2017/12/03

父の背中

 

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遺跡の内部は十分に明るければ見通しの良い造りになっており、暗闇以外にリュカの視界を遮る壁などはない。通路を歩く時、下の階の様子がぼんやりと見え、リュカは自分が上の階を歩いていたことに気付いた。真っ直ぐに伸びる道の先に、上り階段がある。しっかりとした造りの階段を用心深く上る途中、階下に動く何かが見え、リュカは咄嗟に身を屈めて警戒した。身を潜めて、暗がりに動く相手にじっと目を凝らす。
人の形をした影が暗がりの中を動く。先程遭遇した骸骨兵のようでもあり、違うようでもあるその影は、遺跡内の通路をゆっくりと移動している。時折、立ち止り、周囲の様子を窺うように頭部を動かしている。その姿が階下の通路を進む途中で、その手に握られている剣の刃が、一瞬キラリと光った。
見慣れた父の剣だった。
リュカは警戒を解き、上階の通路の脇を走る低い石の柵に、身を乗り出した。父を呼ぼうと、喉元まで声が出かかる。しかし周囲に絶えず存在する魔物の気配に、父を呼びたい本能よりも、危機を感じる本能が勝り、父を呼ぶ声は喉の奥に留まった。
階下の通路は、リュカのいる上階の通路と交差するように伸びていた。明かりの届かない建物の影に父の姿が消えると、リュカは我に返ったように屈んでいた身を起こした。上階から飛び降りるには余りにも高さがある。父の姿に今までの疲れも忘れ、リュカは下の階に下りる階段を探し始めた。
階段を上りきると、すぐに下り階段になる。パパスが渡って行った通路を通すために、上階は高架橋のような造りになっていた。リュカは一度大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。緊張と興奮のため、知らず、息を止めていたのだ。
下り階段を下り切ると、左手から明かりを感じた。少し離れたところに、遺跡の壁に備え付けられた燭台がある。燭台には煌々と明かりが灯っていた。橙色に揺れるその明かりに、魔力は感じない。油を燃料とする、至って普通の火が灯っているようだ。リュカは明かりに照らされる魔物の姿がないことを確認しつつ、素早く小走りに移動した。
「中に入れるみたいだね」
壁には木製の扉があった。閉じられた扉の向こう側から、賑やかな人の話し声がする。人間がいることに心が明るくなったリュカは、その扉をゆっくりと外側に引いた。
リュカが部屋の中に入っても、中の人間たちはリュカの存在に気がつかない。リュカは扉を開けた瞬間に身体にまとわりついた酒の臭いに、顔をしかめた。部屋の温度は遺跡内に比べて高いようだが、むっとする汚れた空気に、リュカはしばらく呼吸を浅くした。
「あの……」
小さな声で話しかけるリュカに、一人の男が気付いた。体格も良い、腕っ節の強そうな男は、ふらつく身体を机で支えながら、細目でリュカを見る。視点が定まらないほど泥酔している。
「うん? 何だ、お前は?」
呂律も回らなくなっている男が一言呟くと、リュカは「部屋に入るんじゃなかった」という後悔に苛まれた。
リュカの隣で鋭い眼光を放つプックルを見た男は、その特徴的な豹のような模様に、にやついた笑いを浮かべた。
「ああ、キラーパンサーを連れているところを見ると、お前も魔族だな」
「マゾク?」
聞き慣れない言葉だが、語感に不穏なものを感じたリュカは、思わず眉をひそめた。男は時折しゃっくりを繰り返しながら、げらげらと笑っている。自分の発した言葉を、言った傍から忘れているような様子だ。
「かー! 仕事の後の酒はたまんねえなぁ」
大きな酒瓶を左手に、グラスを右手に持った別の男が、リュカの存在に気がつかないまま大声で叫ぶ。
「ともかくここに子供を連れてくりゃあ、奴隷として買ってくれる。いい話だよなぁ」
リュカはひっそりと部屋の隅に佇んだまま、男の言葉に悪寒を感じた。いい話だと笑いながら話す男を見ても、微塵も良い部分が見い出せなかった。
「王妃に王子を始末してくれと頼まれたけどよぉ、殺せと言われたわけじゃないし」
リュカの頭の中で、めまぐるしく情報が行き交う。王妃、王子、始末、殺す。全ての言葉がリュカの心に直接突き刺さる。
ラインハットでヘンリーが連れ去られた時の場面がリュカの脳裏にまざまざと蘇った。目の前にいる三人の男たちの姿も同時に現れた。ラインハット城を囲む濠に用意してあった筏に、気を失ったヘンリーを抱えたまま乗り込み、そのまま連れ去ってしまった男たち。
リュカの胸の中に、恐怖と怒りが同時に生まれた。しかしリュカには何もできなかった。ただ、手にしている抜き身の剣を握りしめる力が強くなっただけだ。
「王子をドレイとして売れば、また金が入る。こりゃあ、一石二鳥ってもんだ」
リーダー格の男がそう言うと、三人は酒に汚れたがなり声を上げて笑った。大きな身体を揺らして笑う拍子に机の上の酒瓶が倒れ、机を酒浸しにし、床にもこぼれていく。床にできた葡萄酒の水溜まりを見ていたリュカは、赤く染まる床に恐怖を感じ、プックルの尻尾を掴んで急いで部屋を出た。部屋の中の男たちは子供が一人部屋を出たことなど眼中にない様子で、ひたすら浴びるように酒を飲み続けていた。
木戸の前で、リュカは震える両手を両手で押さえた。吐き出す息も震える。
「ヘンリーを売る? イッセキイチョウって何? ドレイって? ……ぼく、良く分かんないよ」
今までに一度も出会ったことのない言葉や意味が、男たちの会話の中に現れ、リュカはぐちゃぐちゃになる頭の中から逃げ出そうとした。しかし、一度耳にしただけで記憶に残ってしまった言葉たちは、リュカを逃がそうとはしなかった。考えても分からない言葉だが、リュカはその言葉の雰囲気に押しつぶされそうになる。
この場を早く離れたいリュカは、弾かれるように木戸から背中を離し、方向も定めぬまま道伝いに歩き始めた。プックルも大人しくリュカの後をついてくる。
部屋の外壁を伝って後ろに回り込むと、先には細い通路が伸びていた。壁に灯される明かりは弱く、周囲を見渡すにはあまり役立たないが、その先の細い通路を抜けた先には同じような弱い明かりが見えた。明かりの中に影となる魔物の姿はない。
「……お父さん」
思わず呟いた自分の言葉に、リュカは喉に力が入るのを感じた。目が熱くなり、しゃくり上げるように肩を震わせる。落ちたリュカの涙を見たプックルが、不安そうに小さく鳴いた。半乾きのプックルが足にまとわりつくと、リュカはその場で屈みこんでプックルにしがみつくように抱きついた。
「泣いたってダメだよね。ぼくは男の子なんだから。お父さんみたいに強くならないと……」
