2017/12/03

ラインハット城

 

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古い石畳で舗装された城下町に入り、リュカは新しい国をキョロキョロと見渡した。正直、リュカには城下町というものが良く理解できていなかった。しかし想像の中ではとてつもない広さの場所で、サンタローズはもとより、アルカパの町よりもずっと大きな場所だと思っていた。
しかし実際に目にしたラインハットの城下町はリュカの想像を下回っていた。ビアンカたちのいるアルカパよりもむしろ狭いくらいだ。人の往来もそれほどではない。行き交う人々は城下町に入って来た父と子の旅人に、物珍しそうな視線を投げてくる。その視線はあまり気持ちの良いものではなく、リュカは一転して、控えめに父の後をついて行った。
城下町から続くラインハット城の姿は、リュカの意識を釘づけにした。城下町に入る前から既にその姿は見えていたが、近づくにつれて徐々にその広さが露わになって来た。今リュカたちがいる城下町よりも広いのかも知れない。城の高さは、あのレヌール城に比べればそれほど高くはないが、城の広さは度肝を抜かれるものだった。しかもこの大きな城は周りをぐるりと濠に囲まれている。濠には魚の影らしきものが見えるが、深い濠自体に影がさし、その姿ははっきりとは見えない。
「リュカ、城下町は後で見て回ろう。まずはお城に行く」
「お父さん、プックルも平気?」
「……まあ、大丈夫だろう。何か言われたら父さんから説明する」
ラインハットの城下町を歩く時でも、プックルは人目を引いた。日に日に大きくなっていくキラーパンサーの子供は、もうじき『猫』という言い訳は通用しなくなるだろう。プックル自身はと言えば、自分のことを普通の猫だと思っているようで、城下町を歩く猫の後を追って、逃げられて、首を傾げている。
城の入り口へと続く大きな木造の橋を渡る。木製の頑丈な橋は、リュカが今まで見たこともないような巨大な鎖で繋がれ、吊るされている。人の往来のない橋を渡りきったところに、鎖を巻きあげる滑車があり、古びてはいるもののきちんと手入れはされているようだった。
城の入り口へ続く石畳の道を進み、大きな門扉の両端に立つ兵士に軽く頭を下げると、パパスはそのまま城に入ろうとした。旅人の装備をした父子が橋を渡って来る時から鋭い目つきで凝視していた兵士だが、旅人のその行動に虚を突かれ、一瞬言葉に詰まった。
「待て! 我が城に何用だ」
慌てて言う兵士に、パパスは落ち着いた様子で懐から一通の書面を取りだした。リュカが見たこともないような上質な紙で、裏面には何かの模様が紙に型押しされていた。
「私はサンタローズに住むパパスという者だ。国王に呼ばれ来たのだが」
パパスが書面を兵士に渡すと、まだ年若い兵士は作ったような難しい顔をして、書面をその場で黙読した。もう一人の兵士も顔を突き出してその書面に目を落とす。そして二人揃ってパパスの顔を見ると、慌てて旅人の父子に道を開けた。
「おお! あなたがパパス殿ですか。これは失礼いたしました。国王がお待ちかねです。さあ、こちらへ」
兵士の後に続き、見上げるような門をくぐる。城の中に足を踏み入れると、豪奢な赤い絨毯が廊下の端まで続いている。足音がしないほどリュカの足は絨毯に沈み、プックルに至っては爪先歩きのようにして踊る格好で歩いている。やがて『歩きづらくてイヤだ』とでも言わんばかりに、プックルは絨毯の敷かれていない石の床の上を歩き始めた。靴を履いていないプックルにとってはどうにも爪が引っ掛かり、絨毯は邪魔以外のなにものでもなかったらしい。
パパスたちを連れて歩く兵士にとっては、後からついてくるこの巨大な猫が少し怖かったようだ。プックルがリュカに甘えるように喉を鳴らすその音が、普通の猫にしてはあまりにも低く、いつ襲いかかられるのかと内心びくびくしていた。
