故郷にて

 

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グランバニア新年祭の時から五カ月が過ぎ、魔物の襲撃により一部破壊されていた城の城壁もほぼ修復を終えていた。南のチゾットの山から流れる川を頼りにしている水源も、途中魔物の攻撃や、黒竜と化したリュカが吐いた炎の損傷を受けていたが、兵を中心として国民の協力により今は無事に復帰している。しかし世界に魔物が蔓延る限り、再びグランバニアの国民の生活を脅かす可能性は大いにある。そして魔物の存在は日増しに大きくなりつつあるのを人々も感じている。
リュカが子供の頃に比べれば、世界広くに巣食う魔物の数は明らかに増えていた。それに比べ、世界の人々の数はさほど増えていない。グランバニアにしてもラインハットにしてもテルパドールにしても、普段の生活には困らない日々を送っているにしても、人々の表情はどことなく暗い。その中でもグランバニアは、国を囲む深い森の中に潜む魔物らの脅威をひしひしと感じており、国を守護する兵の数もいくらか増やしており、魔物の仲間たちの力も大いに借り、国の守りに当たらせている。
王妃帰還の祝の場においては、人々は久々に賑やかな時を過ごした。十年の時を経てこの国に無事に戻った王妃の存在は、純粋に人々の希望の一つなのだ。喜びの場面にまで暗い顔を引きずるのは、グランバニアの国民性にもない。先代の王妃は未だ魔物に攫われたまま、先代の王は王妃捜索の最中に命を落としたが、現王と現王妃は時を経てグランバニアに帰還を果たしたことに、民衆は再び胸に希望を抱くことができた。
そして彼らの最たる希望の一つに、勇者ティミーの存在がある。今はまだ十歳と言う幼い王子だが、彼が立派な青年に育った暁にはこの国だけではなく、世界を救うのだと信じて疑わない。勇者と言うのはそれほどまでに問答無用で、人々へ希望を届ける存在なのだ。
「リュカ王、今少しだけお時間よろしいでしょうか」
玉座の間で玉座に座しながら、難しい顔をしていたリュカに声をかけたのはサンチョだった。間近にその声が聞こえるまで、リュカはサンチョが近くに来ていることにも気づかなかった。彼に話しかけられる直前までリュカの頭を占めていたのは、城下町に住む民から聞いた話だ。今も尚、光の教団に属する人は絶えず、その本拠地である大神殿がもぬけの空になっている状況だと言うのに彼らは変わらず光の国に人々を導くことを善として行動しているのだ。たとえ彼らをセントベレス山の大神殿に連れて行き、空っぽになってしまった大神殿を見せたところで、恐らく光の教団の信者となった者たちはその状況すら自身の都合の良いように解釈するのだろう。あの日あの時、リュカたちが大神殿から救い出した人々と違い、その時に各地に散らばっていた人々はまだその呪いのような信心から解放されていない。そしてそれは、光の教団そのものがなくなったとしても、その教団を生み出した魔界の魔物らを倒さない限り絶えることはないのかも知れない。
「うん、どうしたの、サンチョ」
「大丈夫ですか? 眉間に皺が寄ってますよ」
「え、ホント?」
そう言いながらリュカは眉間の皺を広げるように片手で眉間を抑えた。
「何か難しいことをお考えでしたら、周りの者に相談されてくださいね。お一人で抱えていては凡そ良い結果を生みませんので」
「そうだね、それはそうかも。これからはそうするようにするよ」
口ではそう言いながらも、リュカはこれからも恐らく一人で陰々と悩むこともあるのだろうと思う。国の事に関しては人に相談できるとしても、自分自身のこととなれば最終的には自分自身でどうにか片を付けなければならない。
「王妃様、大分お元気になられたようで何よりです」
王妃ビアンカがこの城下町の教会で国民に言葉を向けたのは二日前のことだ。初めて人々の前に立った人とは思えぬほどに堂々とした姿で、言葉で、その様子にサンチョはやはり目を潤ませていたのだった。そして今も、その時の事を思い出して自然と感動の涙が彼の目に僅か浮かぶ。
「しかしビアンカちゃんの無事の知らせを、この国に留めておいて良いものでしょうか」
サンチョのその言葉に、リュカはすぐに彼の言わんとしていることが分かった。それはリュカも考えていた。いくらビアンカが無事に戻り、日々元気を取り戻して行っても、そんな元気な娘の姿をもう十年以上も見ていない彼女の父に知らせないでは、親不孝も甚だしいと言うものだ。
ちょうど一年ほど前のことだ。リュカは子供たちを連れて山奥の村を訪れたことがあった。空に浮かぶ天空城に乗り、のんびりと移動させる先に、リュカは妻の故郷を見た。ビアンカ不在の当時の状況でよくおめおめと顔を見せられたものだと今になって思う。しかしあの時は、近くまで来た山奥の村を通り過ぎるなどと言う不義理ができるはずもなかった。
「また僕たちに少し時間をくれるかな」
「必要とあらばいくらでも調整いたします。もちろん、オジロン様のご協力を賜りますが」
「一日……それで大丈夫だと思う」
「それほど短くてよろしいのですか」
「うん。それ以上あの場所にいるときっと……ビアンカ、戻ってこなくなるかも」
「それは困りますなぁ」
冗談に収まらないようなリュカの言葉だったが、サンチョはそれを敢えて冗談と受け流した。
「そうだ。サンチョも一緒に行く? ダンカンさんと何年も会ってないでしょ」
サンチョはリュカとパパスが旅に出てサンタローズの村を離れている時にも絶えず村で留守を預かっていた。その間にも隣町アルカパに住むダンカンとの交流はあったはずだ。当時子供だったリュカとは異なり、時を経た大人同士で積もる話もあるのではと思い、リュカは軽い気持ちでサンチョを誘う。
「いえ、遠慮しておきます。折角父と娘の再会の場面に私などが行って水を差してしまうのも忍びないものです。私はまた今度改めて、と言うことでお願いします」
「そう? 残念だな」
「それにリュカ王ご一家が外に出られている間は、私はこの国を守る役目から離れるわけにもいきません。オジロン様共々、グランバニアでお待ちしていますよ」
「……サンチョが一緒に行ってくれたら心強かったんだけどなぁ」
「ははっ、本音が出ましたな?」
リュカがぽつりと漏らした一言に、サンチョが笑って反応した。ダンカンの温厚さを覚えているサンチョだが、彼を義理の父とするリュカの立場から考えれば、娘であるビアンカを長らく会わせずにいたことに対しての罪悪感は深いものだろう。増してやビアンカが魔物に攫われ、十年もの間石の呪いを受けていたともなれば、リュカの心痛にも頷ける。
「しっかりと親孝行をしてきてくださいな、王妃様と共に」
「子供たちも連れて行くけど、いいかな」