そう言いながら、リュカはプックルの首元に顔をすりつけた。プックルも同じような態勢でリュカに懐く。プックルの強い体毛はリュカの涙を吸い込まずに弾き、再びリュカの顔を濡らす。温かいプックルに触れているだけで、リュカの心は少しずつ落ち着いて行った。
顔を上げ、マントでごしごしと顔を吹く。暗がりの中では赤くなった目や鼻など分からないが、リュカの目だけはまだ涙で濡れ、光っていた。
「大丈夫、行こう」
リュカはまだ安定しない声でそう言うと、プックルから離れて立ちあがった。
「ふにゃあ、ゴロゴロゴロ……」
尚も足元に懐くプックルの背中をゆっくりと撫で、リュカは一度泣いてすっきりしたような顔をして、再び歩き出した。



リュカは遺跡内の通路が延々と終わらないのではないかと感じていた。いくら歩き続けても父には追いつけないのではないか、この遺跡は二度と出られない迷路になっているのではないか、疲れたところで先程の男たちにつかまってしまうんではないか、などリュカは絶えず不安と恐怖と戦い続けた。
魔物とも数度、遭遇した。骸骨兵はもちろんのこと、大きな木槌を振り回してくる毛むくじゃらの魔物、床に置いてあるだけの袋かと思ったら、急にケタケタと笑い出し襲ってくる妙な魔物などがリュカとプックルの前に立ちはだかった。しかしリュカは手にした剣やブーメランを使いこなし、魔物を退けて行った。薄暗い遺跡内部にリュカの目は大分慣れていた。
リュカはなるべく魔物との戦闘を避けるために、魔物の姿を見つければ建物の影に身を潜ませて通り過ぎるまで待った。子供一人と大猫一匹を隠すくらいの隙間は、遺跡の中に点在していた。通路の脇には石柱があったり、壁にも装飾としての凸凹があった。元々は人間が使用していた建造物だ。遺跡内部の形を利用し、リュカは魔物の目から逃れるように慎重に進んでいた。
真っ直ぐな通路の脇に、石柱が等間隔に並ぶ道に出た。整然と並ぶ石柱を見上げながら、リュカは周囲に鋭い視線を投げ、何故か気乗りのしない様子でついてくるプックルに声をかける。プックルは時折、甘えたような声で鳴いて立ち止まったりする。リュカはその度にプックルの尻を押して、先に進ませた。
石柱の並ぶ通路を通り過ぎた先を右に曲がると、そこには今までに見たこともない大きな灯が灯されていた。二つ置かれている大きな燭台の間に、道は続いているようだ。ちょうど上階の通路が高架になっており、その下をくぐるように通路が伸びている。通路の中は光が届かず真っ暗だ。
今までにない雰囲気に、リュカは身を固くした。剣を両手で構えながら、真っ暗な通路に足を踏み入れる。先ほどの酒臭い男たちの部屋からはかなり遠ざかっているはずなのに、リュカは背中を覆う黒い闇の雰囲気に息苦しくなった。
通路を進んでいくと、やがて出口が見えた。幸運なことに魔物には遭遇せず、たどり着いた通路の先には、大きな広間があった。床も今まで歩いてきたただの石床とは異なり、何やら一面に装飾が施されている。暗くてその装飾は良く見えないが、かなり繊細なもののようだ。
続く通路の先に何段かの上り階段がある。上った先は、舞台のような造りになっている。かつてこの舞台で何かの催し物がされていたのだろう。それが華やかなものではなく、神聖なものであったことは、今も残される落ち着いた舞台の雰囲気から伝わって来る。
その舞台の上に、リュカは父の気魄を見た。広間に灯る少ない火の光を集め、父の剣が煌めく。多くの魔物に囲まれる父の姿を見つけたリュカは、本能を開放して父の元へと駆けて行った。
舞台の上にはリュカが今までに遭遇したこともないほどの魔物の群れがいた。それらが全て、父に向かって攻撃を仕掛けている。父の背後から襲いかかろうとする魔物の姿を見たリュカは、咄嗟にブーメランを構えて、放った。リュカの攻撃は外れることなく魔物に直撃し、その一撃で魔物は舞台の上に転がった。ちょうどパパスの前に投げ出されたその魔物は、目の前で振り上げられたパパスの剣から慌てて逃げ出す。そしてそのまま遺跡のどこかへ姿を消してしまった。
リュカはラインハットを出て以来初めて安心した気持でその場に立っていた。次々と魔物を倒していく父に加勢するまでもない。右手にブーメランは握っているものの、構えることもなく、ただ父の剣が生き物のように動くのを見ていた。
数多くいた魔物の群れは舞台の上に倒れたり、逃げ出したりして、パパスの前に立ちはだかる魔物はいなくなった。肩で息をする父の背中から、徐々に闘気が静まって行くのがリュカには分かった。
剣を納め、ゆっくりと辺りを見渡すパパスは、後ろに来ていた息子の存在にようやく気がついた。目を見張り、驚いたように声を上げる。
「おお、リュカか!」
「やっと追いついたよ、お父さん」
疲れたように笑う息子の顔を見て、パパスは息子を騙すようにしてラインハットに置いてきたことを後悔した。普段聡い息子が、ここまで盲目的に追ってくることを、パパスは考えていなかった。
リュカは父を信じ切る目で見上げる。そんな息子に意図的に置いて行ったなどと正直に話すこともできず、パパスはあたかも偶然はぐれたかのように、言葉を選んだ。
「お城ではぐれてしまったと思ったが、こんなところまでやって来るとは……。」
「ぼくが教会を探してたら、もうお父さん、いなくなってるんだもん。ぼく、びっくりしちゃったよ」
「父さんに追いつけなかったら、ラインハットに戻るんだぞ、と言っておいたが……ここまで来れたのだな」
「そうだよ、ぼく、強くなったでしょ。プックルと二人でここまで来れたんだよ」
「お前もずいぶん成長したものだな。父さんは嬉しいぞ」
パパスはいつものようにリュカの頭に手を乗せ、優しく撫でた。その感触だけで、リュカは手足の先まで温かい血が流れるのを感じた。父に命を吹き込んでもらったかのように、リュカは今までどこか浮ついていた意識がはっきりする感覚を得た。
「さて、ともかく王子を助け出さねば」
父の一言に、リュカは温かくなっていた心の中に、冷たい針が刺さるのを感じた。この遺跡に来たのはヘンリー王子を助けるためだと分かっていたが、いつの間にか、リュカにとっては父に会うことが目的となっていた。冷静な父の言葉に、リュカは寂しさと恥ずかしさを同時に感じた。
「リュカ、お前が先に行け」
「えっ、ぼくが?」
「そうだ。後ろの守りは父さんが引き受ける。後ろを気にせずに進むんだ」
「でも……」
「大丈夫だ。ここまでプックルと一緒に来れたのだろう? お前は強くなった。この遺跡の魔物と戦えるようになったのだ。自信を持っていいのだぞ」
未だかつて、パパスがリュカをこれほど褒めたことはなかった。父の言葉に、無条件に自信が沸いてきた。リュカにとって尊敬する父の言うことは絶対にも等しい。リュカは錆ついた剣を握りなおして、プックルに声をかけ、父の言う通り、先に進み始めた。