一方、パパスはそんな兵士の行動を不思議に感じていた。前を歩くこの兵士は恐らく、この猫が普通の猫ではないことに気付いている。しかしそれでも、城の入り口でプックルを入城拒否する素振りすら見せなかった。ちらと猫を見たものの、何かを心得たかのようにその場で小さく頷き、パパス達を案内し始めたのだ。
パパスは懐にしまったラインハット国王からの手紙の内容を、頭の中で反芻した。今、このラインハット国には間違いなく何かが起きている、パパスは認めたくない事実を受け入れようとしていた。
城の中は外の暑さを忘れるほど涼しかった。プックルと同じように廊下の端を歩いていたリュカは、ふと石の壁に手を当ててみた。ひんやりとしたその心地よさに、リュカは不思議な思いで大理石の壁に頬をつけてみたりして、今まで身体にため込んできた熱を放出しようとした。プックルは既にその冷たさに気付いていたらしく、壁に身体を擦りつけて歩いている。毛皮をまとったプックルにとって、外の初夏の陽気は相当堪えたようだ。
眩暈がしそうな程の長い長い廊下を、一人のラインハット兵に連れられ歩く。人の行き来は大してなく、たまにすれ違う城の人間も、プックルの姿を見るなり避けるように逆側の廊下を歩いて行く。人の話し声もなく、ただ静かで、中庭から差しこむ陽光も大理石の涼しさのおかげで、穏やかだった。ただ、その中庭にも人影はない。歩きながら、右側に並ぶ窓から中庭の様子が見えたが、パパスの目に映ったのはきちんと手入れされている城の庭だけ。庭が手入れされていても、そこに人がいなければ寂しさが残るだけだった。
兵士が上階へ続く階段を上り始める。気がつけば長く続く廊下の端に着いていた。ふと、香ばしい匂いがリュカの鼻をついた。肉の焼ける匂いだ。無意識に唾を飲み込むリュカは階段の途中で一度足を止めたが、構わず先を行く父に遅れまいと、後ろ髪を引かれつつ階段を上って行った。
上階への階段はリュカにとっては一段が少し高かった。プックルがひょいひょいと軽く上って行くのに負けじと、リュカも跳びはねるように階段を上って行く。
「リュカ、お城の階段は他のところより歩きづらいだろう」
自分の思っていたことを父に言われ、リュカは反射的にうんと頷いた。
「みんなは歩きづらくないの?」
「実は大人も歩きづらいんだ。どうしてこんな階段になっているか、分かるか?」
「……うーん、わかんないよ。もっと歩きやすくすればいいのに」
リュカが不満げに階段を飛び跳ねる。パパスはリュカの手を掴んで引き上げるように階段を上らせ、上階にたどり着いた。
「お城というのは国だ。国はみんなのためにある。だけどな、国というのは他の国から攻められる時がある。その時に敵が攻めにくいように、こうして高い階段を作るんだ」
「どうして? だれか悪いことでもしたの?」
「理由は色々とある。そのどれもが大抵、どうしようもないことだ。あの国が嫌いだとか、あの国のあの人が気に食わないとか、あの国がなければ自分の国が一番になれるとか、どれもが意味のないことだ」
「みんな仲良くすればいいのに。自分が一番になったって、みんなにキライになられたら、一人だよ」
「……リュカ、お前は賢い子だ。お前には階段の高さなど、何の意味もないことのようだな」
パパスは安心したようにリュカの頭を撫でると、リュカは何が何やら分からないながらも、照れるように笑った。そんな他愛ない父子のやり取りを見ていたラインハット兵は、何やら思案にふけるように赤い絨毯に目を落としていた。
階段を上り切り、石造りの門をくぐると、円形の広間が二人を迎えた。部屋の両端の門にはラインハット兵が固い表情をして立っている。リュカたちを先導している兵士はその二人の兵に形式的な挨拶をすると、さらに上に上る階段を上り始めた。円形の広間の壁に沿ってぐるりと巡る階段には豪華な手すりがついており、手すりを支える柱一本一本に細かな装飾が施されている。リュカの顔の高さにある手すりは滑らかに磨かれており、埃一つついていない。