「もちろんですとも。王子王女にもおじい様孝行をしていただきましょう」
「いつも悪いね。サンチョに色々と任せちゃって」
「なぁに、たった一日お留守にされるだけです。こちらのことはご心配なく」
にこにこと笑うサンチョの表情を見ている内に、リュカの心も徐々に和むのを感じた。リュカにとってのサンチョは、父のようでいて父ではなく、母のようでいて母でもなく、あくまでも父の従者の立場を外れない人だが、やはりその感覚は身内も同然の人だった。彼の笑顔を見ているだけで、リュカは自分の行動に自信が持てる。山奥の村に待つ義理の父の事を思う緊張感からいくらか解放されたような気分にもなり、リュカも自然とサンチョに微笑み返していた。



「ねえ、リュカっ!」
何とも気持ちの良い山々の景色がリュカたちの眼前に広がっている。間もなく初夏の頃合いだろうか、山々の緑は濃く、力強さを日に日に増しているようだ。その緑の景色を覆うような硫黄の臭いが、相変わらず村の周りにも漂っている。
「なんだってこんな時にこんな所に来るのよっ!」
ビアンカの大きな声に、近くの木に留まる鳥が驚き飛び立ってしまったようだ。まさか彼女に怒声を浴びせられるとは思わなかった。しかし彼女が本気で怒っているのではないことも当然リュカには分かっている。
「ここに来たら私だって人並みに里心の一つくらいついちゃうわ……」
「サトゴコロって何? お母さん」
「ふるさとが懐かしいなぁって、そんな感じよね?」
ティミーとポピーにそう問いかけられてもまともに応えることのできないビアンカは、まだ懐かしき故郷の景色の前で呆然としているだけだ。事前にこの山奥の村に来ることを伝えていなかったから、彼女がそのような状態になるのも無理はないとリュカは横からそっと彼女の様子を窺う。
サンチョとの話の後、リュカは日を置かずに山奥の村に向かうことを一人で決めた。妻にも子供たちにも直前まで知らせず、当日唐突に村に行って驚かせるつもりだった。純粋に彼女を驚かせるプレゼントという意味合いもあったが、事前に彼女に知らせるだけの勇気もなかったのが本当のところだ。
「サンチョにも話したんだよ。一度顔を合わせてきた方がいいって、サンチョも言ってくれてさ」
「いきなり『行くから支度して』なんて言って、どこへ向かうのかと思えばここに……なんなのよ、もうっ」
「私もびっくりしちゃった。でも普段着でいいって……そういうことだったのね、お父さん」
「ここに来るのに正装してたんじゃ、村の人たちをびっくりさせちゃうもんね」
「ビアンカ、嬉しくない?」
あまりに興奮している妻の様子に、リュカは思わず不安になってそう問いかける。やはり事前に彼女に伝えておくべきだっただろうかと、窺うように隣に立つビアンカを見る。
「嬉しくないわけないでしょ! 嬉しいに決まってるじゃない!」
「ええっ!? じゃあもっと素直に喜んでくれればいいのに。僕、良いことをしたつもりなんだけど、これじゃあ怒られてるみたいだよ……」
「気持ちが追いつかないんだから仕方ないでしょっ! もう少し待ってよね!」
故郷の景色を眺める彼女の水色の瞳は、気を張っていなければみるみる潤んでしまうのだろう。一度涙腺が決壊すれば、果たしてこの村を離れられなくなってしまうかもしれないと、ビアンカは必死に自身を保っているのだ。
「でも私たち、今日一日しかいられないのよね、お父さん?」
「う、うん。もしかしたらもっと時間は取れたのかも知れないけど……」
「じゃあこんなところで止まってるなんて時間がもったいないよ! 早く行こうよ、お母さん! おじいさまも待ってるよ!」
「えっ? ティミーもポピーも、父さんに会ったことがあるの?」
また新たな驚きに目を見張るビアンカの両手を、ティミーとポピーが引きながら村の入口に早く早くと急かしつつ向かう。リュカも移動呪文ルーラの際に着地に失敗し、打ち付けた腰を擦りながら後をついて行く。
初めて山奥の村へのルーラが成功したと、呪文を発動した時には確信していたリュカだったが、この村との相性が悪いのだろうか、完全に成功とは行かなかった。途轍もない速さで宙を移動する最中、リュカは自身の脳裏に描いた到達点が朧になって行くのを感じ、明らかに慌てた。果たして自身の脳裏に描いた山々の景色は山奥の村のものだっただろうか、もしかしたらサンタローズの山々かも知れないし、今では見慣れたチゾットの山々の一部かも知れないと、自信が崩れていくと共に脳裏の景色は入り乱れていた。到達点間際になってようやく山奥の村の景色そのものをはっきりと脳裏に描いたリュカだったが、そのせいで着地の体勢を整えるのが遅れた。とにかく妻と子供たちを放り出すわけには行かないと、三人を必死に抱きかかえながら地に降りた際には、リュカは三人を庇うように思い切り背中と腰を地面に打ち付けた。思いの外強い衝撃に束の間気が遠くなったが、ティミーの手当てのお陰で気を失うことは免れた。
村に入れば、そこには広く畑の景色がある。初夏を思わせる温かな風がそよそよと吹き、畑に育つ作物の葉を揺らす。農作業に休みはない。今も日差しを浴びながら、麦藁帽を被る村人が精を出して農作業をしている。村を訪れる旅人もほとんどないために、リュカたち四人が村の中を歩けば、当然のように村人たちの目を集めることとなった。
畑を耕す村人の手が思わず止まる。今のこの時にいつものように農作業をしている場合などではないと言わんばかりに、彼らは一様に旅人のところへと向かってくる。口々にビアンカの名を呼び、あれから十年以上の月日が経っているというのに、彼女がいかにこの村で大事にされてきたかをその様子に思い知らされるようだった。
村の入口近くから騒ぎになっていれば、当然それは村の中にも波及していく。間もなく、彼女が村で暮らしていた時に母代わりにと慕っていた宿の女将が外に出て来て、顔中で驚きを表し、もつれる足でビアンカに駆け寄って来た。
「こりゃおどろいた! ビアンカちゃん、無事だったんだね!?」
女将の第一声に、ビアンカは曖昧に頷くだけだ。およそ一年前にリュカは子供たちとこの村を訪れた際、この宿の女将とダンカンには事情を話しているために、彼女の驚きが他の村人たちと意味合いが異なるのも無理はなかった。
「長いこと顔を見せられなくってごめんなさい」
「そんなのいいんだよ! ビアンカちゃんが無事ならそれでいいの!」
そう言ってビアンカの両手を取って、労わるようにその手を擦れば、女将の瞳にもビアンカの瞳にもじわりと涙が浮かんでいた。しかし彼女ら二人は互いに涙を堪え、あくまでも明るい表情を周りの村人に見せている。久しぶりの村のマドンナのお帰りだと言うように村人たちが群がるようにビアンカを囲む中、女将は「一番会わせないといけない人がいるんだよ!」と強引に村人たちの中を、ビアンカの手を引いて抜けていく。
