2017/12/03

それぞれの時

 

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<サンタローズ>

地面を焦がすような鋭い日差しが照りつける。外にいても家の中にいても、夏の暑さが常に身体を包む。教会の十字架の向こう側には真っ白な入道雲がかかり、青空をより濃く見せている。
まだ時間は昼前の過ごしやすい時。しかし真夏の暑さは日の出の後すぐに地表を包み、昼前には身体を動かすのも辛くなるほどの熱が村の中に充満していた。
サンタローズは夏本番を迎えていた。
家周りの草むしりをしていたサンチョは、流れる汗に目をつむり、首にかけた布で目に入りそうになる汗を拭った。そのまま顔中を拭い、重い体を起こして立ち上がると、サンチョは一息入れようと近くの井戸に向かった。家の前にある井戸には夏にはひやっとするほどの冷たい水が湧き出ている。滑車で桶を引き上げ、桶に入った地下水で顔を洗うと、サンチョは再び首の布で顔を拭った。
家の周りに生える草はまだ無数に伸びている。サンチョは青々と勢い良く伸びる草を見ながら、この家に二年ぶりに戻り、またすぐに旅立ってしまった男の子を思い出した。
「坊ちゃん、お元気でしょうか」
パパスとリュカがサンタローズを再び出てから、一ヶ月半程経っていた。サンチョは家の庭から東の空を望む。東にはパパスとリュカの父子が向かったラインハットがある。サンタローズからその姿を眺めることはできないが、サンチョには見えないその国がどこか憎らしかった。
長旅からサンタローズに帰ってきて、間もなくラインハットからの呼び出しを受けたパパス。国王直々の呼び出しを断ることもできず、すぐに帰るという言葉を残し、リュカを連れて再び旅に出てしまった。それから便りもなく、日は一日一日と無情に過ぎている。
「すぐに帰ると仰ったのに……遅いですよね、旦那さま」
また容赦無く垂れてくる汗を休まず布で拭き、サンチョは大きな体躯を揺らしながら家の中に入った。二年という長い間、じっと一人でこの家でパパスとリュカの帰りを待ち続けていた時、サンチョは今ほど空虚な感じを味わってはいなかった。パパスの強さを信じていた。たとえリュカに危険が及ぶという悪い想像が働いても、それはすぐにパパスの強さによって解決された。
サンタローズ村のこの家に、つい一ヶ月前までパパスとリュカの温度があった。二年ぶりに戻ってきた二人のために食事を作り、話をし、二人の無事な顔を見るだけでサンチョは幸せだった。今、二人のために生きているということを心から実感していた。
二人がこの家を再び出てから夏を迎えたというのに、サンチョはこの家の温度に悪寒を感じることがあった。二人が旅立ってからまだたった一月半しか経っていない。二年も旅に出ていたときに比べれば、まだ大して時は経過していないのだ。それなのに、サンチョは誰もいないこの家の雰囲気に何故か馴染めずにいた。
「……こうしていても仕方ない」
サンチョは一人呟き、息をつくと、首にかけた布もそのままに再び玄関を出た。玄関の取っ手に外出先を表す木札をかけた。外を照らす日差しはこれからまだまだ強くなる。真昼の時間になる前にと、サンチョは歩いて教会に向かった。
道すがら村人たちが声をかけてくる。その内容は大抵、パパスとリュカのことだった。村人たちも二年ぶりに戻ってきた二人を歓迎し、これからゆっくりと話などをしようと思っていたのだろう。その矢先、父子は村人に軽い挨拶をして、また旅立ってしまった。詳しい話など聞いていない村人たちは、一様にサンチョに色々と聞いてくる。しかしサンチョもラインハットからの呼び出しで旅立ったこと以外何も聞かされておらず、問いかけてくる村人たちに答えようもないのが事実だった。
「サンチョさん、あれからパパスさんから連絡があったりしたんですか」
そう聞かれることもある。サンチョはその言葉を受ける度、不安が募っていった。ラインハットへはここから歩いて一週間もあれば着く距離にある。旅慣れたパパスとリュカならば、途中で迷うこともなく、順調に一週間程でラインハットに着いているはずだった。
人々の住む街や村などに着けば、パパスは必ず頼りを寄越すだろうと、サンチョは日々それを待っていた。しかもラインハットのような大きな国に、便りを出す機関がないわけがない。家にいる時、便りを持つ鳥がいつ入ってきても良いように、サンチョは常に二階の窓を開けていた。自分のいない時に人が来てはいけないと、家を空ける時は必ず行き先をドアノブにかけることにしていた。もしラインハットからの使者が来ても、木札を見れば、村人に尋ねたり、その場でサンチョを待つこともできるだろう。
しかしこの一月半、パパスからの頼りは何もない。まだ一月半しか経っていない、何も不安になることはないと、サンチョは自分に言い聞かせるが、ある時不安に負けそうになる。そんな時、サンチョは教会に向かった。
村の教会はそれほど立派な造りではない。しかし屋根の上に掲げられる大きな十字架は、否応もなく威厳を漂わせる。サンチョは青空に映える十字架を仰ぎ見ると、教会のドアをゆっくりと押した。
「サンチョさん、こんにちは」
若いシスター見習いの少女が笑顔で迎えてくれる。教会の人たちはサンチョに色々なことを聞いたりはしない。彼らは教会を訪れる人の悩みを聞き、笑顔で答え、良い方向へと導こうとしてくれる。サンチョは祭壇の前まで進み、最前列の席に腰掛けた。教会の長椅子は真夏でもひんやりしており、サンチョは体中の汗が一気に引くのを感じた。
「また、来てしまいました」
サンチョはいつもの和やかな笑顔でシスター見習いの少女に言った。少女はまだ子供のような笑みを浮かべ、長椅子に座るサンチョを見つめている。
