贈り物

 

この記事を書いている人 - WRITER -

無機質な床はひんやりとしているが、床に寝そべるリュカの身体を包む空気に冷たさは感じない。気が付けば床にうつ伏せに倒れている状態だった。直前までの記憶は無い。ただ顔を上げたすぐそこに、ティミーの癖のある金の髪が見えた。ティミーもまた同じように、うつ伏せの状態で、右手から離れたと思われる天空の剣が彼の手の傍に置かれていた。彼の左手は妹ポピーの腕を掴んでいた。そして大きくなった双子の子供たちをまるで赤ん坊のように抱きかかえるかのごとく、手を目いっぱい伸ばしているビアンカが、ティミーの隣に横になって倒れていた。
「おう、リュカ。大丈夫かよ」
アンクルの低い声が頭上から響き、リュカは体勢を変えて仲間の様子を見た。アンクルはどこも傷ついた様子もなく、しかし彼もまたたった今目覚めたばかりと言った様子で、明らかに戸惑いの表情を浮かべていた。
「ああ、大丈夫みたいだ」
声を出して、仲間に言葉を返したことで、リュカの意識もはっきりとしてくる。景色の一部と思っていた塊りが、大きな身体を床に寝そべらせているゴレムスだということ、その巨体の下に出来ている穴倉のような隙間に、プックルとピエールが互いに凭れるように倒れていることに気付くと、魔界を目指す仲間たちは皆この場にいるのだと一先ず胸を撫で下ろす。
「アンクル」
「なんだよ」
「タフだねぇ、君は」
「まあな。お前らよりはタフかもな。けどなぁ……ちょっとオレにはこの場所は辛いぜ」
言葉を交わせる余裕があることで、リュカは床に寝転がりながら改めて周囲を見渡してみた。一言で言えば、それほど大きくはない聖堂だ。あのセントベレスに建てられた大神殿のような巨大な建物ではない。この聖堂内に漂う清らかな空気を感じると、到底魔界に足を踏み入れたような気にはならない。もしかしたら魔界ではなく、天空人らや妖精たちが暮らすような土地に紛れ込んでしまったのだろうかと、そう思わせるほどの清浄なる空気が辺りに満ちていた。見上げる聖堂の天井は丸く、天上やら壁やら床やら、無機質な材質で造られているはずの全てのものが、強力な聖の力を受けて自ずから仄かに光を発している。この場に魔の力を寄せ付けまいと対抗する聖の力は、人間であるリュカにさえ肌をひりひりとさせるような刺激を及ぼしてくる。あまりに強い聖なる力というのは、人間にも耐えられるものではないのかも知れない。
「確かにね。ちょっと辛いかもね」
「何だよ、お前もかよ」
「うーん、何となくね。ちょっと光が強すぎるかなぁ」
「そうだよなぁ。こんなんじゃそこらの魔物は近寄れないってもんだ」
実際に光が強いわけではないが、この聖堂の中に満ちる空気を言葉にするとしたら、光以外の言葉が思いつかなかった。リュカたちの目に映る光は決して強いものではなく、聖堂内全体の景色をぼんやりと浮かび上がらせる程度のもので、寧ろ目に優しいほどの柔らかな明かりが満ちているに過ぎない。しかしリュカもアンクルも、目に感じる刺激というよりは、身体全体に浴びせられる聖なる気に圧される感覚が強く、思わず身体の動きも硬直してしまうほどだった。
リュカのすぐ近く、視界に映り込んでいたティミーのあちこちに跳ねるような髪が揺れた。聖堂内に風が起こっているわけではない。ティミーが気が付いたのだと分かった瞬間、ティミーはリュカたちの前で飛び起きた。あまりにも俊敏なその反応に、リュカもアンクルもただ息を呑んでティミーを見るだけだ。
「お父さん! どこ!?」
焦点の定まらないティミーの視界に、リュカが映り込まない。エルヘブンの北、海の神殿から魔界を目指すべく、ティミーは妹ポピーと母ビアンカと、互いに力を合わせて魔界への道を切り拓いた。天空の剣、鎧、盾、兜、それぞれから生み出される竜神の甚大なる力が勇者ティミーの力となり、まだ在るべき勇者の存在に辿り着いていない子供の彼を助けるように妹と母の力を得て、彼らは見事魔界の門の封印を破るほどの力を発揮した。
「良かった。ティミー、元気そうだね」
目覚めるや否や、即座にその場に飛び起きた息子が信じられないと言うように、リュカはただ穏やかに微笑んだ。ティミーの大きな声に反応するように、彼の傍に倒れていたビアンカとポピーも揃って気が付いたようだ。
