魔界への侵入者

 

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“やどや”と拙い字で書かれた看板が下がる、見上げるような大岩にはめられた、決して丁寧な造りではない木の扉を開けると、そこには意外にも明るい空間が広がっていた。窓は小さなものが四か所取り付けられているだけで、外からの明かりは大して影響がない。初めの印象は、正直に言えば牢獄のような景色だった。しかし内部にいくつか置かれている水瓶に張られた水は、この土地全体を照らしている聖水と同様のもののようで、淡く青白い光が内部に満ちていた。閉じられた空間であるが故に一層、この場所の空気は清浄なものに感じられた。
木の扉は少々がたついていたが、アンクルほどの大きな魔物でも難なく通れるほどの大きさがあった。それだけを見てもやはり、人間だけが使う扉とは思えなかった。この場所には他にも魔物が棲んでいるのではないだろうかと、リュカは無意識にも期待した目で内部を見つめる。
人間と魔物の一行が内部に入ってきても、“やどや”の中にいた店主らしき赤毛の女性は特別驚くことはなかった。キラーパンサーにもアンクルホーンにも、どこか歓迎するかのように両手を広げて「いらっしゃい」とにこやかな表情を向けてくれた。店主の女性とカウンター越しに話をしているのは、同じ年頃に見える娘だ。リュカと同じような黒髪を肩越しに二つ下げているように見えるが、光の加減でその色は藍色に染まったり、緑がかって見えることもある。目は二人とも青みを帯びており、リュカたちに向けられたその瞳は普通の人間よりも余程澄んでいるような気さえしてくる。
「こんにちは。……いや、こんばんはなのかな。ここって宿屋ですよね」
「ええ、そうよ! ……じゃなくって、そうです。みなさんでお泊りになりますか?」
「みなさんって、魔物のみんなもいいんだよね?」
「はい、どうぞどうぞ。ええと、それならみなさんで、ひい、ふう、みい……ちょっと待ってくださいね」
リュカとティミーが続けて問いかけると、カウンター越しの赤毛の女性はそう言って、カウンターの向こう側に張られているのであろう料金表と思しきものを確認する。そしてリュカたちの予想を遥かに超える金額を提示する。
「八名さまですね。それなら四百ゴールドになります」
「よ、四百ゴールド!? ……とても高いのね」
「え? これって高いの? でもこの町ではこれでやってるからなぁ……どうしましょう?」
ビアンカが驚くのを見て、宿の店主である彼女も困惑した様子で聞き返してくる。宿泊客に宿賃の設定を任せてしまい兼ねない彼女の様子に、そのような対応に出会ったことのないリュカたちは思わず戸惑う。勝手に宿賃の価格を決めてしまえるのならと、脳裏に邪な考えが一瞬浮かんだビアンカだったが、店主の女性のいかにも純粋な表情を見れば自ずと己の邪気を抜かれたような気分になる。
「こんな魔界の宿に泊まれるんだもの。特別料金にもなるわよね」
「それに他にお金を使う機会もないだろうから、特に問題はないよ」
「がうがう」
「ここでゆっくり休めるんだもの、むしろ安いくらいじゃないかな?」
「そうですね。気兼ねなく身体を休めることができるのであれば、もっと代金を払っても良いくらいでしょう」
「でもここってこの“やどや”だけなのかな? 他にも人がいたりしないのかな?」
「つーか、そうじゃないとおかしいだろ。他に誰もいなきゃなんでカネを取るんだよ」
リュカたち一行が人間も魔物も関係なく一塊になって話している状況を、宿屋の店主である女性と、この場に居合わせたのであろうもう一人の娘も興味津々に見つめている。そして二人で囁き合うように言葉を交わしている。彼女らの交わす言葉の中に「似てるわね」「そうかしら」という言葉を聞き取ったリュカは、思わずその言葉に反応するように彼女らを見返す。恐らく彼女らはリュカがマーサに似ていることに関しての言葉を交わしているようだったが、リュカは特別彼女らの会話には加わらず、やり過ごすことにした。
「ここは……どういうところなんですか?」
何をどう聞いたものかと少し悩んだリュカだったが、初めて訪れたこの場所に関しては何も知らないことを正直に伝えるように、二人の女性に端的にそう問いかけた。すると黒髪の、目鼻立ちのはっきりとした女性が、まるで鳥の美しい歌声を聞かせるような声でおっとりと応える。
「ここはジャハンナ。暗黒の国でただひとつの町でございます」
「ただ一つの町? 町なんですか、ここって」
「ええ、この“やどや”のあちらの扉を出たところには、ジャハンナの町が広がっております」
今リュカたちがいる場所は、牢獄と言っても差し支えないような、小さな窓しかない岩窟の中だ。ここが宿屋というのにも驚きだったが、リュカたちが通ってきた木の扉と向かい側にある、もう一つの木の扉の向こう側には、女性の言うジャハンナの町があると言う。ただ向かいの扉の手前には、上の階へと伸びる石階段がどこか武骨に内部の景色を遮っており、一応宿屋を営んでいるであろう女性の店主は既にカウンターの奥から出て来て、リュカたちを上へと案内しようとしている。彼女のその表情は、いかにも今の状況を楽しんでいる好奇心に満ちたものだ。
「さあさあ、どうぞどうぞ。お部屋は上です! うふふっ、こんなに大勢のお客様をご案内できるなんて、うれしいですっ」
見た目よりも少々幼い雰囲気を見せる宿屋の店主に、ティミーが興味本位で問いかける。
「ねえねえ、もしかしてお姉さんも元々は魔物だったりするの?」
「こら、ティミー、いきなりそんなこと聞いちゃダメ……」
「あら、そうよ! あったりまえじゃない!」
くるりと振り向く女性の行動もまた、やはり見た目の年齢にそぐわず幼稚な雰囲気がある。青い瞳がやたらと澄み、その目は先ほど外で出会ったスラきち少年と類似のものと感じられた。