「お母さん、すごい人気者だね!」
「何だか、私も嬉しいな」
リュカの両隣で無邪気に母の人気を喜ぶ子供たちの言葉を聞きながら、リュカは少々困ったような顔でビアンカと女将の後をついて行った。今更考えたところでどうしようもないことだが、彼女にはこの村で平和に暮らしていくという人生もあったのだ。幸福なことに、彼女は村人たち一人一人に愛され、穏やかに平凡に、彼女の人生はゆったりとこの村と共にある可能性もあった。
そんな人生を彼女から奪ったのは自分だと、リュカは宿の女将と明るい表情で言葉を交わすビアンカの姿を、後ろからそっと見つめる。
村の奥に位置するダンカンの家へ向かうビアンカと女将を、村人たちも邪魔するような野暮はしない。久しぶりに戻って来た故郷で、存分に親孝行をすれば良いと、村人たちは各々ビアンカに挨拶を交わしてから自分の場所へと戻って行く。戻って行く村人たちの表情も明るく、ビアンカはこの村の者たちにとっても太陽のようなものなのだと、リュカは改めて彼女の存在の大きさを知る。
「女将さん、もしかしてリュカの事もこの子たちの事も知ってる?」
「ああ、そうだよ。あれからもう一年くらい経つんだねぇ。時が経つのは早いものだよ、全く」
よく来てくれたねとリュカを振り返る女将に、リュカは微笑みながらも小さく首を横に振った。礼を言われるようなことなど何一つしていないという思いが、リュカの行動を自信のないものに押し込めそうになるが、子供たちの手前、正直に怖気づくわけにも行かない。
ダンカンの家は遠くからもよく見える。村でも大きな造りのその家は年月を経て古びてはいるが、掃除も行き届き綺麗に使われている。高床式の造りで、梯子を上った先では暖かな日の下でのんびりと欠伸をする猫の姿があった。いかにも平和で長閑な田舎の景色だというのに、いつでもリュカはこの家を前にして緊張に足が竦みそうになる。
「リュカ」
梯子を上る手前で、ビアンカが声をかけてきた。リュカは返事をしないまま、ただ振り返ったビアンカを見る。
「父さんからゲンコツの一つでももらう覚悟はできてる?」
「……えっ……」
「なーんてね。冗談に決まってるでしょ。そんなことしないわよ、父さんは」
「そうよ、おじいさまはとっても優しそうな方だもの。そんな乱暴なこと、しないわ」
「何て言うか、こう、サンチョよりも優しそうだよね、おじいさまって!」
少し顔を青くしたリュカを見て笑いながら、ビアンカは先に梯子を上り始めた。唐突にリュカを揶揄うようなことを口にしたのは、彼女自身が緊張しているからなのかも知れない。自身を育て、この家から巣立たせてくれた父親との再会を前に、十年と言う月日を経た今どのような顔をすれば良いのか分からないのが彼女の本心だった。
「なあに、心配いらないよ。ビアンカちゃんを無事にこの村にまた連れて来てくれたんだ。誰も文句なんて言わないよ」
そう言うと宿の女将は入口の扉を叩き、ダンカンの名を大きく呼ぶ。中で返事をする声が聞こえるような気もしたが、その音の後しばらく間があった。家の中で父が倒れたのではないかと不安になったビアンカが、前にいる女将の横から前に進み出て、「父さん!」と呼びかけながら扉を開けると、ちょうど大きなテーブルから落ちた木のカップを床から拾い上げるダンカンの姿があった。
「……おお、ビアンカか?」
「なーに、もう、カップを落としただけ? あーあ、床が水浸しじゃない。仕方ないわねぇ」
感動の再会の場面には到底及ばず、父と娘は十年の月日など微塵も感じさせない様子で、まるで外での野良仕事から戻った娘がいつものように父の世話を焼くような状況にリュカには見えた。ビアンカは扉の外で密かに緊張していたことなど忘れ去り、さっさと家の中へ入って広い台所へと向かう。
「あれ? 父さん、ここに置いておいた雑巾はどこへ置いたの?」
「ああ、ええと、どこだったかな。……あ、そうだ、昨日窓を拭いていて、そのまま外に置きっぱなしだ」
「も~、いつも使ったものは元のところに戻しておいてって言ってたでしょ……」
最後は言葉にならなかった。涙に途切れた彼女の声に気付いたリュカが、再び外へ出ようとしたビアンカの手を掴んだ。
「ビアンカ」
「離してよ、リュカ。外から雑巾を取って来なきゃ……」
「そんなの後でいいよ。ほら、お父さんにちゃんと顔を見せてあげないと」
ビアンカの後ろから彼女の両肩に手を添え、リュカは彼女を義理の父ダンカンの前に立たせた。思い切り鼻をすすり、もう隠しても仕方がないとビアンカは思い切り手で目から溢れる涙を拭う。いつの頃からか、父とは目線もさほど変わらないほどに背は伸びていた。子供の頃ならば俯けば泣き顔などいくらでも隠せたというのに、大人になった今では正面に立てば表情を隠すこともできない。
「おじいさま、こんにちは!」
「おじいさま、お久しぶりです」
「相変わらず二人は元気そうだな。いやあ、孫たちが元気なのは嬉しいものだよ」
そう言いながらダンカンは自身の両脇に立つ二人の孫の頭を優しく撫でる。しかし彼もまた、鼻を赤くし、鼻をすすっている。孫たちに会えた嬉しさに目を細めれば、自然と目に溜まっていた雫が床に落ちた。
「……父さん」
「……ああ、おかえり」
「ただいま、父さん……」
「よく無事でいてくれたよ……。ありがとうなぁ、リュカ君」
「いいえ、僕は何も……」
「そんなことはない。君のおかげだよ。君のおかげで娘は無事だったんだ」
ダンカンの言葉がリュカの胸に沁みる。一体どこまでお人好しなのだろうかとリュカはダンカンの身がふと心配にもなる。しかしこれがダンカンの紛れもない本心だった。リュカ自身も八年の間時を止め、しかしその時は再び動き出した。ただの運だけではない。リュカはあのパパスの息子であり、父パパスにも負けず劣らずの不屈の精神を持っているのだとダンカンは信じている。
「父さん、身体は平気なの?」
「ああ、平気だ。温泉が良いんだろうなぁ」
のんびりと答えるダンカンの様子を見るビアンカの表情は、思いの外固い。間近に見る父の様子は十年前に比べれば当然年を経た分老いているのには違いないが、それ以上の年月が経ったのではないかと思うほどに動きも緩慢で、どこか心許ないように感じる。
「……そう。それなら良かったわ」
しかし大事な父に対して素直に身体の心配をし尽くすには、どうにも照れてしまうものがある。また必要以上に不安や心配を口にしたところで、父は娘のそんな小言など聞き流してしまうものだ。そしてそれが恐らく、家族の一つの形と言うものなのだろう。
「お母さん、良かったね、おじいさまに会えて」
「今日は一日ここにいられるんだよね、お父さん?」
