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風の帽子の帯びる魔力が、リュカたち一行を危険から遠ざけようと、暗黒世界の空に突風のように運んで行く。移動呪文ルーラと同じように、リュカたちは外部からの影響を全く受けない状態で目的地にまで飛んでいく。景色は飛び荒ぶように過ぎていく一方で、その身に感じるはずの風も受けず、追いすがろうとする巨大鳥がみるみる後方へと流れていくのをぼんやりと見るだけだ。
ルーラの呪文と異なると思うのは、風の帽子が両脇の白い翼をはためかせながら、まるで生きている鳥のように羽ばたきの躍動を感じさせるところだ。もし己が鳥になれたら、こうして羽ばたいて、風を掻いて、風に乗って、風に上がって空を駆けるのだろうと想像させてくれる。恐らくアンクルのような空を飛べる魔物たちは、このような景色を見ながら身体を躍動させているのだろう。
あっと言う間にジャハンナの町を守る、聖なる青白い光が目の前に迫って来た。しかし風の帽子はそのままジャハンナの町の中を目指すわけではなく、冷静に連れている仲間たちのことを考えていたように、町のすぐ下に広がる広い草地を目指した。一体この小さな帽子のどこにこれだけの強い魔力が秘められているのかと思うのは、連れている仲間に巨大なゴレムスがいるからだ。ゴレムスほどの巨体が宙を飛び荒ぶ光景はどうしても目立ち、それ故に空を飛ぶ敵の目に留まればその度に追いかけられそうになっていた。しかしもう追いかけられる心配もない。リュカたちは無事に、ジャハンナの町を守る巨大ゴーレムの群れの中へと放り込まれた。
リュカたちが撤退してくることを知っていたのだろうかと思えるように、ジャハンナのゴーレムたちは既に広い草地の中心を囲むように円となり、立ち並んでいた。その中心へと、リュカたちは風の帽子の魔力で落とされた。どうやらルーラの呪文と同様で、着地のことはさほど考えていないらしい。ゴレムスの巨体が地面にめり込む勢いで着地する脇で、リュカも地面に放り出され、暗い草地を痛々しく転がった。
「がうがう?」
着地に何の問題もないと軽やかに草地に降り立ったプックルが、背中を丸めて呻くリュカの様子を窺うように呼びかける。着地の失敗で命を落とすことはなかったが、痛めた背中に回復呪文を施すこともできず、しばしリュカは返事もできずに草地の上に身体を丸めて痛みが収まるのを待った。
「リュカ殿、急ぎビアンカ嬢とアンクルを町の中へ……」
「うん、運ぼう。とにかく教会へ連れて行かないと……」
事は急がねばならない。見れば、今も半ば放心状態のティミーが動かなくなったビアンカの身体を支えている。魔力さえ残っていれば自身が救うことのできる母を、今のティミーはただその身体を支え、温かさを失っていく現実をその手に感じるだけだ。ポピーは己を守ってくれたアンクルの巨体の脇に両膝をついて、動かないうつ伏せのアンクルを虚ろな目で見つめている。移動の最中、ゴレムスがリュカの家族とアンクルを守り包んでいたようだ。ただ着地の際に、ゴレムスの腕に収まるには大きすぎるアンクルだけが零れ落ちるように、リュカと同様に草地の上を転がっていた。
ゴレムスよりも更に大きなゴーレムたちが、遥か高い場所からリュカたちを見下ろしている。あまりの大きさに、リュカは彼らが手を差し伸べていることにも気づかなかった。すぐ目の前にある岩の塊のように見えていたものは、差し伸べられたゴーレムの手だった。
「手を貸してくれるのかい? 助かるよ」
ジャハンナの町の下に広がる広い草地からジャハンナの町へ行くには、長い縄梯子を上らねばならない。ゴーレムたちはあまりにも大きな巨体のためにジャハンナの町に入ることはできないが、リュカたちが初めてこの町を訪れた際にも手を貸してくれ、リュカたちはそのお陰でジャハンナの町まで登ることができた。アンクルのような大きな仲間を運ぶことができるのも、この中ではゴレムスや立ち並ぶゴーレムたちくらいのものだ。
「しかしリュカ殿、ゴーレムたちがジャハンナの町にまでアンクルを運んでくれるわけでは……」
「がう……」