「私はね、元々ベホマスライムだったの! 人間になっても一応呪文は使えるから、怪我をしたら私に言ってね!」
そう言って彼女は特徴的な赤毛をふわふわと肩の上に揺らす。外で友達のスラタロウと遊んでいた少年と同じだとリュカは感じた。彼女もまた、魔物から人間になれたことを心から喜んでいる。
「それじゃあ、そっちのお姉さんも……?」
控えめながらも聞かずにはいられないと言った様子のポピーが、小声でもう一人の女性へと目を向ける。他の色にも見えるような黒髪の女性は、耳に心地よく響く小さな笑い声を立てると、「私はクックルーだったのよ」と何とも聞き取りやすい声で応えてくれた。
「お部屋は二部屋に分けた方が良いわよね? みんな一緒じゃちょっと狭くなっちゃいそうだし」
石階段を上りながら、元ベホマスライムの宿の店主がぶつぶつと言っている。そんな彼女の相手をするのはビアンカだ。元々宿屋の娘として育った彼女は、魔界に唯一の町ジャハンナで営む宿という施設に興味津々だ。
「できればみんな一緒の部屋がいいんだけど」
「でも、ほら、大きい魔物のお仲間もいるじゃない? アンクルホーンも大きいけど……キラーマシンも……キラーマシンって機械なのに人間になりたいって思うの?」
外にいたスラきちは人間に姿が変わったことを喜んでいた。友達のスラタロウも早く人間になれればいいのにと願っているほどに、スラきち少年は人間に憧れを持っている。そして今ビアンカと話をしている赤毛の女性にしても、彼女自身が望んでベホマスライムという魔物から人間の女性へと姿を変えたのだろう。もう一人、元々クックルーという鳥の魔物だった女性もまた、人間になることを望んで姿を変えた。どうやらこの町に住む人間は凡そ元々魔物であり、人間になることを夢見てこの町ジャハンナで、それこそマーサの力で魔物から人間へと生まれ変わっているようだ。
「私たちは特別、人間になることを願っているわけではありません」
「まあな。それにまた外に行かなきゃいけなくなるんだろうから、ひ弱な人間になんかなってる場合でもないだろ」
「がう」
「えっ? でもあなたたちは人間じゃない。あなたたちだけ人間になれたってことなんでしょ?」
女性の言葉を聞く度に、この魔界の町での常識を知ることができる。どうやら彼女には、リュカたち人間は既に魔物から人間に変われた者たちに見えているらしい。
「えっ? ボクたちって元々マモノだったっけ?」
「お兄ちゃん、混乱しないで」
「でも私たちが元は魔物だったとしたら、一体どんな魔物だったかって考えるのも面白いわよね~」
「ボクはプックルがいい! だって強くて速くてカッコイイもん! ポピーは……ミニモンがいいよ!」
「もうっ、勝手なこと言って!」
「じゃあ私は何がいいかしら、ティミー?」
「お母さんは……うーん、何だろう。お母さんと魔物はちょっと結びつかない気がするよ」
「そうかい? 僕はメッキー辺りかなって思ったけど」
「……リュカ、それってどういう意味かしら」
「えっ? だってルーラを使いたいって言ってたじゃないか。メッキーになればルーラを使えるようになるかもよ」
「……そもそも、話の始まりは“元々魔物だったとしたら”という話だったはずですが……」
話が反対の方向へ向かい、それに気づくピエールが言葉を添えるにも関わらず、ティミーは構わず楽し気に話を続ける。
「それじゃあさ、お父さんは何がいいかな?」
「お父さんは、そうねえ……」
ティミーとポピーが前を歩くリュカの後姿を見ながら、父リュカがもし魔物の姿をしていたらと想像すれば、それは間もなく彼らの頭の中で形を成した。濃紫色のマントの内側に収められているのは、戦いの時には常に左手にしているドラゴンの杖。父は既にこれまでにも、その姿を巨大な魔物へと変えたことがある。竜神マスタードラゴンの力を秘めた杖であるにも関わらず、リュカの手によってその力が解放され、変身を遂げた彼の姿は、竜神とは対を為すようにも思える、巨大な黒竜の姿だ。
「リュカは、ほら、優しいお父さんでしょ? 回復呪文も使えるから……ガンドフがいいんじゃないかしら!」
子供たちの心の中に、巨大な黒竜となったリュカの恐ろしい姿が生まれようとしていたが、そんな二人の望まぬ恐怖の意識を打ち消すように、ビアンカが明るい声でたとえ話を盛り上げる。ビアンカにとってリュカは、恐怖の対象とはなり得ない。この暗黒世界で、彼女自身もまた、リュカが巨大な黒竜となった姿を目にした。しかしそれでも、リュカはリュカだと、ビアンカは凶暴な魔物と化したリュカにさえも物怖じすることなく、巨大な黒竜の鼻頭を賢者の石で思い切り叩いたこともあった。
「あなた、回復呪文が使えるんですか?」
大岩をくり抜いて造り上げただけの武骨な形をした宿屋で、二階の部屋を案内するのに前を歩いていた店主がリュカのそう問いかける。元ベホマスライムという彼女は、特徴的な赤い髪の毛をふわふわと跳ねさせ、期待に満ちた目をリュカに向けている。
「はい、一応。貴女ほどじゃないかも知れませんけど」
「いいえ、私、魔物だった時ほど呪文は得意じゃなくなっちゃって……。あの、もしよければ見て欲しい方がいるんですけど、お願いできませんか?」
それまで笑顔を絶やさなかった明るい店主の女性だが、一転してその表情に真剣さが帯びた。基本的に人に頼まれたら断れない性分を持つリュカは、一先ず彼女の話を聞いてみることにした。
彼女の話によれば、この宿にはもう一人、宿客がいるという。ただ外から来たその者は酷い傷を負っており、今もまだ床に伏せっているという。回復呪文を施し、怪我の回復を試みたものの、思うようには治らないらしい。
「ボクたちの他にも、この場所に人間が来たってこと?」
ティミーがそう言うと、店主の女性は少々困ったような顔つきで、首を横に振り応える。
「いいえ、人間じゃないのよ。だって背中に翼が生えているもの」



