振り返った。ベラが小さく微笑む。
「マヌーサという幻惑の呪文を唱えたの。今、ザイルは私たちがちゃんと見えていないはずよ」
ベラの言う通り、ザイルはリュカたちではなく、氷の柱に向かって突進していった。勢いに任せて斧を振るい、氷の柱が大きく削れた。
「うわっ、冷てぇ! 何するんだ! 氷を投げるなんて卑怯だぞ、ちゃんと戦え!」
削れた氷の柱に向かって憤るザイルを見ながら、リュカは気が進まないながらもブーメランを再び構えた。
なかなか攻撃をしかけないリュカの横から、プックルが氷を蹴って飛び出して行った。氷の上に器用に爪を立て、走って行く。ザイルはその雰囲気を感じながらも、やはりあらぬ方向を見て斧を構える。
プックルの体当たり攻撃が、ザイルの胸に衝突した。普通の猫よりも二回りも大きなプックルの突進を受け、ザイルは氷の玉座前の階段まで吹っ飛ばされた。階段に背中を打ちつけ、たまらずうめき声を上げる。
「……うう、なんだ、今のはあの飛ぶ武器か? いってぇ」
「がるるる……」
未だザイルの至近距離で構えるプックルが、今度はザイルの手に噛みついた。予想しない痛さに、ザイルは思わず手にしていた斧を落としてしまった。
「いてーっ! なんだ、ネコか? 放せ、放せよっ」
ザイルはプックルの口を力任せに掴むと、強引に口を開けて、噛みつかれた手から外した。そしてそのままプックルを氷の床に投げつけた。噛みつかれたザイルの手からは真っ赤な血がぼたぼたと落ち、氷の床を染め始める。
ザイルは顔をしかめつつも、床に落とした斧を左手で拾った。ザイルのその行動で、ベラが気付く。
「今のプックルの攻撃でマヌーサが解けたみたい。リュカ、早くやっつけないと!」
ベラに急き立てらるも、リュカはやはり気が進まなかった。とりあえず言われた通りにブーメランを投げて攻撃を仕掛けるが、集中力がなくなっているのか、ザイルには当たらない。まるで違う方向へ飛んで行ったブーメランの軌道を見て、ザイルは怒り出した。
「なんだよ、イカクってやつか? オイラをバカにしやがって!」
「リュカ! ちゃんとして! あなた、ポワン様に頼まれたのよ、フルートを取り返してって。約束したでしょう?」
ベラの言葉が終るや否や、ザイルの斧がリュカに向かって飛んできた。斧が目前に迫った瞬間、考える間もなく、リュカの身体は吹っ飛ばされた。
氷の上に転がるリュカが見たのは、斧が直撃したベラの足だった。幸い、斧の柄の部分がベラの足に当たり、足が切れることはなかった。ベラは咄嗟にリュカを突き飛ばし、自らが斧の攻撃を受けてしまったのだ。歯を食いしばり、足を手で抑えながらきつく目を瞑っている。
「ベラ! 大丈夫!?」
リュカが慌ててベラに駆け寄り、治癒呪文をかける。集中力が切れているのか、傷が深いのか、ベラの足の怪我は完全には治らない。羽根を羽ばたかせて宙を飛ぶのも、足の痛みがひどく、バランスが取れないようだ。
「なんだ、妖精にかばわれるなんて、情けないヤツだな」
ザイルがけたけた笑いながらそう言うのを、リュカは怒りの表情で見返した。ブーメランを握る手に自然と力が入る。
「なんだ、ちゃんと戦おうって気になったのか? 受けて立とうじゃねぇか!」
ザイルは手に戻ってきた斧を再び構え、円らな目を輝かせている。元来、ドワーフは血の気の多い種族だ。ザイルは子供であるが故に、その血の気をまだコントロールできていない。本能の赴くがまま、戦いを仕掛けてくる。
考えなしに斧を振りかざして突っ走って来るザイルに、リュカは集中して狙いを定め、ブーメランを放った。防御の姿勢など微塵も見せていなかったザイルは、斧で避けることも、身をかわすこともできず、首を掻かれるようにブーメランの攻撃を食らった。ドンッという激しい音と共に、ザイルの身体が氷の柱に叩きつけられた。それだけリュカの念が強かったのだ。
勢いを失わず手元に戻ってきたブーメランを、間髪いれずに構えるリュカに、ザイルは慌てて斧を構える。だが、その斧はさっきよりも非常に軽い。
ザイルの斧は真っ二つになっていた。ザイルが手にしているのは斧の柄の部分のみ。残る刃の部分は氷の床に落ちたままだ。木の柄と鉄の刃が分裂してしまった。
「くそー! お前はなかなか強いな……」
ザイルは悔しそうにそう呟いた。もう一つの斧は遠くに落ちており、取りに行けそうにはない。第一、取りに行こうとした瞬間、まだ怒りの表情を崩さないリュカの攻撃を受けることになりそうだった。
「あなたのお爺さんを村から追い出したのはポワン様じゃないわ」
「え?」
