2017/12/03

かつての戦友

 

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馬車はなだらかな上り坂をゆっくりと進んでいた。西に向かって進む彼らの右手には頂きに雪を被った山々が連なる景色が続くが、左手には仄かに潮の匂いが感じられ、目に見ることはできないが海が近いことを知らせてくれる。カボチ村より西に進む道は更に山を登り、南に聞こえる潮騒は山の崖の下にある。山道ではあるが、その道はずっとなだらかで、パトリシアが引く馬車を進めるにはさほど問題のない広い道幅が続いていた。
カボチ村を出て既に三日が過ぎていた。北に望む雪山を被る山々の麓には、既に葉を落とした木々が寒々しく立ち並ぶ。木の葉が敷き詰められた森の中には、当然魔物の姿もあった。人間が姿を現すような場所ではないのだろう、馬車が通るのを見た魔物たちは物珍しそうに馬車を遠巻きにみるだけで、あまり近づいてはこなかった。中には好戦的な鳥の形をした魔物もいたが、その毒々しい派手な羽毛にマーリンが火を浴びせると、鳥にもかかわらず木の葉を散らしながら地面を走って逃げていってしまった。
天候はずっと曇天が続いていた。すっきり晴れない空がまるで自分の心を表すようで、リュカはそんな鬱とした心を洗い流すように一つ、空に向かって深呼吸をした。
「村にちょくちょく現れるんじゃろ。そんなに遠くに住んどるのかのう」
馬車の荷台に乗るマーリンが、幌から顔を覗かせながらそう言うと、パトリシアを挟んでリュカの向かいにいるピエールがそれに応える。
「我々のようにゆっくり移動するものとは限りませんからね」
「村の人たちはオオカミだとかトラだとか、そんな風に言ってたよ」
「そんなヤツならこんな距離くらいひとっ飛びで来れるかも知れんの」
「それにしても何故わざわざ村に来るのでしょうね。人間を襲うわけでもないのでしょう?」
「ただ畑を荒らしてどこかへ行っちゃうらしいんだ。ここら辺でも食べ物には困らなさそうだけどね」
リュカがそう言いながら向ける視線の先には、木の葉に埋もれる木の実を探すガンドフの姿がある。木の実はそこら中に落ちているようで、ガンドフは大きな一つ目をキラキラさせながら木の実を拾い続けている。リュカはガンドフに袋状にした布を渡し、その中に木の実を入れるよう言うと、ガンドフはあっという間に袋いっぱいの木の実を集めてしまった。周囲の木に果実こそ実ってはいないが、これだけの木の実があればしばらく食べ物には困らないと、リュカはガンドフと共に木の実をぽりぽりとかじりながら山道を歩いていた。
冬も近いと言うのにこれほど食べるものがあれば、わざわざ距離を移動して人間の村に来る必要はない。オオカミでもトラでも、食べ物に窮しなければその場を無闇に離れたりはしないだろう。何故その化け物が何度も人間のいる村に足を運ぶのか、リュカたちには想像できなかった。むしろ人間という危険な存在からは遠ざかって生きるのが野生の動物のはずだ。
「村に来たいのかな」
ぽつりと言ったリュカの一言に、パトリシアの鞍の上に乗るスラりんが小さく身体を傾けて反応した。おおよそ首を傾げたつもりなのだろう。
「人間が、好きなのかな」
「ピー」
リュカにスラりんの言葉は分からないが、その声の調子から、「そうかもね」と言っている気がした。
晴れない灰色の空が暗くなり、今日もこのまま一日が終わるのかと、リュカはまだ目を凝らして辺りを見渡す。トラだかオオカミだかは分からないが、棲み処となる場所がどこかにあるのではないかと、仲間の魔物たちと森の中や山の斜面に寄って調べ回っていた。しかしその化け物が海を臨む崖や、遥か高い山の頂近くに棲んでいたりしたら、リュカには手を出すことができない。その棲み処近くで待つほか、手段はない。