案内された部屋は想像していたよりはこじんまりとしていたが、それもこの人数で一部屋を望んだからだと納得して、荷物を下ろそうとした。しかし持っている荷物はほとんどなかった。旅の荷物の大半はまだ、ゴレムスに預けっぱなしだったと、リュカたちは部屋を確かめるだけで、再び部屋を出る。
リュカたちが宿泊する部屋とは別の部屋に、先ほど話に出てきた怪我人がいる。あまりに大人数で部屋へ入っても迷惑だろうと、ビアンカが皆で行くことは避けましょうと提案すると、プックルとアンクルは遠慮なく宿泊予定の部屋の床に寝そべったり腰を下ろしたりした。怪我人を見舞うのに、回復呪文も使えない自身らが行ったところで無駄だと言わんばかりに、早々に身体を休め始めた。
「ボクとピエールは一緒に行った方がいいよね? ポピーは休んでても……」
「私も一緒に行く! 私にも何かお手伝いできることがあるかも知れないもん」
「じゃあ一緒に行きましょう。女手も必要かも知れないものね」
そうしてリュカたちが怪我人の見舞いに行こうとした時、彼らの後に迷わずついてきた仲間がいた。ロビンだ。ロビンの今の行動の指針は、リュカと共に在るということに限られる。リュカの傍を離れてしまうと、ロビンは何をどうしたらよいのか分からない状態に陥り、何かしら不都合な行動を起こしてしまうことも考えられた。怪我人を見舞うのにキラーマシンを連れ歩くのも妙なものかと思ったリュカだが、部屋に置いておくこともできないと、リュカはロビンの肩に手を当ててついてくるようにと促した。
店主の女性が扉を軽く叩く。部屋の中から返事はないが、その状況も見越して彼女は扉を静かに開けた。怪我をしてベッドに伏しているような状態ということだから、返事をすることもままならないのかも知れない。
リュカたちが利用する部屋もそうだったが、この部屋にも小さな窓が一つあるだけで、外の景色を広く見ることは叶わない。しかしそれでもこの暗黒世界では問題ないのだろう。大きな窓があったとしても、そこから見える景色は常に暗く、到底心を晴れやかにするものではない。
リュカたちの利用する部屋と比べて、訪れた別の部屋は狭い場所だった。その中で怪我人が横たわるベッドの占める割合は大きい。扉を入ってすぐに衝立が置いてあったが、その衝立の向こう側近くにベッドが置かれている。部屋に入ったと同時に、互いに目を合わせることのないようにと言う配慮を感じられ、それが元々魔物だった店主の女性が考えたものなのだろうかと思うと、少し不思議に感じられた。
小さな呻き声が、衝立の向こう側に聞こえた。いかにも苦し気なその声に、店主の女性が早足で部屋の中へと入って行く。それに続いてリュカたちも狭い部屋の中に足を踏み入れた。
ベッドに横たわる者を目にして、リュカたちは一様に絶句した。店主の女性は翼のある者だと口にしていたため、リュカたちは皆、怪我をしているのはてっきり魔物だとばかり思っていた。
ベッドは清潔に保たれていた。そのベッドの上で魘されているのは、確かに翼を背に生やした者だったが、それは魔物ではなく、天空人だった。掛けられていたであろう上掛けは跳ねのけられ、ベッドの端からずり落ちている。本来、美しく真っ白な翼は明らかに魔物の襲撃により痛めつけられ、白い羽も多く抜け落ち、痛々しく縮こまっている。店主の女性が既に何度も回復呪文を施しているようだが、それでもまだこれほどの傷が治らない状態ということが、ベッドに横たわる天空人の異常を物語っていた。
「ここでこうして看病を始めてから、もうかなり経つんですよ。でも全然目を覚まさなくって……」
「全然って……だって食事はどうしてるの? 食べなきゃ死んでしまうわ」
「それが食べなくても平気みたいで。そんな人間いるんですね。あ、翼があるから人間じゃないのか」
どうやら宿屋の女性店主は、ベッドに横たわる者の正体に気付いていないようだった。若しくはそもそも、天空人の存在自体を知らないのかも知れない。
リュカたちは空に浮かぶ天空城で、幾人もの天空人に会い、話をしたこともある。彼らは特別、攻撃能力に優れているわけでもなく、高度な呪文の使い手でもない。ただその生命力には目を見張るものがあった。数十年の間、深い湖の底に沈む天空城の中で生き続けるようなことは、ひっくり返っても人間にできることではない。今では天空城でも、人間の作るものは美味しいからとパンを焼いて食べることもあるが、本来彼らはどうやら食料と言うものを必要としないらしい。美味しいから食べたいというだけで、食べなければならないから食べるということではない。彼らの生きる源を考えれば恐らく、自然の力そのものなのだろう。