しかし手すりを支える柱を良く見てみると、何箇所かわざと引っ掻いたような傷や、何かをぶつけたような跡がある。それは大人では気付かないような、手すりの柱の低いところだ。
「お父さん、ここ、キズがある」
「どうした、怪我でもしたのか」
「ううん、そうじゃなくて、ここ、この柱のところ」
パパスは階段の途中でしゃがみ、リュカが指さす手すりの柱を見た。見てみれば、ほとんどの柱の同じ高さの箇所に、まるで階段を駆け下りながら勢い良く一直線に何かをぶつけたような跡だと分かる。パパスはラインハット王から送られた手紙の内容を思い返して、内心苦笑した。
「お城の子供がちょっといたずらをしたのかも知れないな」
「いたずらって、悪いコトだよね。ほんとうはやっちゃいけないことでしょ」
「まあ、そうだな」
リュカは不思議そうに柱の傷を見ていたが、パパスに促されるとまた跳びはねるように階段を上り始めた。パパスが柱の傷に触れてみると、削れた大理石の粉が手についた。まだできて間もない傷のようだった。
回り階段を上った先に、一人の衛兵が立っていた。茶色い口髭を蓄えた壮年の男だ。リュカたちを先導してきた兵士とは装備が異なり、階級が上であることが分かる。
壮年の衛兵はパパスを見るなり、静かに一礼をした。パパスも応じるように一つ頷く。
「国王はご在席であらせられるか」
「国王共々、お待ち申しておりました。お進みください」
大人の男二人の雰囲気に呑まれるように、リュカは反射的に少し頭を下げて衛兵の横を通り過ぎた。リュカとプックルが通り過ぎるまで、衛兵は腰を折ったままだった。落ち着いているように見える衛兵だったが、腰の剣を抑える左手が緊張気味にかすかに震えていた。
リュカたちを先導していた兵士は広間からさらに上に続く階段を上り始めた。その後ろにパパスが続き、リュカは張り詰めて行く雰囲気を肌で感じながら、プックルをひょいと抱きかかえた。プックルはじたばたと暴れたが、リュカは自分のマントでプックルを包み、落ち着かせた。
階段を上りきる直前に、リュカは見たこともない大きな椅子に悠然と座る人物と目を合わせた。身につけている服はリュカが見たこともないような高価なもので、鮮やかな紅色のマントを羽織る姿に威厳が漂う。明るい栗色の癖毛は豊かで、同じ色の口髭は無造作だが整えられている。リュカを見つめるその目は夏の空のような色で、どことなくいたずらっぽい印象だ。リュカを見るその空色の目は好奇に満ちている。
パパスたちを先導していた兵士が、主君の前でぴたりと止まり、背中に定規を当てたような礼をした。王室内に程良く響く声で、主君に告げる。
「王様、パパス殿をお連れしました」
「ふむ、御苦労であった。その方は下がって良いぞ」
「はっ、失礼いたします」
きびきびとした兵士の動きに、リュカは自分も姿勢が良くなるのを感じた。国王の両側には側近の兵士が二人、厳しい表情を崩さずにパパスたちを見張っている。二人ともそれなりに年かさの男だ。そんな兵士二人の視線に、リュカは落ち着かない雰囲気を否が応でも感じていたが、パパスは全く動じていないようだった。
「さて、パパスとやら」
ラインハット国王が話し始めた。国王の声はパパスより少し高く、王室内に響いた。大理石の壁が小さな声でさえも拾い上げ、反響させる。
「そなたの勇猛さはこのわしも聞き及んでいるぞ。その腕を見込んでちと頼みがあるのだが……コホン……」
軽く咳払いをし、国王は一瞬の間、沈黙した。パパスは口髭の中に笑みを浮かべながら、次の言葉を待つ。
「パパス、もう少し傍に。皆の者は下がって良いぞ」
側近の兵士二人は驚いたような表情を浮かべ、国王を見た。国王はそんな側近の兵士に王室の入り口を指し示す。少なからず傷つけられたような顔をして、側近の兵士二人は王室を後にした。