広間の奥には、壁のようにも見える扉がある。鍵穴はなく、取っ手もない。パパスは広間を見渡し、床に飛び出た一角を見つけると、近づいて行った。現代の言葉ではない、古代文字が書かれた石の突起物に右足をかけ、踏み込んでみた。沈み込む石と合わせて、リュカの目の前の扉がギシギシと音を立てて上に動いた。開いた扉の前で剣を構え、リュカは注意深く扉をくぐった。
部屋を移ると、水がさらさら流れる音が新しい空間に広がっていた。じめっとした空気が濃くなり、かびた臭いが強くなる。今まで通って来た遺跡の風景とは一転して、進んだ先にはほとんど廃墟となった場所が広がっていた。壁もほとんど剥がれ落ち、石柱のような人工的なものは見当たらず、破壊された床の下からは大きな水路が行く先を阻む。
しかし水路の上を行けと言わんばかりに、すぐ近くに筏が一つ、繋がれていた。すぐ後ろに来ていたパパスが、繋がれている紐を外し、筏を自由にする。
「途中、男たちに会ったか、リュカ」
パパスにそう言われ、リュカはあの酒臭い男たちを思い出した。
「あの者たちが使ったものだろう。この先に間違いなく王子がいる」
パパスはリュカを先に筏に乗せると、バランスを崩さぬよう、自らも中心に乗り込む。プックルも慌てて飛び乗るのを確認した後、パパスは筏を静かに漕ぎだした。溜め池のように流れのない水の上を筏がゆっくりを滑って行く。途中、廃墟の床の上を歩く魔物の姿を見たが、この空間にほとんど明かりはなく、パパスもリュカもその存在を確かめることはせず、魔物をやり過ごして行った。侵入者の存在に気付いた魔物も、水の中に入るのは嫌なのか、無闇に追ってくることはなかった。
パパスが筏を進めるすぐ横で、リュカは父の姿をじっと見つめていた。暗い影としてしかリュカの目には映らなかったが、リュカを包むその雰囲気は父以外の何物でもなかった。父はリュカが無条件に安心できる空気を作り出す。緊張がほどけたリュカは、静かな声で遺跡にたどり着くまでの冒険を父に話し始めた。
「……それでね、お父さんのマホウの火でここまでこれたんだよ。ぼく、あれが見えなかったらここまで来れなかったよ」
「火? 何のことだ」
「え? お父さん、火のマホウが使えるようになったんでしょ? ここの入り口にぷかぷか浮いてたよ」
リュカの話を聞いていたパパスは、筏を漕ぐ手を休めてリュカを見つめた。
「遺跡の壁に照らされていた火ではないようだな」
「お父さんじゃないの?」
「父さんは火の魔法は使えない。誰か他の者が……」
そう言いながら、パパスは急激な不安に駆られた。独りでに浮くような火を操れるのは、魔法使いの中でもなかなかの術者だ。王子をさらった男たちがそのような魔法を使えるとも考えられない。この遺跡に他に人間はいない。火を扱える魔物が、まるでリュカをおびき寄せるような火を作り出したのだとしたら、とパパスの頭の中に悪い憶測が飛び交い始めた。
「リュカ、気を抜くな。まだそこらじゅうに魔物がいるのだ」
「でもこれに乗ってれば大丈夫だよ。だれも追ってこないよ。みんな、水がこわいんだね」
「何故魔物が水に入ってこないのかは分からない。しかし、その気になれば魔物は水などものともせずに入って来るぞ。油断するな」
「でも……」
リュカにとっては父が傍にいるだけで安心なのだ。向かってくる敵は父がやっつけてくれる。魔物に襲われようとも、父と共に戦えば負ける気はしなかった。
「遺跡の探検ごっこをしに来たわけではないんだ。ヘンリー王子を無事ラインハットまで連れて帰らなくてはならない」
再び筏を漕ぎだす父の手を、リュカは暗い目で見つめた。父が自分ではなく他の子供を見ていることに、リュカははっきりとした嫉妬を覚えた。まだまだ話したいことはたくさんあったが、リュカはぴたりと話を止めた。そして手にしている錆びた剣を水の中に突っ込んで、父と同じように筏を漕ぎだした。饒舌に話していたリュカの様子が一変したことに気付いたが、パパスは息子が再び緊張感を取り戻したのだろうと気にせず筏を進めて行った。
しばらく進むと、水路の終わりが見えて来た。先の方から仄かな灯りが見え、水面が黒く光る。カビの臭いに息が詰まるようなこの場所に、人工的な建物の断片があった。壁も床もぼろぼろと崩れなくなっているというのに、遺跡の牢屋だけはしっかりとその機能を果たしていた。
パパスが筏を下り、リュカが次いで飛び降りた。残されたプックルも軽やかに牢屋の前の石床に飛んだ。明かりは牢屋のすぐ外で照らされていた。魔法ではなく、古い油で細く灯る火は、牢屋の中で小さくなっている子供を露わした。
「へ、ヘンリー王子!」
パパスは牢屋の鉄格子に手をかけ、引き開こうとした。しかし鉄格子がガチャガチャ騒がしく鳴るだけで、扉は開かない。
「く、鍵がかかっている!」
パパスはしばらく鍵を観察し、鍵をどうにかして開けられないかと考えた。しかし一刻を争うこの時に、小さな鍵穴に合う物を探すなどできそうもないと諦めると、鉄格子にかける両手に渾身の力を込めた。リュカは父の腕やら背中やら、身体全体から放たれる気魄に圧倒された。
パパスの叫びと同時に、牢屋の鉄格子が破壊の音を立てて取り外された。その勢いのまま吹っ飛んだ鉄格子は向かいの壁に激突して、壁の一部を大きくえぐった。
「ヘンリー王子!」
パパスは牢屋の中に踏み込んで、胡坐をかいて座り込んでいるヘンリーの前に片膝をついた。リュカも後ろから続いて牢屋の中に入る。プックルはどうやら牢屋の雰囲気が好きではないらしく、外で大人しく座っていた。
「ふん! ずいぶん助けに来るのが遅かったじゃないか」
ヘンリーの尊大な口調はそのままだったが、明らかにこの状況に怯えていた。それも当然のことで、ヘンリーは長い時間一人でこの暗い牢屋に閉じ込められていたのだ。その証拠にヘンリーの声は少し涙に濡れていた。
「申し訳ない。貴方をこんな目に遭わせてしまい、国王には合わせる顔がない。さあ、早くお城に……」
「まあ、いいや。どうせオレはお城にもどるつもりはないからな」
ヘンリーの言葉に、パパスは耳を疑った。王子の居場所はラインハット以外にはないはずだ。戻るつもりがないと行っても、他に行く場所もないのだ。
「王子がいなくなったとなれば、城の者がみな心配します。貴方はいずれ、ラインハットを背負っていかれるのですぞ。国のためにも、お城へ戻りましょう」
「王位は弟がつぐ」
ヘンリーが冷たい声でそう言い放った。頑としてパパスを見ず、その視線は牢屋の床に落とされたままだ。
「オレはいないほうがいいんだ」
ヘンリーの言葉には自分を否定するのと同時に、全ての責任は自分以外にあるとでも言うような雰囲気が漂っていた。自分を否定し、自分を取り巻く全てのものを責めて、あらゆる辛いことから逃げ出そうとする。それがヘンリーの常の姿勢だった。