「お、お父さん……?」
「リュカ……良かった。ちゃんとあなたも……」
魔界への道を切り拓いたティミー、そしてその援けをしたポピーとビアンカは、後からリュカも必ず追ってくるものだと信じ、とにかく前に進むしかなかった。あの場面で躊躇を見せていれば、魔界からの強烈な圧力に屈していたかもしれない。
「がうがうっ」
「リュカ殿も無事に来られて何よりです」
本当は乱暴なプックルの安心の言葉を意訳するように、ピエールが丁寧な言葉をリュカに向ける。リュカは皆の言葉を受け止めるように一つ頷くと、のそりと大きな仲間がプックルとピエールの後ろに動くのを見上げる。
「みんな、どこにも怪我はない?」
床に倒れていたとは言え、恐らくこの場に強く身体を投げ出された者はいないのだろう。リュカたちは誰一人として、どのようにこの場所へたどり着いたのかを知らない。ただティミーが先頭に立ち、開いた魔界に通じる光の道の中を突き進む中で、保っていられない意識を手放したに違いない。
リュカたちが目を覚ましたこの祭壇の中央部、そこには絶えず水の流れる音の響く大きな泉があった。最も泉の近くにいたリュカが近づき確かめてみると、大きな泉の中心から常に清浄なる水が溢れ出し、この祭壇の内部を絶えず清め続けているという状態なのだと見て取れた。この水は元より魔界に存在しているものなのだろうかと考えると、リュカは魔界も思っていたよりも恐ろしい場所ではないのかも知れないと、僅かにも期待を抱く。
しかしその思いをすぐさま打ち破るように、祭壇を揺るがす振動が辺りに起こった。リュカたちが魔界に足を踏み入れたことに気づいた魔界の魔物がこの祭壇を攻撃してきたのだろうかと、リュカは反射的に魔物との戦いを想定して身構えたが、敵がこの場に押し寄せてくるような気配はない。ただこの近くで、魔界に棲息する巨大な魔物が歩き、通り過ぎて行っただけなのかも知れない。その音も揺れも、徐々に遠のいていく。
「オレがちょっと見て来てやろうか?」
「いや、いいよ。初めての場所だ。一人で行動するのは危ない。みんなで行こう」
唯一空を飛ぶことのできるアンクルは、その身軽を利用して偵察する役には適している。しかし決して小さくはないアンクルは敵にも見つかりやすい。祭壇内にいる限りは外の様子は確かめられず、地上と似た景色が広がっているのか、はたまた見たこともないような荒涼たる景色があるだけなのか、まだ何も分からない状況で仲間を一人で外に行かせられないと、リュカは彼をこの場に留めた。
「ここが……魔界?」
まるで外の景色が見えているような目で、遥か遠くを見るようにビアンカが水色の瞳を動かす。今は誰の目にも聖なる祭壇の内部の景色しか映らないはずだが、彼女にはその外の景色が目に映る、というよりも脳に感じているのだろうかと、リュカは妻の動作に不思議を見る。
「きっとそうよね。イヤな空気が立ち込めてる……」
そう言いながらビアンカは羽織る水の羽衣の前をきつく合わせるように、両手で己の身を抱きしめた。水の羽衣自体は寒くないのだと口にしていた彼女だが、今は祭壇の外に広がる魔界の空気に晒され寒さを感じているかのように、身体を小さく震わせている。
「お父さん……」
天空の武器防具に身を包んだ息子ティミーは、この祭壇の聖なる光に負けぬほどの正義の力をその身に帯びている。しかしそのティミーもまた、表情を曇らせながら祭壇の外へとその目を向けていた。彼が目を向けている方向は、先ほど祭壇を振動させた魔物の立ち去って行ったと思われる方向だ。
「このあたり、すごく、やばい気配が漂ってるよ……」
彼が口にする言葉で最大限の危険を表すように、ティミーはそう父に告げた。拙い子供らしい表現だが、外の危険の度合いを示すのは彼の余裕のない表情だけで十分伝わった。勇者として前に進まねばならないという思いを貫き、魔界へと足を踏み入れたが、これはもしかしたら間違いだったのかも知れないと思うほどに、天空の剣を持つティミーの右手は嘘のように震えていた。
「ど……どうしよう……。私、ちょっとこわい……」