「もしお邪魔じゃなければ……」
「邪魔なもんかい! むしろこのままこの村にいてくれたってこちらは一向に構わないんだよ」
「あら。じゃあしばらくはここでのんびりしちゃおうかな~、なんてね」
宿の女将の言葉に反応したその言葉が、彼女の本心なのかどうかなど、リュカは確かめたいとは思わなかった。本心でもあり、建前でもあると言ったところだろう。今の彼女にとって大事なものは多岐に渡る。父ダンカンは当然だが、二人の子供たちも当然大事な存在だ。そして彼女は母として、未来を紡いで行くために、子供たちの命を育て守ることに重きを置かねばならない。それはダンカン自身も、生前の妻と共にしてきたことだ。娘ビアンカの命を大事に守り育て、そして次の世代へと繋げていった。
「一日しかないんだから、あまり時間がないもんね。お母さん、すぐにお食事の準備とか、した方がいいんじゃないかしら」
「しっかりしてるわねぇ、ポピーは。よーし、じゃあ久々に腕によりをかけてお料理作るわよ~」
「あたしもお手伝いするよ。作るものを決めたら下から材料を取ってくるから言っておくれ」
和気あいあいとした雰囲気で動き始めた女三人の様子を、リュカはただダンカンと共に並んで眺めるだけだ。食事の準備をと言いつつも、ビアンカは一度外へ出て床を拭くための雑巾を取りに行ったようだった。すっかりいつものビアンカらしさを取り戻し、しっかり者の彼女の姿をリュカたちに見せている。
「ねえ、おじいさま! これってもしかしておじいさまが作ったの?」
床に落ちていた木のカップを拾い上げたティミーが、しげしげと手にしたカップを見つめている。丁寧に彫り作られた木のカップだが、味わい深い手作りの雰囲気があるのはリュカにも感じられた。
「ああ、よく分かったなぁ。そうなんだよ、最近はこんな簡単なものを作るようになってなぁ。なかなか器用なものだろう?」
「すごいね! ボクも作ってみたいなぁ。できるかなぁ」
「一日じゃあちと無理かもなぁ。今度時間ができたらまたおいで。その時にじっくりと教えてあげよう」
ティミーの求める自由な時間、ダンカンの口にする今度という時、それがいつになるのかは誰にも分からない。しかしこの先に未来があり希望があるのだという祖父と孫の言葉は、これ以上ない明るい夢に違いないと、リュカは二人に混じるように穏やかな時間を過ごし始めた。



「調子に乗って少し作り過ぎちゃったかしら」
「そんなことはないだろう。リュカ君もいるしティミー君だって育ち盛りの男の子だ。ポピーちゃんだってまだまだ大きくなるんだから、沢山食べるといい」
「うわー、おいしそう! ねえ、どれから食べていいの?」
「お兄ちゃん、私がお皿に取り分けてあげる」
「ポピーちゃんは将来いいお嫁さんになれるねぇ」
「あはは、まだまだ先のことですけどね」
ビアンカが村を出て以来、この広いテーブルでダンカンは毎日一人で食事を済ませている。自分一人だからと生活態度を疎かにしていてはいざ娘が家に帰って来た時に何を言われるか分かったものではないと、ダンカンは常日頃家の中を綺麗にしているつもりだったが、それでも気づけばビアンカが部屋の隅に溜まった埃を始末したり、拭き切れていなかったテーブルの汚れを拭ったりと、父の手や目の届かないところの掃除に余念がない。ただ口うるさく文句を言うようなことはない。離れていた父の世話を久しぶりにできることが、彼女なりの幸せの一つのようにも見えた。
「ビアンカちゃん、片づけは後でいいからみんなと一緒に食事したらどうだい?」
「あ、そうよね。つい片付けられるものは先に片付けておきたくなっちゃって」
そう言うなりビアンカは宿の女将の言葉に甘えるようにして、前掛けを外しながら台所からテーブルへと歩いてきた。その姿を改めて見れば、リュカは思わず子供の頃から十余年ぶりに再会した時の事を思い出す。そして以前、子供たちとダンカンの家を訪れた際に、彼女はいなかった。それだけに今の妻の姿がリュカの目には眩しく映る。
「リュカ、飲み物はどうする? あなた、お酒は飲めないでしょ」
まだ昼過ぎの暖かな時間帯だが、ビアンカは台所の戸棚の奥から一本のボトルを取り出していた。それは普段、ダンカンが『薬のようなもんだよ』と言いながら少しだけ口にする果実酒のようだった。その酒は父ダンカンと宿屋の女将に水で割って出そうとしているものらしい。
「僕は酒以外なら何でもいいよ」
「じゃあオレンジジャムがあるから、それをジュースにしようか?」
リュカの返事を待つことなく、ビアンカは言うが早いか台所へ戻り、ジャムの瓶の蓋を開けている。
「これ、風邪の予防にもいいのよね。私もよく飲んでた。美味しいし」
手際よくジュースを作るビアンカに、ティミーとポピーも声を揃えてボクも私もと、母の作るオレンジジャムジュースを要求している。そんな二人の子供らしい行動にリュカの頬は自然と緩むが、同時に一年前の事を思い出し、ダンカンをそっと見て、思わず静かに俯いた。あの時はダンカンが同じジュースを作ってくれたが、それはお湯で溶いた温かなもので、寒さと涙に痛めたリュカの喉によく効いた。
グランバニアでは王妃の帰還を祝した催しが公的に行われたが、こちらではビアンカの無事の帰りを祝い、家族団欒の食事の席が設けられることとなった。ビアンカが囚われていた場所がセントベレス山頂の光の教団の大神殿内だったと知らされたダンカンと宿の女将は互いに目を見合わせて、難しい顔を示す。相槌を打つこともなく黙り込んでしまった二人に、リュカは怪訝な顔つきをしながら問いかける。
「どうしたんですか」
「いや……リュカ君は以前にもその光の教団というものについて話してくれたことがあったね」
一年ほど前にこの村を訪れダンカンに会った際、リュカは既に光の教団という組織について話していた。なるべく村の人たちをその組織に近づけぬよう声をかけて欲しいと、ダンカンに頼んでいた。
「そうですね。まさかあの場所にビアンカがいるとは思ってもいませんでしたけど」
「最近ではまたこの村でも、その光の教団とやらの話を聞くことがあってね」
ダンカンと女将が話すのは、村人たちの間に静かに存在する外界への不安や恐怖だ。それは近頃、少々形を変えてきているという。以前は村人たちが力を合わせて村を守ることで、村の外に棲む魔物の脅威を遠ざける努力をすることに疑念を抱かなかった。しかし最近になって明らかに村の外をうろつく魔物の数が増え、村人たちの努力だけで今後村を守り切れるのだろうかと、村人の表情が暗くなってきているのだという。
「さっきお母さんがこの村に帰って来た時は村の人たちみんな明るい感じだったよ」
「そりゃあビアンカちゃんが十年ぶりに村に来たとなれば、喜ぶに決まってるさ」