曇天のまま夕暮れが迫ると、辺りは一気に暗くなった。西に傾いているはずの太陽は既に山の向こうに落ち、星空も望めない分厚い雲が覆う空は、みるみる暗さを増して行った。カボチ村を出て三日目になるが、今日も化け物の棲み処は見つけられないまま一日を終えるのかと、リュカは少し疲れたように息を吐いた。
葉を落とした木々の間を歩いているガンドフの姿が夕闇に包まれ、熊のようなその姿を見失いそうになった。リュカが呼びかけても、ガンドフはピンク色の尖った耳をぴくぴくとそばだてるだけで、振り向くことはない。何か気になるものがあるのかと、リュカも森の中に入ってガンドフの後を追った。
「ガンドフ、どうかしたの?」
ガンドフが向かう先に、木の葉が山積みになっている場所があった。リュカは木の葉の上を見上げたが、一際大きな木があるわけでもない。不自然に積まれる木の葉に手を伸ばしたガンドフは、それらを両手でガサガサと漁り始めた。
不自然に積まれた木の葉の中に、木の実が沢山あると思ったのか、ガンドフは大きな目を凝らして葉の中に木の実を探した。しかしそこに木の実は一つもなく、ただ積まれた木の葉が辺りに散らばっただけだった。期待が一気にしぼんだガンドフの背中をさすりながら、リュカは散らばった木の葉の上を歩いて、馬車のところまで戻ろうと歩きだした。
その時、背後から動物の鳴き声のような音が聞こえた。遠くから呼びかけるような吠え声に、リュカはその場で足を止めた。
後ろを振り返り、夕闇の中目を凝らすと、木の葉が積まれていた場所に大きな岩が埋まっているのが分かった。その岩の辺りから、動物の遠吠えのような声が聞こえたようだった。
「なんだろう」
「どうかしましたか、リュカ殿」
「近くから何かの泣き声が聞こえたような気がして……」
「魔物かも知れません。お気をつけください」
ピエールはすかさず剣を構え、リュカの視線の先に剣先を向ける。しかしリュカは剣を構える気にはならなかった。聞こえた動物の遠吠えのような声は、リュカには怖いものには聞こえなかった。その声が、ただただ気になったのだ。
その大きな岩は、入り口だった。
大きく、暗い穴をぽっかりあける洞穴の入り口を囲うように、大岩が口を開けていた。洞穴の入り口から急な下り坂になっており、一見するとそこが洞穴だとは気がつかない。しかしその洞穴の入り口は、パトリシアの引く馬車ごと入れるような大きなものだった。
「こんな大きなほら穴があったんだ」
「ガンドフがここに来なければ、気付きませんでしたね」
「ここにいるのかも知れないね、村に来る化け物って」
「今から向かいますか?」
「うん、退治できるなら早いところ退治しよう。何とか馬車ごと入れそうだし、みんなで行けそうだね」
大きな洞穴の中に向かって話すと、まるで見えない暗闇の中にリュカの声が反響する。とても自然に造られたとは思えない大きな洞穴の入り口は、大昔に人間の手によって掘り進められたものなのかも知れない。
リュカはサンタローズの村の奥にあった洞窟を思い出した。あの洞窟も中に入ってみると石柱が立っていたり、古びた燭台が立てられていたりと、人工物がそこかしこにあった。今目の前にしている洞穴も、もしかしたら人の手によって造られ、中にも人がいるのかもしれない。
中に人がいるにしても、化け物がいるにしても、この洞穴には入るべきだと、リュカはパトリシアの引く馬車を慎重に進めて行った。



「ワシがいなかったらどうするつもりだったんじゃ。まるで見えないじゃろう」
そう言いながら、マーリンは得意気に火を灯した松明をリュカに渡した。山ほど落ちていた枯れ枝を外で集め、馬車に積み、その一部を束ねて簡単な松明を作っていた。一つの松明は恐らく数十分ほどしか持たない。リュカは洞窟内を正確に地図化しながら進む時間を三時間までと定め、洞窟の滞在時間がそれを越えるようであれば、一度外に戻ろうと仲間にも話した。