「リュカ、そんなところに立っていても退屈だろう。良い機会だからお城の中を見せてもらいなさい。一通り見る内には父さんたちの話も終わるはずだ」
「えっ、いいの?」
リュカは思わず目を輝かせた。実のところ、ここまで先導した兵士の後をついて行きながら、リュカはこの城には他にも色んな場所がありそうだと、内心わくわくしていたのだ。城の中ならば魔物に遭う心配もない。
「構わないだろうか」
「ああ、もちろんだ。誰かをつけようか」
「いや、息子は一人でも平気だろう」
「そうか? 見た目と違ってなかなかに逞しいな」
ラインハット王は無遠慮にリュカを見つめる。一瞬怖気づいたリュカだが、堂々と構える父の隣で少し自信をつけ、父のように堂々とその視線を受け止める。ラインハット国王が白い歯を見せて笑う。
「そなたはパパスの息子であろう。なかなか良い目をしておるな」
そう言いながらリュカの漆黒の瞳を覗きこんでくる。ラインハット国王の空色の瞳を見つめ返しているうちに、リュカは今目の前にいる人物が悪い人ではないことが、わかった。むしろ自分と同じ年くらいの子供と目を合わせているような感覚にさえなり始めた。
「自由に見て回ってくれて構わない。城の者たちにはそう言いつけておこう」
「一通り見て回ったら、一度ここに戻ってきなさい。父さんはここにいるから」
「うん。じゃあ、行ってくるね。プックル、行こ」
リュカは抱き上げていたプックルを床に下ろすと、今上って来た階段を駆け下りて行った。取り残されたプックルは王室をキョロキョロと見回した後、居なくなってしまった主人を慌てて追っかけて行く。
「見た目は大人しそうだが、芯の強そうな子供だ」
ラインハット国王は楽しげに言う。パパスは我が子を褒められてまんざらでもない様子で笑みを浮かべていた。



リュカが回り階段を下りると、先ほど王室にいた側近の兵士二人が小声で何やら話していた。リュカが階段を下りて歩いて行っても、兵士たちは怪訝な表情を浮かべながら話しこんでいる。
「王様が内緒話とは一体どんな用を頼むおつもりだろうか? もしかしてヘンリー王子の根性を叩き直してくれ、とか……」
リュカの頭に「王子」という言葉が残った。兵士二人は王室にいる時のような緊張感を無くし、まるで町の女のように話に華を咲かせている。リュカが兵士に話しかけようか迷っていると、兵士がリュカに言葉をかけてきた。
「どうしたんだ、まさかもう迷ったってこともないだろう」
「城は自由に回って構わないぞ。道が分からなくなったら、通りすがりの人に聞けば良い」
「うん、ありがとう」
リュカは反射的に兵士たちに礼を言うと、広間を出て更に下に下りる階段に向かった。
リュカは先ほど鼻に感じた香ばしい匂いを辿って行く。階段の上にまで先ほどの香ばしい匂いが立ち込めている。リュカは鼻をひくつかせながら一階まで下りて行った。プックルに至ってはすでに涎を垂らしている。
相変わらず人の往来はほとんどない。ラインハットの城に一体どれだけの人が住まわっているのかリュカの知らないところだが、城下町よりも広く感じる城に人がこれほど少ないのは、多少の恐怖さえ感じた。リュカにとって、城は怖い、と言う印象が根付き始めていた。
一階に下りると、リュカは匂いの元の扉の前に立った。古びた木の扉には内側から油が滲んでおり、表面に光沢が出ている。リュカは大きな木戸をそっと押してみた。どうやら鍵はかかっていないようだ。
扉を開けると、同じ城の中とは思えない熱気が飛び出してきた。食器がガチャガチャとぶつかり合う音や、水が流れる音、じゅうじゅうと焼ける音、煙、匂い、そしてこの城の厨房には人がたくさんいた。大きなテーブルには所狭しと見たこともない食材が並べられている。リュカは思わずテーブルの近くに行って、食材をまじまじと覗きこんだ。それを調理人がああでもないこうでもないと議論しながら、使う食材を選んでいく。