ポピーの視線は聖堂の内部を彷徨っている。しかし彼女の感じる恐怖もまた、ティミーと同じようにこの近くを通り過ぎて行ったまだ見ぬ魔界の魔物の対してのものだ。遠隔呪文の使える彼女ならば、もしかしたら外をうろつく魔界の魔物の姿をその脳裏に見ることができるのかも知れないが、今のポピーは瞬きをするのも怖れているようだった。目に映る景色はこの光に満ちる聖堂に留めておくべきだと、ポピーはただ一途に聖堂に浮かぶ淡い光に心を預けているようにも見える。
「がんばれ」
そう言ってティミーがポピーの手を握る。魔界の門を突き通る時には、ティミーに力添えをするように、ポピーが兄の手にある天空の剣を共に手にした。ティミーもポピーも、互いに双子の兄妹という運命からは逃れられないと同時に、勇者と勇者の妹であるという宿命からも逃れられない。この二つの運命、宿命の中に生きるには、互いに力を合わせて行くしか道はないのだと言うように、ティミーは大きさも同じほどのポピーの手を握り、ぶんぶんと強く振る。
「ボクがちゃんと守ってやるからな」
その言葉がティミー自身を強くする。双子の兄妹、勇者と勇者の妹、この立場は決して対等ではないとティミーは思う。その第一義として、男が女を守るべきだという考えが、既にティミーの中には存在している。そして兄が妹を守るのは当然だという思いもまた、彼が特別意識もせずに育んできた感覚だ。それは力ある者が力のない者を守るという、グランバニアの国に生まれ育った彼が意識もせずに育んできた感情そのものだった。
勇者に生まれたが、まだ自分は幼かった。それ故に自分は多くの人々に守られてきた。父と母を知らない双子の子供に、グランバニアの人々が憐憫の情を抱いていたのは間違いない。しかしそれを抜きにしても、か弱い者を守らねばならないという意識は、グランバニアの国民性にも強く表れていたに違いない。
強い者が弱い者を守るという心の根底に生まれ在り続ける意識は、グランバニアの堅固な城の造りにも現れている。外からの脅威に対抗するためには、国の人々を無暗に戦わせるのではなく、国ごと守ってしまえばいいのだと、祖父パパスはグランバニア城の中に城下町を入れてしまうという大事業を成し遂げたと聞いている。その事業に従事したのは当然グランバニアの民だが、あれほど立派な城を造り上げるのには国民一人一人の意識もまた、国王パパスと同じ方向に向いていたということなのだろう。
そこには強い者への尊敬の念があり、片方には弱い者たちを一人残らず守り育むのだという愛がある。愛を受けた者たちは愛を知り、それをまた自分よりも弱い者へ受け渡していくのは、自然に起こる人間の想いそのものなのだろう。人の想いは途切れることがない。丁寧に育てればそれは丁寧に伝えられて行くものなのだ。
「お兄ちゃん……」
兄の強さに引き上げられるように、ポピーもまた気を確かにする。もし自分の意思が挫けそうな時には必ず誰かが掬い上げてくれるという安心感が、ポピーの胸に沸き起こる。それは第一に兄ティミーなのだ。ティミーとは生まれた時も同じ、双子としてこの世に生を受け、それはそのまま二人の宿命となった。最も同じ時を過ごした兄と妹は、たとえ片方が勇者で、片方が勇者でなくとも、二人が各々その身に帯びようと決めている勇者という存在は同じものだ。同じ決意の下に、ティミーとポピーは物心ついた時から共に過ごしてきた。
「うん……うん、大丈夫よ、お兄ちゃん」
「そうだよ、ポピーは大丈夫だ。ボクの妹だもん」
そう言い合いながら互いを見るティミーとポピーの姿に、リュカもビアンカも何か眩しいものを見つめるように目を細めた。まだ子供だが、子供ではいられない宿命を負う二人を護るように、夫婦は互いに目を見合わせる。
「みんな離れずに、一緒に行くよ」
「何があるか分からないものね。……あら、ポピー、ちょっとリボンが解けてる。結び直してあげるわ」
床に倒れた時にだろうか、ポピーのお気に入りの緑色のリボンが緩んでいた。賢者のローブのような、身を守るための防具というわけではないが、緑色のリボンが髪に揺れるその感触だけでポピーはいつもの自分を見失わずにいられるという効果が今や生まれていた。それほどにこのリボンはポピーの身に馴染んだものだ。