「まったく見えん暗闇の中を行こうとするから、何を考えとるのかと思うたわい」
「ごめん、何も考えてなかったよ」
「そうじゃろうなぁ、お主はそういうヤツじゃろうからなぁ」
まるで鼻の穴を膨らませながら言うマーリンに、リュカは思わず吹き出してしまった。その得意気な雰囲気は、どうしてもビアンカやヘンリーを思い出させる。火を扱える者にはそのような素質が必要なのかも知れないと、自分にも父にもその素質がなかったことを改めて認識した。
松明の灯りに照らされる洞窟内の景色は、あまり人の手が入ったようには見えなかった。でこぼこに隆起した地面も壁も天井も、長い年月によって自然に浸食が進んだものなのかも知れない。それにしては大きな空洞に、リュカはさほど苦もなく馬車を進めることができた。
ところどころぬかるむ地面は、どこかに水源があるということだ。洞窟の中には一切日が当たらないはずだが、松明の灯りに照らされる地面には時折雑草が浮かび上がった。太陽の光なくして一体どうして育つことができたのか、リュカはしゃがみ込んで地面から伸びる草を手に取ったりした。
「リュカ殿、足元に気をつけてください」
ピエールが剣を構えながらそう言うのを見て、リュカは彼が警戒しているのだと気がついた。リュカも剣を片手に構え、左手に持つ松明で辺りを照らし出すが、魔物の気配は感じられない。
「そうか、お主には見えとらんのじゃな」
「何かいるんだね?」
「その火で足元を照らしてみぃ」
マーリンに言われた通り、リュカはぬかるむ地面に火を近づけて照らしてみた。しかし特に目立ったものは見当たらない。リュカは松明をゆっくりと動かし、慎重に周囲を見渡す。
その時、松明から爆ぜた火花がぬかるんだ地面に落ちた。その火の粉が地面に落ちると、地面から泥が飛び上がるように跳ね、リュカは咄嗟に飛び退いた。見れば、ぬかるむ泥の中に、二つの目がリュカを睨んでいる。
「ドロヌーバという魔物じゃ。放っておけばこやつらは何もせんが……そうも行かんようじゃの」
どこか楽しそうに言うマーリンは、まるで他人事だ。リュカ達に話しかけるマーリンは、馬車の荷台から声をかけるだけで、これから始まる戦闘に参加しようとする気はさらさらない。
リュカはぬかるみからパトリシアを遠ざけると、ピエールと共に剣を構える。スラりんもパトリシアの背から飛び降り、リュカの横で地面に弾みながら戦闘態勢に入る。いつでも泥の中に飛び込んでやる、という意気込みで、地面の上をぴょんぴょんと弾んでいる。
ドロヌーバは姿を自在に変え、攻撃を仕掛けてくる。その形は人間の手に似たような形にもなり、リュカの足に巻きついたり、ピエールの兜に覆いかぶさってきたり、スラりんを泥で包みこんだりしてくる。リュカ達が反撃をしようにも、泥に剣を突き刺したところで、ドロヌーバにダメージを負わせることはできない。むしろドロヌーバの自在に変化する泥に剣を向けたところで、剣ごと泥に絡み取られてしまう。
「この魔物って、倒せるのかな」
「弱点があるはずですが、しかし剣では難しそうですね」
ピエールはそう答えると、呪文の詠唱を始めた。その言葉は爆発呪文イオの呪文の文句だと、リュカはすぐに気がついた。リュカも同じように自分の使用できるバギの呪文を唱えようと、詠唱を始めた。
しかしリュカの詠唱の最中、ドロヌーバはそんなリュカの口に向かって泥の手を伸ばして来た。泥の手に鼻と口を抑えられたリュカは、呪文の詠唱どころではなくなり、とにかく息をしようと顔を真っ赤にしてもがいた。横ではピエールも下の緑スライムが口を泥で覆われ、呪文の詠唱を中断し、地面の上を転げている。
リュカとピエールの状況を見ていたスラりんが、泥の中に見えた二つの目に向かって、果敢にも飛び込んで行った。目に攻撃を受けたドロヌーバは、痛そうに二つの目を瞬き、その動きと併せてリュカとピエールから泥の手を引いた。リュカとピエールが同時に咳き込んで、口の中に入った泥を吐きだした。