ベラが苦しそうに言う言葉に、ザイルは意表を突かれたように声を上げた。
「じいちゃんを追い出したのはポワンさまじゃないって?」
「そうよ、ポワン様は様々な種族に寛大なお方。今でも私たちの村では妖精もドワーフも魔物だって一緒に暮らしているのよ。そんなお方があなたのお爺さんを追い出すような真似、するわけがないじゃない」
「けど雪の女王さまが……」
急激に勢いを無くしたザイルがそう言った瞬間、氷の床やら壁やら柱から、無数の氷の粒が渦を巻いて集まって来た。青白い渦ができ、まるで宝石が舞っているようにきらきらと輝き、その中に徐々に女性の姿が浮かび上がる。 精巧な氷の彫像のような、一人の美しい女性がリュカたちの前に現れた。白一色の、生命の感じられない女性が微笑む。その微笑みにも、特別な感情は見いだせない。ただ、美しい、それだけだが、リュカもベラも思わずその美しさに見惚れてしまった。ザイルなどはまるで神様を拝むような姿勢になっている。
「ククククク……。とんだジャマが入ったこと……」
目の前の女性が発した声だとは、リュカもベラもザイルも思わなかった。この氷の館が地響きを起こしそうなほど、低い低い声だった。相変わらず氷の女性は微笑んでいるが、それが見た目だけのものであることは明白だった。プックルは全身の毛を逆立てて、今にも飛びかからんばかりだ。
「やはり子供をたぶらかしてという私の考えは甘かったようですね」
美しい雪の女王の姿が、徐々に形を変えて行く。青白い髪は逆立ち、口は横に裂け、ギザギザの歯が覗き、両手には鋭い爪が生える。肌も髪も目も青白く生気ないように見えるが、にたりと笑う裂けた口の中だけは嫌に真っ赤だ。魔物の姿に変えた雪の女王に、さきほどまでの美しさの余韻はどこにも残されていなかった。羽根もないのに宙に浮いて、裂けた口を横に広げて笑う姿は、まるで悪魔そのものだった。
「今度は私が相手です。さあ、いらっしゃい」
魔物と化した雪の女王の周りには、きらきらと光る氷の粒子が舞っている。雪の女王はその氷の粒子を吸い込むように大きく息を吸うと、次の瞬間、リュカたちに向かって一気に氷の息を吐き出した。氷の粒子は無数の刃に変わり、リュカたちに降り注ぐ。リュカは青銅の盾を構える余裕もなく、全身に氷の刃を浴びてしまった。手足を切り、頬にも幾筋もの跡がついた。寒さのせいでさほど血は出なかったが、痺れるような痛さが傷に響く。
「リュカ、大丈夫?」
寒さを感じないはずのベラの動きも鈍くなっている。見ればベラの腕にも刃で傷つけられた跡がある。その腕を上げて、ベラはリュカの怪我を癒した。
プックルは幸い、氷の刃の攻撃を逃れていた。氷の床を器用に蹴って走り、雪の女王に飛びかかる。宙高く舞い上がったプックルの身体に、雪の女王はすかさず息を吹きかける。氷の刃に包まれたプックルの身体から黄色や赤の体毛が飛び散る。
そんな状態にまみれながらも、プックルは逃げ出さなかった。身体が氷の刃にさらされるのも構わず、プックルは飛びかかった勢いのまま、雪の女王の喉元に食らいついた。女王の氷の息が止まる。苦しそうに暴れ出す雪の女王は、喉にしがみつくキラーパンサーの子供を力づくで引きはがすと、そのまま力なく放った。プックルは凍りついた自分の身体を温めようと、慌ててリュカに駆け寄る。リュカは自分のマントでプックルを包んだ。
雪の女王の喉元が大きく抉れた。抉られたところから血が出ることはなく、ただ氷が削れたような怪我を負っただけだった。しかし声を出すのは苦しいのか、雪の女王の口からはささやくような声が絞り出される。
「何故、魔物の子供が……」
成獣になれば地獄の殺し屋と呼ばれるような魔物になるキラーパンサーの子供が、何故か人間の子供になついている。今、雪の女王の目の前にいるのは、妖精とドワーフと人間と魔物。四種族の者が居合わせることは世界中を巡ってもそうないだろう。
雪の女王は妙案とばかりに、真っ赤な口を横に広げて笑う。
「魔物と妖精と人間とドワーフの氷の柱をここに造るのも悪くはないな。死んでも美しいままでいられるのだ。良いとは思わないか?」
ガラガラと雑音混じりの声でそう言うと、横に大きく裂けた口が更に広がり、雪の女王は不敵な笑みを浮かべている。ベラは自分たちが氷漬けにされて、周りにある氷の柱の一つになるのを想像し、文字通り身を震わせた。
「では貴様たちから美しく死なせてやろう」