「ありがとう、お母さん」
「女の子だもの。こういうのってちょっとずれていても気になるわよね」
母の手で結び直されたリボンを鏡に映して確認する事も出来ないが、母の手の感触が髪に残っているだけでポピーの心は嬉しさに浮き上がる。うっすらと笑みさえ見せ始めたポピーの様子にリュカも安心し、聖堂の閉じられた出口に向かおうと、絶えず水の溢れる泉から離れて行く。
広い聖堂の中に、ふわりと舞い落ちるような音が、リュカの耳に響いた。ごく近くで響いたような気がしたその音は、何も思わなければそのまま通り過ぎる事も出来たような音だった。しかし通り過ぎるにはあまりにも胸に残るような音だった。辺りをゆっくりと見渡すリュカを、どこかで見ているかのように、再び彼の耳に心揺さぶるような音が届く。
―リュカ―
音が自分の名を成した時、リュカは思わず聖堂の丸い天井を見上げた。そこにいるはずがないと分かり切ったことだが、いるとするならばこの聖堂の、全てを見渡せる場所に、高い高い丸天井の中心に、いるのではないかと本能的に感じたのだ。
―リュカ……―
「……母さん」
一度、セントベレスの大神殿のその地下で、リュカは母マーサの声を聞いた。仲間のミニモンが時折、母の声真似をしては過去の穏やかな日々を思い出し、涙することがあったが、実際に生きた母の声を聞けば、それは直接自分に向けられた声であり言葉なのだと感じることができた。理屈ではない。言葉に説明できるものではない。ただリュカがそのように感じるものなのだ。
「聞こえるよ、母さん」
離れた場所にいる母との会話を途切れさせまいと、リュカからマーサへと呼びかける。しかしもしかしたらこの場にいるのではないかという望みが生まれ、リュカは聖堂内を広く見渡す。落ち着きを失ったリュカの様子に気付いたビアンカが隣に寄り添い、声はかけないままただその腕に手を添える。
聖堂の中は依然として静かで、絶えない聖なる光が仄かにリュカたちを照らすだけだ。先ほどまでと変わった様子は見られない。しかし聞こえた声は現実のものだと信じて、リュカはもう一度「母さん、僕はここだよ」と呼びかける。リュカの真剣に探す様子を見る家族も仲間も、同じように辺りに注意を払い、静かに待つ。
「ついにここまで来てしまったのですね……」
ゴレムスが顔を上げた。やはり初めのリュカと同じ、聖堂の丸天井の中央部、この聖堂の最も高い場所を見上げる。ゴレムスもまた、マーサがこの場にいるとするならば、聖堂の天井に姿を現すのではないかと思ったのだろう。リュカの腕に手を添えるビアンカもまた、丸天井の中央部を見上げる。それに合わせるように子供たちもまた見上げる。プックルもピエールも、そうするのが自然だと言うように聖堂の中心部を見上げる。宙に飛ぶことのできるアンクルならば丸天井にまで上がることができるが、彼はそうしない。ただ悪魔そのもののような形の羽をできる限り小さく折りたたみ、萎縮するように天井を見上げている。
「リュカ」
聖堂内に響くリュカの名を呼ぶマーサの声が、今は皆の耳にも届く。広い聖堂の天井に壁に床にと響く彼女の声は、彼らの耳に優しく響く。まるで声の音の波が、彼ら一人一人を柔らかなベールで包み込むようだと、リュカは焦点の定まらない視線を辺りに彷徨わせる。
「母さん、僕は……父の遺志を継ぎ、貴方を助けに来ました」
もう二十以上も前に亡くした父パパスが、幼いリュカを連れて世界を旅していたのは偏に、妻マーサを助けるためだった。それは父自身が妻に再び会うことを望んでいた以上に、まだ母を知らない息子に、母と会わせたいという思いが何よりも強かったからに違いない。その他にも様々な想いが父パパスの胸中には在ったのだろう。時の流れと共に成長する息子の姿に、その思いは色や形を変えて行ったかもしれないが、中心に柱として存在する思いは決して揺るがず、いつかきっと母と子を会わせてやるのだという決意を常にその胸に秘めていた。
その父の想いを知り、リュカは父の想いを成し遂げるために世界を歩き続けた。リュカこそ、自身の人生の最中に様々な出来事が起こり、継ぐ想いは色も形も変わったのかも知れない。しかしやはり父と同じように、胸の中心部分に柱として残る比類なき大事な想いは、それが達成されるまで消えることはない。