そんなヘンリーの逃げる気持ちを、パパスは捕まえようとした。
「王子!」
パパスはヘンリーの頬を張った。ヘンリーは何が起きたのか分からない様子で、張られた左頬を無意識に手で押さえる。徐々に血が通い、熱くなる頬に、ヘンリーは初めて頬を叩かれたことを知った。
「なっ、なぐったな、オレを!」
ヘンリーが見上げるパパスの表情は真剣そのものだった。威厳すら感じるパパスの、どこか悲しげな表情に、ヘンリーは自ずと口をつぐんだ。
「王子、あなたは父上のお気持ちを考えたことがあるのか」
パパスの口から出た『父上』という言葉に反応したヘンリーだが、言葉を返すことはできなかった。パパスに言われるまで、ヘンリーは父の気持ちなど考えたことはなかった。いざ考えようとしても、父が何を考え、行動しているかなど、ヘンリーには何も分からなかった。親の心子知らず、父王がいつも見守り、叱り、許し、深い愛情が自分に注がれていることなど、ヘンリーは微塵も分かっていなかった。
「父上は、父上は……」
「……」
「……」
親の愛情を言葉で語ることはできないと、パパスは言葉に詰まる。ヘンリーの隣で立ち尽くすリュカと視線が合うと、パパスはその幼い目から逃れるように視線を外した。静まり返った空気が辺りに満ち、筏を進めて来た水路のどこかで、規則正しく水滴の落ちる音が響く。続かないパパスの言葉をヘンリーは強い目をしながら待つが、パパスはふうっと息をつくと同時に肩の力を抜いた。
「まあ、ともかくお城に帰ってからゆっくり父上と話されるがいい」
パパスが一歩近寄って来たのを見て、ヘンリーは思わず身体を硬くして身構えた。しかしパパスは小さなヘンリーの頭を優しく撫でただけだった。何も語らず、ただ頭に置かれた大きな手の感触に、ひねくれ曲がった心がゆっくりと柔らかくなる。ヘンリーは素直にパパスの顔を見上げることができた。パパスは優しい笑顔を見せていた。
「さあ、ヘンリー王子、追っての来ないうちにここを!」
パパスはリュカとヘンリーの前に立って牢屋の外に出ようとした。牢屋脇に照らされる灯りに父の後姿が浮かび上がり、背中に背負う剣をすらりと抜く姿を見ると、リュカは自分も手にしている剣を握りしめた。
「く! さっそくあらわれたかっ」
牢屋のすぐ外に、魔物は待ち構えていた。骸骨兵二体を素早く斬り、パパスは注意深く周囲の様子を窺う。魔物の気配は濃く、いつのまにか牢屋の周りを取り囲んでいた。パパスは牢屋の前に立ちはだかり、リュカとヘンリーを牢屋に閉じ込めたまま、魔物を倒していく。ヘンリーは魔物の咆哮に目をつぶり、耳を塞いでいたが、リュカは父が魔物と戦う姿を目に焼き付けていた。
しばらくして、パパスがリュカを後ろ手に手招きした。リュカは剣を構えながらパパスのすぐ後ろにぴたりとつく。腰紐に挿してあるブーメランも無意識に確認した。
「リュカ、ここは父さんが引き受けた。お前は王子を連れて早く外へ」
パパスはそう言いながら、尚も魔物を倒していく。牢屋を取り囲むように攻めてくる魔物の群れを相手に、パパスはリュカを振り向かない。共に戦おうと剣を構えていたリュカは、戸惑ったように父の後姿を見上げる。
「リュカ、父さんの言うことを聞け。王子を連れて先にここを出るんだ」
リュカが戦おうとしているのを気配で察知したのか、パパスは振り向かないままそう怒鳴った。思わぬ父の大声に、リュカは手にしていた剣を取り落としてしまった。
牢屋の外に群がる魔物に剣を振るいながら、パパスはリュカたちが通れるくらいの隙間を開けた。魔物を自分に引きつけ、リュカたちを自らの背中の影に隠す。リュカは父の大きな背中のすぐ後ろにつき、父の「行け」という小さな声を聞いた瞬間に、ヘンリーの手を掴んで牢屋を飛び出した。
筏が静かに水路に浮かんでいた。パパスは攻めてくる魔物を全て、水路とは逆の、牢屋が並ぶ一角に追い込んでいた。父の強さを確信しているリュカは、遺跡の外で父と会えると信じ、ヘンリーを先に筏に乗せ、プックルを抱えながら自らも筏に乗り込んだ。
父が使っていた櫂で水路の水をかいて行く。進む途中で、魔物の気配が薄くなっているのをリュカは感じた。目が利かないほどの暗闇の中、光る魔物の目はない。あの牢屋近くに、遺跡にいる魔物が全て集まったのかと考えた瞬間、リュカは櫂を動かす手を止めた。父の所に引き返そうかと後ろを振り向いたが、首を垂れて俯いているヘンリーを見ると、父に「王子を連れて外へ」と言われた言葉が脳裏に蘇る。
「オレ…オレ……」
ラインハットで見た威勢の良いヘンリーが、すっかり小さくなっていた。震える声でまとまらない言葉を途切れ途切れに落としている。今、頼れる者は自分しかいない。そう思ったリュカは、後で父に会った時に胸を張れるように、無事にヘンリーを外に連れ出すことだけを考え始めた。
筏を進め、初めに来た道を引き返そうとしたリュカだったが、その先にリュカたちを導くように赤い火が二つ、灯っているのが見えた。出入り口を挟むようにして、古びた燭台が備えられている。リュカは直感を信じ、行きに来た道とは違う、火の灯る出入り口近くに筏をつけた。
「ヘンリー、下りて。こっちに行こう。たぶん、大丈夫だから」
リュカがヘンリーの手を引いて注意深く歩いて行く。リュカの足元にはプックルが寄り添う。プックルは先ほどから場違いに甘えるような声を出している。リュカの足にじゃれつき、まるでリュカが進むのを妨害しているかのようだ。そんなプックルをリュカは叱り、尻を押して強引に歩かせた。
「お前の…父さん……大丈夫…かな」
うわ言のように言うヘンリーの言葉に、リュカは自身に言って聞かせるような元気な声を出す。
「大丈夫だよ。ぼくのお父さん、強いもん。どんなマモノにだって負けないんだよ」
「……そうだな。きっと大丈夫だよな」
「ゼッタイ、大丈夫なんだよ」
リュカの自信に満ちた声が、ヘンリーの心を揺さぶる。父親に対する絶対的な信頼を、目の前の年下の少年は持っていた。
ヘンリーは父王のことを考えた。継母と弟のデールに寄りそう父王に、ヘンリーは上手く近づけなかった。まともに目を合わせて話したのも、ここ最近はないように思えた。それほどヘンリーは父を避けていた。
そんな行動に反するかのように、ヘンリーは常に父の目を気にしていた。しかし父とまともに話すのは、硬くなってしまったヘンリーの心がそれを許してくれなかった。殻に閉じこもる一方で、時折その殻を自ら突き破るように兵士にカエルを投げてみたり、城の柱に大きな傷をつけたり、城の者の評判になるほどのイタズラをするようになってしまった。何故こんなイタズラばかりするのか、ヘンリー自身もよく分かっていなかった。
父を信頼していないわけではない。ただ、父王を取り巻く様々な環境が、ヘンリーを独りにしていた。