濃紫色のマントに包まるリュカとプックルに向かって、雪の女王は両手を向けた。氷の館中の冷気という冷気が、女王の手の平に集まって来るのが分かる。雪の女王の手の中に、青白い靄のような空気の塊が徐々に膨らんでいく。リュカはプックルを完全にマントの中に包み、後ろに庇った。プックルがマントから出せと、暴れる。
「プックル、じっとしてて。大丈夫だから」
リュカは震える手でブーメランを後ろ手に構えた。雪の女王の手に集まる冷気がリュカの肌をもさすほどに鋭くなってくる。雪の女王が再び、不敵に微笑んだ。雪のように真っ白な両手が高々と上がる。
その時、リュカの左側から、肌が焼けるほどの熱風が溢れて来た。閃光を伴い、熱を発する元には、ベラが立っていた。
「ああっ、熱い熱いっ! なんだ、これはっ」
眩しいほどの閃光を放ち、雪の女王のいる氷の玉座を溶かしたその呪文を、リュカは見たことがあった。レヌール城でビアンカが使った呪文と同じものだった。
「リュカ、遅くなっちゃってごめんね」
その言葉に、リュカは一瞬、そこにビアンカが立っているのかと錯覚した。しかしそこにいるのは、雪の女王から目を逸らさないベラの勇ましい姿だった。
「ちょっと、何こんな時にぼうっとしてるのよ。一気にたたみかけましょう!」
ベラが再び呪文の詠唱に入る。雪の女王は熱で溶けだす顔を両手でごしごしとこすりながら、崩れてしまった顔を氷の柱に映し出した。声にならない叫びを上げる。
「私の顔が……。許さん」
憤怒の表情で雪の女王はベラに向かって氷の息を吹きつけようとした。しかし先ほど、プックルに食らいつかれた喉の傷が思ったよりも深く、氷の息の勢いは格段に落ちていた。ベラに届く前に、その勢いを失い、女王の息は氷の床に吸い込まれていく。
リュカのマントに包まれていたプックルは、もがきながらようやくマントから顔だけを覗かせると、憤怒の表情で彼らを睨みつける雪の女王の姿を見た。鋭い氷の眼差しを見たプックルは、急激に戦意を失い、リュカのマントに包まったままじっと様子を窺い始めた。今になってプックルの中に恐怖心が芽生えたようだ。
ベラの呪文の詠唱はまだ時間がかかる。リュカはマントを外し、包まったプックルごと氷の床に置くと、ブーメランを再び構えた。そして集中力を一気に高め、すぐにブーメランを放った。
ブーメランはベラに集中していた雪の女王の右腕に激突し、氷が折れるような音を立てて、雪の女王の腕が折れた。元々、骨と言うものはなかったのかもしれない。ブーメランの強い衝撃で腕はスパッと切れ、切れた氷の腕は吹っ飛び、床に落ちたと同時に砕け散ってしまった。
自分の腕がなくなったことに茫然としている雪の女王に、ベラが追い打ちをかける。再び閃光呪文ギラを唱え、放った。油断していた雪の女王に呪文が弾け、雪の女王の身体が黄色の炎に包まれる。足から身体から顔から、見る見るうちに溶けて行くのが分かる。
「グググググ……! ああ、身体が熱い……!」
炎から逃れようと暴れる雪の女王は、冷気の呪文を死に物狂いで唱え始めた。まとわりつく炎を消そうと、残った片腕で冷気呪文の波動を出そうとする。
しかしその腕にもリュカの放ったブーメランが命中した。刃物のような切れ味さえ見せるブーメランの攻撃に、雪の女王の腕が肘の上辺りからスパッと落ちてしまった。氷の腕を両方失った雪の女王はもう為す術もなく、炎の中に溶けていく。
最期に断末魔だけを残すと、雪の女王は氷の床の上の水たまりになってしまった。リュカたちが初めに見た美しい雪の女王の姿は、まるで幻だったかのように見る影もなかった。リュカは恐る恐るその水たまりを覗きこんだが、そこに魔物の気配はなく、空から落ちる雪を静かに受け止めているだけだ。
リュカのマントに包まっていたプックルが様子を窺いながらマントから出て来た。雪の女王の姿がないことを確認し、代わりにできた大きな水たまりに鼻を近づけた。
「なんだ、雪の女王さまって悪い怪物だったんだ!」
ザイルがふと我に返ったように声を上げた。リュカたちの戦闘を呆然と見ていたザイルは、プックルが鼻を近づけている水たまりに自分の顔を映した。覆面から覗く自分の両目からはすっかり覇気がなくなっている。
「オレ、騙されてたみたいだなあ……」
水たまりに映る自分の顔が急激に歪んだ。プックルが前足で水たまりを激しく叩いたのだ。その衝撃をきっかけに、ザイルは自分のしたことの大きさに唐突に気がついた。
「うわーっまずい! じいちゃんにしかられるぞ! 帰らなくっちゃ!」
一も二もなく、ザイルは氷の床を駆け出そうとした。しかし勢い余ってその場で派手に転んだ。転んだまま氷の床を滑り、端の氷の壁に激突する。頭の周りにいくつもの星が飛んでいる状態で、ザイルはリュカたちを振り返る。