「今も村の者がいくらか、村の外の見回りに行ってくれてるんだ。毎日見回りに行けば、魔物の数がここんところ増えてきているのは明らかなんだよ」
「それと同時に、魔物の脅威から逃れ救われる光の教団へと、誘う者がいるというわけですね」
山奥の村の住人はそれほど多くはない。しかしその多くはない場所へも執拗に光の教団はその手を伸ばしてきている。その根城となる大神殿に乗り込み、大神官を名乗っていたラマダも、教祖イブールも討伐したというのに、まだその力は悪のそれに生かされているのだ。
恐怖と安全は二つで一揃いだ。右手に恐怖を差し出し、左手で安全をちらつかせる。そしてその一揃いの本体には、破滅が待っている。破滅に誘い込まれないためにも、人々を作為的に生み出された恐怖に近づけず、紛い物の安全に近づけてはならない。
「もうあの不気味な教団なんてないのに……お父さん、私たちから説明してあげた方がいいんじゃないかしら」
「でもそれを一人一人にって、どれだけの人たちに説明すればいいんだろ」
リュカたちのいるグランバニアは、国同士の結びつきとしてラインハット、テルパドールとは常に意見を交換している。自国にも彼らの国にもまだ、光の教団の影響は残っていることは確認している。しかし敵は、恐らく国を成す三つの大きな場所よりも、こうした人間の小さな集落の方に力を入れているのかも知れない。そしてこの広い世界の中で、どれほどの集落や村などがあるのか、リュカは決して知り尽くしているわけではない。
「実は私もね、光の国へと誘われたことはあったんだよ」
それはリュカが以前この村を訪れ、魔物に攫われたビアンカを捜す旅を続けている時のことだ。リュカならば必ず娘を助けてくれると、ダンカンは信じていた。その信念たるや、岩よりも固いものだった。
相手は「教団に入ればきっと大事な娘も見つかるでしょう」と、唐突で何も根拠のない安心を与えようとしてきた。村人たちとの結びつきを大事にしているダンカンに、その誘い文句は当然届かなかった。そもそもダンカンはリュカからこの組織の事について聞かされていた。その上得体の知れない安心を振りかざすような奇妙なその者を、ダンカンは毅然と村から追い出した。
「そんなことがあったの、父さん……」
「ああ。しかし私にはそんなものよりも信じるものがあったからね」
そう言いながらダンカンはリュカに目を向ける。はっきりとした信頼の目を向けてくれるダンカンに、リュカは微笑み返しながら小さく首を横に振った。
「お父さん」
口の中のものをごくりと飲み込んでから、ティミーが真剣な表情でリュカを見つめる。
「これってやっぱり、もっともっと根っこを叩かないといけないってことだよね?」
ティミーの言い方は抽象的だが、彼の言わんとしていることはリュカだけではなくビアンカにもポピーにも分かる。勇者ティミーはそのために今の世界に存在しているのだ。
「そうだね」
リュカはティミーの言葉を否定しなかった。
「ティミーの言うことに間違いない」
そろそろ本気で、真剣に向き合わなければならないと、リュカは現実を見つめる。光の教団など、ただの利用されている組織に過ぎない。その総本山を叩き、組織自体を失くしたとしても、その内に再び似たような組織が敵の手によって生み出されるのだろう。そして敵となるもの、魔界の王とは人間に比べ、悠久の時を生きる存在に違いない。
この世に勇者は誕生している。それは今が、魔界の王を倒す時なのだと語っている。



いつの間にか部屋の中には夕日が差し込むような時間となり、山々の後ろには橙色の美しい空が広がっていた。このままではあっという間にこの日が過ぎ去ってしまうと、折角山奥の村に来たのだから温泉に行っておいでとダンカンに言われたリュカは、子供たちと共に村の温泉へ向かった。ビアンカも一緒に行っておいでと父に声をかけられたが、彼女はまだ片付けがあるからと一人家に残った。ビアンカの意図を汲むように、宿の女将は一度宿に戻ると告げてダンカンの家を去れば、今やこの家に残るのはかつての父と娘だけとなった。
父と娘の久しい再会に水を差すような邪魔者は現れない。夕闇迫る空には千切れたような雲が橙色に染まり、それが山々を背景に浮かぶ景色を見れば、自ずと郷愁を誘う。村のどこかで一日の終わりを告げる鳥の声が響き、間もなく東の空には一番星が輝き始めるだろう。
皆で囲んでいた広いテーブルに、今は湯気の立つカップが二つ置かれている。大人数での食事会は時折この部屋で行われていた。いわゆる田舎に暮らす人々で、何かと言うと集まって語り合い、時には騒ぐのを楽しむような、気ままに暮らしながらも結びつきは強いのがこの山奥の村に暮らす村人たちだ。
その時の語らいの場を思い出すように、ビアンカは当時の手際をあっという間にその身に思い出し、食事の片付けも難なく終わらせていた。今日の昼過ぎに来た時よりも片付いた状態の台所の状態を目にして、ビアンカは満足そうに一つ頷くと、父の向かいの席に腰を下ろした。
「お疲れさん」
「なんてことないわよ。いつもやってたんだもの」
「しかしお前、あっちじゃ王妃様なんだろう? 家事なんて自分でする必要もないんだろうなぁ」
「でもねぇ、何だかそれって私のこれまでの人生を否定されてる気がして、何だか居心地が悪いのよ」
「はっはっはっ、大袈裟だな」
「それほど大袈裟でもないのよ。あーあ、たまにはこっちに戻ってこうしてのんびり家事でもしてようかしら」
「そんなことをしたら、またあっちが大騒ぎになっちまう。王妃様が消えたって。冗談にもならんだろ」
「それはそうよね。……今のは聞かなかったことにしてくれる、父さん?」
「そうした方がリュカ君の心臓のためにも良いだろうなぁ」
穏やかに微笑みながら、ダンカンは娘の入れてくれた茶を啜る。自分も女将も場所など教えていないというのに、娘はいつの間にか台所で色々なものを見つけ、普段使ったことのない茶葉の入る瓶を見つけたかと思えば、さっさとそれで茶を入れているのだから敵わない。アルカパの町を離れ、この山奥の村で過ごした日々は十余年ほどだが、ビアンカの今までの人生の中ではこの村で過ごした時間が最も長い。父と二人で多くの時を過ごしたこの家に帰れば、彼女はこの家での生活を肌身に思い出し、いつの間にか勝手に身体が動いてしまうのだ。
「何だか、夢を見ているみたいだよ」
向かいの席で湯気の立つ茶を啜りながらぼんやりと言葉を口にする父の姿を見れば、ビアンカは思わず真顔で父の顔をじっと見つめてしまう。こうして正面から父の顔を見ることなど今まであっただろうかと、その時のことを思い出せない。生前の母とはよく顔を向かい合わせて話をしていたが、父の顔を正面から見つめながら話をすることなどこれまでなかったような気もする。