「オレ、あの人の言う通り……ちゃんと親父と話してみるよ」
ヘンリーは先ほどの真摯なパパスの表情を思い浮かべた。あれほど長い時間、じっと人の顔を、目を見続けたのは久しぶりだった。父王とどのような知り合いなのか知らないが、パパスという一人の男が本気で伝えようとしていた雰囲気を、ヘンリーは嫌でも感じた。その瞬間に、ヘンリーの硬くなっていた心がほんの少し、氷解した。ヘンリーが自分でも気づかずに望んでいた『父との会話』をパパスは後押ししてくれたのだ。
「そうだね。ぼくも……ちゃんと話したいな」
リュカは後ろを振り向かず、ぼそりとそう呟いた。信頼する父だが、リュカは父のことを何も知らない気がしていた。
ヘンリーにはその声が聞こえなかったようで、二人はその後沈黙し、出口に向かって歩き続けた。



遺跡に入る際に通った大きな扉を過ぎると、もう出口は見えた。しかし外はすっかり夜になってしまったため、出口に光はなかった。ただ暗闇が外にまでずっと続いているだけだ。月も星も、見えない。
その出口の手前に、暗闇よりも濃い影が揺らめいた。何者かの気配に、リュカは咄嗟にブーメランを手に取る。
見たこともない魔物の姿だった。その魔物の大きな青い手に、赤い火が浮かび上がり、魔物の姿を映し出す。
リュカと同じような色の濃紫色のローブを見に着け、頭には同色の続きのフードを目深に被り、フードの額の辺りに魔力のこもっていそうな碧色の宝玉があしらわれている。フードの縁から覗く目は、作られたかのような金色だ。爬虫類を思わせるその目に不気味な笑みが浮かんでいる。
「ほっほっほっほっ。ここから逃げ出そうとは、いけない子供たちですね」
遺跡の広い空間に魔物の声が響く。天井の隅で目玉の形をした魔物が、役目を終えたかのように遺跡の中へと姿を消して行った。
リュカは今までしてきたように、魔物に話しかけようと口を開きかけた。相手は言葉を話せる魔物だ。しかし話すべき言葉が思い浮かばず、そのまま口を閉じてしまう。ヘンリーは初めてまともに見た魔物の姿に圧倒され、立ち尽くしている。プックルは警戒心をむき出しにして、低く長いうなり声を上げる。
口元にうっすらと笑みを浮かべながらリュカたちを見下ろす魔物、ゲマ。リュカの父よりも背が高く、身体全体を覆うローブのせいで、その姿は実際の倍ほどに見えた。まるで壁が動くように見えるゲマの大きさに、リュカの戦意が縮こまる。
ゲマがいくつかの赤い火を作り出し、周りに灯すように宙に浮かべた。視界が良くなり、魔物と戦うための条件は好転した。しかしその赤い火を見た時、リュカはこの遺跡を目指していた時に見た赤い火と同じものだと気がついた。リュカの背筋に感じたこともない悪寒が走った。
「この私がお仕置きをしてあげましょう。さあ、いらっしゃい」
ゲマが両手を大きく広げると、内側に身に着けている金色の服が煌びやかに揺れた。手首に着けている腕環も周りの火に煌めく。豪華な装飾品だが、そこに気品は微塵も感じられない。その全てのものが、リュカにとってはおぞましいものだった。
魔物と戦ったこともないヘンリーは、ただその場に身を固くしているだけだ。魔物と戦えるような武器もない。プックルも唸り声を上げているだけで、低い姿勢で警戒し続けている。リュカは自分が動かなければと、ブーメランを握る手に力を込め、放った。その攻撃を避けもしないゲマに正面から当たるが、何事もなかったように笑い声を洩らしている。
「立派な武器を持っていますね。それで私が倒せるかも知れませんよ」
「そうだよ、これはドワーフのおじさんがくれたんだ。強いんだよ」
「ドワーフ? この世界にはドワーフはいないはずですが……」
リュカは妖精の村でのことが口から出そうになったが、本能的に敵にそれを話してはいけない気がして、口を閉じた。相手は言葉を話せる魔物だが、まともに対話してはいけない気がした。
「おや、もう攻撃は終わりですか。では、私の番ですね」
そう言うと、ゲマは魔法で出したかのように突然、手に大きな鎌を構えた。ひと振りされただけで、恐らくリュカもヘンリーもプックルも生きてはいられない、鋭い刃を持った鎌だった。
ゲマがまず狙ったのは、ヘンリーだった。魔物を前にして怯えて動けないヘンリーだったが、リュカが果敢にも魔物に攻撃をしたのを見て、いくばくかの勇気が生まれていた。飾り物のような小さな剣を抜き、震える手でゲマに構える。剣で戦うというよりも、剣を盾にして身を守っているというのがふさわしい構えだ。
「リュカが戦ってんだ。オレだって……ただじゃやられないからな」
「ほっほっ、見上げたものですね。では、行きますよ」
ゲマが大鎌を振り上げる。ヘンリーは大鎌を受けるために剣を両手で力いっぱい構えた。
「ヘンリー! だめだよ、よけて!」
リュカは咄嗟にヘンリーを突き飛ばした。大鎌の餌食になったヘンリーの緑色の髪の毛が、ひと束石床に落ちた。
床に倒れ込んだ二人を守るように、プックルが飛び出した。大鎌を持つゲマの右手に噛みつく。プックルの牙には敵わないのか、ゲマの手から青い血が滴り落ちる。しかしゲマの表情は変わらない。痛みなど感じていないかのようだ。
「キラーパンサーよ、お前が戦う相手は私ではないだろう」
「がるるる……」
「すっかり人間に懐いてしまったようですね。ちょっと目を覚ましてもらいましょう」
ゲマは手にしていた大鎌を魔法で消し、開いている左手で火を生み出す。その火はみるみる大きくなり、リュカの頭の大きさほどになった。ビアンカも同じような呪文が使えたと思ったリュカだが、その威力は明らかに違う。
「これで死んだら、お前はそれだけのものだったということです」
ゲマは右手に噛みつくプックルに直接、火を移した。一瞬にしてプックルの身体が炎に包まれた。
「プックル! プックル!」
リュカは大声でプックルの名を呼んだ。応えるようにプックルは叫び声を上げ、石床に背中から落ち、床の上を転げ回る。リュカは遺跡に入る際、この通路の脇に水路があったことを思い出した。暴れる炎となったプックルに駆け寄り、リュカは一か八か、水路のある階下へプックルを素手で押しやった。一瞬後に水に落ちる音が聞こえ、リュカはすぐにプックルのところへ行こうと階段に向かおうとした。
「あのキラーパンサーが心配ですか? 心配している場合じゃないと思いますが」
リュカの行く先にゲマが立ちはだかり、笑っていた。足を止めると同時に、リュカは両手がひりひりと痛むことに気付いた。炎のプックルを素手で押しやった時、火傷を負ったのだ。
「どけ!」
「あなたが行ってしまうと、もう一人の子供はどうなりますかね」
うすら笑いを浮かべるゲマの黄色い視線は、ヘンリーに向けられていた。立ち上がっているヘンリーだが、手に持つ剣先は下に下げられていた。
「リュカ、早く行けよ! あの猫が大丈夫か、見てこい!」