「スラりん、ありがとう。そうだよね、目だ」
「狙いを絞りましょう。私が引きつけますので、その間にリュカ殿は……」
ピエールがリュカに作戦を持ちかけていた時、突然泥が派手な音と共に四方八方に飛び散った。その泥をまともに食らったリュカは、ほぼ全身を泥に染められた。またドロヌーバが攻撃をしてきたのかと、リュカは咄嗟に剣を前に構えたが、そうではなかった。
地面に広がる水溜りのような泥の中に、ガンドフの大きな身体が寝転がっていた。リュカはガンドフがドロヌーバに引きずり込まれたのかと、すぐに救出しようと手を伸ばした。
「ガンドフ、つかまって。そのままじゃ危ない」
まるで風呂にでも浸かるような気楽な態勢で泥に浸かるガンドフは、自分の身が危険に晒されているという感覚は全くない。ただ動く泥の魔物が珍しく、自らその中に飛び込んで行っただけだった。
ガンドフの周りを四体のドロヌーバが取り囲む。それと言うのも、ドロヌーバの頭が隆起し、それぞれに二つの目が現れているため、リュカにもピエールにもそうと分かった。
それはガンドフも同じだったようだ。隆起する魔物の泥の頭を見て、ガンドフはそれに向かって大きな腕を振り下ろした。バッチャンと洞窟の天井まで泥が跳ね、リュカもピエールもスラりんも、その泥を浴びた。顔に浴びた泥を手で拭い、次に状況を確認した時には、ドロヌーバが三体に減っていた。
「ガンドフ、もしかして、倒した?」
リュカの言葉にも答えずに、ガンドフは楽しそうに隆起する泥を見ては、手を振りおろして泥を叩いている。まるでモグラたたきを楽しんでいるようなガンドフの姿に、リュカは途端に戦闘の緊張から解放されてしまった。
「ムチャクチャだなぁ、ガンドフ」
ガンドフ自身は遊びの感覚だが、周りを囲むドロヌーバは泥に浸かる熊のような魔物を倒そうと、それぞれ手のように泥を伸ばし、ガンドフに襲いかかる。防御という姿勢を全く取らないガンドフは、泥の手につかまり、そのまま地面の泥の中に顔を突っ込んでしまった。呼吸ができなくなり、泥の中でもがくガンドフを見て、リュカは慌てて攻撃の態勢を整えた。
ガンドフの大きな身体を抑えつけているドロヌーバの手を、剣で薙ぎ払う。一時、切り離された泥の手は、地面に溜まる泥の中に落ちると、すぐに手として再生してしまう。直後、ガンドフに向けられていた二つの目がリュカに向き、その表情に敵としての怒りが表れる。それとほぼ同時に、泥の手がリュカに伸びてくると、リュカはまたその手を剣で切り落とした。
「リュカ殿、下がってください」
ピエールの大きな声が聞こえると、リュカは二歩ほど後退した。すると洞窟内に轟音が響き、目の前のドロヌーバが何かにぶつかったように飛び散った。ピエールが爆発呪文イオラを唱えたのだ。すぐ傍にいたもう一体のドロヌーバも巻き添えを食らい、洞窟内が再び静かになると、残りのドロヌーバは一体だけとなっていた。
最後の一体となったドロヌーバは、倒された仲間がただの泥になってしまったのを見て、怖気づくでもなく、むしろ怒りを増したようにリュカ達に飛びかかって来た。両手を振り上げて飛び掛かるドロヌーバの脇をすり抜けたのは、スラりんだった。スラりんはドロヌーバの顔目がけて飛び込んで行き、そのままドロヌーバの口の中に雫型の身体をめり込ませた。一瞬、スラりんが食べられてしまったように見え、リュカはすぐさま泥の中に足を踏み入れ、スラりんをむんずと掴んだ。しかしスラりんは自らの意思でドロヌーバの口を塞いでいるようで、その場から動かなかった。見れば、ドロヌーバは苦しそうにもがいている。
「ピーピー」