「父さん、もっと背筋をしゃんと伸ばした方がいいわ」
いざ父の姿を目の前にして、口をついて出る言葉がこんなものなのだから、自分も大概正直ではないとビアンカは内心自身に呆れる。だが娘の言葉に素直に従うように、椅子に座りながら背筋を伸ばし座る父の姿を見れば、ビアンカもようやく素直に笑みを零してしまう。
「お父さん、しばらく見ない内にまたちょっと老け込んじゃったみたい……」
「そりゃあそうだよ。だってお前、私ももう六十を過ぎたんだ。それなりに老けることもあるだろうよ」
ダンカンはあくまでも笑いながら返すが、ビアンカは離れて暮らす父の様子を目の当たりにすれば、必要以上の不安が胸の中に沸き起こるのを止められない。自分で入れた温かい茶の入るカップには手をつけないまま、向かいの席に置かれる父のカップの辺りをぼんやりと見つめる。
「早くいろいろ片付けて私も親孝行がしたいわ……」
「なんだなんだ、お前らしくないな。そんな弱気なことを言うもんじゃないよ」
「何よ、私だって人並みに弱気になることもあるんですからね」
「しかしなぁ、お前にはお前の人生があるだろう」
そう言うと再びダンカンはカップの茶を啜る。少なくなったカップの残りを見てビアンカが茶を継ぎ足そうと席を立とうとすると、ダンカンは手を振ってそれを止めた。あまり飲み過ぎるとトイレが近くなると困ったように言えば、ビアンカも納得したように席に座り直した。
「私も、母さんも、お前をこうして育ててきたことを誇りに思うよ」
「なあに、突然」
「子供に恵まれなかった私たちのところに、神様がお前を授けて下さった」
「もう隠さないのね、私が拾われっ子だったって」
「もうそんなことを気にするほど、お前も私も子供じゃないだろう」
「そうね。もうそんな子供じゃないし、それに私も父さんと母さんに拾われて育ててもらって、感謝しかないもの」
父と娘の二人だけでこうしてゆっくりと語らう時間はいつ以来だろうかと、ダンカンもビアンカも過去を振り返るが、もしかしたらそんな時は今までになかったのかも知れないと思い至る。互いに年を経て、ようやく落ち着いて互いのことを語れる時間が訪れたのだと、静かで穏やかなこの時を父と娘は初めて真剣に過ごしている。
「お前に出会って、お前を育てることが、私と母さんに与えられた使命なんだと思うよ」
ダンカンの深みのある茶色の瞳が、娘ビアンカの水色の瞳を穏やかに見つめる。
「人は一人一人、何かを背負って生まれて生きているのかも知れんなぁ。そんなこと、これまで考えもしなかったがなぁ」
「……そうね。私もそんな大層なこと、少し前まで考えたこともなかったわ」
しかし考えざるを得ない状況が、間もなく彼女の目の前に突きつけられた。世界を救う勇者を息子に持つ母となり、ビアンカの運命は唐突に定められた。勇者の母として生きよと、天空の武器防具を身に着けて無邪気な笑顔を見せる息子ティミーを目にして、ビアンカは人知れずそう深く感じたのだ。
「お前の宿命は、重いなぁ」
「でも私がへこたれているわけにはいかないものね」
そう言うと、ビアンカはようやく緩やかに白い湯気を上らせるカップの茶を一口飲んだ。すっかり温くなっていたが、それを味わうように一口飲み下せば、鼻から抜ける息に良い香りを感じる。
「父さんはここで元気に待っていてね」
「わしにはなにもできることがないから……」
「違うわよ。大事な家族が元気でいてくれること、それが父さんのできることでしょ。とても大事なことだわ」
血の繋がらない娘を大事に育て上げ、嫁に出してくれた父が今もこの世に生き続けていてくれることが、娘であるビアンカの大きな心の支えになる。普段は遠く離れて暮らしていても、生きた父がこの山奥の村で、村人たちと助け合い支え合いながら生きているのだと思えば、自然とビアンカの胸の内には生きる力が沸くのだ。
早くに亡くした母は村の外れの墓地で、静かに眠っている。仲の良かった母を喪った時、ビアンカはまるで自分の半分が無くなったような喪失感に苛まれた。彼女自身、まだ幼かった。元気だった母を喪うという衝撃に耐えうるだけの心がまだ育っていなかった。あれから既に二十年ほどが経っているが、彼女は当時の事を思い出す時には今もその時の胸の痛みをその身に思い出し、心の奥底ではまだ母の死を受け入れ切れていないところもある。どうにかして母を病気から救うことができなかっただろうかと、悔やむ気持ちが僅かでも残る限りは、母の死を完全に穏やかに見つめることはできないだろう。
自分でさえ、そうなのだ。夫であるリュカにおいては、父パパスとの時間が唐突に壮絶に奪われてしまった。それもまだ彼が六歳と言う無垢な子供の頃に、彼は父も母もいない世界に放り出されてしまった。そして生き抜いた末に巡り合った運命が、勇者の父という逃げ場のない立場だ。ビアンカがあの大神殿で救われる二年も前に、夫は石の呪いから解かれ、子供たちや仲間たちと旅を続けてきたと言う。
「リュカがいるから、大丈夫よ」
この二年の間に、ビアンカは二人の子供たちの成長にも驚かされ、増えていた魔物の仲間たちの姿にも驚かされた。彼の周りの状況を見るだけで、リュカは必ず艱難辛苦を乗り越える力を持っているのだと信じることができる。それは彼個人の、一人だけの力ではない。彼がひたむきに、真面目に、正直に物事に相対する姿を見る周りの者たちが彼の力となり、そしてその力が必然と大きくなっていくのだろう。
「私が勇者の子孫で、ティミーは勇者なのかも知れないけど」
愛する家族の話をするビアンカの表情は、真剣ながらもどこか穏やかだ。その娘の表情を正面から見るダンカンもまた、釣られて口元に笑みを浮かべる。
「リュカがいてくれたから、きっとこの世を救う勇者が生まれたのよ」
ビアンカはグランバニアで一人の時を過ごす時、考えていたことがあった。自分は勇者の子孫らしい。勇者とは何か。実際にこうして今の世にも存在するのだとしたら、かつての時代にも勇者は存在していた。
その子孫が自分だと言う。信じられないような話だが、目の前で天空の武器防具を装備してしまう息子を見れば、信じなくてはならない現実だ。数百年前だろうか、数千年前だろうか、もしかしたらそれよりも前の世界の話なのかも知れないが、勇者は導かれし者たちと共にこの世界を魔の手から救ったのはただのお伽噺ではなかった。
この広い世界で、かつての勇者の子孫が拾われ子の自分一人だけということがあるだろうか。彼女自身、二人の子供を授かり、双子としてこの世に生み出し、更に夫との間に子を望んでいる。そのような自分の、この世に生きる人間らしい思いを考えれば、今の世に勇者の子孫は他にいることも考えられるのではないだろうか。
「私よりも、リュカなのよ」