その時、リュカたちの頭上から見下ろす、別の顔が現れた。その影の形に、リュカは思わずアンクルが宙を飛んでいるのかと思った。それも当然で、リュカたちのいる場所へ飛んできたのは、ジャハンナの町の水車小屋に住むアンクルホーンのネロだった。どうやら彼は、宙をすさまじい勢いで飛んで町に迫ってくるリュカたちのことを、町の水車小屋から見ていたらしい。
「おい、どうしたんだ」
仲間のアンクルと同じアンクルホーンという種族だが、ネロにはどこか悟りの境地にいるような冷めた雰囲気がある。それと言うのも一度、念願叶えて人間の姿に生まれ変わった後に、自らの過ちで再び魔物の姿に戻ってしまったという過去を経験しているからだろう。苦しむ経験をした者と言うのは総じて、度量が広くなり、それまでより冷静にもなれる。決して慌てた様子の無いネロを見て、リュカも心落ち着けて返すことができた。
「ネロさん……アンクルを上まで運んでもらいたいんですが、お願いできますか」
同じくらいの体格であるネロならば、アンクルを上の町にまで運べるに違いないとリュカは素直に頼んでみた。リュカの視線に釣られるようにアンクルを見るネロは、ぴくりとも動かない草地に突っ伏す彼の姿を見て、すぐに状況を察した。そして無駄口は不要だと言うようにすぐさまアンクルの傍らにしゃがみ込むと、だらりと下がる腕を持ち上げて己の肩に回し、担いだ。
「こいつは任せろ。教会だな?」
「はい……すみません、お願いします」
「そっちの女も連れて行きたいが……どうせコイツを担いでたら飛べないからな。お前が連れてこい」
己と同等、若しくはいくらか大きなアンクルを背に乗せれば、ネロも翼を使って空を飛ぶことはできない。彼はアンクルを背に担いで、ジャハンナの入口に聳える巨大梯子を目指し、差し伸べられている巨大ゴーレムの手の平に乗り込んだ。ただの気絶ではなく、魂を呼び戻し蘇生させるのは急がねばならないと、ネロは淡泊さすら見せて足早に梯子の上に広がるジャハンナの町を目指す。
「ティミー、ポピーと一緒についてきて」
そう言うと、リュカはずっと母の腕を離さなかったティミーの手を取って、ゆっくりとその手を離させた。ビアンカの腕には、ティミーが無意識にも強く握っていた手の痕がついていた。彼女の腕はまだ温かい。しかし生きている人間に比べれば、もう温かいとは言えない。放っておけば、この温度は下がる一方で、それを想像するだけで気がおかしくなってしまいそうだった。
水の羽衣を纏うビアンカを両腕に抱き上げると、リュカもネロの後を追った。どこもかしこも脱力した状態の彼女は思いの外重い。一度抱え直し、リュカは急ぎジャハンナの町に向かうために巨大ゴーレムの手の上に乗る。その隣をプックルが不安そうにつき、だらりと下がるビアンカの頭に頭を寄せ、揺れる青い瞳でただじっと見つめていた。
「さあ、王子、王女、お立ち下さい。我々も町に入りましょう」
ピエールの声が普段通りで、それ故にティミーもポピーもその場にすっと立ち上がることができた。ここに悪しき魔物はいない。彼等をここまで運んでくれた風の帽子は今、元いた場所に収まるようにポピーの頭に被せられている。帽子自身がポピーの身を、仲間たちの身を守るのだと意思を表すように、帽子は自然と彼女の頭にいつの間にか収まっていた。
ゴレムスが二人の子供の心に寄り添うように、草地の上にしゃがみ、左手を差し出す。その大きな手の平に乗ればそのままリュカの後にまで運んであげようと、彼としてはいつも通りの行動を見せただけだった。そのゴレムスの周りを、彼よりも更に大きな身体をしたゴーレムたちが、小さき者たちを静かに見守っている。
「ゴレムス。ありがとう」
「早く行かないといけないものね」
アンクルを担ぐネロと、母を両腕に抱える父、その傍に付くプックルを手に乗せるジャハンナのゴーレムたちの後ろ姿が見る見る遠ざかっていく。風の帽子が安全な場所へと運んでくれたことに安堵していられる状況ではないのだと、ティミーとポピーは互いに手を取りながらゴレムスの手の平に乗った。先ほどまで敵の群れに囲まれ、窮地に陥っていたとは思えないほど、両足に力は入っている。しかしやはり、身体は極度の緊張感から解放されたばかりで、ティミーもポピーも周囲の景色を落ち着いて見てはいなかった。