スラりんの言う通り、リュカは剣を前に突き出して、ドロヌーバの目を狙った。命中したリュカの攻撃に、ドロヌーバは悲鳴を上げて、そのまま姿をなくしてしまった。ドロドロと泥の水溜りに落ちたスラりんを、ガンドフは大きな丸い目で奇妙そうに見つめている。その口からは、何故だかよだれが垂れている。
「ピキー、ピキー」
危機を感じたスラりんは、リュカに助けを求めるように必死な声を上げた。ガンドフは泥にコーティングされたスラりんを、食べ物のように見たのかも知れない。
「ガンドフ、これは仲間のスラりんだよ。食べちゃだめ」
「タベル、ダメ?」
「うん、ダメ。食べても美味しくないよ」
「ピー、ピキキー」
失礼なことを言うなとスラりんがリュカの顔に体当たりをした。泥にまみれたスラりんに当たられたリュカの顔もまた泥にまみれ、松明の灯りに照らされるその顔はもはや人間には見えなかった。
「何を悠長に泥遊びなんぞしとるか。早う進まんか」
馬車の荷台に腰掛け、それこそ悠長に仲間の戦いを見物していたマーリンがそう言うのを見て、ピエールは苦笑いしながら馬車を進め始めた。



洞窟内の道は複雑で、何度も行ったり戻ったりを繰り返しながら、ずっと進んだところに下に降りるゆるやかな坂道に着いた。洞窟の中をかなり奥深くまで進んできたらしく、ここまで来ると外の寒さを感じなくなっていた。むしろ洞窟内はほんのり暖かく、リュカはこの洞窟内に棲む魔物たちの気持ちが分かるような気がした。寒さに弱い魔物であれば、尚更この場所に留まりたいと思うだろう。
坂道を下りて行った先には、少し開けた場所があった。これだけ大きな馬車を入れているため、洞窟に棲む魔物たちがリュカに気がつくのは早い。パトリシアが引く馬車を隠すような場所もないため、遭遇した魔物とは必ず戦闘になる。
進んだ先は開けた場所ではあったが、松明の灯に照らされる足場はところどころなくなっている。一歩踏み外せば、馬車ごと真っ逆さまに底の見えない穴に落ちてしまう可能性もあるような危険な場所だ。広い場所とは言え、リュカは慎重に馬車を進め、松明の灯りを四方八方に照らしながら、周りの状況を確認して行った。
その時、松明の灯りに照らされた魔物の目が六つ、光ったのを見た。鈍い赤色の光を見たリュカは、思わず身震いした。何かを思い出させる赤い光だったが、それが何かは思い出せなかった。
リュカの手にする松明に照らされた魔物は、人間が作るような土偶の形をしていた。ただ、その土偶の色は土や石などの自然の色ではなく、松明の灯りに紫色に怪しく照らされていた。目を凝らして見ると、紫土偶の後ろに、馬車がぎりぎり通れるほどの道が続いているようだ。その他に道は見当たらない。
「倒さないと進めないってことか」
「そのようですね」
人の手によって作られた土偶には間違いないが、土で作られた雰囲気は失われており、その紫色の全身はその色だけで人の心を狂わせるような怪しさに満ちている。普通の土偶が何故このような魔物になってしまったのか、リュカは不思議そうに土偶をじっと見つめた。
「ピキー!」
足元で突然、スラりんが大きな声を上げ、リュカはその場で飛び上がった。
「どうしたの、スラりん」
「スラりんの呪文ですよ。リュカ殿にも使える呪文ではないですか?」
ピエールに言われ、リュカは自分の状態が変わっていることに気がついた。服やマント以外は身につけていないはずだが、それ以外にも何か身に纏っているような感覚がある。纏っているというよりも、身体の周りを何か薄い皮か何かが覆っているような感覚だ。
「スクルトを唱えたの? スラりん、この呪文が使えるんだ」
「ピ」
得意気に一回転して見上げてくるスラりんを、リュカは素直に褒めた。
「リュカよ、あやつらも恐らく呪文を使ってくるはずじゃ。用心せい」
いつの間にか、馬車の中にいたマーリンがリュカのすぐ後ろに来ていた。そしてリュカが左手に持っていた松明を渡せと手を出してくる。リュカはマーリンに松明を渡すと、戦いに集中するべく、松明の灯りに照らされる不気味な土偶をじっと見据えた。