「暑い中ご苦労さまです。ここはいくらか涼しいですから、ゆっくりしていってくださいね」
太ったサンチョは家を出てこの教会に来るまでに、全身汗だくになっていた。癖毛の茶色い髪が額に張り付き、首にかけた布を顎の下に当てて汗が落ちるのを防いでいる。息を整えながら目を瞑っているサンチョに、奥から出てきた神父がコップ一杯の水を差し出した。
「サンチョさん、とりあえず水をどうぞ」
「ああ、すみません。ありがたくいただきます」
神父から受け取った水を二口三口ほどで飲み干すと、両手を添えてコップを返した。喉を通り胃に染みるような冷たい水に、サンチョの大きな身体は徐々に冷えていった。
「……旦那さまからのお便り、今日こそ来るでしょうか」
サンチョの口からこぼれた言葉を、神父は優しく拾い上げる。
「そうですね、もし大変なお仕事をされているようでしたら、今日辺りに一度、お便りが来ても良いかも知れませんね」
「それとも、突然お帰りになるかも知れないですよね」
「ええ、そうですね。ついこの前お帰りになった時も、予定よりもかなり早かったんですよね」
「はい。後で伺いましたら、何でも、世界一速い船に乗れたようで、それでお帰りがひと月近く早まりました」
「今回もそのようなことがあるかも知れませんよ」
神父の言葉は優しい。しかしサンチョの心の不安は拭えない。
「……しかし、今回はラインハットへ出かけただけで、船を使うこともないし……」
「もしかしたら、ラインハットからまた違う場所へお出かけになったのかも知れません。ラインハット王から直々のお呼び出しだったのでしょう。それも世に聞こえるパパス殿の強さ故。強さを見込まれ、何かの遠征に参加するよう王命が下った、ということも十分考えられますよ」
神父の考える理由はあながち間違いとも言えないものだった。近年のラインハット王国は軍事に力を入れている。近くの小さな村に、音に聞こえる戦士が帰還したとなれば、王国として動き出すのは理に適っている。村人たちもそうサンチョに話をしてくることがあった。
神父の言葉に、サンチョはぎこちない笑顔を返す。パパスの強さが理由でラインハットに呼ばれたわけではないことを、サンチョは知っている。パパスは他の理由で呼び出しを受けたのだが、はっきりとした理由はサンチョも知らない。その見当もつかない理由が、サンチョを苦しめていた。
どうにもならない不安を抱えながら、サンチョは二、三日に一度はこうして、教会を訪れていた。家で草むしりをしていても、洗濯物を干していても、村人たちと立ち話をしていても、気持ちが落ち着かない時は教会で祈りを捧げるのがサンチョの習慣になっていた。神父やシスター見習いと会話し、その後一人で静かに祈る。今も神父がコップを持って奥に姿を消し、シスター見習いの少女も教会を出て、庭の花壇に水やりをしている。
「旦那さまを信頼していないわけではございません」
サンチョは両手を組み合わせ、目を瞑り、見えない神に向かって告白する。
「私の不安は……一体どうしたものなのでしょう。自分でもよくわかりません」
祭壇奥の十字架は静かにサンチョを見つめ、その声を拾っていく。
「あと半年……半年お戻りにならなかったら、私もラインハットに向かうことをお許しいただけますか」
サンチョはこの日、決意をした。待つばかりの日々を過ごしていると、不安が増大していくだけだと、サンチョは自ら動くことを決めた。祈り、神に告白することで、その決意は完全に固まった。
ゆっくりと目を開け、サンチョは十字架を見つめた。小さな村の教会の十字架は、さほど豪華でもきらびやかでもないが、厳かな雰囲気は変わらない。教会全体を包む厳かで温かな雰囲気の中、サンチョはすっきりした表情で次にやるべきことに向かうことにした。
汗も引き、すっかり涼んだサンチョは、奥にいる神父に礼を述べると教会を出た。扉の外ではシスター見習いが太陽の強い日差しを浴びながら、花壇にジョウロの水を撒いていた。長衣に身を包み、長い袖は肘の辺りまで折り返している少女のこめかみには労働の汗が光っていた。教会に着いた時よりもいくぶん日が昇り、これからますます日差しは強くなる。
「あら、サンチョさん、お戻りですか」
「はい。お陰様でいくらか迷いが晴れたようです」
「そんなお顔をされていらっしゃいますね。良かったです」
にっこりと微笑む少女の顔はまだ幼い。そんな幼い表情にサンチョはリュカを重ね見た。二年の旅の間にすっかり成長していたリュカ。まだ六歳という幼いリュカだが、これからみるみる背も伸び、あっという間にサンチョを追い越していくかも知れない。
そんな成長を想像しただけで、サンチョの顔は自然と笑顔になる。リュカの未来はこれから拓かれていくのだ。その未来を守るのも自分の仕事だと、サンチョは親心にも似た感情で前を向いた。
半年後、二人がまだ戻らなければ、サンチョはサンタローズを旅立つ。こうと決めたサンチョはまず家に帰ってから暦に印をつけることを思い立っていた。半年が経つ前に二人が戻れば、それに越したことはない。もし戻らなければ、ラインハットへ向かう、それだけのことだ。迷いを捨て、不安を押し込み、サンチョは夏空の下を歩きながら、再び家に向かって歩いて行く。



<ラインハット>

厳しい残暑の時期も間もなく過ぎ、季節は秋を迎えようとしていた。ラインハット城の中庭には木の葉が落ち始め、風に吹かれて散らばる木の葉を、掃除する人間はいない。草も伸び放題の中庭には、人が住む場所にはいる筈のない魔物の姿があった。黄色の硬い皮膚に覆われた小さなドラゴンが、中庭の木に止まり、城の中の様子を窺っているように見える。
ドラゴンキッズが止まる枝からは城の二階部分が覗けた。閉め切るとまだ暑いのか、二階の窓は薄く開けられ、風通しをよくしているようだった。その窓の内側から、母子のやり取りが漏れてくる。