せわしない厨房では、小さな子供のリュカが一人入って来たところで、誰も気にしてはいなかった。リュカは食材に飛びかかりそうになるプックルをしっかりと抱えながら、入って来た扉の傍でお腹を鳴らしていた。
厨房を見渡すと、リュカよりも少し年が下だろうか、一人の女の子がいた。テーブルに並べられた食材を真剣な眼差しで見ていたかと思えば、それを少しつまんで、食べている。それを見て安心したリュカは、女の子に近づいて行って話しかけた。リュカの気配に気づいた女の子が慌てて口の中にあるものを飲み込む。
「ねぇ、君はどうしてここにいるの?」
話しかけられた女の子は、リュカを見ると眉をひそめて同じことを聞く。
「あなたこそどうしてここにいるの? どう見ても……お城の子じゃないわよね」
旅でよれよれになったリュカの服装を見て、女の子はあからさまに顔をしかめる。そしてリュカが抱きかかえる大猫を見ると、今度は二歩ほど後ずさった。
「ぼく、お父さんとタビをしてるんだ。それでお父さんが王さまに呼ばれたから、ぼくも一緒に来たんだよ」
「王さまに呼ばれたですって? どうして?」
「それはぼく、わかんない」
「あ、わかったわ。あなた、ヘンリー王子の遊び相手として呼ばれたのね」
「ヘンリー王子?」
頭の中にまた現れた「王子」という言葉に、リュカの心がざわついた。聞きなれない言葉だが、このラインハット城に入ってから、何度かその言葉を耳にしている。
「あなたも大変ね。私だったらテイチョウにお断りするけどねっ」
「ねぇ、そのヘンリーおうじって……」
話しかけるリュカだが、女の子は厨房で働く女性に呼ばれ、そのまま行ってしまった。女の子の母親なのだろうか、その女性は娘が戻って来ると、今まで話していた見知らぬ男の子をちらちらと見ながら話をする。気になったリュカは、自らその母娘に近づいて行った。女性は少年のボロついた身なりを見て、多少なりとも不安な表情を浮かべる。
「うちの娘と話していたみたいだけど、一体どんな話をしていたんだい?」
唐突にそう聞かれたリュカは、素直に少女と話していたことをそのまま伝えた。母親の横で、少女が慌てた様子でいるが、リュカは気がつかなかった。
「ヘンリーおうじって、だれ? ぼく、その人と友達になるの?」
女の子の母親は一度、自分の娘を目で叱った後、娘の言うことを正すように話す。
「あたしはヘンリー王子は悪い子じゃないと思うけどね。小さい頃に母上を亡くして、その後新しいお妃様をもらったけど、お妃様が可愛がるのはデール王子だけなら、ひねくれるのも仕方ないさ」
女性の話す内容に、リュカはついていけなかったが、一つだけ引っ掛かるところがあった。
「ひねくれるって、なに?」
「ああ、ちょっと難しい言葉だったね。ひねくれるってのは素直じゃないってことだよ。でも悪い子じゃないってこと」
女性の言葉を聞いて、リュカは女の子が何故ヘンリー王子に対して嫌な顔をしているのかが分からなかった。悪い子じゃなければ、嫌いになる理由もない。ただ、女の子の嫌そうな顔を見ているだけで、リュカの心の中にも「ヘンリー王子は嫌な人」という観念がちょっとだけ植え付けられた。
厨房に焦げ臭さが漂ってくると、女性は鼻をひくつかせて慌てたように火元に戻った。女の子も母親の後をくっついていく。まだ小さいながらも、母の手伝いをしているようだった。しかしその途中途中で、つまみ食いも楽しんでいる。
そんな女の子を見ていると、リュカの腹が鳴った。リュカは厨房のテーブルにいくつか並べられた料理を見つめた。それは今までリュカが見たこともないような豪勢な料理で、見ているだけでリュカの喉が鳴る。
父と旅をしている時の食事は主に野草や木の実、近くに川があれば魚が出ることもあるが、今リュカが目にしている香ばしく焼かれた肉が出ることはない。