「ただお水はいるみたいで、ここにお水の入った器を置いておくと、いつの間にかお水がなくなってるの。私がいない間にどうやって飲んでるのかなって不思議なのよね」
そう言って彼女が手に取った木の器は、元から水など入っていなかったのではないかと思うほどに、乾いた底が見えていた。恐らく、ベッドに横たわる天空人は、身を起こして水を飲んでいるわけではないのだろう。空に浮かぶ天空城は常に多くの雲と共に移動している。雲は言わば、水だ。人間にはどうやっているのかは想像もつかないが、天空人はその特殊な力で、器に入った水を体の中に取り入れているのだろう。それこそ一度、水を部屋の中で雲に変えているのかも知れない。
「お父さん、回復呪文をかけてみようよ。この人のケガ、治してあげなきゃ」
「ああ、そうだね。効くといいんだけど」
元ベホマスライムである宿屋の店主が呪文を施しても治らない怪我を、リュカの回復呪文で治せるかは分からないが、やってみなくては分からない。小さな呻き声を上げて、眉間に皺を寄せている天空人の下に膝をつき、近くで一度様子を窺う。天空人の中でも割と体つきの良い、男性の天空人だった。本当にこれで回復呪文を施した後なのかと疑うほどに、彼の怪我の具合は全く改善されていない。顔には痣が残り、腕にも脚にも裂傷や擦傷、その中でもやはり最も目を引くのが、本来は美しくはためく真っ白な翼の傷めつけられている様子だった。傷つき、抜け落ちた羽根は、再び生えてくるのを待つしかないだろうが、この治らない怪我の様子ではそれも見込めない。
しかしリュカはそんな現実の景色とは別に、目の前の天空人の男性の身を第一に思い、現れている肩に手を置いた。むき出しになっている肩にも酷い傷が見られ、リュカはその傷に直接触れた。彼の傷が治るようにと思いを込めながら、回復呪文を唱える。
ベッドの脇に両膝を着くリュカの濃紫色のマントの内側には、常にベルトに提げているドラゴンの杖がある。マントの内に隠されている竜神の力が秘められた杖は、この場にいる誰の目にも留まらない。しかしリュカは一人、ドラゴンの杖の異変をその身に感じていた。リュカの手の先にある天空人の男性へ通じるようにと、ドラゴンの杖の宝玉は淡く桃色に光り、杖に籠る力はリュカの手を介して天空人の男性に流れて行く。
ただ苦しそうに呻き声を上げるだけだった男性がふと薄目を開き、信じる力を辿るように、胡乱ながらもその視線をゆっくりと横へ動かす。彼の視線がちょうど、ベッドの脇に膝をつくリュカに留まると、彼は明らかに驚いた様子で目を見開く。
「マ、マ、マスタードラゴン様!」
予想もしなかった大きな声に、部屋にいた一同は皆驚いて目を見張る。天空人の男性は比較的大きな身体をベッドから起こそうと身動ぎするが、全身を蝕むような痛みに顔をしかめ、再び呻き声をあげる。回復呪文の効果は見られない。何か異なる作用が彼に働いているのは確かだった。リュカは静かに男性の肩を抑え、「起きなくていい」と小さく告げる。
天空人の男性はリュカの顔を凝視したまま、再びベッドに横たわる。たとえベッドで身体を休ませていたとしても、身体のどこもかしこも痛みがあるようで、彼の口からは思わず呻き声が漏れている。そのような姿を見ていられないと言わんばかりに、ビアンカは手にしていた賢者の石に念じるが、やはり天空人の男性の痛みを和らげることはできなかった。
「大魔王のチカラが日に日に強くなってきています……」
意識がはっきりしている内にという意思が働くのか、彼は痛みに顔をしかめながらも、竜神の姿に見えているリュカにそう告げる。周りの者たちには何が起こっているのか理解が及ばなかったが、リュカには分かっていた。どのような方法で、この天空人の男性が魔界へと足を踏み入れたのかは分からない。ただリュカは過去、仇となるあの者が闇の空間に姿を消した場面に遭遇している。エルヘブンの民らが守って来たあの魔界に通じる門の他にも、魔界へ入ることのできる手段があるのは間違いない。