ヘンリーの声に少し威勢が戻っていたが、リュカはその場を動くことはできなかった。リュカが階段を下りて行けば、間違いなくヘンリーは殺される。そして背を向けた自分にも大鎌が振り下ろされるだろう。今立ち向かっている魔物が、人を殺めることに躊躇いを感じないことを、リュカは感じ取っている。
リュカはプックルの無事を祈る気持ちのまま、再びゲマに向かった。ヘンリーと並んで、ブーメランを構える。ひりつく手の痛みなどものともしないように、硬く握りしめる。そんなリュカを横目で見て、ヘンリーは下げていた剣先をゲマに向かって上げた。
「健気ですね、小さな子供たちが私に立ち向かってくるなんて」
「お父さんがいれば、お前なんて……」
「そのお父さんも、もうそろそろこちらに来るようですね」
「お父さんが来るまで……」
「何とか持ちこたえようと言うのですか。ほっほっほっ、面白いことを言いますね」
リュカは今、魔物が大鎌を手にしていないのを見て、呪文の言葉を呟き始めた。遺跡の広間に俄かに風が起こる。そんなリュカを見ても尚、ゲマは嘲笑するような表情を変えない。
リュカは真空呪文を両手で放った。中程度のバギマという呪文だ。ゲマの周りに激しい空気の動きが起こり、標的を真空の刃で切り刻もうとする。しかしゲマのローブは破れもしないで、ただ風にはためいているだけだ。
その瞬間、真空の呪文はゲマを離れ、リュカに跳ね返って来た。一斉に襲ってきた真空の刃から、リュカは反射的に身体を丸め、頭だけを両手で庇った。濃紫のマントはずたずたに引き裂かれ、腕や足にも鋭い切り傷がいくつもでき、傷口から血が流れ出た。体中が痛みに縛られ、リュカは手にしていたブーメランが真空の刃に負け、割れ落ちたことにも気付かなかった。
「さて、あまり長引かせても可哀そうですね。この辺で終わりにしておきましょう」
ゲマは楽しげにそう言うと、口を薄く開いたままリュカたちを見下ろす。リュカは攻撃するべき武器を失い、呪文を唱える為の集中力も失っていた。ゲマの口の中に、赤い火が燃えているのを見ても、リュカは身動きができなかった。
ゲマが燃えさかる火炎を吐き散らした。広間が一気に明るくなるような火炎の量に、リュカは眩しそうに目を瞑った。火炎はリュカとヘンリーを直撃し、二人の衣服に炎が絡まる。互いに服の火を何とか消し、再びゲマを見遣ろうとするが、ゲマの姿は炎の向こう側にあった。二人を取り巻くように放たれた炎は、燃料もないのに石床の上で燃えさかり、二人の体力を炎の熱が徐々に奪って行く。息が苦しくなり、熱からは逃げられず、リュカとヘンリーは為す術もなく床の上に膝をついた。
「お父さん、間に合わなかったですね」
ゲマが笑いながらそう言うのを最後に聞き、二人は意識を失った。



パパスが出入り口の広間に姿を現したのは、リュカが意識を失って後、すぐのことだった。妙に明るい広間に異変を感じつつ、パパスは急ぎ足でリュカを追いかけた。
「こっ、これはいったい! リュカ! ヘンリー王子!」
小さくなってきた炎の中に、倒れているリュカとヘンリーの姿がある。パパスはすぐに駆け寄ろうとしたが、そうさせない雰囲気を、炎の向こう側に感じた。不敵な笑みを浮かべる魔物の姿を、パパスは構える剣の先に見つめた。
「ほっほっほっ。あなたですね。私のかわいい部下たちをやっつけてくれたのは……」
遺跡に棲みついた魔物に魔法をかけ、一斉に侵入者を襲わせたゲマは、難を逃れて現れたパパスに初めて真剣な目を向けた。魔導師のようないでたちをしたゲマをじっと見つめ、パパスは眉をひそめた。
「む? お前は!? その姿はどこかで……」
「おや? 少しは私のことをご存じのようですね」
思い出そうとするパパスだが、目の前にリュカが倒れている現実に、冷静に頭が働かない。記憶のひだを辿れるほど、パパスの心は落ち着いてはいなかった。
「ほっほっほっほっ。ならば尚更、私たち光の教団の素晴らしさをお教えしておかなくては……」
ゲマの『教団』という言葉にひっかかりを感じたパパスは、脳の隅に追いやられていた記憶を拾い上げようとした。しかしそれを拾ったところで、今この窮地をどうにかできるわけでもない。
「出でよ、ジャミ、ゴンズ!」
ゲマが両手を大きく広げると、空間が歪んだ。闇の空間から現れた二体の魔物の姿が、小さくなった炎に照らされる。一体は灰色の馬の形をした魔物ジャミ、もう一体は隆々としたサイの形をした魔物ゴンズだ。闇から現れてすぐ、ジャミとゴンズはパパスを敵と認識し、各々構えを取った。その二体を前に、パパスは剣をいつものように構える。
「相当腕に自信がおありのようですね」
「お前たち、逃げるのなら今のうちだ」
「その自信、どこまで持ちますかねぇ……」
ゲマは口に手を当て、含み笑いをした。パパスはゲマを気にしながらも、とりあえずはと目の前のジャミとゴンズを相手に剣を構えた。
ジャミが硬い蹄を手の様に振り上げ、攻撃を仕掛けて来た。特に武器を持っていないが、その硬い蹄自体がジャミの武器だ。パパスは剣を斜めに払って蹄を受け流し、剣を返してジャミの脇腹に斬りつけた。この遺跡内、魔物との戦闘が混んだパパスの剣は、切れ味を悪くしていた。ジャミの脇腹に作った傷は浅い。
間を置かず、ゴンズの振り下ろす大きな斧が迫る。サイの魔物が手にする大きな獲物を、パパスは受け止めることなく、あっさりと避けた。獲物が巨大なだけあって、ゴンズが振り下ろす速さもさほどではない。巨大な斧の軌道を難なく見切り、攻撃を交わしたパパスは剣の柄で力いっぱいゴンズのむき出しの紫色の腕を殴った。殴られた激痛に、ゴンズはたまらず持っていた巨大斧を床に落とした。
ジャミが脇腹を片手で押えながら、詠唱していた呪文を放ってきた。両蹄の間に生まれていた火球が塊のままパパス目がけて飛んでくる。パパスはぎりぎりのところで火球を見切り交わすと、ジャミの唱えたメラミの呪文は石床に激突し、真黒な焦げ跡を作った。パパスは交わした足でジャミに突進し、右腕に斬りつけた。ジャミが叫び声を上げ、斬りつけられた右腕から魔物の青い血がしぶきを上げる。蹄の手で押さえるが、出血の勢いは収まらない。
ゴンズもジャミも、パパスに負わされた傷の痛みに耐えるだけで、動けない。パパスは剣についた血を振って拭い、剣先をゲマに向ける。剣先を向けられてもなお、ゲマは笑みを絶やさずにパパスを見ている。
「ほっほっほっほっ。見事な戦いぶりですね」
ゲマは口に手を当て、楽しげに笑う。パパスは無言のまま態勢を低くし、すぐにでも飛びかかれるように前に出した足に重心を置いた。全く戦意を示さないゲマに隙を見つけようとするが、手練のパパスにもそれは見つけられない。じりじりと足場を固めるだけのパパスのこめかみに、一筋の汗が伝う。