二人の気づかなかった落とし物を、ピエールは静かに拾い上げた。それはビアンカが戦いの最中、ずっと握りしめて離さなかった賢者の石だった。彼女は強力な攻撃呪文を操る魔法使いだ。そんな魔法使いの力を有しながらも、彼女は一切の回復呪文を使うことができない。己の欠点を補うように彼女は常に、戦いの最中には賢者の石を手にして、仲間たちの身の安全を祈り続けていた。
賢者の石は、リュカの母マーサから譲り受けたものだ。無限にも思える回復力を宿すこの宝玉が、いつどのように生み出されたのかは誰にも分からない。この世の奇跡の一つなのだろう。しかしその宝玉は今、然るべき人から然るべき人へと渡っているのだとピエールには思えた。
今では仲間たち皆の母となったビアンカが手にするからこそ、この賢者の石はこうして本来の輝きを示し、回復の力を惜しみなく引き出すことができるのではないかと、ピエールは一人賢者の石の透き通る青の中を見つめる。ジャハンナの町を包む青白い光に似た明かりは、その色にしては全く冷たさを感じない。全ての生き物が必要としており、全ての生き物の源となっている水を司る、命そのものを扱えるのはやはり、命を生み出す存在なのかも知れないと、ピエールは賢者の石を手にしたまま皆の後を追いかけ、ジャハンナの町に上がることを目指した。



「助かったぜ、ネロ」
「ああ、礼には及ばん。助かって何よりだ」
ジャハンナの教会で神父による蘇生呪文を施され、無事にこの世に呼び戻されたアンクルに、ネロが労いの言葉をかけながらその肩を叩く。戦いの最中に負っていたであろう怪我も同時に癒され、命を再び得たアンクルは己の調子を確かめるように腕を回したり、翼を小さく動かしている。
今の時分、ジャハンナの町は真夜中の時を迎えているようで、教会を訪れる町人はいない。水車小屋の番人を務めているアンクルホーンのネロは偶々目を覚ましており、小さな窓から外をぼんやりと見ていたということだった。星も月もない暗い空の中に、異様な速さで町に向かってくる塊りを見た彼は、初めそれを町を襲う危機と感じた。とうとうこのジャハンナの町にも魔物が襲来すると、慌てて水車小屋を飛び出したのだ。
町の明かりは暗く落とされており、真夜中のジャハンナの町は静けさに包まれている。敢えて町を混乱させることもないと、ネロたちはただ静かに迅速に、町の奥に位置する教会へ着いていた。
教会内には人々が座るための椅子が数脚置かれている。その一つに、アンクルと同じく蘇生されたビアンカが腰かけている。水の羽衣に包まれた彼女はまだ身体の調子が元には戻らないようで、水色の瞳に生気が戻り切らない。リュカは彼女のためにも、子供たちのためにも、仲間たちのためにもと、ビアンカの前に跪いてその手を取り、温めるように両手に包んでいた。先ほどまで熱を失う一方だった彼女の手をどうにか温め、完全にこの世へと呼び戻すように彼女の表情を下から窺い見る。
「大丈夫よ、リュカ。ありがとう」
ビアンカがそう口にしても、リュカは手を離さない。今は彼女が強がりで言っていても、本心から大丈夫だと言っていても、リュカは両手に包む彼女の手を離そうとはしなかった。離す理由もないだろうと、リュカは変わらず彼女の目の前で手を取り、温め続ける。
「お母さん、ボク……」
涙の膜を張ったような瞳で自身を見つめるティミーに、ビアンカはゆっくりと視線を向けると、心から安堵したように微笑んだ。
「ティミーは無事だったのね?」
「……うん」
「それなら、良かったわ」
ビアンカは己の命が尽きる寸前までの事を、ティミーの泣いているような顔を見ながら思い出した。思い出して身体を震わすのは、己の命が尽きようとする危機や恐怖ではなく、その後彼を襲うであろう様々な強い感情だった。死の呪文から子供を守ろうとするのは、考えでもなく、思いですらなく、ただの反射的動作だった。動作が起こった時には恐らく、何も考えてはいない。しかし今こうして命を再び頂き、その時の彼のことを思えば、常に勇者であろうとしているティミーの精神は傷つけられ、母を守ることもできない子供である自分に自信を失くしていたのだろう。
「あなたが無事なら、それでいいのよ」