リュカの母マーサは、グランバニアの国に生まれ暮らしていたわけではない。彼女はグランバニアより北のエルヘブンと言う、この山奥の村よりも人里離れた村に暮らしていたという。魔物に連れ去られてしまったというマーサは、エルヘブンの村でも唯一、地上の世界と魔界とを繋ぐ扉を開くことのできる巫女だという話を聞いた。その話を聞いて、ビアンカはそれまで無意識に胸の内に抱えていた不思議が氷解して行くのを感じた。
勇者の子孫として生まれた自分ではなく、エルヘブン随一の巫女マーサの子であるリュカの存在の方に寧ろ、世界の命運は賭けられているのではないだろうか。途方もなく長い時の中、その存在を守られ続けてきたのは勇者の子孫よりも、エルヘブンの村に守られ暮らす民の血なのではないかと、ビアンカは一人考える時にそう思い至った。
「えらく惚気るなぁ。聞いていてこっちが恥ずかしくなるじゃないか」
「……ふふっ、そう? でも良いことでしょ、妻が夫を信じるのって」
「そりゃあそうだ。互いに信じられない夫婦なんて、寂しいだろうからなぁ」
茶化した空気が父と娘の間に漂い、二人で同時にカップの茶を飲めば、もう真剣な話題はこの場には上らない。もう十分に言葉を交わしたという思いが、父にも娘にも胸の中に広がっている。これ以上蛇足になるような言葉を交わすには、それこそ酒が必要になりそうだ。
「おや、ところでリュカ君は温泉に入るのにタオルを持って行ったかな? 家を出る時に手ぶらだったような気もするが」
「持って行ってるはず……あ! もうっ、こんなところに置きっぱなしじゃない!」
子供たちの楽しい勢いに飲まれるように家を出て行ったリュカは、直前まで手にしていたタオルの入った包みをうっかり部屋の隅に置いたままにしていたようだ。数枚のタオルが入った包みを両手に持ち上げ、ビアンカは思わず笑みを零しながら溜め息をつく。
「ちょうどいい。お前も今から温泉に行って、一緒に入っておいで」
「そうね。そうさせてもらおうかしら。父さんは?」
「わしはいつでも入れるからな。明日にでも入ることにするよ」
気楽な調子でそう言うダンカンだが、この家でいつにない賑々しさを味わった後で、多少なりとも身体が疲れているのだろう。家から村の宿まで行くのにもそこそこの距離を歩かねばならないことを考えれば、今日はこのままゆっくりと家で過ごすのが良いのかも知れない。
「じゃあ行ってくるわね」
「ああ。村の者に長いことつかまらんようにな」
「はーい」
何とも無邪気なビアンカの返事に、ダンカンは成長した娘の後姿に、幼い頃の娘の姿を映し出した。二つのお下げ髪をぴょこぴょこと元気に跳ねさせ、母を亡くした後もどうにか気丈に振舞い、この山奥の村に馴染んでくれた。娘の元気が、父ダンカンの心をも元気にさせた。
「いつまでも子供だなぁ」
その声は家を出たビアンカには聞こえなかった。すっかり大人になり、今では二人の子を持つ母となっても、ビアンカは永遠にダンカン夫妻の子供だ。それだって一つの運命であり、不変の関係性だ。そして家族である父を大事に思う娘がいるのと同時に、娘の幸せがこれからも彼女の家族と共に膨れて行くのを願う心は父ダンカンの中に在り続け、決して消えることはない。



「一日なんて全然足りないよね~。お父さん、今度はもっと長くおじいさまのところに来ようよ!」
「おじいさまも一緒にグランバニアに来られれば一番いいのに……」
「ははっ、わしにはこの村暮らしが染みついているからなぁ。それにたまに帰る故郷があるってのもいいもんだろう?」
「普通だったらおいそれと行けるような場所じゃないけどね。ま、うちには幸い、移動呪文の使い手がいるわけだし。ちょっと精度に欠けるところがあるみたいだけど」
「僕にもよく分からないんだよ。本当にここだけなんだよね、ルーラが上手く行かないのは」
ビアンカに揶揄われるように言われ、気まずさを隠せずに応えるリュカの様子を見て、ダンカンは笑う。
昨日はリュカと子供たちが温泉に入っている時に、ビアンカも村の宿に着き、親子四人で温泉に浸かった。普段温泉に入る村人は凡そ日が傾く前にその時間を過ごすことが多く、既に一番星を東の空に昇らせた頃合いになれば、温泉に村人たちの姿はなかった。魔物の多くなったこのご時世に旅してこの村を訪れる旅人も珍しく、宿の女将の計らいもあり、四人の親子はのびのびと温泉を楽しむことができた。
これくらい暗い方がちょうどいいと呟くリュカの隣で、ビアンカは夫の背中を湯の中で優しく撫でた。彼の背中には無数の傷が残されている。それが魔物との戦いの中で生まれたものではないことを、ビアンカは彼の過去に知っている。ティミーが広々とした温泉の中を誰にも迷惑はかからないからと伸び伸び泳ぎ、ポピーは母と並び座りながら、暗くなった空に向かって立ち上る湯気の向こうに、輝き始めた星々を眺めていた。
すっかり暗くなった村の道をビアンカが手に明かりを灯しながら先頭を行き、リュカたちはダンカンの待つ家路を急いだ。途中、リュカが村の外れに続く道をちらと見たのに気づいたビアンカだが、「明日の朝、一緒に行ってくれる?」とだけ言い、彼らは真っすぐと村の奥地に建つ家を目指した。
家でダンカンはテーブルの上にうつ伏せになり、静かな寝息を立てていた。初め、父に何かあったのかと動揺したビアンカだったが、ティミーが駆け寄り確かめればそれが寝ているだけだと分かり、ビアンカはほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、すぐさま「もうっ!」とやり場のない小さな怒りを表していた。
うたた寝を起こされたダンカンは飲み忘れていた薬をビアンカに用意され、それを飲んだ後はふらふらと歩くところをリュカに付き添われ、自身の部屋まで歩いて行った。夕方にかけて普段より余程多くの食事を口にしたため、今日はこのまま寝ると床に就いた。その後、主にティミーが腹を空かせた様子を見て、ビアンカは再び台所に立ち簡単なものを作りテーブルに広げた。家族四人で、母の実家で母の手作りの料理を口にする子供たちを見ていると、それだけでリュカもビアンカも家族の温かさを感じることができた。
今彼らは家を出て、村の外れに向かって歩いていた。まだ朝早い時間帯だ。木々の青は日に日に濃くなっているが、朝晩はまだ少々冷えることもある。ビアンカは父ダンカンに羽織るものをと引き出しの中を探していたが、ダンカンは必要ないと元気な様子で先に家を出た。山間から姿を現す朝陽は思いの外強く、身体を冷やす朝の空気を既に温めていた。