「ところでお前たちってなんでここにいたんだっけ?」
「え? ああ、えーと、ぼくたちは春風のふるーつを……」
「フルートよ」
「あっ、そうだ! 春風のフルートならそこの宝箱に入ってるはずだぜ! 忘れずに持って行けよ。じゃあなっ!」
リュカが続けて何かを言おうとしたことに聞く耳持たず、ザイルはそれだけを言い残すと、再び氷の床を勢いよく滑って行った。氷の壁や柱に二度ほど激突した後、無事に下への階段を転がり落ちて行ったようだ。
「よっぽどおじいさんが怖いのかしら」
ベラは首を傾げながら、ザイルが去って行った階段を見やった。そして氷の玉座の前に置かれている宝箱に近づく。宝箱の錠はかかっていない。ベラが一人で蓋を開けようとしたが、妖精の力ではその重い蓋は開かなかった。リュカがベラと並んで二人でようやく宝箱の蓋が開いた。
宝箱の底には装飾の施されたフルートがあった。フルートの周りに春の風を模した薄紫色の飾りが巻きつくようについている。冷たい宝箱の中に置かれていたにも関わらず、フルートを持ったリュカの手がほんのりと温まったような気がした。鼻を近づけてみると、春の花の香りがほのかに漂ってくる。
「これが春風のふるうと? きれいだね」
「これをポワン様に吹いていただければ、世界中に春がやってくるわ! ああ、良かった!」
ベラが飛び上がって喜ぶ。しかしその拍子に足の怪我が痛み、ベラは顔をしかめてしゃがみこんだ。手を当てて治癒魔法を唱えようとするが、ベラの手から癒しの波動は出なかった。
「魔力が尽きちゃったみたい。あんなに呪文を唱えたのは初めてだったからね、きっと」
「ぼくが治してあげるよ」
リュカがベラの足に手を当てて、ブーメランを投げる時のように集中して、呪文を唱える。腫れていたベラの足は徐々に元に戻り、少しの切り傷を残しただけで足の怪我はほぼ治ってしまった。
「ありがとう、リュカ。あなた、呪文が上手になったんじゃない?」
「そうかな」
「呪文の効果って集中力によることもあるのよ。今はまだホイミしか使えないけど、もうちょっと頑張ればその上の治癒呪文が使えるようになるかも」
父との旅の途中で、リュカは父が何度かその呪文を唱えるのを目にしたことがあった。一度は父が魔物に肩を深く切られた時に、肩から噴き出す鮮血を瞬時にして治癒呪文で止めたことがあった。リュカの記憶はおぼろげだが、その時の父の身体から湧き出す魔力を今でも肌が覚えている。
「ベホイミって呪文だよね。ぼく、知ってるよ。ぼくも使えるように頑張るね」
リュカはいつでも父の背中を追っていた。まだ六歳の幼いリュカの行動は、常に父が規範となっていた。広く逞しい父の背中は、子供のリュカが無心に信じるには十分だった。
「フルートも取り返したことだし、村に戻りましょう。ポワン様がお待ちだわ」
足の痛みも消えたベラはその場で元気に一回転回ると、背中の透明な羽根を軽やかに羽ばたかせて飛んだ。リュカは濃紫色のマントを拾い上げて自身の身体に巻きつけると、寒そうに身を震わせるプックルをマントの中に包み込んだ。プックルが安心したようにリュカの腕の中で丸まる。
そしてベラはリュカの手を引いて、下りの階段へ向かった。階段を下りる途中、リュカは灰色の空を見上げた。空から落ちてくる雪が、心なしか穏やかになったような気がした。
「あなた方の戦いはポワン様も心の目でご覧になっておいででした」
妖精の村に着き、ポワンのところへ向かう途中、妖精の村の図書室を通る。そこでは氷の館の情報をくれた妖精に会った。その妖精はリュカの姿を見るなり、静かに近づいてきて、深々と頭を下げ礼を述べた。
「あなたはこの国の救い主ですわ。どうもありがとうございました」
「スクイヌシ?」
「ええ、あなたがこの村を助けてくれたのです。引いては氷に閉ざされそうだった世界を助けたのですよ」
「ベラも頑張ったんだよ。プックルだって頑張ったよ」
リュカがプックルを持ち上げると、プックルが「にゃう」と鋭い牙を見せながら誇らしげに鳴いた。妖精は反射的に魔物への構えを見せたが、大きな猫が少年の手に抱えられて静かにしているのを見ると、そっとその頭を撫でた。プックルは大人しく喉を鳴らしている。
「子供とは言え、魔物を仲間にするなんて、あなたには不思議な力があるのね、きっと」