その他には何もないのだと、ビアンカは空いた左手でティミーの頭を撫でる。勇者の証でもある天空の兜は雄々しく頭部の両脇に翼を広げ、見た目にそぐわない強力な加護を彼に与えている。天空の武器防具を身に着けるティミーは、世界を救う勇者としてこの世にあらねばならない者なのだと、神々しさに包まれ、その上母の愛にも包まれている。ティミーと言う勇者は必要とされている存在であるが故に、決して危険の矢面に立たされるのではなく、ただひたすらに守られている。その現実に改めて気づかされたティミーだが、もう彼は己のそのような存在意義に反発する気持ちを抱かなかった。
こうして皆に守られているからこそ、皆を守ることができると、今では互いの愛情や信頼を存分に預け合い、感じ取ることができた。それだからこそ、ティミーはもう泣かなかった。母に頭を撫でられ、ただ素直に喜びの表情を見せるだけだった。
「それにしても皆さん、よくここまで歩いてこられましたね、そんな酷い状態で……」
神父がそう口にするのも無理のない状況だった。リュカたちはつい先ほどまで敵の群れの中で窮地に追い込まれ、命からがら逃げて来たばかりなのだ。リュカ自身、ジャハンナの町に飛んで着いた後、町の奥に位置する教会まで歩いてこられたことが、今となっては信じがたいことに思えた。しかし神父にそう言われるまで、己の疲れなど一切忘れていた。妻の、仲間の命を救わねばならないと思えば、己のことなど考えている余裕もなかった。
「宿まで行けますか? ここではゆっくり休めないでしょうから、宿の方が良いかと思いますが」
疲れを思い出さなければ宿まで歩くこともできたのかも知れない。しかし神父の言葉に自身らの酷い状況に気付き、この世に蘇った母とアンクルを目にして、安堵故にその場に初めに座り込んだのはポピーだった。人々が暮らす町の中なら座り込んで動けなくなっても問題ないのだと言うように、もうポピーはその場から一歩も動けない状態を示す。緊張で強張っていた身体も緩み、目の奥で留まっていた涙も自然と頬を流れた。それがどのような感情から出てきた涙なのかは、彼女自身にも分からなかった。
「大丈夫よ。アンクルが運んでくれるもの。ねぇ?」
「お? ああ、オレはぴんぴんしてるからな。任せろよ」
「わしも手伝おう。それで人間も魔物も運べる」
アンクルに続いてネロがそう口にしたのは、すっかりこの場でくつろぎ始めてしまったプックルと、静かに様子を見ているようで実は脱力しているピエールの姿を見たからだった。人間の家族だけではなく、彼ら魔物の仲間たちも必死に保っていた緊張の糸が切れ、途端に足が立たなくなってしまったのだろうと、ネロは彼らを見遣る。
「助かります、ネロさん」
「そう言うお前さんも、もう限界だな」
リュカとしては普通に床に跪いていたつもりだったが、そこから一歩を踏み出そうとすれば身体がぐらつくだろうという感じはあった。何故自分が今こうしてこの場に身体を起こせているのかもよく分からない。
「私はポピーをおんぶしていくわ。アンクルとネロさんにリュカたちをお願いしてもいいかしら」
そう言いながらビアンカはポピーに背を見せて肩膝をつき、娘に負ぶされと「はい、おんぶ」と声をかけた。まだ少々青ざめた顔をしているビアンカにリュカは言葉をかけようと思ったが、何を言っても今の彼女は耳を貸さないだろうと言葉を飲み込んだ。元来、正義感も責任感も強い彼女のことだ。皆の手間を取らせてしまったという思い違いのような罪悪感から、彼女はせめて娘だけでも自身の手で世話をしたいと思っているに違いない。
「ありがとう、お母さん……」
疲れ切っているポピーは、下手に遠慮することもなかった。ただ疲れた身を委ねるように母の背に負ぶさる。すっかり大きくなった我が娘を背中に重く感じながらも、ビアンカは一度背負い直すように体勢を整えると、神父を見つめた。
「どうもお世話になりました」
「またいつでも……いや、二度とこちらに来られないことを祈っていますよ」
長身の神父はあくまでもにこやかに彼らを送り出した後、彼自身も体力の弱い人間の身体を思い出すように欠伸をし、就寝のために寝床へと戻って行った。



宿の店主は既にリュカたちを待ち構えており、彼らが宿に姿を現すとすぐさま部屋へと案内した。どうやらジャハンナの町にリュカたちが足を踏み入れた際に既に異変に気付いていたようで、もう二度とこの町へは戻らないと思われた彼らが戻ってきたと言うことは宿にも寄るに違いないと考えていたようだった。暗い町中を足早に、町の入口に存在する宿を通り過ぎていく彼らの様子に、宿の女店主は訝し気な表情を浮かべながらも、戻って来るであろう彼らのために迎える部屋の状態を調えていた。