そして彼自身、世界の安寧を保たねばならないという天空人としての義務感も強く、目立つことなくひっそりと一人、こうして魔界への潜入に成功していたのだろうと想像する。魔界での状況を主であるマスタードラゴンに伝えることだけを目的に、彼は今ここに存在しているのは疑いようもなかった。リュカは己の身に竜神の力が仄かに宿るのを感じつつ、天空人の男性の言葉に耳を傾ける。しかし満身創痍の天空人は思うように言葉が継げない。
「こ、このままでは大魔王自らが封印を破りオモテの世界に……」
そこで彼は、竜神に見えるリュカの向こう側、部屋の隅に立つ一体の機械兵の姿を目の端に映した。ロビンの赤い一つ目と出遭うと、天空人の男性はガタガタと身体を震わせ、歯の根が嚙み合わないほどの状態に陥ってしまった。ロビンはただその目で、リュカたちの行動の様子を記録するように見つめているだけだ。しかし天空人の男性にとっては、攻撃性のないキラーマシンの姿など、想像できるはずもない事情があった。
突然彼は大きく呻き声を上げ、身体をくの字に曲げて痛みに言葉を発することもできなくなった。天空人の魔界からの忠告を許さないという力が働いているのではないかと、リュカは思わず鋭い目で周囲を見渡した。しかし部屋の中に不穏な影の雰囲気は感じられない。ただ、これ以上彼を苦しめてはいけないと、リュカはベッドに横たわる男性の天空人の肩から手を離すと、その場に立ち上がり、一歩ベッドから離れた。
「お父さん、ボクが回復呪文をかけてみようか?」
目の前で苦しむ者をみて居ても立っても居られないと感じているのは誰もが同じだ。高度な回復呪文を使うことのできるティミーがそう口にするのはごく自然なことだった。しかしリュカが彼に施したのは最高回復呪文であるベホマだ。宿の店主である元ベホマスライムの彼女も当然、ベホマの呪文をこれまでに何度も使っているのだろう。それでも天空人の酷い怪我が治らないのは、これがただの怪我ではないと言うことに他ならない。
「ティミー、君は呪いを解くことはできるっけ?」
「呪い? ああ、それならシャナクの呪文を使えば……」
「一度、彼に使って見てほしいんだけど、できるかな」
「う、うん、やってみるよ」
リュカにそう言われたティミーは、これほど酷く怪我をして苦しんでいる天空人に対して解呪の呪文シャナクを使うことに少々納得の行かない様子だったが、父の言うことならばとベッドの脇に立つ。ティミーの見立てでは、天空人の男性に呪いの気配は見当たらない。しかし解呪の呪文シャナクには苦しみを和らげる力もあるのかも知れないと、ティミーはただ目の前で苦しむ彼の痛みが少しでも和らぐようにと、集中してシャナクの呪文を唱えた。
決して天空人の痛み苦しみを取り払うことはできなかったが、くの字に折り曲げて顔を思い切りしかめて苦しんでいた彼の様子に、僅かに改善が見られた。息を止めて痛みに堪えていた状況が、いくらか和らぎ、呼吸が戻った。その効果にティミーが顔を明るくして、もう一度呪文を唱えようとするが、シャナクの呪文は回数を重ねて唱えて効果を増大させるような性質のものではないとティミー自身も知っている。そして呪文に精通する妹ポピーも当然のようにそれを知っており、ティミーの隣で「お兄ちゃん……」と小さく声をかける。
「あの、ありがとうございます! 何だか少し、落ち着いたような……」
それまで目覚めることもなく、ただひたすらに苦しんで呻き声を上げていた天空人の男性の看病についていた宿の店主は、元気を表すような赤毛を跳ねさせてリュカたちに礼を述べた。一度は目を覚まし、言葉を発した白い羽を持つ者の状態をこれからも彼女は看続けて行こうと、その意思を青い瞳に表している。
「また何か困ったことがあったら呼んでください。少しの間は僕たちもここで休ませてもらうので」
「あ、はいっ! あの、どうぞ、ごゆっくり!」
宿の店主である女性はそう言いつつ、まだベッドに横たわる天空人の男性の様子が気がかりな様子で不安な面持ちも隠さずに見つめている。リュカたちは彼女の言葉の通りに、部屋を出て、彼らに割り当てられた大部屋へと引き返して行った。その際、リュカは部屋を出るロビンの背に手を当て、彼の中に残る記録に混乱が起きないようにとその背を無意識にも擦っていた。