「デールや、そろそろ食事の時間ですよ。お勉強はその辺にしましょう」
「はい、母上」
ラインハット妃の言うがまま、デールは机の上に開いていた本に栞を挿み、静かに閉じた。机の端に本を寄せ、席を立ったデールはふと窓の外を眺めた。幼いデールの視線の先には、空を覆う一面の雲があった。陽の光が差し込まない部屋は暗かったため、昼間の時間にも関わらず机の上の燭台には火が灯されていた。窓を薄く開けてはいるものの、デールの部屋の中には蝋の臭いが漂っていた。
灰色の雲は濃く、今にも雨が降り出しそうだった。背後でラインハット妃が燭台の火を吹き消した。
「さあ、行きますよ。お父様がお待ちです」
そう言いながらラインハット妃は薄緑色のドレスの裾を翻した。上質な絹糸で折り上げられたドレスだが、今日のような薄暗い部屋の中ではその色が濃く見えた。デールは緑色の母のドレスを見ながら、じっとその場で立ち止まった。
「母上」
「どうしたのです、デール」
「兄上はいつ、戻ってくるんですか」
デールはヘンリーが城から消えた後、何度となく母にこう聞いていた。その度に母の顔は一瞬歪み、デールの純粋な視線から逃げていた。そしてそのすぐ後に、何事もなかったかのように笑顔に戻り、デールに言うのだ。
『ヘンリーは今、遠い国にお勉強に行ってるのです。デールが王様になったら、ヘンリーが助けてくれるよう、今色々と学んでいるのです』
デールはいつもの言葉が返ってくるのだろうと思いながらも、問いかけをせずにはいられなかった。突然姿を消してしまった兄の存在が、デールはいなくなってしまってから大事だったことに気がついた。

物心つく前から机の前に座らされ、気がつけば母が横につきっきりで読み書きの練習をしていた。ラインハットの王子として生まれ、勉強するのは当たり前だと母に言われ育ったデールにとって、もう一人の王子の行動は不可思議なものだった。兄に当たるもう一人の王子はと言えば、勉強している素振りなど見せず、城の中をふらふらと歩きまわり、兵士にちょっかいを出したりして楽しんでいたのだ。そんなヘンリーを見て、デールは少なからず羨む気持ちがあった。
ヘンリーはデールにもいたずらをした。部屋で机の上に本を開き読んでいた時に、窓の外から突然トカゲが放り込まれたのだ。驚いた拍子にデールは机の隅においてあるインク壺をひっくり返し、机の上黒く染めた。その時のシミは完全には落ちず、今でも机には薄墨の地図を描いたようなシミが広がっている。
しかしその一度のいたずらで、ヘンリーは母に『もうこの部屋には近づくな』と命令されてしまった。兄を冷たくあしらう母に、デールは悲しい気持ちになった。
そう言われたヘンリーが素直に母の言うことを聞くこともなく、デールの部屋に母がいないのを見計らって、ヘンリーは弟にちょっかいを出しにきた。部屋の外にデールを連れ出し、庭の木に登らせたこともあった。木登りなどしたこともないデールは、一番低い枝に足をかけただけで、それ以上進むことは出来なかった。枝を伝い、あっという間に高いところまで登る兄の姿を、デールは下から覗くことしかできずにいた。
『デール、お前も早く来いよ』そう言われてもデールはその場から動くことが出来なかった。手も足も震えて、その場から登ることも降りることもできなかった。怯えた様子の弟をしばらく上から見ていたヘンリーだったが、あっという間にデールのいる枝まで降りてくると、何も出来ずにいるデールを後ろから両手で抱えて、弾みをつけて飛び降りた。何が起こっているのかわからなかったデールは、気づいたら庭の草の上にヘンリーと一緒に寝転んでいた。大した高さではなかった。飛び降りられるような高さだった。
『お前、オトコだろ。こんなこともできないでどーすんだよ』庭の一角にあぐらをかいて座るヘンリーを見ながら、デールは思わず笑ってしまった。偉ぶるヘンリーの鼻の下に黒いてんとう虫がついていたのだ。
『兄上、ハナのところに虫がついてます』デールがそう言いながら自分の鼻の下を指さすと、ヘンリーはそっと自分の鼻の下を探った。動くてんとう虫を上手く指先で捕まえると、そのまま片方の手の甲に乗せ、そっと息を吹きかけた。息に煽られたてんとう虫はそのまま外の風に乗って飛んでいった。
飛んでいったてんとう虫を見つめる兄の横顔が、とても優しかった。いたずらする時のような意地悪な顔つきでもなく、誰かを怒鳴るような激しい顔つきでもなかった。その時の兄の優しい横顔が、デールの記憶に深く残った。
それから後、実は兄は優しいのだと、デールは思うようになった。トカゲやカエルをけしかけられようが、かけっこで容赦無く引き離されようが、デールは部屋をこっそり抜け出してはヘンリーの後をくっついて動くようになった。ヘンリーもまた、デールにひっつかれるのを本気で嫌がることはなかった。

そんなヘンリーが突然、城から姿を消した。それ以来、ラインハット国王である父はめっきり痩せ、今や食事の量はデールよりも少ない。これから食事の用意されている広間に行くが、そこには元気な父王の姿はない。目の下は黒ずみ、頬はこけ、デールと同じ茶色の髪には全く艶がなくなっている。デールはそんな父の姿を見るのが怖かった。デールに笑いかける父王の笑顔は、もう芯から明るいものではなくなっていた。
城全体も何か明るい灯を失ったかのように、ひっそりとしていた。やんちゃなラインハット第一王子の存在は、知らず城を活気付けていたのだ。城の人々はこぞってヘンリーのいたずらに困り果てたような様子を見せていたが、それがぱたりとなくなった瞬間、人々はある種の緊張を失った。ヘンリーのいたずらがなくなったことを、本気で喜ぶ人間がいないことに、彼ら自身驚いていた。