「とりあえず、これでみんなの怪我は治ったかしら?」
大部屋で彼らの手当てをする彼女は元々ベホマスライムという魔物だった頃の力を多少なりとも残している。その回復の力を以て、リュカたちが負っていた怪我を順番に治して行った。魔物との戦いで負った傷は癒えたが、リュカたちの身体を蝕む疲労は、町を出てから一切の緩みも許されなかった旅の緊張感によるものだ。リュカ自身、外を旅することには慣れているつもりだった。これまでにも多くの危険に見舞われ、その度に窮地を脱してきた。しかしそれはあくまでも地上と言う、自身らが棲みかとする世界でのことだったのだと、今になってそれを身を以て理解する。地上の世界には、リュカたちの他にも同志たちが世界に散らばっている。それは意識しない所でも、リュカたちの心を守ってくれていたのだと、この暗い世界のジャハンナの町でふと気づく。
「嬢ちゃんが被ってるその、風の帽子だっけか? そいつも良い仕事してくれるもんだな」
そう言うアンクルは、しっかりとその手に己の武器デーモンスピアを持っていた。風の帽子がリュカの手によって空へと投げられ、ジャハンナの町へと向かう際に、風の帽子は自らが運ぶべきものを見極めていたのか、その時にはアンクルの手から離れ地に転がっていた武器までをも一緒に運んでくれていたのだ。
「コリンズ君に感謝しないとね~」
「……違うわ。ヘンリー様が私たちの身を案じてくださったのよ、お母さん」
「まあ、抜け目がないのはヘンリーらしいかもね」
「ゴレムスも一緒に運んじゃうんだもん。すごいよね、その帽子」
回復呪文を受けながらも、既に目も虚ろに眠そうにしているティミーが近くの床に座り込んでいるポピーの頭に手を乗せる。ジャハンナの町の宿に入ったというのに、風の帽子はまだ彼女の身を守らねばならないと感じているのか、ポピーの頭にかぶさりながら両脇の小さな白い翼をはたはたと揺らしている。一度リュカが宙に放り投げた後、帽子はいつの間にかポピーの頭へと戻っていた。まるで主を必死に追いかける飼い犬のようでもあった。
皆の怪我を粗方治した後、宿の店主は一度部屋を出た。過酷な旅から帰還した彼らに食事をと、大鍋に湯を沸かしていたところだったという。後で部屋に食事を運ぶと言い残し、彼女は暗い宿の廊下を歩いて階下へと急ぎ足で下りて行った。
ジャハンナの町に戻り、教会で仲間たちを蘇らせ、そのまま宿へと向かった彼らは一様にして、戦いの痕をその身に大いに残していた。よくもこの汚れた旅人を宿の店主がそのまま受け入れてくれたものだと、今更になってリュカは申し訳ないような気持ちを抱いた。この状態で整えられたベッドの上に座るのも忍びないと、リュカたちは皆床に腰を下ろしていた。
「このようなことになってしまったのも、私のせいです。私があの時倒れなければ、リュカ殿の魔力を無駄に使うようなこともなかった」
ピエールは俯きながら、己の反省の心を皆に示した。ギガンテスと言う巨人の群れと対峙していた時、彼はポピーを庇いながら敵と戦っていた。誰も彼を悪いと思いはしないが、ピエールはあの局面で己が倒れてしまったことが撤退の引き金になったのだろうとずっと感じていたのだ。
「いや、ピエール、違うよ。全部、僕の責任だ」
たとえピエールがあの場で倒れなかったとしても、既にリュカたちの状態は極限に瀕していた。今となっては、どうせ撤退するのならもっと早くに決断すべきだったのだと、リュカは虚ろな目を床に落としている。
「母を救うことに前のめりになってた」
ジャハンナの町を出て、手強い魔物と何度も遭遇し、その度に辛くも魔物を退け、或いは逃げ、どうにか前に進んでいた状況だった。暗い魔界で見える景色に、エビルマウンテンの山々が徐々に近くなるのを感じた。ずっと遠くに見えていたはずの、エビルマウンテンの麓に広がる広大な森林地帯に足を踏み入れた時には、あともう少しで届くのだという期待が膨れ、同時に視界は狭まった。
「ちゃんともっと、周りを見ないと行けなかった」