「ねえ、お父さん。今の人って天空城の人だよね? こんな所にまでいるなんておどろいたなぁ」
天空人の部屋を出るなり、ティミーが堪え切れない様子でリュカにそう小声で話しかけた。
「なんだかひどいケガしてたみたい……。平気かな」
ポピーは回復系の呪文を使うことのできない己の無力さを感じつつも、父や兄の回復呪文でも男性の怪我も何も治らなかったことに、純粋に首を傾げる。
「しかしあの天空人の方、ただならぬことを仰っていました」
ピエールの言葉に、一同も思い出す。天空人の彼が何故この魔界へと足を踏み入れているのか。それは偏に、この魔界での現状をその目に確かめる必要があること、それをマスタードラゴンに伝えなくてはならないこと、魔物と戦う力に乏しい天空人としては少しでもできることをと諜報活動を試みていたということだろう。しかしそれもまた、魔界の力で阻止されているようなものだと、リュカたちはあの天空人の治らない怪我の様子にそう思う。
「大魔王自らがオモテの世界にですって? そんなことになったら大変だわ」
口にするのも恐ろしいような現実を、ビアンカは怖れずに皆の前で口にする。言葉には言霊というものがある。その言葉を口にすれば、それは現実に働いてしまうという不思議だ。しかしそれ故に、彼女は恐ろしい言葉をそのままには終わらせない。
「何としてでも私たちで止めないと」
家族の、仲間たちの力を心底信じているから、彼女は迷いもなくそう口にできるのだろう。そして彼女は最も信じるリュカの目を見つめる。水色の瞳は相変わらず澄み切っており、その清浄さはこの宿屋のそこここに置いてある水瓶に張られた聖水の力にも劣らない。信じ切っているその目に応えるのは己だと心に深く感じながらも、リュカは割り当てられた大部屋の扉を前にして、つい気の抜けたような笑みを見せる。
「そのためにもとにかく一度、ゆっくり休まないとね。僕たちは天空人と違って、食べて寝ないと持たないんだからさ」
リュカのそのいかにも柔らかな口調に釣られれば、知らず張りつめていた皆の心も弛緩する。考えてみれば、このジャハンナという町に着くまではひたすら魔界と言う見知らぬ世界を歩き続けてきたのだ。この町に足を踏み入れる直前にも、町を護るゴーレムの群れと激しい戦いをしてきた。そのようなこれまでの旅を思い返せば、皆の身体に忘れていた疲労が再び戻ってくる。
「そうよね。色々と考えるのは、ちゃんと休んでからにしましょう」
「魔界の宿屋って、どんな食事が出るんだろ?」
「今ならとってもお腹が空いてるから、キライなものでも食べられそう」
「……人間の食べられるものがちゃんと出れば良いのですが」
「ピエール、不安になることは言わないで欲しいんだけどな……」
不穏な言葉を口にするピエールに苦い顔つきをしながら、リュカは後で店主の女性に、ロビンの腕を直せる者がこの町にいるかどうかを聞いてみようと思っていた。そして大部屋の扉を開ける前に聞こえたアンクルの大きな鼾に、何も心配せずに眠れる環境がここにあることを実感し、思わず小さく笑いながらゆっくりと扉を開けた。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。