妖精はプックルの立派な赤いたてがみを手で梳きながら、村の入り口付近にいるスライムを思い出していた。あのスライムはいつのことだったか、ポワンがこの村の長になった後、彼女が当然のように村に住まわせてしまったのだ。初め、魔物の姿が村の中にあることに妖精たちは警戒心を露わにしていたが、全く邪気のないあのスライムはいつの間にか村の妖精やドワーフの中に溶け込んでしまった。
もしかしたら、ポワンはリュカと言う少年のこの不思議な能力に気が付いていたのかもしれない。フルートを取り返す戦士としてはあまりにも頼りない人間の子供を送り出したのは、ポワンにも考えがあってのことかも知れなかった。
リュカたちが静かな図書室で立ち話をしていると、その話し声が耳障りだとでも言わんばかりに、図書室の隅からいら立った様子の一人の妖精が姿を現した。しかしリュカの手にある春風のフルートを一目見るなり、その表情が驚きのものに変わる。
「まあ! あなたがフルートを取り戻したの?」
信じられないとばかりに素っ頓狂な声を上げる妖精に、リュカは「うん、みんなでがんばったんだ」と胸を張って答えた。隣ではベラも鼻高々の様子でその妖精を見返している。
「あなたが読んでいる本の世界よりも、現実に起こることの方が素晴らしいこともあるようね」
姉の妖精にそう言われ、しおりを挟んだままの本を片手に立ち尽くす妹は、面白くなさそうに姉をちょっと睨んだ。そして悔し紛れにリュカに言う。
「人間も時には役に立つのね」
「ちょっと、そんな言い方しなくてもいいじゃない。私たちは……」
ベラが言いかけるのを遮って、リュカがにこにこしながら口の悪い妖精に言う。
「きみは本がいっぱい読めるんだね。いいなぁ。ぼくも早く本が読めるようになりたいや。文字が読めないとドウクツにあった立て札だって、地図に書いてある文字だって、ぼく一人じゃ分からないんだもん」
妖精の嫌味な言葉に反応することもなく、リュカが単純に文字が読めることを褒めると、その妖精もベラも何も言えずにその場で固まってしまった。そんな妹やベラの様子を見て、姉は思わずこっそり笑ってしまった。邪気のない子供には大人の嫌味など通用しないのだ。
「さあ、ポワン様がお待ちです。行って差し上げてください」
静かに穏やかにそう促され、リュカは元気よく手を振りながら妖精の姉妹と別れた。表情を固くしていた本を小脇に抱える妹の妖精も、ちょっとだけ手を振り返してくれた。
初めてポワンと対面した時は細かな雪が降り続けていた。今は空はまだ灰色だが、雪は止んでいる。風もさほど冷たくはない。巨木の最上階に来たリュカたちは、冬が終わりを告げようとしている雰囲気を肌で感じていた。
ポワンと彼女の隣に控える侍女の妖精がリュカたちを笑顔で迎えた。リュカは腰に差していた春風のフルートを手に取ると、片手でぶんぶん振り回した。
「こら、リュカ! それはとても大事なものなのよ。そんな雑に扱わないで」
ベラに怒られると、リュカは慌ててフルートを両手でしっかりと握りしめた。そんな二人の様子を見て、ポワンはくすくすと笑っている。
リュカがポワンにフルートを手渡すと、ポワンはまるで自分の一部が戻って来たようにフルートをしげしげと見つめた。まるで磁力でもあるかのように、フルートはポワンの手に馴染む。その瞬間、薄紫色だった春風のフルートがほんのり桜色に色を変えた。フルート自身が春の息を吹き返した瞬間だった。
「これはまさしく春風のフルート!」
ポワンが感動したように目に涙を浮かべながらフルートを見つめている。傍で控えている侍女も色を変えた春風のフルートを珍しそうに見ている。
「さあ、リュカ、あなたのお顔をよく見せてくださいな」
ポワンに呼ばれたリュカは、ベラに背中を押されるがまま、前に進み出た。リュカのマントの裾からはプックルがちらりと姿を覗かせている。
「リュカや、よくやってくれました。これでやっと世界に春を告げることができますわ。何てお礼を言えばいいのやら……」
ポワンの不思議な紫色の瞳に見つめられ、リュカは照れるように下を向いた。自分を見上げるプックルと目が合って、リュカはぎこちなく笑った。
「そうだわ、約束しましょう。あなたが大人になり、もし何か困った時、再びこの国を訪ねなさい。きっと力になりましょう」
「ぼくがオトナになった時?」
「ええ、見たところ、あなたは人間の世界で旅をしているのではありませんか? 旅の途中、何かと困ることも出てくるでしょう。その時にこの妖精の国を訪ねるのです」
「うん、そうするね。ぼく、お父さんと旅してるんだ。だからお父さんが困った時でもいい?」
「もちろんです」