リュカ自身はしっかりと周りを見る目を持っていたと、そう思っていた。自分は冷静だと、当然のようにそう感じていた。しかしその実、リュカの目は常に前に前にと、どうすればこの森を抜けて敵の根城に辿り着けるのかという、その道だけを見ようとしていた。一度、その思いが通じたかのように、リュカの目は森の中に開ける一本の道を見い出した時があった。しかしあの時、狭まった視界のままその道を何が何でもと突き進もうとすれば、恐らくあの場所で全滅していただろう。
「がうっ」
「そうだよ、お前が一人で責任を負うような話でもないだろ」
「いや、僕がみんなに指示を出してるんだ。だから僕の責任だよ」
リュカがそう言うと、皆は一様に押し黙ってしまった。リュカの言うことは真実だ。共に行く家族も仲間も、皆がリュカを信頼し、彼に付いて行くことを心に決めている。それは同時に、彼一人に責任を負わせているような格好にもなっているのだ。
「でも、だからって、お父さんだけのせいじゃないよ……」
「そうよ……だから、そんなこと言わないで……」
沈鬱な表情を見せるリュカに言い返すティミーもポピーも、言葉に元気がない。戦いの後、怪我こそ治してもらったものの体力は損なったままで、言い返すにも声に力がこもらないのだ。外の世界に出て旅をしている間に漲る緊張感は消え、安堵の元に町の宿にいる今はただ素直に疲労を疲労として身体が受け取っている。
「疲れている時にまともな話ができるとも思えないわ。みんなで話をするのはまた後にしましょう」
「ああ、嬢ちゃんの言う通りだ」
教会で蘇生呪文を受けたビアンカとアンクルは、他の皆に比べればまともに話し、歩くこともできるなど、既に通常行動ができるほどに回復している。床に座り込んだり寝そべったりして、そこから動けなくなってしまった他の仲間たちを労わるように言葉をかけると、ビアンカは一人立ち上がった。
「私は食事の準備の手伝いをしてくるわね。それまでみんなは少し休んでいたらいいわ」
「ビアンカ、君だって……」
「久々にまともな食事ができそうなんだもの。少しでも早い方がいいでしょ?」
そう言うとビアンカはリュカの言葉の続きを遮るように聞かずに、部屋を出て行ってしまった。宿屋の娘として育った本能のようなものなのか、疲れた旅人を目にすれば自ら世話をしてやらねばという思いでも働くのかも知れない。彼女の言葉に嘘はなく、ただ本心から皆に温かな食事を食べてもらいたいと思っているだけなのだろう。
「どうせお前らはまだまともに動けねぇんだ。せっかくだから寝て休んどけよ」
アンクルは壁を背にしたままそう言い、手にしていたデーモンスピアを部屋の隅に立てかけると、彼はその脇にどかりと座り込んだ。宿などで休む時はいつも彼はこうして壁を背にして両腕を前に組み、前に深く俯くように眠る。横になって寝た方が良いのではとリュカが声をかけたこともあったが、背中の翼があるために仰向けになることも横になることも苦痛なのだという。
今部屋にいる中では比較的元気なアンクルが真っ先に眠り始めれば、他の疲労困憊の者たちが言葉を交わし始めることもなく、リュカはベッドに背をもたせ掛け、その脇でティミーとポピーは床に寝転がり、プックルはいつものように身体を丸め、ピエールは扉の近くの壁に寄りかかるようにして、それぞれが気を失うように眠り始めてしまった。



「ほら、温かい内にいただきましょう」
「ごめんなさいね。慌てて作ったから大したものは作れなくて。でもしっかり休む前に少しでも食べておいた方が良いわ。薬草も入ってるし、普通の食事よりも身体に良いわよ」
宿の女店主が眉尻を下げながらそう言うのは、できることはこれくらいだと己の無力さを嘆いているからなのかも知れない。もし彼女が今の人間の姿ではなく、元々の魔物の姿、ベホマスライムだったとしたら、リュカたちと共に敵の根城に向かい、直接的な助けとなる可能性は大いにあった。しかし彼女は魔物ではなく、人間としての生を過ごしたいと願った。彼女の願いにマーサは向き合い、応え、ベホマスライムは人間の女性として生まれ変わった。
ただ今の今、リュカたちの旅の仲間として直接的に手助けができないからと言って、彼女のその時の選択が間違っているわけではない。現に彼女がこうして人間の姿でジャハンナの町に暮らしているからこそ、リュカたちの世話を焼くことができるという今の未来もあったのだ。