その時、ゲマが動いた。足が床についていないかのように、石床の上をつーっと滑って行く。その動きに意表を突かれたパパスは、ゲマの魂胆を見逃してしまった。
ゲマは床に倒れたままのリュカの前に立ち、笑みを浮かべたまま右手を差し出した。魔法の力が発動した手の動きに合わせ、リュカの身体が宙に浮かび上がる。まだ意識を失っているリュカの表情は、まるで立ちながら眠っているかのようだった。
「でも、こうすると、どうでしょう……」
空いた左手で大鎌を繰り出し、ゲマはリュカの喉元に鎌の刃を当てた。大鎌もまた魔法の力で宙に浮かび上がり、ゲマの意思さえ働けば、その刃は瞬間的にリュカの首を落としてしまうだろう。
「リュカ!」
「この子供の命が惜しくなければ存分に戦いなさい」
ゲマの魔法がリュカを空中に縛り付ける。意識の戻らないリュカを見ながら、パパスは左手に持つ剣先を思わず下に落とした。
「でも、この子供の魂は永遠に地獄をさまようことになるでしょう」
リュカの喉元に大鎌の黒い刃がぴたりと当たる。いかなる反撃も許さないと言わんばかりに、ゲマはパパスの動きをじとりと見張っている。パパスが剣先をゲマに向けようものなら、その瞬間、ゲマは大鎌をリュカに振るう。そんな張り詰めた空気がパパスの身体の動きを封じた。
宙に捉えられたリュカを隠すように、パパスの目の前に大きな影が二つ、立ちはだかった。手負いのジャミとゴンズがよろめきながら、再びパパスに向かう。
「へっへっへっ、さっきはよくもやってくれたな!」
灰色の体毛に血の跡を残しながら、ジャミは傷を負っていない左腕を力強く二、三度振り回す。ゴンズも床に落としていた巨大斧を拾い上げ、にたつきながらパパスを見下ろす。二体とも負った傷は癒えないが、それ以上にパパスへの敵意を強めていた。
「覚悟しなっ!」
ゴンズの巨大斧が振り下ろされた。避けるのは造作もないほどの鈍い攻撃だが、パパスはゴンズではなく、その先のリュカに目をやっていた。戦いに集中できないパパスの左肩を、巨大斧が掠めた。まともに食らった打撃の強さに、パパスは身体を折り曲げて痛みに耐える。手負いのゴンズは、パパスに打撃を与えた喜びに、殴られた腕の痛みも忘れた。その口元には下卑た笑みが浮かぶ。
パパスは傷が戦いに影響するのを恐れ、回復呪文を唱えようとした。しかし呪文が完成する前に、馬の形をしたジャミが間近に迫る。硬い蹄のついた足を振り回す。武器に等しい蹄を胸に受け、パパスは床の上を滑り倒れた。長年使いこんだ胸あてに大きな亀裂が入った。一度咳をし、立ち上がるが、すぐに次の攻撃が待っている。
ゴンズが巨大斧を振り下ろす。剣で受け流そうとうするパパスだが、迷いのあるパパスの剣は巨大斧の攻撃に押された。斧の勢いに屈した瞬間、パパスは右腕に深い傷を負った。その傷口から出るおびただしい血が、パパスの利き腕をみるみる赤く染める。
「リュカ……」
パパスはただ、息子の名を呟いた。ひどい火傷を負った我が子は意識を失ったまま、劣勢の父の姿にまだ気づかない。
剣を左手に持ち替え、構える。しかしもうこの剣を、魔物を倒すことには使えない。左肩にも攻撃を喰らい、上手く剣を振るうことができないのは分かっていた。
リュカを捉えるゲマを何度となく見ていたパパスだが、ジャミとゴンズを差し置いて、距離のあるゲマに攻撃することはできなかった。一か八か、剣を投げつけてゲマを倒すことが頭に過ったが、それは自分一人で戦っている時の行動だと、賭けの行動に出ようとする自らを抑えつけた。攻撃が失敗した瞬間、リュカの命が終わる。自身以上に大事な命を、賭けることは到底できなかった。
防戦一方のパパスに勝機はなく、ジャミとゴンズの執拗な攻撃に、徐々に追い込まれた。負った怪我を治すこともせず、パパスはひたすら敵の攻撃に耐えた。大きく息を吸い込み、体中を鋼鉄のように硬くし、少しでも攻撃の威力を弱めようとする。しかし頑丈な鎧を見につけているわけでもないパパスが、魔物の攻撃に耐え続けるのには限界があった。
立つのもやっとという状態のところに、まるで大金槌が振り落とされるような巨大斧の攻撃を受け、パパスはとうとう石床の上に倒れ伏した。剣が手から離れ、宙に浮かんでいるリュカの足元にまで転がった。
「ほっほっほっ、ずいぶん楽しませてくれましたね」
ゲマが高らかに笑う。広間中に響くその低い声を、リュカは真後ろに聞いた。リュカの意識が、うっすらと戻る。何が起こっているのかまるでわからないリュカだが、目覚めた拍子に無意識に体を動かそうとしていた。しかし指先にも力が入らず、身体は鉄のように動かない。
リュカと大鎌を宙に操っていたゲマの両手が降ろされた。その瞬間、リュカの身体は石床に投げ出され、床の上で同じように意識を失っていたヘンリーにぶつかる。リュカは落ちた衝撃にうめき声を上げ、ヘンリーもまたその衝撃で意識を取り戻した。
うつ伏せに倒れたリュカが、体中に走る火傷と裂傷の痛みに耐えながら、顔を上げる。近くには父がいるはずだと、リュカは安心を求めるように視線を巡らせた。上げた視線の先に、父の頭が見えた。
自分とは異なる癖毛、それに気づいたのはラインハットに来る途中の橋で肩車をしてもらった時だった。普段、見えないはずの父の頭が、倒れている自分に見える。父が石床に倒れていることが分かると、リュカは父に呼びかけた。
「お父さん……?」
かすれ囁くようなリュカの声は、パパスには届かない。父は体中で呼吸をしているかのようだ。呼吸に合わせ大きく揺れる父の身体は、傷で埋め尽くされていた。魔物を前にして倒れている父を、リュカは信じられない思いで見つめた。
「リュカ、リュカ! 気がついているか?」
「お父さん、ぼく……」
リュカは懸命な父に答えようと、掠れる声で父に呼びかける。パパスは息子の声を聞き取り、ゆっくりと顔を上げ、リュカを見つめた。リュカの隣では、ヘンリーが震えながらパパスを見ている。
「……大丈夫か?」
パパスはいつもするように、手に呪文を宿し、リュカの怪我の手当てをした。飽きるほど受けてきた父の手当てを、リュカは今初めて辛いと感じた。呪文を唱える父の手は血に濡れ、リュカを見つめるその顔も大部分を血に染めている。パパスは残りの魔力でヘンリーの傷も癒し、回復呪文を唱える必要はもうない、とばかりにその手を床に力なく落とした。パパスの回復呪文で傷の癒えた二人だが、自由に動ける空気はなかった。広間中を固く縛るような圧倒的な力に、ヘンリーはもちろんのこと、リュカも逆らうことができなかった。
「これだけは言っておかねば……」
父の必死な様子を、リュカは目に焼き付ける。父の言葉を一言も漏らすまいと、両耳をそばだてる。
「実はお前の母さんはまだ生きているはず……」