ポワンがそう言うと、リュカは笑みを浮かべて「早く困らないかなぁ」などと言い出した。父にこの妖精の国を見せてあげたい、そして自分がベラやプックルと雪の女王と戦ったんだと自慢したい、そんな考えがリュカの頭の中に巡り始めていた。
「さあ、そろそろお別れの時です。リュカ、あなたはあなたの世界に戻らなくてはなりません。お父上も待っていることでしょう」
ポワンはそう言うと、春風のフルートを口元に添えた。
「リュカ、あなたのことは忘れないわ」
ベラにそう言われ、リュカはまだ慣れない「別れの雰囲気」を感じた。反射的に涙が出そうになるのを何とか堪える。
「ぼくも忘れないね、ベラ。またね」
ポワンが春風のフルートに息を吹き込む。春の到来を感じさせる弾む音色に合わせて、妖精の世界が色を変えて行く。地面や木々に降り積もっていた雪が風に舞い、その姿を桜の花びらに変えた。冬の間は枯れ木となっていた枝には桜の花がぎゅうぎゅう詰めになって咲き誇る。白い世界が一瞬にして桜色に染まる。
柔らかい桜の花びらがリュカの頬を撫でる。春が訪れた妖精の村の景色をぼんやりと見ていたリュカは、自分の周りに桜の花びらが舞い始めたことに気付いた。
「春と共にあなたを元の世界にお送りしましょう」
ポワンの声が聞こえたかと思うと、リュカの身体が桜の花吹雪と共に宙に浮いた。リュカのマントにしがみついていたプックルを慌てて抱き上げ、花の香りで充満する桜吹雪の中で、リュカは一瞬の間目を閉じた。
目を開けると、そこに桜吹雪はなく、輝く光が溢れていた。眩しそうに目を細めて周りを見渡すと、部屋の隅には貯蔵のための樽やら木箱やらが置かれているのが分かる。忘れかけていたサンタローズの家の地下室だと気付くのに、少し時間がかかった。
リュカが後ろを振り向くと、妖精の世界へ通じる光の階段が徐々に光を失っていくところだった。リュカが階段に足をかけても、その先へは進めず、もう光の階段はリュカを妖精の世界へは連れて行ってくれなかった。
妖精の世界への入り口が閉じられる寸前、光る入り口からひとひらの桜の花びらが舞い降りて来た。リュカを包んでいた桜吹雪のひとひらだろうか、リュカは足元に落ちた桜の花びらを恐る恐るつまんでみた。柔らかい桜の花びらはリュカの指先に張り付いた後、肌に馴染むように消えてしまった。片手で抱っこしているプックルがリュカの指先に鼻を近づける。リュカもつられて指先に花を近づけると、仄かに桜の香りが残っていた。
「プックル、またヨウセイさんの国に行こうね」
「にゃう」
光の階段が消えた地下室は真っ暗だった。階上からの光が一筋漏れているだけで、足元もあまり見えない。リュカはそろそろと注意しながら、一階に上がる階段に向かった。
地下室から頭を出して部屋を覗くと、一階の部屋には誰もいなかった。リュカはプックルを放し、一階の窓から外を覗いた。妖精の村のように桜が咲き誇っている、ということはなかったが、村人が身体を縮めながら焚火を焚いている姿はなかった。
「ポワンさまがふるうとと吹いたからかな。春が来たのかな」
リュカが玄関の扉に手をかけようとすると、台所からサンチョが出て来た。前掛けで手の水をぬぐっていたサンチョは驚いたように目を見張り、リュカに駆け寄る。
「ややっ! 坊っちゃん、今までどこに?」
リュカはサンチョが慌てているのを初めて見た。笑顔しか見たことがないサンチョが、今は怒っているかのように真剣な顔つきになっている。見慣れないサンチョの雰囲気に、リュカは言葉が返せなかった。
「旦那様にラインハットの城から遣いが来て出かけることになったんです! 坊っちゃんも連れて行くつもりでずいぶん捜したんですが……見つからなくて旦那様はたった今お出かけになりました」
サンチョが早口で言う言葉の意味が分からず、リュカはしばしその場で突っ立っていた。プックルも足元で二人を不思議そうに見上げている。
「すぐに追いかければまだ間に合うかも知れません。さあ、坊っちゃん、支度をなさってください。サンチョも手伝います」
サンチョはそう言うと重い身体を揺らして二階に上がって行った。リュカはこの時になってようやくサンチョが慌てている理由が分かった。
父が旅立ったのだ。リュカを置いて。
リュカの頭の中は一瞬にして真っ白になった。今までには考えられないことだった。リュカの記憶にある限り、父はいつでもどんな時でも傍にいた。記憶もない頃から父との旅が始まった。まだ赤ん坊のリュカを連れて、父はどれだけ苦労しながら旅をしてきたのか。だがどれほど困難な旅になろうとも、父はリュカから一瞬たりとも目を放さなかった。