しかし今リュカの目の前にある料理は、あのラインハット国王などに出されるものだろう。思わず手が伸びそうになる手を止め、リュカは料理への視線を何とか外した。
厨房の端のテーブルで、リュカに背を向けている一人の兵士の姿があった。どうやら食事をしているようだ。リュカが後ろから近づいて行っても、兵士は全く気がつかない。リュカが斜め後ろから覗くと、どうやら先ほど見た肉をぶつ切りにしたものが兵士の賄い飯に使用されているようだった。
兵士は時間がないようで、半ば掻きこむようにして食事をしている。厨房にある時計を見ると、兵士は止むなくフォークを置いて、ポケットから布を取り出して口を拭いた。皿にはまだ食事が残されている。リュカは皿に転がっている肉料理に目が釘付けになった。
「あの、えっと……」
厨房の喧騒にリュカの声がかき消され、兵士には届かない。リュカは思い切って兵士の背中を指でつついてみた。
「うわっ」
兵士は短い叫び声と共に、椅子から飛び上がった。そして何やら自分の背中を後ろ手にがさがさと探り始めた。
何もないことに安堵した兵士は、背中をつついた子供を見て、深いため息をついた。
「ああ、びっくりした。てっきりヘンリー王子かと」
「えっ?」
「人がカエルを嫌いなことを知ってて、背中にカエルを入れるんだもんな」
「カエルがキライなの?」
「ああ。あのグロテスクな気持ち悪い見た目、一体誰が好きになれるってんだ」
「……かわいいと思うけどなぁ」
リュカの呟きを聞いて、兵士は苦笑する。そしてリュカの足元で今にも机の上に飛び乗ろうとしている大猫を見て、兵士の笑みが更にひきつる。
「君、ヘンリー王子と仲良くなれるかもな」
皮肉交じりに言う兵士の言葉に、リュカが顔を輝かせる。
「本当に? ぼく、その人と友達になるかもしれないんだ」
リュカの言葉に兵士は首を傾げ、改めてリュカの服装を見た。どこをどう見ても、一国の王子様とお友達になれる要素がない。濃紫色のマントは端がほつれ、ボロ布寸前で、頭に巻く同色のターバンも一体いつ洗ったきりなのか、旅の垢がついたままだ。
「……ま、いいや。俺はもう行かなきゃいけないから。またな」
「あっ、えーと、ぼく……」
リュカが言い終える前に、我慢が頂点に達したプックルがジャンプして、その巨体をテーブルの上に乗せた。兵士がまた驚いて後ろに飛び上がり、リュカは兵士に押されて後ろに転んでしまった。そんな主人を横目で見ながら、プックルは兵士の残した肉を鋭い牙でがっついた。
「プックル! ひどいよ、ぼくだって食べたかったのに!」
リュカが立ち上がって地団駄を踏んで悔しがる様子に、兵士は思わず声を上げて笑ってしまった。主人の言うことなどなんのその、プックルは何もなかったかのように肉をぺろりと平らげてしまった。もっとないのかと、兵士を鋭い目で睨む始末だ。
「……う、君はとても立派な猫をペットにしてるんだね。よし、俺が何か頼んできてやる。言えば賄い飯くらいは出してくれるさ」
兵士は急ぎ足で厨房の中の人間に声をかけ、「俺と同じの、二つ頼むよ!」と声をかけると、そのまま厨房から駆けるように去ってしまった。リュカはプックルの両頬を掴み、「今度ずるいことしたら、置いてっちゃうからな」と言い聞かせているが、プックルは楽しがってまるで聞いていない。
しかしその後、間もなく兵士が食べていたものと同じ料理が出された。リュカは料理を出した厨房の人に聞く。
「ホントにいいの?」
「どうせ捨てちまう部分なんだ。食べてくれればその方がありがたい」
その言葉に、リュカはなんの迷いもなく出された料理を頬張った。食い散らかすように食べ始めたプックルも、最後には皿を舐めてきれいに平らげていた。



ちゃっかり食事を終えたリュカは、お礼を行って厨房に食器を戻すと、同じように満足気な様子のプックルを連れて厨房を出た。木戸を閉めると、厨房の喧騒はほとんど遮断され、涼やかで静かな城の雰囲気が再びリュカを包んだ。