「父のためだけじゃない」
父から受け継いだ想いは色も形も変えて、今ではリュカ自身の想いとなった。父の願いを果たしたいと思うと同時に、母に会いたいと思うのは自身の願いともなったのだと、リュカは身近にいる母子、ビアンカと双子の子供たちの間柄に自身のその思いを確かにした。
「僕が母さんに会いたいんです」
リュカはリュカ自身の想いを母に伝える。これをただ父の願いのためにとだけ言葉に伝えれば、恐らくマーサはリュカを追い返してしまうに違いなかった。たとえ父パパスが息子リュカに母の救出を頼んだとしても、父の遺志を継ぐだけの我が子の危険な行動を、母は有無も言わさずに止めてしまうのだろう。
しかし子自らが持つ強い意志を母は止めることができない。しかも子が自ら母に会いたいと強く望むその想いを、どうして母自身が拒むことができるだろう。誰よりも会いたいと願っているのは、愛しい我が子をこの世に産み出した母自身なのだ。
リュカの顔の辺りに柔らかな一筋の風が通り過ぎる。やはりこれは気のせいではないのだと、リュカは辺りに漂う見えない空気の流れにそっと手を彷徨わせる。
「お前はこの母が想像した以上にたくましく成長したようです」
囁くような母の声が聖堂内に再び響く。喉に詰まるようなその声に、今の母の心情を垣間見る。生まれて間もなく生き別れとなった息子の成長した姿を、聞こえる低い声に想像し、マーサは瞳を潤ませているのだろうか。リュカの隣に立つビアンカが、小さく鼻を啜った。
「もう戻りなさいとは言いません」
母の許しの言葉だと、リュカは思った。
「今はただあなた方のチカラを信じることにしましょう」
その言葉だけで、リュカはここが魔の世界だということも忘れ、ただ力が沸いてくるのを感じた。かつて父から認めてもらった時も同じように、リュカは己の身体に自信が生まれ、幼いながらも自分が一つ成長した感覚を得たのを思い出す。人から、とりわけ両親から認めてもらうことは、子にとって唯一無二の自信となる。
「そしてこれがこの母にできる精一杯のこと……」
マーサのその言葉の直後、聖堂の丸天井の中心、その場所に聖堂内の淡い光が全て集められたかのように、一点が光り輝く。まるで地上で空の中天から照る陽光のように鋭く、容赦のない光がリュカたちを真上から照らした。しかしその光を誰もが眩しいとは感じなかった。聖堂の天井から、光が落ちて来る。リュカはその光を追って、祭壇の階段を上って行く。祭壇の上で両手を広げて受けるリュカに、一つの光がゆっくりと下りて行くと、光はリュカの両手の中で形を定かにした。
片手で持つような柄がついている。武器というわけではない。どこからか切り出したような美しい青の石が先につけられている。細かく整えられたような石ではないが、リュカの手に伝わるその魔力の甚大さは今までに感じたことのないものだ。青の石をじっと見つめれば、その表面がリュカの顔を鏡のように映し、石の内部に存在する魔力を放出するように辺りに癒しの風を巻き起こした。聖堂内にいる誰もが、賢者の石から生み出された癒しの風を受け、魔界に対する得も言われぬ怖れそのものが軽減されたのを感じていた。
「どうか母からの贈り物を受け取ってください」
強い魔力を秘める賢者の石を、今の今まで母マーサがその手に持っていたのだろう。もしかしたらこの魔界という世界で、マーサは己の身を護るためにこの賢者の石を必要としていたのかも知れない。それをリュカたちに託した。それはマーサが今は、強力な護りの力を失ったということだ。そう考えたリュカは、賢者の石を握る手に思わず力を込めた。
「頑張るのですよ、リュカ……」
前に進めるだけの力があるのだと信じ、そして背中を押す言葉を残してくれた。母マーサの声の余韻が聖堂内に静かに漂う。耳を澄ませていればいつまでもリュカの耳に聞こえていそうなその声は、聖堂内のあらゆる部分に染み込んでいくと共に、リュカ自身にも染み込んでいくようだった。