沈んだ城の中で唯一、母は別段変わった様子もなく、今まで通りにデールに接していた。まるでヘンリーが初めからいなかったかのように、母は今まで以上にデールだけを見つめ始めた。ラインハットをいかに強国にするかをデールに言い聞かせ、ひたすら我が子を立派な王にするべく四方に手を伸ばし始めた。母が手を伸ばす先に、何やら怪しげな輩が混じっていることは、王や城の者だけではなく、デールにも分かっていた。
デールのいつもの質問に、母は答えないまま、部屋の扉を開けた。食事の間に移動するのだと、デールに微笑みかける。そんな母の態度がまるでヘンリーの存在を全て否定しているようで、デールは寒気すら覚えた。
そんな有無を言わさぬ母の態度に、デールは無言で従った。開かれた扉を出て、母の後をついて廊下を歩いて行く。広い廊下に人の通りはない。ただ下り階段の脇に、兵士が一人立っている。デールたちが食事に広間へ向かう際、いつも同じ兵士がここにいた。そして兵士は決まった小瓶を母に手渡す。小瓶の中には薬らしき薄紫色の液体が揺れていた。母はそれを「父上が元気になるためのお薬」とデールに話し、食事の度に父王に飲むようテーブルの上に置いておく。ヘンリーがいなくなってから始まった、新しい習慣だった。
広間にはすでに父王が席に着いていた。デールが広間に入ると、父王は力なく微笑みかける。
「あなた、お食事の後にはこちらを必ずお飲みください。早く元気になるようにと、先生が処方してくださっているのですから」
デールの母はそう言いながら、席に着く前に父王の前に小瓶を置いた。ラインハット王は小瓶を手にして、蓋を開け、臭いを嗅いだ。しかめた顔のまま妃を見上げる。
「これはとても不味い。飲む度に病気になりそうな気がする」
「何を仰っているのですか。お薬を飲まなければ元気になれませんよ」
妃はドレスを翻しながら、デールの隣の席に着いた。向かいにいつもいたヘンリーの姿はもちろんなく、いつの頃からかヘンリーの食事も用意されなくなってしまった。
食事の時間が始まった。デールの母が他愛もない話を始め、父が返事にもならないような相槌を打つ。食事の間に響くのは主に食器のカチャカチャという乾いた音だ。しかしその音を出すのはデールと母だけで、父はまだ何も手をつけていない。白いクロスの上に置かれたままのスプーンとフォークを見ながら、デールは痩せた父をちらと覗き見る。
「あなた、少しはお食べにならないと」
「ああ、分かっている」
「分かっていらっしゃらないじゃありませんか。あなたがしっかりしてくれないと、デールにも悪影響を及ぼします。デールには立派な国王になってもらわなければならないのですから」
妃にまくし立てられると、王はそれ以上話すことはなく、スプーンで豆のスープを掬った。食欲のない国王を気遣い、調理場の者は柔らかく煮た豆のスープをメニューに加えていた。しかし王はスープを一口、口にしたきり、また手を止めてしまう。
テーブルの右側にはいつも、自分と同じ目をした息子が座っていた。そばかす顔のいたずら好きなヘンリーは、この食事の席でも突然、カエルをテーブルの上に出したことがあった。子供の手にも悠に収まるほどの小さなカエルだった。デールはそれを見て目を輝かせ、カエルを触ろうとしたが、妃が悲鳴を上げてそれを止めた。ヘンリーはデールを止めていた継母に、最高に楽しい表情を隠さず、服の中に潜ませていたもう一匹の大きなカエルを投げた。ドレスの腰にへばりついたカエルを見て、継母はその場で気を失ってしまった。何年か前にそんなことがあったのを、王ははたと思い出した。
今でもその時のヘンリーの笑い声が聞こえてくるようだった。自分のいたずらに継母が反応することに、ヘンリーはどこか喜んでいた。王はそんなヘンリーを叱ることもあったが、大体は子供の些細ないたずらだと大目に見ることにしていた。実の子であるデールばかり構う継母に、振り向いて欲しかったのかも知れないと、王は考えるようになっていた。
「ヘンリーはまだ、見つからないのか」
ぽつりと呟いた王の言葉に、妃の表情が凍りついた。母の様子が一変したことに、隣に座るデールは思わずフォークを持つ手を止めた。
「あなた、何を仰っているのですか」
「ヘンリーはまだ見つからないのか、と言っただけだ」
王の視線は妃の鮮やかな緑色のドレスに注がれていた。新緑の季節を思わせるその緑色は、嫌でも息子ヘンリーを思い出させる。
「まだ見つからないのかだなんて、おかしなことを言いますわね。ヘンリーは今、デールのために外国で……」
「もう嘘はよさないか。デールだってもうおかしいと気づいているはずだ。城の者だって突然ヘンリーがいなくなって、皆それぞれ噂している。……すべて根も葉もない噂だ」
「ぼくも、聞きました。兄上はあの男の人に連れて行かれたって」
デールは震える声で話しながら、隣に座ってる母を見た。母は食事の手を止めてはいたが、とくに変わった様子もなく、二人の家族を見つめている。
「全く根拠のない噂だ。パパスがそんなことをするはずがない。彼は私の友人だぞ。それにパパスの息子まで一緒に行方不明になっているんだ。あの日、何かがあったはずなんだ」
ラインハット王は真剣なまなざしで左側の末席に座る妻を見た。鮮やかな空色の瞳はあまりにもヘンリーのものと似ていた。まるで城から姿を消したヘンリーに見つめられているようで、妃は思わず震える手をテーブルの下で押さえつけた。
「私は……デールに心配かけないように、ヘンリーは遊学しているんだと申していただけです。あなたのご友人であるあの男にヘンリーをお預けになったのではないのですか」
「預けてはおらぬ。ヘンリーを長い期間預けるのに、お前に言わないはずがないだろう」
「そんなこと、わかりませんよ。第一、あの子は私の子では……」