    カゼを引いていたんですね、具合はどうですか?
    こちらは、もう秋も終わり、そろそろ初雪のお便りの雪虫が大量に飛び回っているのであります。
    インフルとコロナがダブル攻撃の世の中、くれぐれも御自愛くださいね、自分もカゼをもらいかけましたよ(苦笑)

    bibi様、子供とスライムはゲームにありましたが、宿屋の話はどこまでがbibiワールドですか?
    クックルーとベホマスライムはbibiワールドですよね?
    天空人はゲームにいましたか?

    400ゴールド、ゲームでもたしか同じ金額でしたよね。 bibiワールドのリュカたちは魔物を倒してもゴールド稼げないから死活問題(汗)
    テルパドールの時みたいにどこかで仕事しなくてはならないかも?(笑み)

    これからは天空人が、なんらかのフラグになるのかな?
    スパイ活動のためにとはいえ一人で可哀想…。 そして、どうやって魔界に来たのか不思議…。
    プサン改めマスタードラゴンが転移魔法を使えたのか?
    それならリュカたちも最初から転移魔法使えば水炎リングを置いて行くこともなかったわけで…気になります。

    次回は、とりあえず食事ですね。
    どんな料理が?…ホークブリザードの肉が入ってたりして?(失神)
    ロビンの腕は?
    ゴレムスの足は?
    天空人の呪いと怪我の謎は?
    天空人とキラーマシンの関係とは?
    そして、リュカたちは、お風呂に入れるのか?…入りたいよね、死に物狂いの先頭だったし、ビアンカとポピーはとくに?(笑み)
    次話お待ちしております(願)