しかし父とサンタローズの村に帰郷した時から、リュカの方から父の傍を離れることが多かった。サンタローズの洞窟で薬師のおじさんを図らずも助けた時もそうだ。一人で洞窟に入り、初めて魔物と戦った。薬師を助け、村に戻れた時、リュカには少なからず自尊心が芽生えていた。父に頼らず、一人で洞窟に入って戻れたことは、リュカに次の冒険を期待させた。
アルカパではビアンカと夜に町の外に出て、レヌール城のお化け退治の冒険をした。リュカは樫の杖を、ビアンカは茨の鞭を手にして、魔物と戦ったり、お化けと仲良くなったりした。命の危険など気付きもしないで、人の死にまだ鈍感な二人の子供は大冒険を二人の力で大成功させた。
経験値を蓄えたリュカは、「父の旅を手伝うことができるかも知れない」という自信を持つようになった。妖精の世界で扱いなれたブーメランは今もリュカの腰紐に刺さっている。青銅の盾はうっかり氷の館に置いてきてしまったが、このブーメランがあれば離れた魔物にも攻撃を仕掛けることができる。父が剣で魔物と戦う横で、リュカは魔物を遠くへ牽制して、父の役に立つことができるのだ。
父と共に闘う自分を夢見ていた。それが実現できる、と思った矢先に、父はリュカを置いて旅立ってしまった。
何故父は自分を置いていくのか。リュカは悲しくなるのではなく、初めて父に対して腹が立った。「まだお前は子供だから」と優しく微笑む父を思い浮かべるが、それでもリュカは憤る気持ちがこみ上げてくるのを感じた。
結局、何一つ認められいない、そう感じた。
「サンチョ、ぼく、行ってくる!」
リュカは頭の中が混乱したまま、家を飛び出した。サンチョの慌てた声が後ろに聞こえた気がしたが、振り向かずにとにかく村の出口まで走って行った。プックルが何か異論を唱えるような泣き声で「ぎゃあぎゃあ」と後ろで騒ぐが、リュカはその声も意識の外に追いやった。
村を流れる川沿いを全速力で走り、頑丈な木の橋を渡り、村の出口まで来た時には喉がカラカラになって、むせた。げほげほと咳き込むリュカに、村の門番の青年が心配そうに歩み寄って来た。
「どうしたんだ、そんなに慌てて」
「ぼく、ここを出なきゃいけないんだ。お父さん、行っちゃったから……」
「お父さんって、パパスさんか? いや、パパスさんは村を出てないぞ」
「……え?」
「まだ村の中にいるんじゃないか? なんだ、パパスさん、また出かけるのか。忙しい人だなぁ」
「お父さん、まだここにいるの?」
「ああ、多分な。村を出るにはここしかないからな。しかし、なんだってまた出かけるんだろ」
村の門番がぶつぶつ言うのを尻目に、リュカはまた走って村の中に戻った。考えもまとまらないまま走る先は、村の教会。村の中で唯一目立つシンボルがあの十字架だった。村の中を突っ切って、土手を駆けおり、古い橋をどたばたと渡り、土手の不規則な階段を上ると、そこでリュカの足が止まった。ぜえぜえと荒い呼吸を何度も繰り返し、まだ呼吸が落ち着かないまま、教会の扉を力任せに開けた。
教会の中はひんやりしていて、リュカは汗が一瞬にして冷えるのを身震いして感じた。それだけ外の気温は冬を追いやり、春を呼びこんでいたらしい。首に流れる汗をマントで拭い、教会の十字架の前に跪く見慣れた背中を見た時、リュカはその場で膝を折った。
「パパスさん、息子さんがおいでですよ」
神父にそう言われ、熱心に祈りを捧げていたパパスははっと我に返り、後ろを振り向いた。そこには春の日差しを背中に受けて立っているまだ幼いわが子がいた。
「おお、リュカか! 今までどこにいたんだ!? ずいぶん捜したぞ」
「……本当に?」
「ん? 何だ、リュカ」
「本当にぼくのことさがしてくれたの?」
リュカは不満げな視線を隠しもせずにパパスを見上げた。パパスは訳も分からず首を傾げている。
「ほんとうはぼくのことをさいしょっから置いて行こうとしたんじゃないの?」
「そんな馬鹿なことがあるか」
パパスは間髪入れずにリュカの疑念を打ち払った。ようやく呼吸が落ち着いてきたリュカに、パパスは含んで聞かせるように言う。
「父さんがお前を置いて行くはずがないだろう。村中を回ってお前を捜していたんだ。どこに行っても見つからないから、今、神様に「リュカはどこにいるのか」と聞いていたところだ」
「神様が連れて来てくださいましたね。私も安心いたしました」
神父が胸に手を当てて安堵のため息をついた。リュカが神父を見上げると、口元にうっすらと茶色の髭を蓄えた神父はにっこりと笑ってから奥に下がって行った。パパスが傍まで来ると、リュカはまだ落ち着かない様子でパパスを見つめる。