祭壇の下に子供たちと並び立つビアンカが、しばしの放心状態から我に返り、焦点の定まる目を祭壇の上に立つリュカに向ける。消え去ってしまったマーサの声を手繰り、今起こった出来事を現実のものにしたいと願うように、彼女は言葉を口にする。
「今の声は……まさか……お母様の声?」
ビアンカはどこからともなく聞こえるその声を耳に思い出しながら、リュカに問いかけるようにそう言った。リュカはただ妻の水色の瞳を見つめる。そんな夫の様子に、ビアンカはまるで彼が一人の男の子に戻ったように見えた。姿かたちはすっかり成長した大人の男だが、その中にはいつまで経っても変わらない少年が存在している。人間は誰しもが親から命を授けられ、一人の人間としての成長を遂げたとしても、その人は必ず誰かの子供であることに違いはない。子供が大人になっても、大人の中に子供は必ず残っているのだと、ビアンカはリュカのあどけなさを見せる表情にそう感じずにはいられなかった。
「信じられない……けどなんて優しい声……」
ビアンカにとって、ティミーもポピーも、どれだけ彼らが成長しようとも、いつまでも自身の子供であることは変えようもない事実だ。男であるティミーなどはあっと言う間に身体も大きくなり、あと数年もすればビアンカの背丈を追い越していくのだろう。それでも互いの関係が親子であることは未来永劫変わることはない。親にとって子はいつまでも子供だという常識は、やはり常識なのだ。そしていつでも子供の生まれた時を思い出せば、その瞬間に親としての意識が芽生え、その瞬間から自身の人生がもう一度始まったのだと、生まれた子の命を見てそう振り返ることができる。
親としての意識、その中心に在るのが、愛だ。たった今、この聖堂に響いたマーサの声に、母の深い愛が隠されることもなくリュカに向けられていたことを感じたからこそ、ビアンカは意図せず胸が熱くなるのを抑えられなかった。マーサがどれほどリュカに会いたいかを想像すれば、必然と瞳が潤む。
「よかったね、お父さん。来たけどしかられなかったね」
ティミーは皆と同じように耳にした祖母の声に、もしかしたら初め、怖れを感じていたのかも知れないと、リュカは思わず微笑んだ。エルヘブンで唯一魔界の門の開閉できるとされる祖母マーサは、勇者である己とは全く異なる次元に存在する人物と思えば、その怖れも分かるような気がすると思いながら、リュカは祭壇の階段を降りて行く。
「きっとおばあちゃんも嬉しかったよね」
リュカがティミーの頭を撫でてやると、ティミーはまるで子供の表情でにこやかに笑む。そんな息子の表情を見れば、リュカの母を救う意思はより固いものとなる。
「そうだといいね」
「そうに決まってるよ!」
いかにも子供らしい、直線的な言葉だとリュカは思う。他に寄り道することなど許されないというような、盲目的にさえ感じられる強い肯定だ。しかしこの魔界という場所をこれから歩くという時には、彼ぐらいに直線的で盲目的になる必要もあるのだろうと、リュカはティミーの頭を手の平で優しくぽんぽんと叩いた。父の大きな手の平の感触に、ティミーは素直に穏やかな顔をリュカに向ける。
「おばあちゃん……」
小さな声で呟くポピーが今、目を閉じて祖母の声を頭の中に反芻しているようだった。目を閉じて、祖母のいる場所が探れるものなら探りたいと、ポピーは聖堂内に留まらない視界を開こうとしたが、遠隔呪文を使う彼女でもそれは出来なかった。たった今、この聖堂に声を響かせたマーサだが、その存在は到底この近くにはないようだった。
「ポピー。みんなで一緒に行こう」
父の声に、ポピーは閉じていた目をぱっと開けた。一人で気を張るなと、手を後ろに引かれたような感じを覚え、ポピーは知らず緊張に張りつめていた心が解れたような気がした。
「大丈夫。みんな一緒だからね」
「うん。そうよね。みんな一緒」
そう言いつつもまだ顔つきが強張っているポピーの頬を、リュカは指でつついた。父の指先の感触に、ポピーは思わずくすぐったそうに小さな笑みを浮かべ、身を引きながら父を見上げる。
「もうっ。お父さん、私はもうそんな子供じゃないんだからね」
「あはは、ポピーはいつまでも僕の子供だよ」