妃の口から出かかった言葉に、王は強い反応を示した。途中で口を噤んだ彼女は、夫の射貫くような鋭い視線から逃れ、水の入ったグラスを取った。一口水を飲むと、妃は話を切り返す。
「早く食事を終えなければ、次のデールのお勉強の時間が短くなってしまいます。さあ、食べましょう」
そう言って上品に食事を再開する母を見て、デールも静かにスプーンを動かした。すっかり冷めたスープはもう香ばしい匂いを湯気に漂わせていない。隣で母が黙々と素早く食事をしている姿を見て、デールは有無を言わさぬ雰囲気を肌で感じた。何も言えないまま、デールも母と同じように食事を進める。しかし王は一人、スプーンもフォークも持たずに、ただ広間の大きな窓の外を眺めていた。すっかり秋の気配が漂い、城の中庭には葉がちらほらと落ち始めている。手入れのされなくなった中庭の大木に、王は魔物の姿を見た。黄色い小型のドラゴンが、まるで王に気づいているかのように大窓から城の中を眺めている。隙のない魔物の目と遭い、ラインハット王は思わず身震いするのを感じた。
「私も賛同したが、軍備を増強するにしても、魔物を取り込むというのは果たして良いものなのか」
「何を悠長なことを仰っているんですか。魔物だって、悪い輩ばかりとは限りませんよ。皆、おとなしく言うことを聞いているじゃありませんか」
妃は白い布ナプキンで口元を拭いながら、なんでもないことのように話す。そんな妃の姿が、王には異様に感じられた。魔物の存在に慣れることが果たして良いことなのか、王にはまだ確固たる自信はなかった。
しかし魔物を国の軍備に取り入れることを、国王が受け入れていたのも事実だ。理由はひとつ、夏のあの日、パパスの息子が連れてきたキラーパンサーの子供だった。最も信頼する友人の一人、パパスの息子が魔物の子供を連れているのを見て、王は人間と魔物が共に生きることの可能性を見た気がしたのだ。魔物の子供を連れ歩く息子を、パパスが咎めている様子もなかった。そんな父子の姿が、ラインハット王の魔物に対する壁をいくらか取り除き、妃の進める魔物を取り入れる軍備増強を拒否しなかった。
今では城の中にも魔物の姿があり、まだ魔物の姿に慣れない城の人間は恐る恐るその近くを通り過ぎる。人間に危害を加えることはなかったが、兵士の詰め所にたむろする魔物の集団を見たラインハット兵たちは恐れおののき、詰め所を魔物に明け渡す始末だった。
ヘンリーが消え、同時にパパスとその息子リュカも姿を消した後、ラインハット王は全ての事象において自信を失っていた。信頼する者たちが一度にいなくなったことで、王は心の均衡を崩した。冷静な判断ができない自分の代わりにと、王は妃に判断を委ねることも多くなっていた。妃の強い勧めで魔物を城の中に取り入れたことも、その時は何も間違ってはいないと思っていた。
暑い夏の日にヘンリーたちが姿を消し、今はもう秋の気配が漂ってきている。以来、王は各地に情報網を巡らしているが、何も手がかりは掴めていない。しかしまるで神隠しに遭った我が子を、王は到底諦めることなどできなかった。
「あなた、お食事は召し上がらないのですか」
妃に言われ、王は頷いた。しっかりと食事を済ませた妃に対し、王はスープを一口、口にしただけだ。しかしそんな王には構わず、妃は給仕に合図を送り、テーブルの上に乗る食器を片付けさせた。心配そうに王を横目でみる給仕に、妃は「早く片付けなさい」と言わんばかりに鋭い視線を投げつけた。
「元気になるように、せめて薬は飲んでおいてくださいね。デールも心配していますよ」
「……父上、元気をお出しください」
まだ幼いもう一人の息子に言われ、王は力なく微笑んだ。妃に渡された小瓶の蓋を取り、中に入った液体を苦々しい顔で飲み干す。一度咳をし、小瓶をテーブルの上に置くと、王は口の中を洗うように水を一気に流し込んだ。
「兄上は必ず、かえってきます。ぼく、そう思います」
「……ああ、そうだな。私もそう信じている」
デールの無邪気で心ある一言が、王の気持ちを少し浮上させる。無事だと信じなければ、そこで終わりだ。王は喉の奥にまだ残っている薬を、洗い流すようにもう一度水を口に含んだ。胃に到達した薬が徐々に体に拡散されていくような感覚を、王はあまり心地よくない気分で味わう。薬を服用後、決まって吐き気が王を襲うのだ。それを抑えるために、王は食事の後しばらく横になることが多かった。
「私は一度、部屋に戻る。後は代わりに頼む」
「はい、ゆっくりお休みになってください」
妃は退室する王を穏やかな笑顔で送り出した。部屋を出て少し咳き込む王に、デールが不安な表情を隠さない。そんなデールの口元をナプキンで拭き、ラインハット妃は優しく息子の肩に手を置いた。
「さあ、食事が済んだら午後のお勉強の時間ですよ。母上もついていますから、一緒に……」
「兄上はいつ帰ってくるんですか」
デールの同じ問いかけに、母は困ったような起こったような顔つきで息子を見る。席を立ち、王が飲み干した薬の小瓶を手にすると、食事の間を出ようと扉に向かう。デールも椅子を降りて母の後をついていくと、母は部屋の外で待ち構えていた兵士に小瓶を渡した。兵士は一礼し、城の廊下をゆっくりと歩いて姿を消した。
「母上にもわかりません。ヘンリーの頭では外国でのお勉強が上手く進むとも思えませんし……」
母はいつものようにヘンリーは勉強のためにラインハットを出ているという話をする。先ほどの王との話で、ヘンリーは忽然と姿を消したのだと、デールにも知れている。しかし可愛い息子には厳しく汚い現実を見せたくないのか、ラインハット妃は自然な態度で嘘をつき続ける。デールはそんな母に合わせるように、言葉を選んだ。
「お勉強はラインハットでするわけにはいかないんですか。どうして外国でしなきゃいけないんですか。ぼく、兄上といっしょにお勉強したいし、遊びたいです」