「何かあったのか、リュカ。ずいぶん長い時間いなかったようだが」
パパスが問いかけるも、リュカは俯いたまま話さない。本当のところ、リュカは妖精の世界での冒険を話したくてうずうずしていたのだが、今はそれを父に伝える気にはならなかった。自分が強くなったんだと、父に自慢したくなかった。
『ずいぶん強くなったんだな、リュカ。もうイチニンマエだ。一人でも大丈夫だな。父さんと一緒にいなくても平気だろう』
そんなことを言われるんじゃないかと思って、リュカは口先まで出かかっている妖精の世界での話をなんとか押し留めていた。
リュカが黙り込んでいる理由が見当たらないパパスは、しばらくしてから諦めたように息を吐き、リュカの頭を軽く叩いた。
「まあ、いい。父さんは旅立つ前に神にお祈りをしていたところだ。お前も祈っておくといいだろう。父さんは村の入り口で待っているからな」
そう言って教会を出ようとする父の背中を、リュカは泣きそうな顔で見つめた。父ははっきりと『待っている』と言ったにも関わらず、リュカには父のその背中がリュカを置いていくように見え、両目に涙がたまった。
パパスが教会の扉を開け、扉からは春の暖かな日差しが差し込む。教会内を柔らかく照らし、パパスの姿が光に溶け込む。眩しさに一瞬父の姿を見失ったリュカは、扉がゆっくりと閉じられ、再び教会内が安定した暗さに落ち着いた時、ようやく細く目を開けた。父はいなかった。
「パパスさんを呼びつけるなんて、ラインハットの国王も傲慢な人よねっ。用があるなら自分から来ればいいのに……」
教会の掃除をしていたシスター見習いの少女が古びた箒を持ち、口を尖らせながらそう言った。長年使われた箒は決まった方向に先が曲がり、その方向のまま押しつけるように少女は箒に体重をかけてもたれかかる。
「一国の王様がそういうわけにもいかないだろう。用があれば呼びつけるのが王様たるものだ」
「一体何の用事があるっていうのかしら、パパスさんに。せっかく村に戻って来てくれたばかりなのに」
「そうだな。まあ、しかし、ラインハットでの用事を済ませて来てくれればすぐにまた戻って来てくれるだろう。……しかしそれよりも一国の王様がパパス殿に一体何の用事があるのか。私にはそれが不思議でならないが」
神父とシスター見習いの会話に、リュカは現実に引き戻された。神父は聖書を片手に、少女は箒を意味もなく何度も床に押し付け、おかげで箒の先がさらに曲がって行く。二人が平和な様子で父の話をしている。父は村の入り口でリュカを待っている。どうやら今度はラインハットという場所に旅立つようだ。そう言えばサンチョもラインハットと言っていたと、リュカはおぼろげに思い出した。
「ラインハットって遠いの? ぼく、またここにすぐに戻ってこれるかな」
聖書を小脇に抱える神父に、リュカは聞いた。リュカも神父もシスター見習いも、誰も本気ではなかった。パパスがリュカを連れてサンタローズに戻って来た時から、村人たちはパパスがまた二年前のようにしばらくの間滞在するのだと疑わなかった。不意にまた旅立つことにはなったが、村人の誰一人として「またひと月ふた月もすれば用事を済ませて戻って来るのだろう」とパパスを快く送り出した。
「お父上の用事はすぐに済むだろうからね。きっとすぐにサンタローズに戻ってこられるさ」
神父に穏やかにそう言われ、リュカは安心したように一つ頷いた。
「君もお父上と同じようにお祈りをしていくといい。新たな旅が無事なものであるようにね」
「あの強くてかっこいいパパスさんがついているんだもの。絶対大丈夫に決まってるけどね」
見習いシスターは子供のような笑顔を見せながらリュカにそう言う。リュカも父がついていればどこへ行っても大丈夫だと自信があった。まだ幼い子供が親を無条件に信頼する思いがリュカの場合、自慢の強い父を持つ分、一際大きかった。
神父に促され、リュカは先ほどまで父がいた場所に立った。目の前には大きな十字架。ふと、その十字架が迫って来るような気がして、リュカは思わず目をきつく閉じ、十字架から目を逸らした。
リュカは両手を組み合わせて、神父に言われた通り、父との旅の無事を祈る。
「お父さんと一緒に元気に旅ができますように」
リュカの声が教会内に響いた。その言葉とは裏腹に、リュカは心の中でもう一つ、祈りを捧げる。
『お父さんがぼくを置いていきませんように』
理由もなく、父を遠く感じていた。教会を出る時の、父の背中が外の光に溶けて行くあの光景が、リュカの脳裏に焼き付いて離れなかった。