そうしてリュカが目を向けた先は、聖堂の出口となる今はまだぴたりと閉じられた扉だ。非常に大きな扉は、海の神殿に通じる最後の鍵で開いた扉にも匹敵するほどの巨大なものだ。魔界という世界に、人間はおらず、多くの魔物が棲息している。ゴレムスを超えるほどの巨大な魔物がいても何らおかしなことはない。地上の世界にも、まるで一つの山のようなブオーンという怪物もいたくらいなのだ。
「どうしてここの扉は、こんなに大きいんだろうね」
思ったことをそのまま口にするリュカに、ピエールが考え込むように小さく唸り声を上げる。
「これでは大きな魔物も出入りできてしまいますね。魔界の魔物を地上へ行かせないとなれば、この扉がこれほど大きい理由が……」
「あっ、じゃあよう、地上でとんでもねぇ悪さした魔物をこっちに連れて来て、二度と地上に出て来られないように、とかじゃねぇの?」
「がう、がう」
「そうだよなぁ、どっちにしてもこれじゃあ封印が解かれた時に、魔界へも地上へも、人間でも魔物でも、関係なく行き来することができちゃうよね」
仲間たちとそう言葉を交わしながらも、リュカは魔界の入口となるその扉へとゆっくり歩いて行く。扉の上部を見上げると、首が痛くなるほどだ。巨大なゴレムスが身を屈めることなく、扉を通ることができるようだと、リュカは扉の前に立つゴレムスの巨体を見上げる。
「もしかしたら……」
エルヘブンの民は代々、この魔界の門の封印を護り続けてきた一族だ。何故彼らにその役割が与えられたのかを、リュカは知らない。
エルヘブンの村には、人間たちを守るゴーレムがいる。ゴレムスもその内の一体だった。エルヘブンの民らは村の周辺に生きる魔物ら全てと敵対しているわけではない。その証拠の一つとして、リュカの母マーサはスラぼうやミニモン、サーラ、キングスと理解し合い、それまでは魔物の一匹たりとも城の中に入れたことのないグランバニアに連れてきてしまった。エルヘブンの民は母マーサのみならず、その血に流れる能力で、魔物との共存が可能な力を秘めているのは間違いない。
そしてそれはリュカにも受け継がれた。リュカはこれまで世界を旅してきた中で、自分以外に魔物を仲間に連れている人間を見たことがない。リュカは特別魔物と分かり合える能力を持っているなど、特別自覚したことはない。寧ろ何故他の人々が魔物と共に行動できないのかと、不思議に思うほどなのだ。ただ素直に魔物と向き合えば、相手が型通りの話の通じないような魔物かどうか、その目を見て分かることがある。
神がこの世界を天空界、地上界、魔界と、三つの世界に分けたことをリュカはエルヘブンの長老から聞いた。その魔界の門の番をエルヘブンの民が命じられているということは、エルヘブンの民は地上の世界で唯一、地上界と魔界とを繋ぐ存在なのだとも言うことができる。それは一つに、魔界に対して地上界を守るため。しかし裏返せば、地上界と魔界との懸け橋にもなれる、ということではないのだろうか。
リュカは今一度、仲間たちのことを見渡す。キラーパンサーにスライムナイト、アンクルホーンにゴーレム。彼らのように、人間であるリュカたちと行動を共にできる魔物が、これから行こうとしている魔界にいないとは限らない。魔界が恐ろしいばかりの場所ではないという希望は、母マーサが魔界に囚われながらも今も尚生き続けていることに見ることができる。
「リュカ殿?」
「いや、何でもないよ。今色々と考えたって、何にもならないや」
「がうっ」
「とにかく……母さんに会わないとね」
一度も顔を見合わせて話をしたことのない母マーサと、面と向かって言葉を交わすことが出来れば、今まで見えていなかったものが見えてくるのかも知れないと、リュカは胸に灯る希望の光を自ら大きくするように、怖れを抱くことなく巨大な扉に手をついた。聖なる光に守られた聖堂の中から、まだ見ぬ魔の世界へ旅立つのはリュカ一人ではない。これ以上ない心の支えとなる家族と、心の底から信頼できる仲間たちと共に歩み出す世界ならば、望みを捨てずに進むことができると、リュカは大きな聖堂の扉をゆっくりと押し開き、外に広がる暗黒の景色に漆黒の瞳を向けた。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。