廊下に出ると、回廊から中庭の様子が窺える。庭の手入れこそされているが、立派な中庭に人気はない。初夏の陽気で鮮やかな花が元気に咲いているが、その花を行き来する虫の数も少ない。
強い日差しに照らされている庭を眺めていると、リュカは上の階から何かの音が不規則に奏でられるのを聞いた。たどたどしいピアノの音だ。
「誰だろう」
リュカにはピアノの音という認識はなかったが、何かの楽器が奏でられているのは分かった。しかも、これを奏でているのは恐らく子供だ。まだ音が曲の体を為していないほどに不完全なのだ。
リュカは中庭に臨む大窓に耳を当てた。音はちょうど、上から聞こえてくるようだが、よくわからなかった。
目の前の階段を再び上り、二階の赤い絨毯の上で再び耳を澄ませる。ついてきたプックルも、主人のリュカの隣で耳の向きをピクピクと変えている。ポーン、ポーンと旋律を為さない単音が、途切れ途切れに聞こえる。
音が聞こえる部屋の扉の前には、もう見慣れた姿のラインハット兵が一人、立っていた。兵士は階段を駆け上がって来たリュカをずっと見つめていた。
「坊や、お父さんと一緒じゃなかったのか」
先ほど、二階の円形の広間に入って行く時にもリュカたちの姿を見ていたのだろう。兵士はリュカと目が合うなり、そう聞いてきた。リュカが連れているプックルにもさほど驚いていない。
「お父さんは王さまと話をしてるよ。だからぼく、このオシロをたんけんしてるんだ。そのへやから、何か、ヘンな音が聞こえたんだけど」
リュカの率直な言葉に、兵士は少し慌てた様子で訂正する。
「ヘンな音じゃないよ。デール王子がピアノの練習をなさっているんだ」
「デールおうじ? さっきはヘンリーおうじって聞いたんだけど」
「そいつは兄上の方だ。こちらにおわすのはヘンリー王子の弟君だよ」
「誰かおるのかえ?」
部屋の中から女性の声が聞こえた。小さいながらも、はっきりとした言葉だった。兵士が背筋を正し、扉越しに話しかける。
「いえ、何でもございま……」
兵士の言葉が終わらないうちに、扉がゆっくりと開いた。厨房の古びた木戸とは違い、一面に細かな装飾が施された重厚な木製の扉だ。表面には艶があり、日々手入れされているようだ。鈍い音を響かせて開く。
部屋から現れた女性は年若く、リュカが見たこともないような眩いドレスを身に着けていた。両手の指には疲れるほどに重そうな指輪をいくつかつけている。
「なんじゃ、そなたは?」
リュカは声をかけられただけで落ち着かない気分になった。何も言えずにいると、女性が指輪の光る手を口に当て、上品に笑う。
「我が子デールに挨拶に来たのですか?」
「……はい、そのようです、お妃様」
ぽかんと立ち尽くすリュカに代わって、扉の前に立っていた兵士が答える。プックルは部屋の外の壁に鼻を近づけ、しきりに匂いを嗅いでいる。女性からは死角の位置で、騒ぎ立てられる心配もなさそうだった。
「この子供は、本日国王に呼ばれて参っているパパスとか言う男の子供で……」
兵士が説明するすぐ後ろで、リュカはじっと女性を見上げていた。透き通るような癖のある金髪は後ろでまとめられ、煌びやかな金の髪飾りが飾られている。化粧を見慣れないリュカにとって、女性の顔を彩る化粧は気持ちの悪いものだった。特に真っ赤な唇に、リュカは思わずしかめっ面をした。薄茶色の瞳には隙がなく、リュカは思わず目を逸らしてしまった。
逸らした目で、リュカは部屋の奥をちらと覗き見た。すると部屋の奥からもリュカと同じように外を覗く子供の目と合った。目の前にいる女性と同じような薄茶色の瞳だが、その子供の瞳はどこかおどおどしている。リュカがずっと見つめていると、部屋の少年は耐えかねたように座っていた椅子から飛び降り、母親の元へと歩み寄って来た。
「デール、どうしたのです」