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      風邪はあっさり治るのですが、今度はいつもの頭痛が・・・。11月に入ったというのに、こちらは夏のような暖かさで、このおかしな気候の影響か分かりませんが、ちょくちょく頭痛が起こります。やれやれです。ホント、年を取るごとに健康のありがたみを感じますね。健康は何物にも代えがたいものです。ケアルさんもどうぞ気を付けてお過ごしくださいませ。

      ジャハンナの町の住人が元々魔物だったということで、元々の魔物設定はこちらでいくらか自由にやらせてもらうことにしました(笑) ベホマスライムもクックルーも私が勝手にキャラ設定しています。一方で、宿屋の天空人はゲーム内に存在しています。彼一人だけで、一つのお話ができそうな気がしますが、ここはあまり深入りしない方向で話を進めようかと思っています。一つ一つ話を深めて行くと、終わりまで書ける気がしないので(笑)

      色々な状況をお話の中に書き散らしていますが、全てを綺麗に回収できるかどうかは怪しいところなので(えっ?)、お気楽にお読みいただければと思います・・・。とりあえず、ホークブリザードの料理は人間が食べるには向いていない気がしますね。あ、でも暑い夏なんかにはオススメなのかしら。

  2. ケアル より:

    bibi様。

    そういえば知っていますか?
    ちょっとbibi様の小説とは関係ないですがドラクエ5に関する情報なのでコメさせてくださいね。

    久美沙織先生の裁判、映画ドラゴンクエストユアストーリーの判決が先月10月20日にでました。
    裁判結果のURLと久美沙織先生のX(旧ツイッター)をリンクしますね。

    https://sp.m.jiji.com/article/show/3078064?free=1

    https://www.itmedia.co.jp/news/spv/2310/20/news143.html

    自分的な意見ですが、周りで言われているように、法律で定められていなくてもスクエニ側には久美沙織先生に対して義理と仁義は少なからずともあったと自分も思うんです。
    久美沙織先生の要求は難しくはなかったように思うんですよ。
    上映前にスクエニと東宝映画に映画のエンドクレジットに久美沙織先生の名前と小説ドラゴンクエスト5を映画館で物販して欲しいと打診。
    それをスクエニは、キャラの名前には著作権がないとつっぱって却下。
    久美沙織先生は激怒、クラウドファンディングで賛同してくれる方からお金を集め、スクエニと東方に謝罪とお金200万そこそこ(おそらく裁判費用分)を提訴、提訴の前に告訴をし敗訴、提訴も敗訴し現在控訴をする予定。
    スクエニは現在、ドラクエファンに、「不義理」と叩かれています。 今後スクエニ離れとか、株価に支障が出たりしないか心配です。

    • bibi より:

      ケアル 様

      当方もリュカという名前を使わせていただいている身分として、その名前を生み出した久美さんへの尊敬の念は持っています。良い名前ですよね、リュカ。響きが軽やかながらも、「リュ」の響きに竜がこもっているような気もして。大体、小説を書くに当たり、登場人物、しかも主人公の名前をつけるには相当に頭を捻られたことと思います。
      この問題って、つまるところ、人への礼儀や尊厳にかかわるところですよね。法律では問題ないとか、まあそうなのかも知れないけど、それだけで片付けられてしまってはあまりにも冷たい世の中だなと感じるし、ドラクエという面白楽しいゲームに対しても否応なくケチがついちゃうんじゃないかな。スクエニ側としても勿体ない気がしますが、どうなんでしょ。
      何だか最近は、相手への礼儀を欠いて問題になることが多いような気がします。そもそも人の気持ちを汲み取ることができない、とでも申しましょうか。子供の道徳の教科書なんかを見ていても、何だかだらだらと文章や会話文が書いてあって、この場合あなたならどうしますか?というような問いかけがあり・・・そんな感じで授業を受けているんだと思うと、いや、先ずは「この場合はこうした方が良い」という見本や手本を示してから考えさせなさいよとちょっとした憤りを感じている今日この頃です。
      とまあ、それはさて置き、法律や決まりごとも当然大事ですけど、それ以上に守らなきゃ行けないのは人間としての尊厳や礼節と言った形の無いものでしょう。だって、法律も決まりごともそもそも、人間の尊厳や礼節を守るために作られたもののはず。守る順番が狂ったら、それこそ法律や決まりごとへの信頼が無くなってしまいそうですね(困)

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