    戦闘まで描写するかなって思っていましたが…まあ大事な所ですよねこの場面。
    賢者の石、誰に持たせましょうか?

    ポピーの緑色のリボンで、ふと思い出しましたが、今現在、装備道具のビアンカのリボンは誰かが持っているのでしょうか?
    それとも、年月による摩耗により、さすがにもう…でしょうか?
    bibiワールドの中で何か考えがありましたら少し教えてください(笑み)

    大きな足音が聞こえる…。
    いいですねえフラグ立てちゃいましたね(笑み)
    次回は、魔界の魔物との戦闘が間違いなさそう。 楽しみです~!
    グレイトドラゴン、キラーマシン、ホークブリザード、ギガンテス、はぐれメタル…まだいたかな思い出せない(笑み)
    次話はハラハラドキドキになりそうですね。

    bibi様の実際のDSでは、家族4人と、ピエール、プックル、ゴレムス、スラリンってコメ返で言ってましたよね?
    あれ…そういえば、回復役に特価した、ホイミン、ベホマン、ベホズンはいないんですか?
    馬車内で待機させていれば回復は楽になるかと?
    おすすめは、ザオリクを覚えるベホマンですかね。
    3びきともベホマズンを覚えてくれるので、ぜひとも1ぴき居れば回復の鬼になるかと。
    ただ、戦闘向きではないかもしれませんから、やはり馬車の回復要員がベストかな!
    bibi様は仲間にしていなかったんですか?

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      賢者の石は次回、誰に持ってもらうかを決めたいと思います。
      ビアンカのリボンは最近描写してないですね。今もプックルの尾に・・・ついてるかな。
      次回のお話は戦闘となりそうです。恐らく、ひたすら戦いまくるかと。久々で書けるかどうか、自信はありません(笑)
      DSでプレイしている中で、ホイミンやベホマン、ベホズンはおりません(汗) ゲームの中での回復役は、このお話の中と変わらない状況ですね。リュカにティミー、ピエールが頼りです。そこで賢者の石を誰に持ってもらうかが重要になりそうですねぇ。

  2. ナギ より:

    とうとう魔界にきましたね。

    魔界のモンスターは尋常じゃない強さですからね(; ・`д・´)
    グレイトドラゴン・キラーマシン・バズズ・ギガンテス・れんごくちょう・ガメゴンロード・・・そしてザラキ魔のホークブリザード(;゚Д゚)

    とりあえずジャハンナまで頑張っていって欲しいですが・・・(。-`ω-)

    • bibi より:

      ナギ 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      本当に、とうとう魔界に来ました。ここまで実際何年かかったやら・・・(笑)
      ここの敵は尋常じゃないんですよね。先日、台詞確認のために少々DSでゲームをプレイしていましたが、ガメゴンロードの群れにかなり追い詰められてしまいました。稲妻の連発は辛い。
      早いところジャハンナに到着したいものです。

  3. ケアル より:

    bibi様。

    ビアンカ復活して暫くたちましたが、そういえばビアンカ復帰しての初戦闘になりますよね?
    ティミー・ポピーの強さにビアンカがどんな風に驚くのか楽しみです(楽)
    久しぶりの戦闘描写、楽しみにしていますね。 個人的にはプックルの炎の爪の戦いぶりが気になります(笑み)

    • bibi より:

      ケアル 様

      そうなんです。ビアンカが復活してから初めての戦闘となります。久々の戦闘描写でちょっと緊張・・・。上手く表現できればいいんですが。恐らくプックルは気持ちよいくらいに暴れてくれると思います、多分。

ケアル へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

amazon

Copyright© LIKE A WIND , 2023 All Rights Reserved.