皆の分のスープが木の器に、テーブルや床に出された。温かな食事は数日ぶりだった。暗い世界を歩くリュカたちに、地上で過ごすような日数の感覚はない。外に出ている最中に温かい食事にありつけることなどない。この暗い世界で無暗に火を使うことは憚られた。ただでさえ敵から身を隠しながらの旅だ。地上のように輝かしい太陽の光を浴びることもなく、温かい食事を口にすることもなく、いつ敵に襲い掛かられるか分からない緊張を常に身に帯びる中で、リュカたちはひと時もゆったりと身体を休めることはなかった。
先ほどまで束の間眠りに就いていた一行だが、その中でも最も身体に負担がかかっていたのはティミーとポピーだ。子供としては成長し、身体つきもかなりしっかりとしたものに変化してきているが、それでもまだ彼らは十歳の子供に過ぎない。子供ゆえの元気さ、溌溂さがある一方で、それらを維持するには相応の休息もまた必要なのだと言うように、器の中のスープをゆっくりと食べ勧める中で再びうつらうつらと舟を漕ぎ始めている。器から上がる湯気を見つめるその目も、開け続けているのが辛いと、閉じている時間の方が多くなってくる。
手から匙が落ちる前にとビアンカがポピーの手から匙を取る。もう赤ん坊ではないポピーを、ビアンカは両腕に抱き上げることも難しい。リュカは立ち上がると、ふらつくポピーの身体を抱き上げて、ベッドの上に静かに寝かせた。宿の女店主も手伝うように、ベッドの上掛けを除け、横たわるポピーの身体に優しく上掛けをかけた。
「あれ、ポピー……?」
隣に座っていたはずのポピーがいなくなったことに気付くのも遅く、ティミーは目を半分閉じかけたまま、力の入らなくなった手から匙を落とした。そのままゆっくりと床に倒れそうになったところを、プックルが身体を差しはさむようにして支えた。リュカがプックルに小さく礼を言うと、ポピーと同じようにティミーを抱え上げ、別のベッドの上に息子を寝かせた。ビアンカが宿の店主に後で洗濯も手伝うと謝りの言葉を述べると、女店主は笑ってそれを断った。
「スープはまた温めればいいから、皆さんも眠たくなったら寝て下さいね。この宿はあなたたちの貸し切りみたいなものなんだから」
店主の言う通り、ジャハンナの町の宿に泊まる客はリュカたちの他にはあの大怪我を負って動けない天空人が一人いるだけだ。彼の容体は相変わらずのようで、まだ目覚めることもないらしい。天空人という特別な種族故に今も命を永らえることが出来ているが、これが人間だったらとうに息絶えているだろう。
彼女が部屋を出て行くと、ただ食事をする音だけが部屋の中に響いた。魔物の仲間たちは皆、あっという間に器の中を平らげてしまった。アンクルには身体の大きさに合うようにとひと際大きな器が用意されていたが、その中身をアンクルは一気に煽って飲み干してしまった。まだ足りないというような表情で空の器を見たが、今は慌てることもないだろうとそのまま床に器を置いた。
「少し休んだら、また行くんだろ?」
テーブルについてまだスープを味わっているリュカに、アンクルは唐突にそう聞いた。決して美味しいとは言えない味の薄い、薬草味のスープを身体の深部にまで染み込ませ、リュカは大分はっきりとしてきた感覚の中で、応える。
「そうだね」
敵の群れから撤退してきて、ここで延々と落ち着いているつもりはない。時間が止まることはない。たとえひと時時間が止まったとしても、やるべきことは変わらない。
「でも、今は……」
「ああ、分かってるよ。今はそんなこと考えない方がいいよな。一応、確かめたかっただけだよ」
そう言うと、アンクルは床に置いた器はそのままに、その場に立ち上がった。手には大槍を持ち、部屋の扉に向かって歩き出す。
「こいつも大分汚れちまったからな。外行ってキレイにしてくる」
ジャハンナの町の周りにはぐるりと清らかな水が流れており、町の人々はその水を命の源として様々な用途に利用している。宿の中にも浴場はあるが、アンクルほどの大型の魔物が使用できるようなものではない。恐らく宿の近くの水場で身を清めてくるのだろうと、リュカはただ頷いて彼を送り出す。
「私も身ぎれいにしておいた方が良さそうですね。人間の町にいるには、これではあまりにも……」