「何を言っているんですか、デール。あんないたずら小僧と遊ぶだなんて、母上は許しませんよ」
「でもぼく、兄上と……」
「あの子供はもうここにはいないのです。デール、元からあの子供がいなかったと思いなさい。そうすれば辛いこともなにもなくなります。母上の言うことをちゃんと聞くのです。母上はあなたのことを思って言っているのですよ」
一見穏やかではあるが、決して反論を許さない厳しい雰囲気に、デールは母から視線を逸らした。デールにとって、母の笑顔は他の何にも喩えられないほど優しい。しかし慕う兄を否定する母の姿を、デールはまともに見ることができなかった。
ラインハット妃はデールが大人しくなったことに安堵した様子で、城の廊下を歩き始めた。デールはその後を静々とついて歩くだけだ。母の緑色のドレスが廊下の絨毯に黒い影を落とす。その黒い影を見つめるデールの目に涙が滲み、絨毯にぽたりと涙が落ちた。後ろで泣いている我が子に気づかないまま、ラインハット妃はデールの部屋を目指して悠然とした足取りで歩いていく。

薬の小瓶を持った兵士は、そのまま城の中庭に向かった。草も伸び放題の中庭に人気はなく、鳥のさえずりも聞こえない。荒れた中庭を兵士は辺りを見回しながら、ひとつの大木に向かって歩いていく。
大木の枝には小型のドラゴンが止まっていた。兵士の姿に気づいたドラゴンは、分厚い羽を風に乗せて、中庭に舞い降りてきた。魔物の姿におののく兵士だが、その黄色いドラゴンの前に小瓶を置くと、すぐにその場を離れた。
「薬を頼むぞ」
兵士が一言言うと、ドラゴンは鋭い爪の生えた足で小瓶を掴み、再び宙に舞い上がった。一声、恐竜のような声を上げると、ドラゴンは南に向かって飛び去って行った。
『南の地には王の病気が良くなる薬を処方する薬師がいる。遣いのドラゴンがその薬師の元へ薬を取りに行ってくれるだろう』
兵士自身、魔物に薬を依頼するのは気が進まなかったが、ラインハット王妃の言葉とあっては逆らうわけにもいかなかった。王妃も心の底から王を心配しているのだ。王が以前のように元気を取り戻すためにはと、王妃は良からぬ輩から情報を入手し、信じ、おそらく手を出してはいけない薬を取り寄せている。兵士は気づいていたが、それを止める手立てもなかった。
南の地にはかつて、人々が住み、栄えた土地があった。昔は人々が憩いの地として訪れた美しい湖があった場所に、今では毒の沼地が広がっている。空高く飛ぶ黄色い竜は、上空のひんやりとした空気の中をゆっくりと飛び、南の地にぽつんと存在する紫色の沼地で待つ仲間のところを目指していった。



<アルカパ>

冬の訪れを感じさせる冷たい風がアルカパの町の中を過ぎていく。空は白く曇り、今にも雨が降り出しそうなほど、雲は厚みを増している。町の人々はじきにやってくる冬に備え薪を蓄えたり、新しい外套を買いに衣料品店へ足を運んだり、買出しの回数を減らすために保存食を作ったり、忙しない時間を過ごしていた。
アルカパの町のシンボルともなっている大きな宿屋でも、同じように冬支度に追われていた。近年、宿の宿泊数は減ってきているが、泊まりに来てくれた客には最高のもてなしをと、ダンカン夫妻はあくせく働いていた。
宿泊数が減っている原因は、ラインハットの不穏な動きによるものだった。以前までのラインハットとは違い、ここ数ヶ月で急激に軍備を増強しているという噂が、旅人の話からアルカパの町にも響いていた。アルカパの住人の内、何人かが様子を見にラインハット国境の関所まで行ったようだが、いずれも「用のない者の入国を禁ずる」と、にべもなく入国を拒否されて帰ってきたようだった。
旅人が泊まる宿屋には様々な情報が入り乱れる。ダンカン夫妻は客の話す話はいずれも穏やかに聞き、少しでも安らぎを提供できるようにしていたが、一つだけ、彼らが心穏やかにしていられない話があった。
『サンタローズからの旅人が、ラインハットの王子を誘拐したらしい』
火のないところに煙は立たない。ダンカン夫妻はその話がパパスとリュカに関係するものだと、すぐにわかった。夫妻は宿に訪れたその旅人から詳しい話を聞きだそうとしたが、彼も人伝にそう聞いただけで、細かいことは何も知らないようだった。
ダンカン夫妻はもちろん、パパスが王子を誘拐するなど微塵も信じてはいなかった。しかし彼らの身に何かが起きたのは嫌でも感じた。ダンカンは居ても立ってもいられなかったが、あまり身体の調子が良くなく、宿業を妻に押し付けるわけにもいかず、結局アルカパに留まり続けている。
その話を聞いてから、ダンカンは宿の客に自ら話を聞きだすようにしていた。世界中を旅してきた客も訪れるが、ことラインハットの話になると、なぜだか皆口が重くなるようで、あまり話したがらなかった。
悪い噂はあっという間に町中に広がった。町の人々はひそひそと話をしては、悪いものを共有することで、ある種の安心を得ていた。今ではラインハットの不穏な噂を知らぬ者は、犬猫以外にはいないほどになっていた。
町の子供たちも、その噂を共有していた。大人とは違い、子供たちは見知らぬラインハットという国で起きていることに現実味がないようで、強国を目指すその国に憧れる子供もいた。町の少年たちはラインハットで募集をかけている兵士に志願することを夢見て、友人とちゃんばらを楽しんだりしている。
彼らの中では、ラインハット王子を誘拐した者が悪者で、軍事に重きを置こうとしている強いラインハット国は憧れのヒーローだった。
そんな少年たちを正すように、ビアンカはことある毎に、少年たちと喧嘩をしていた。ラインハットは悪いところだ、旅人は王子を誘拐なんかしていないと、自分の信じるものを必死に訴えた。しかし言えば言うほど逆効果で、ある日、調子づいた少年の一人がビアンカの心を抉るような一言を突きつけた。