村人たちの朝は早い。彼らの主な日々の活動は農作業だ。畑に向かう村人に会えば、ビアンカを中心に村人たちに囲まれ、しばしの立ち話に興じる。まだそんな若いのにこんなに大きな子供たちがと驚く村人に、リュカもビアンカも、ダンカンも一緒になって曖昧に笑う。とある村人がいかにも聞き辛そうに、昨年は三人目を身籠って来られなかったと聞いたがと問えば、ビアンカが笑いながらただ太っちゃっただけだったみたいとお道化るように答えた。元に戻すのに大変だったのよと明るく笑ってしまえば、村人たちもそれ以上の詮索はしなかった。
村の東の外れに位置する墓地にも、山間に昇った朝陽が届いていた。今は他に誰もいない墓地に、ダンカンとビアンカを先頭に五人が静かに歩いていく。日がまだ山間に隠れているような時間帯に既に墓地の掃除は済まされているようで、村全体がこの墓地に眠る人々の魂を大事にしているのがそれだけで分かった。ダンカンも月に数度、墓地の掃除を進んで行っているらしい。
「母さん、ビアンカが帰って来たよ」
母の眠る墓石の前で、ビアンカは父の隣にしゃがみ込む。この村を出る前まで、彼女は毎日のように母の墓石の前で手を合わせていた。時が経つごとに母のいない日常に慣れて行ったものの、あの賑やかな母を一人にして寂しがらせてはいけないと、墓参りは彼女の日常だった。その実、母を喪った自身の心の穴を埋めるための墓参りだったのだろうと、今ならば自身の当時の行動を客観的に見ることもできる。
「母さん、ただいま」
「ねえ、お母さん。このお花をお供えしてもいい?」
「もっと取ってきた方がいいかなぁ」
「ううん、大丈夫よ。じゃあ一緒にお供えしようか」
ポピーとティミーが近くで摘んできた花を束にして、場所を譲った父ダンカンのところにティミーが、反対側の母の隣にポピーがしゃがみ、二人の孫たちが祖母の眠る墓に花を供える。まだ午前中の陽も低い頃だが、今日はいつになく暖かいとダンカンが娘と孫たちの背中を優しく見つめる。
「遅くなっちゃってごめんね、母さん。色々と、まあ、大変だったのよ」
娘の呼びかけに答える母の声は誰にも聞こえない。ただ娘であるビアンカの胸の中にのみ響いている。
「私もね、いつの間にかこんな大きい子たちのお母さんになっちゃったわよ。この子たちは私と違ってとっても聞きわけが良くって助かってるわ」
そう言いながらビアンカは両脇に座るティミーとポピーの頭を撫でる。母に頭を撫でられるだけで、子供たちは面映ゆいような顔をしている。
「大変だっただろうね、母さんは。私みたいなお転婆な子が娘で。たまに生きた心地もしなかったでしょうね」
独り言のようなビアンカと亡き母との会話に、後ろに立つダンカンとリュカが示し合わせたように小さく笑う。冒険好きな娘を持つ母の心労を、ダンカンは思い出すように、リュカは前にしゃがんでいるティミーやポピーに、理解できてしまう。
「母さんとね、この子たちのこととか他にも色々と、話したかったなぁって思うけど……そんなことを望んでもやっぱり母さんに叱られちゃいそうよね。そんな弱音を吐くんじゃないよって」
過ぎ去ってしまったことにしがみつくのは自分のためにならないと、ビアンカの母ならば娘を愛情を基に叱咤激励するのだろう。リュカにとってビアンカの母との思い出は殆どないに等しいが、今の彼女を見ていれば生前の彼女の母は母として逞しかったのだろうと想像できる。
「今度ここに来るときは、きっとやるべきことをしてからになるわ」
そう言うと、ビアンカは後ろを振り向き見た。彼女の斜め後ろに立つのは夫のリュカだ。
「ねっ、リュカ」
彼女とこれからの事について、腰を据えて話し合ったことはない。しかし彼女の水色の瞳の色の濃さを見れば、リュカには妻の言わんとしていることが自ずと知れた。彼女自身がまだ救出されてさほど時は経っていないというのに、気も心も強い彼女は既に前進しているのだと、リュカはその思いを受け止めるように微笑み頷いた。
問題は光の教団という表面に出ている存在ではない。光の国に導こうとする信者にも、導かれようとする人々にも、彼ら自身に内在する問題は本質ではない。その動きを利用して、世界を混乱させ、混乱を徐々に大きなものに膨れさせ、ゆくゆくは混沌となった世界に乗じてこの地上の世界を支配しようとしている魔界の力が、全ての元凶なのだ。そしてその元凶を打ち破る力を持つ者が、彼らのすぐ傍にいる。
「大丈夫よ。絶対に成し遂げて、ここに帰ってくるからね」
ビアンカはそう言いながら両脇にいる二人の子供たちの肩に腕を回して引き寄せた。母子のそんな姿を後ろから見ていたリュカも一緒になって、三人を後ろからまとめて抱きしめた。
「必ずまた、ここに帰ってきます、お義母さん。子供たちも一緒に」
「今度はもっと長くいられるようにしようね、お父さん」
「そうよ、お母さんだって本当はもっとここにいたいでしょ?」
「そうねぇ、父さんのことも心配だし?」
「どうもお前はわしのことを酷く年寄扱いするなぁ」
夫と娘と、義理の息子と孫たちと、賑やかな会話が静かな墓地の中に響く中、墓石の下に眠る彼女が和んでいてくれればとリュカは思う。今に生きる人々にだけではなく、こうして永遠の眠りに就いた人々への思いも無駄にせず、継いでいくのが己の務めなのだとリュカは改めて心に静かにそう感じていた。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。

    コメントが遅くなりすみません。
    今回はホノボノまったり感動で良い話でしたね。
    そっか忘れてましたけど、リュカとティミー・ポピー1回ここに来ていたんでしたよね。 あれですよね…リュカとウエディングドレスの夜の話ですよね?
    ビアンカ良かったねぇ…ちょっとウルウルしちゃいましたよ(涙)

    ビアンカ、ここにおいてあったゾウキン…て言うけど、あのそれって10年前の話だよね?(笑い)

    リュカ、4人で温泉に入って本当に暗くて良かったね(笑み)

    最後のお墓参りで亡くなってしまった人たちの想いも=世界平和の気持ちを再確認できたこと良かったと思う描写でしたよ。

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      一度は立寄らねばと、今回このようなお話としてみました。そうです、子供たちは一度おじいさまにお会いしています。ブオーン討伐前ですね。
      ビアンカが咄嗟に雑巾なんて言っちゃったのは照れ隠しもありますね。それと、この家での記憶はあの時のままで、当時の日常が蘇ってあんな発言を・・・(笑) 最後にはちゃんとみんなでお墓参りできて良かったです。大事ですよね、故人を思う気持ちは。

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