「言葉で唱えてくるとは限りませんからね」
「うん、分かった」
ミステリドールと呼ばれる赤紫色の土偶は、三体で横一列に並んだまま、リュカ達に向かって進んでくる。その動きはあまり速いとは言えない。むしろ鈍そうな動きの魔物に、リュカは落ち着いて魔物の動きを見定めようと、剣を手にしたままじっくりと待つ。
ミステリドールは元が作り物だけに、表情がない。手足も機械のようにぎこちなく動き、表情はないが、小さな目だけがキョロキョロと忙しなく動く。元来、土偶は動くものではないのだ。その作りからして、動きに無理があるのは当然のことだ。
あまり戦いには向かないはずの土偶が何故魔物と化して人間を襲うようになったのか、リュカは戦いが始まっているというのに、また余計なことを考え始めた。しかし、すぐ横にいたピエールが飛び出したのを見て、リュカは慌てて剣を握り直した。
ピエールの攻撃は一体のミステリドールの左腕を落とした。赤紫色の不気味な色をしている土偶は、思ったほど硬いものではないようだ。リュカも続いて攻撃を仕掛けようと、松明に照らされるミステリドールに向かって飛び掛かった。
その時、リュカが飛びかかろうとしたミステリドールの目が、赤く光ったように見えた。その光はリュカの頭を揺さぶり、リュカは強烈な目眩を振り払おうと、一度きつく目を瞑った。
そして目を開くと、眼前の景色はがらりと変わっていた。
先ほどまでいた土がむき出しの洞窟とは打って変わって、今リュカがいる場所は、足元も壁もしっかりとした石で作られた、人工的な洞窟だ。開けた石畳のこの場所を見て、リュカは次第に全身がガタガタと震えるのを感じた。
ラインハットから東にある、古代遺跡の洞窟の景色。出口は暗く、先が見えない。そこには城に戻ることを決心したヘンリーと、道案内役を務めているプックルがいるはずだった。しかし、今リュカが目にしている光景には誰もいない。ただ、不穏な空気が流れる人工的な広間に、リュカがただ一人、立っているだけだ。
目の前に毛むくじゃらの魔物が現れる。あの古代の遺跡で出遭ったことのない魔物だが、リュカは迷わず剣を向ける。父に「先に逃げろ」と言われている今は、目の前に現れる魔物に剣を向けることに躊躇はない。
しかし剣を振り上げる前に、後ろから何者かに羽交い締めにされた。後ろから動きを封じられるその感触は、あの時の絶望的な感覚を思い起こさせた。
眼前で赤い光が閃いた。それはリュカの目に、炎となって映る。炎の中には、黒い影がある。それは、父の最期の姿。
「父さん!」
叫ぶ自分の声が、子供の時の声ではない。大人になった低い声と目の前の光景とが、頭の中で合致しない。大人になった自分が何故、この場面に遭遇しているのか。自分の姿を確認しようにも、手も足も、何も見ることはできない。あの時、自分は床に倒れていたはずだ。しかし今はまだ、何者かに後ろから羽交い締めにされている。
リュカは渾身の力を込めて、後ろの何者かを引きはがした。手足が自由になる。目の前には再び毛むくじゃらの魔物の姿。リュカは剣を持つ両手に力を込めて、魔物に向かって剣を突き出した。しかし毛むくじゃらの熊のような魔物は、どこか怯えた様子でリュカの攻撃を交わした。
逃げる魔物を目で追うと、そこにはリュカが目にしたくない魔物の姿があった。
長いローブを身にまとう、魔導師のような魔物の姿。それはあの時の記憶を決定的に思い起こさせた。ゆらゆらと揺れる松明の火に照らされる魔導師のローブは、今のリュカには紫色に見えた。ローブの中から伸びる手足は見るからに禍々しく、フードの奥に見える顔は、リュカのことを嘲るようにニタリと笑っている。
「……お前は……お前だけは、許さない」