その言葉を耳にした瞬間、今までの父との旅がリュカの頭の中を駆け巡り始めた。母が生きているというその言葉は、リュカの胸に染み渡り、消せない一つの印となった。
父が旅をしていたのは、母を探すためだった。記憶もおぼろげなほど小さな頃より父と旅をしていたリュカは、何故父が旅をしているかなど、考えたこともなかった。リュカの真実は、ただ父について旅をしているということ、それだけだった。信じる父の背中を、リュカはただ見つめ続けていた。
父が旅の目的を話したことは一度もない。それを今、ここで吐露したことは、パパスがその覚悟を決めているということだった。リュカの頭の中に悪い予感が過る。強い父が魔物に負けることなどないと、これは悪い夢なのだと、リュカは夢を消し去ろうとした。笑えば楽しい夢になると、リュカは無理に笑おうとした。
『お父さん、一緒にお母さん、さがそうね』
リュカはそう言おうと、笑顔を作ろうとする。しかし思う言葉は声にならず、笑顔も引きつり、むしろ痛みに耐えるような険しい顔つきになる。
会ったこともない母は、リュカにとってあまりにも漠然とした存在だ。しかし尊敬し信頼する父が必死になって伝え遺そうとしている母の存在は、リュカの胸に深く刻み込まれた。
「美しいですね。……美しいものは、そのままの形で残さなくてはなりません」
ゲマの暗い声が、倒れているリュカの頭上に落ちてきた。ゲマの姿を見ることはできなかったが、その暗い声に、リュカは背筋が凍る思いをした。決して感動しているのではない。美しいと言った親子の愛をそのままに留めようと、ゲマの歪んだ思考が働く。青い両手を高々と上げ、ゲマは巨大な火球を作り出していた。広間がその巨大な火に照らされ、隅々までが顕になる。
眩しいと感じるほどの火の明かりは、リュカたちも照らし出す。目を覚ましたリュカがしっかりとした目で自分を見ていることに、パパスは自然笑顔をこぼした。息子が生きていることに、心から安堵した。
そんな父の、優しく勇ましく、悲しげで切ないような笑顔が、リュカの脳裏に焼き付いた。
「必ず母さんを……」
父の言葉が途切れる。真っ赤に燃える太陽のごとき火球が、ゲマの手から放たれた。パパスの笑顔が火の赤に染まり、直後、その全身が火球に包まれた。赤い火の中で、黒い影が叫び声を上げる。リュカは声も出せずに、ただ炎の中の父の姿を見ることしかできない。
魔法の炎は徐々に勢いを増し、それに反して黒い影が小さくなっていく。爆発するような大きな炎が広間の天井にまで及ぶと、それを最後に炎は一瞬にして消え去った。再び暗がりとなった広間にパパスの姿も気配もなく、石床にはパパスが確かにそこにいたという、大きな焦げ跡と、投げ出された剣だけが残っていた。
「ほっほっほっほっ。子を想う親の気持ちはいつ見てもいいものですね」
ゲマの暗い声が広間に響き渡る。父の声も呼吸も体温も、もうここにはない。ゲマが楽しげに何事かを言っているが、リュカの耳には入らなかった。リュカの目には今、最後に見た父の笑顔が映り込んでいた。
「しかし心配はいりません。お前の息子はわが教祖様の奴隷として一生幸せに暮らすことでしょう」
リュカの隣で、ヘンリーが身動ぎをした。父の笑顔で止まったリュカの記憶に、ヘンリーの泣いている顔が新しく入り込む。ヘンリーの涙がリュカを現実に引き戻す。父を失った悲しみが徐々にリュカの胸の内を抉る。温度を感じていなかった目頭が熱くなり、リュカはようやく涙を流した。
遺跡の暗がりからよろよろと何かが近づいてくる。パパスがいた焦げ跡を気にしつつも、その小さな影はリュカに近づいてきた。階下から戻ってきたプックルだった。プックルは床に倒れるリュカの頭に身体をこすりつけ、そのまま安心したように倒れ、気を失った。
「ジャミ、ゴンズ、この子供たちを運び出しなさい」
ゲマが指図すると、ジャミとゴンズはそれぞれリュカとヘンリーの身体を軽々と持ち上げた。リュカもヘンリーも、抵抗する力は残っていなかった。パパスの回復呪文を受け、大方の傷は癒えていたが、パパスを失った絶望感が二人の力を一切奪ってしまっていた。
「ゲマ様、このキラーパンサーの子は?」
「捨て置きなさい。野に帰ればやがてその魔性を取り戻すはず」
リュカの傍に身を寄せて気を失っていたプックルは、丸くなった態勢のまま、石床の上に倒れていた。リュカがジャミに捉えられても、プックルは小さな寝息を立てて腹を動かしている。
ジャミがぐったりしているリュカを抱え直す。その時、リュカの道具袋から詰め込んでいた道具がばらばらと落ちた。一際重い音を立てて落ち、転がる金色の球体に、ゲマは目を止めた。
「うん? 待ちなさい。この子供は不思議な宝玉を持っていますね」
床に転がり止まった金色の玉を拾い上げ、まじまじと見る。魔物の存在と対称を成すような神々しい光を放つそれを、ゲマは訝しげな顔つきでねっとりと調べようとする。
「この宝玉はもしや……? まあ、どちらにしろ、こうしておくとしましょう」
金色のオーブはゲマの青い手の中に包まれた。ゲマの手の周りに魔力が集中する。そしてその魔力が放出された瞬間、金色のオーブは楽器の不協和音のような音を立てて砕け散ってしまった。オーブが光る粒子となって、パラパラと床に落ちていく。リュカはジャミの手に捉えられながら、その粒子を力なく見ていた。
ビアンカと冒険した思い出が一つ、壊された。金色の粒子が落ちて行くのを、リュカはビアンカが泣いているようだと思った。
「ほっほっほっほっ。さあ、行きましょう」
ゲマの魔力が辺りを包み込む。耳鳴りがするような魔力の膨張に、リュカもヘンリーも頭が揺さぶられた。これから何が起こるのか、これから自分たちはどうなるのか、リュカは何も考えられなかった。父を失った悲しみに支配されるリュカの心に、これからのことを不安視する余裕はなかった。
ゲマの魔法で、空間が一部歪む。遺跡の中に闇の空間が現れたかと思うと、その闇がリュカとヘンリーを捉えた魔物たちを取り込み、包み、消し去った。

静けさを取り戻した東の遺跡に、猫の声が鳴き渡る。寂しく甘えるような鳴き声は、虚しく遺跡入口の広間に響いた。
一人、残されたプックルは、いなくなってしまったリュカを呼び続けた。リュカの匂いを嗅ぎ回ったが、この場所で途絶えたリュカの匂いに、プックルはどこにも移動できずにいた。
リュカがいたすぐ傍に、剣が転がっていた。パパスが魔物との戦いの間に落とした剣だ。汚れ、傷ついた剣の柄を咥え、プックルはその剣と同じ匂いを残した床の焦げ跡までよろよろと歩いて行く。まだ熱の残る焦げ跡の傍に身を伏せ、プックルは咥えていた剣をその場所に落とした。
「にゃあにゃあ……」
何もなくなってしまった遺跡に、ただ猫の声が寂しく響く。

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