「あの生意気なムラサキマントのガキの親父だろ。あいつ、怖そうだったもんな。旅人とか言うけど、お前、あいつが何者かとか、知ってんのかよ。あいつが悪くないって、どうして言えるんだよ」
少年の言葉に、ビアンカは思わず言葉に詰まった。ビアンカはパパスのことを何も知らない。父母に聞いたこともあったが、ただ「世界中を旅する強い剣士」としか聞いたことがなかった。ビアンカがパパスを信じる理由は、ダンカン夫妻に優しく、ビアンカに優しく、関わる全ての人に優しかったからだ。ビアンカにとって理由はそれだけで十分だった。しかし人に説明できるものとしては弱いものだった。
やり場のない怒りがこみ上げたビアンカは、その怒りのままに、少年に呪文を浴びせてしまった。町の中で呪文を唱えることは父と母に固く禁じられていたにも関わらず、気づいたときには少年の足元に火を投げつけていた。少年に怪我はなかったが、少年たちはビアンカの怒りを怖がり、別の場所に移動していってしまった。
家に戻り、ビアンカは父と母に素直にそのことを話し、叱られる前に一人で家を出て、今、広場の木に登っている。町の中で呪文を唱えることを破った反省の意味もあったが、少年に言い返せなかった自分に悔しい思いがこみ上げ、心を落ち着けるためにいつものこの場所に来ていた。
間もなく冬になろうとしている季節、登る木にはさびしいほどの葉しか残されていなかった。そのおかげで、枝の隙間から白い空がそのまま覗ける。
ちょうど昼時で、広場で遊ぶ子供たちはそれぞれの家で食事をしている時間だった。広場にはビアンカ以外、誰もいない。静かで冷たい広場を見下ろし、この枝から見える教会の十字架を遠くに見やった。十字架はいつもと変わらず、白く、無感情にそこにある。
「……でも、私、悪いことなんかしてないわ」
町の中で呪文を使うことは悪いことだとわかっている。しかし思わず使ってしまったその理由を、ビアンカは譲れなかった。
パパスとリュカがサンタローズの村を出て、ラインハットに向かったことは後で知らされた。その季節はもう夏に近い時だったらしい。その話を聞いた時、ビアンカは「ずるい!」と口にしていた。リュカとは「また冒険しよう」と約束していたのだ。そんな約束など忘れて、旅に出るときに便りも出さずに、リュカは勝手に隣村を出て行ってしまったのだ。
「せめてお手紙だけでもくれればいいのに……あ、リュカはまだ字が書けないんだっけ」
サンタローズのリュカの家で、呪文書を読み聞かせていたことをビアンカは思い出す。ビアンカが文字を追って読むのに対し、リュカは字などまるで見ずに、挿絵ばかりをまじまじと見ていた。
「でもあれから勉強したかも知れないわ。字だって書けるようになってるかも知れない。だったら、お手紙くらい書いてくれても良かったのに」
その後便りもなく、人伝に聞く噂だけで、ビアンカはリュカが行方知れずになったことを知った。父や母に何度も「サンタローズに行こうよ!」と声をかけた。娘に言われるまでもなく、ダンカン夫妻は隣村に行くことを考えたが、日々の宿業を営んでいるうちに、いつの間にか時は過ぎ去り、季節は巡っていた。そんな父と母を見て、ビアンカは無理を言えなくなってしまった。一人でこっそりとアルカパの町を抜け出し、サンタローズの村まで行こうかと思ったが、父と母の心配する顔を想像し、踏みとどまった。
「そのうちパパスから『元気にやっている』なんて便りがくるだろう。二年前に旅に出た時もそうだった。今回もきっと、同じだよ」そう言った父の顔つきが本当の笑顔ではなかったことに、ビアンカは気づいていた。人伝に聞く噂も、パパスが旅に出た、というものではなく、パパス父子が行方知れずになったという悪い意味を含むものだ。ビアンカは宿業の手伝いをしながら、いつかサンタローズに行って確かめるのだと、密かに決意を固めていた。
太い枝に腰掛け、大きな木の幹に手を添える。冬の気配を漂わせる空気に触れた木の幹は、手にびっくりするほど冷たい。木に虫の姿はなく、すでに冬篭りの準備をしていることを窺わせる。あと一月もすれば、アルカパの町にも雪が降り始めるだろう。アルカパより少し北に位置するサンタローズの村には少し早く雪が落ちてくるかもしれない。雪が降るような季節になってしまうと、やたらと町の外へ出るわけにはいかなくなる。そうなる前に、ビアンカはサンタローズに行かなければと、どこか気持ちが逸っていた。
「私、パパスおじ様のことも、リュカのことも……何にも知らないんだな」
喧嘩をした少年に言われ、初めて気がついた。聞く噂に悪いものはなく、ビアンカは無条件にパパスとリュカのことを信用していた。第一、リュカとは一緒に町を抜け出し、レヌール城へ探検までした仲だ。共に危険な目に遭い、潜り抜けてきた経験は、リュカに対する信頼を更に増した。
ラインハットでの王子失踪事件以来、このアルカパの町にもラインハット兵が姿を現すことがあった。サンタローズにいた父子の行方を聞き回っていたようだった。ビアンカの父母、ダンカン夫妻もラインハット兵の聞き込みを受けていたが、パパスとリュカのことは一切語らなかった。町に住む人々はたった何日かしか滞在しなかったパパスとリュカのことをあまり覚えてはおらず、兵士に聞かれたところで、「知らない」と答えるだけに留まった。喧嘩をした少年たちも、彼らの親に言いつけられていたのか、兵士に軽々と話をすることはなかった。というよりも、町では見ない立派な兵士の姿に圧倒され、何も話せなかったという方が正しかった。
ビアンカはアルカパに来た兵士を捕まえて、二人のことを聞きたがった。しかし母にきつく止められたビアンカは、話してしまいそうになる自分を抑えるために、ラインハット兵の姿を見るなり、宿の奥に引っ込んで静かにしていた。