ドレスの裾にまとわりつくようにしている子供に、女性は甘い叱りの言葉を投げる。デールと呼ばれたこのラインハット王国の第二王子は、リュカを遠慮がちにじっと見ている。
「ピアノのお稽古の後の休憩は終わりました。次は読み書きのお勉強の時間ですよ」
「キミ、本が読めるの?」
リュカは自分よりもいくつか年下に見える男の子に、驚いた表情で聞いた。デールは母親の後ろに半身を隠しながら、小さく頷いた。
「へぇ、すごいなぁ」
「そうであろう、そうであろう」
女性が綺麗な笑顔を見せても、リュカはその笑顔が好きにはなれなかった。心のどこかで自然に拒否している。
しかし女性と同じ瞳を持つデールに対しては、平気だった。自分よりも小さい男の子は、自分よりも弱い男の子。自分より弱い者は守るんだと言う、日々父が言っていることがリュカに備わっていた。
「さっき、何かの音を出してたのも、キミだよね。他にもいろいろできるの?」
リュカが問いかけても、デールは口を小さく開けたきり、何も話さない。喉の奥に何かがつっかえているかのような表情だ。
「一日中、勉強で忙しいのです、我が子デールは。次期ラインハット国王になるのでのう」
「王さまになるの? すごいんだね」
「そなた、ヘンリーには会っておらぬのか?」
リュカは聞いた名を頭に巡らせた。厨房で聞いてきた「ヘンリー」の話はあまり良くない印象で、リュカは思わず眉をひそめて首を横に振った。
「会ってないよ」
リュカの言葉に、女性は高らかに笑う。
「そなたは小さいくせになかなか目先が利くと見える。兄のヘンリーよりこのデールの方がよほど次の王にふさわしいと……そう思ったのですね。だからデールに会いに来たのでしょう」
女性の言う意味が良く分からないリュカは、とりあえず曖昧に頷いた。そんなリュカの反応を女性は満足そうに見下ろし、足元にすがりつくようにいる息子の頭をしきりと撫でていた。
デール王子は茶色の癖毛を母親に撫でつけられても、浮かない顔をしている。視線を下に落とし、口を尖らせている。
「どうしたの?」
リュカが問いかけると、デールは恨めしそうな顔つきで、リュカを見上げた。首を傾げるリュカからまた視線を外し、呟くように言う。
「ボク、王さまなんかになりたくないよぉ……」
「デール、そなた、今、何と申した?」
母親の押さえつけるような強い口調に、デールは再び口を閉ざしてしまった。息のつまるような沈黙の後、デールは無感情な様子で答えた。
「……何も申しておりません、母上」
「そうか。ならば良いのじゃ。さぁ、まだまだやることはある。母上がついておるから、デールも頑張るのじゃ」
「はい、母上」
表情を消し去った子供を、リュカはこの時初めて見た。デールはリュカと視線を合わせないまま、部屋の中へ戻り、大人しく椅子に座った。そして開いていた本に目を落とす。
「デールはそなたと違って毎日忙しいのじゃ。相手にしてやれなくて、すまないな」
女性は居丈高にそう言うと、兵士に扉を閉めよと命じた。兵士は頭を垂れながら扉に手をかける。リュカは扉の隙間からデールを見つめていたが、デールはもう視線を合わせてくれなかった。
リュカは扉を閉めた兵士を見上げた。兵士は何とも言えない表情でリュカを見る。
「……もう、お父上と国王の話は終わっているかもしれない。一度、王室に戻ったらどうだろう」
「おうしつ、王さまがいたところだよね。えっと……」
「そこの門をくぐり、更に上ったところだよ」
「ありがとう。行ってみるね」
リュカが兵士にお礼を言うと、兵士は自然な笑顔に戻ってリュカに手を振った。子供の無邪気に救われた兵士の気持など気付かず、リュカは門に向って走り出した。競争が始まったのかと勘違いしたプックルが、途中で一気にリュカを追い抜いた。門の向こう側で警備に当たっていた兵士が、飛び出してきた大猫と出くわし、悲鳴を上げた。

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