「がう~」
先ほど束の間、眠りに就くことができたからか、ピエールもプックルも宿に着いたばかりのようなぐったりとした様子はなく、既にいくらか体力を回復させているのが見た目に分かった。このような時に、魔物と人間の根本的な違いに気づかされる。魔物の彼らの方が圧倒的に体力の高さに長けている。こと戦いに身を投じなければならないという状況においては、何故己が魔物ではないのだろうかと、リュカの胸の中には自ずと悔しい思いすら生まれてしまう。
「みんな、キレイに食べたわね~。作ったスープはまだまだたくさん残ってるみたいだから、戻ってきたらまたいただきましょう」
ビアンカはそう言いながら、床に置かれたままの大きな木の器を重ね、片づけ始めた。プックルが食べていた器に至っては、底まで嘗め回したのか、スープが入っていた痕跡すら残っていない状態だった。ピエールとプックルは特別ふらつくこともない足取りで、外で水浴びをするべく部屋を出て行った。片付けるビアンカが食していた器もまた空になっており、リュカは自分の食事がいかに遅いのかを気づかされた。
「慌てることないわよ、リュカ」
微笑みながら声をかけてくるビアンカに、リュカは己の行動は全て彼女に見透かされているのではないかとさえ思えた。それとも彼女はただ、リュカに先を急いでほしくないと思っているだけなのかもしれない。急ぐと言うことは、再びこの町を出て、魔界の地を歩かねばならないと言うことだ。誰だって、好き好んで死にたくはない。仲間の誰をも、危険な目に遭わせたくはない。グランバニアを出る時、魔界の扉を開いた時、ジャハンナの町を出た時、それぞれで覚悟を決めていたはずだが、その覚悟はこうして度々挫かれそうになる。今もリュカの脳裏には、ティミーを庇って死の呪文を浴びるビアンカの、その瞳から命が失われて行く瞬間の光景が、ありありと蘇る。
テーブルの上の器を片づけようとするビアンカの手を、リュカは静かに掴んだ。命が生き、彼女の手は温かい。この手がついさきほどまで、冷え切ろうとしていた。蘇生され、温かみを帯び、先ほどまでの動かない彼女が嘘のように、宿屋の娘よろしく働き始めているが、旅に出ればこの命を再び危険に晒すことになると思うと、リュカはビアンカの手を離せなかった。
リュカの手を邪険にすることなく、ビアンカは器を片づけようとする手を止め、両手でリュカの手を包んだ。手を通して、まるで隠せない彼の不安を感じた。何度覚悟を決めようとも、覚悟が揺らぐ時はある。恐怖や絶望を感じれば、それはむしろ必然のものだ。それがたとえば、一人きりで抱えなければならないものならば、乗り越えることは難しいかもしれない。しかし彼は一人きりではないし、彼女も一人きりではない。ぐっすりと眠っている子供たちも、今はそれぞれベッドの上に確かに生きている。冷静で逞しく、力強い魔物の仲間たちも決して離れることはない。
覚悟が揺らげば、その都度こうして互いに支え合い、崩れそうになる土台を再び固める。ビアンカは自分もまた、この先に進む恐怖に心が怯んでいることを知っている。しかし目の前に困り弱っている者がいれば、その者のために助力することを厭わない精神を、子供の頃から変わらずに持ち続けている。
彼女はある種、自身の心から逃げ、目の前にいる者に手を差し伸べ救いたいと思うことで、自身の心を保つことができるのだろう。自己犠牲の精神などではない。ただ、他のために自身が強く在らねばと思うのは、彼女の身に流れる勇者の血に基づくものなのかも知れない。当然、彼女は己のそのような精神作用には気づかない。はっきりと気づかないからこそ、何の歪みもなく、己の心に正直に動けるのだ。
彼を彼として支えられるのは恐らく自分しかいないと、ビアンカは椅子に座るリュカの傍に立つと、屈んで一度口付けた。離れると、互いに見つめ合い、微笑んだ。ビアンカがリュカの頭を抱え込み、リュカはビアンカの背中に腕を回して抱きしめた。誰も見ていない今だけは、互いに甘えても良いだろうと、小さな明かりが一つ灯るだけの部屋で、子供たちが疲れ切った寝息を立てる中で、二人はしばらくそうして抱き合っていた。

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