「リュカくんのことを『知ってる』なんて話してごらん。あんたはラインハットに連れて行かれて、知ってることを全部話せって、家に帰してもらえなくなるんだよ」母の言葉は、ビアンカに恐怖を植えつけた。アルカパに帰れなくなるのも、サンタローズに行けなくなるのも、どちらも嫌だと思った。
しばらくすると、アルカパに留まっていたラインハット兵は姿を消し、以前のアルカパの町の姿を取り戻した。しかし町の住人はこぞって、『サンタローズからの旅人が王子を誘拐した』などと噂し合うようになってしまった。その噂を耳にする度、ビアンカはこのアルカパにいたくないと思った。町の人々の噂を訂正して歩いて回るわけにも行かない。だが、そんな心無い噂を聞くのも辛い。暗い雰囲気に包まれてしまったアルカパの町から、ビアンカは何度か逃げ出したい衝動に駆られていた。
「ホントにいなくなっちゃったのかしら。もしかしたら、そんなのウワサだけで、ホントはまだサンタローズにいるんじゃないかしら」
口にしてみても空しいだけだと分かりながらも、ビアンカはいつもそう思っていた。自分の目で見たわけではないのだ。アルカパの町に流れる噂も、パパスのことを悪く言うだけで、ビアンカにとっては何一つ信じられないものだ。パパスのことをよく知っているわけではないが、悪い人のわけがないとビアンカは信じている。人々が流す噂と同じように、どこかで間違った話が伝わってきているんじゃないかと、ビアンカはパパスとリュカが隣村から消えてしまったことを信じていなかった。
いつもの枝に腰掛け、教会の屋根に乗る十字架を見遣る。町を広く見渡せるこの位置からでも、さすがに隣村のサンタローズの景色は見えない。ビアンカは枝の上に立ち上がり、町の北側を囲む山の向こう側に目をやる。ちょうど、アルカパの北東の位置に、サンタローズはある。歩いて半日ほどかかる隣村に、ビアンカは雪が降る前に絶対に行くことを、今日親に話そうと心に決めた。
北側の山の向こう側をぼんやりと見ていると、何やら山の向こうから黒い雲のようなものが現れるのをビアンカは見た。サンタローズの村の辺りはアルカパよりも天気が悪いのだろうか、もしかしたらもう雪が降り始めているのかも知れない。ビアンカは見えるかもしれない雪を見ようと、目を凝らした。
黒い雲と思っていた空の一部を染める塊は、徐々に空を昇っていく。昇ると同時に空に広がり散るそれは、雲ではなく、黒い煙だった。火のないところに煙は立たない。ビアンカはその黒煙があっという間に北の空を染めるのを、ただ見つめた。じっと見つめているうちに、身体が震えてくるのを感じた。
「何、あれ……」
アルカパの町の上に広がる白い曇り空とは対照的に、サンタローズの村のある北東の空は、まるで悪魔の術にでもかかったように黒く染まっている。ビアンカが肉眼ではっきりと見えるほどに、黒煙がもうもうと空に昇る。
ビアンカは何も考えられないまま、枝を伝って一気に木を降りた。飛び降りた時に足をくじいたが、痛みを感じる余裕もないまま、家へと駆けていった。すれ違う町の人が走るビアンカを驚くように見ていたが、ビアンカの目にはまだ、身震いするような黒い煙が映り込んでいた。
「リュカ……おじさま……」
パパスとリュカは夏前に、ラインハットへ向かい、以降、行方不明となった。
同時に行方不明となったラインハット王子を誘拐したとして、パパスの足跡をラインハットは追っている。
その兵士がアルカパにまで捜索に来ていた。きっとサンタローズの村を捜した後だろう。
パパスがサンタローズに住んでいたことは、ラインハットは知っている。しかし、パパスは行方知れずのままで、何も手がかりは掴めていない。
『最近のラインハットは、ちょっとおかしい』
『敵に回したら何をするか分からない国になった』
『サンタローズは大丈夫だろうか』
『村ぐるみでかくまっていたりしたら、大変な目に遭うぞ』
町の人が好き好きに噂していた会話が、ビアンカの脳裏に過ぎる。聞いた時、腹が立ったが、大人の噂に言い返すこともできずに、知らん振りをしていた。しかし今、不気味な黒煙を目にし、大人たちの噂が急激に現実味を帯びた。
「おじさまは何も悪いことなんて、してないわ」
どんな噂を立てられようと、ビアンカはパパスを信じていた。両親の知人でもあり、いかつい顔でも優しい笑顔を向けてくれる。
「おじさまは強い。ラインハットのやつらなんかに、負けるわけない」
言えば言うだけ、ビアンカは不安に駆られた。走ればすぐ着くような距離の家に、まだ着かない。家では父と母がいつもと変わらず宿を切り盛りしているだろう。まさか娘が必死な形相で宿に駆け込んでくるとは思ってもいない。
町の大通りをひたすら走る。突き当たりに大きな宿屋が見える。町の人々は変わらずいつもの時を過ごしている。ビアンカの周りだけ、違う時間が流れているようだった。
宿の手前、大通りの道に頭を出していた小石に、つまづいた。派手に転んだビアンカに、町の人たちが心配そうに手を差し伸べる。ビアンカは立ち上がりながら、目に涙が溜まるのを感じた。
北風に乗って運ばれた、煙の臭いを鼻に感じた。ビアンカは涙を地面に落とした。自分でもなぜ、泣いているのかわからない。まとまりのつかない考えに追いつけず、どうしていいかわからず、ビアンカは声を上げて泣き出した。
ビアンカの母が宿から出てきて、道の真ん中で座り込んで泣いている娘の姿を見た。さっきまで娘を叱っていた母だが、滅多に泣かない勝気な娘が道で堂々と泣きじゃくっているのを見て、優しく頭を撫でて話しかけた。母の声を聞いて安心したビアンカは、母に抱きついて更に泣いた。母に背中をさすられ、心は安心しても、ビアンカの頭の中には不吉を象徴する黒煙が焼きついていた。

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