リュカは手にしている剣を力いっぱい握ると、躊躇なく目の前の魔導師ゲマに斬りかかった。魔導師のローブを切りはしたものの、魔導師にダメージは及んでいない。
リュカがすっかり混乱呪文メダパニにかかっていることに気付いたマーリンは、リュカを正気に戻そうと、小さな火の玉を、剣を持つリュカの手に向かって投げつけた。しかしその火の玉は、リュカの最悪の記憶を色濃く呼び戻すものでしかなかった。
「お前のせいで、父さんが……」
巨大な炎の中に消えて行った父。マーリンの扱う火の玉は、その時の記憶を鮮明にしただけだった。リュカの黒い瞳が、見たこともないような憎悪の色に染まるのを、マーリンもピエールもガンドフも、身を震わせて見つめた。
リュカが再びマーリンに斬りかかろうとした時、突如横から小さな影が飛び出して来た。リュカはその影を一瞬、自分と一緒に戦ってくれるプックルだと思い込んだ。あの時もプックルは、果敢に魔導師に飛びつき、噛みつき、しかし炎に包まれて投げ出されてしまった。
「行くな、プックル!」
リュカの大声に構わず、プックルに見えていたスラりんは、魔導師に向かってではなく、リュカに向かって体当たりを仕掛けてきた。思いも寄らぬ戦友の攻撃に、リュカは床に倒れ込む。その衝撃と共に、リュカの目の前に広がる景色はまた、ガラリと変わった。
人工的な古代遺跡の風景は消え去り、リュカの前には土がむき出しの洞窟内の景色が広がる。土の地面に手をついて起き上がると、目の前には怒ったような顔をしたスラりんがいた。離れたところにはミステリドールに攻撃を仕掛けているピエールの後ろ姿と、ガンドフの大きな潤んだ一つ目、そしてローブの裾を派手に斬り裂かれたマーリンがいる。
「まったく、スラりんが防御呪文を唱えていなかったら、今頃ワシは天国じゃわい」
マーリンがローブの裾を両手で持ち上げながら、リュカに苦々しく言う。スラりんが唱えていたスクルトの呪文のおかげで、ローブを切るだけで済んだと言う。もしスクルトが効いていなければ、マーリンの身体ごとばっさりと斬られていたような荒々しい切り口だ。
「あの、一体僕は……」
「ミステリドールのメダパニにやられたんじゃろ。お主だけ、かかったようじゃ」
マーリンがそう言う間にも、リュカはミステリドール一体の目が再び赤く光るのを見た。メダパニという混乱呪文の力を秘めたその赤い目を見たピエールの身体が、一瞬ぐらりと揺れる。しかしピエールは剣の柄で自分の兜を殴り、どうにか正気を保ったようだ。
スラりんはリュカが正気に戻ったのを確認するなり、ピエールの加勢に向かった。ガンドフはまだ不安そうな目でリュカを見つめている。
「ごめん、ガンドフ。もう大丈夫だよ。さあ、行かなきゃ」
「リュカ、コワイ?」
ガンドフが聞いたのが、果たしてリュカ自身が怖かったのか、リュカが何かに怯えていたということなのか、リュカには分からなかった。しかしただ笑顔を見せると、ガンドフも落ち着いたように笑みを返してくれた。
残り二体のミステリドールにピエールたちは苦戦していた。しきりにメダパニの呪文をかけられ、ピエールは呪文の効果に負けまいと、それを振り払うのに精一杯だ。加勢に行ったスラりんも、相手の身体がかなり硬いらしく、何度飛びかかっても弾き返されてしまう。
ピエールに赤い目を向けているミステリドールに、リュカが横から素早く斬り込んだ。剣の刃はさほど役に立たないだろうと、リュカはほとんど体当たりをするように、敵に突っ込んだ。ミステリドールの視野は狭いようで、横から現れたリュカに気付かず、体当たりの勢いのまま床に倒れ込んだ。と同時に、足が一本、ゴロンと外れた。立てなくなったミステリドールにリュカは上からのしかかり、呪文を発動する赤い目に剣をつき立てた。赤く光っていた目が消え、魔物はそのまま動かなくなった。
もう一体のミステリドールに目をやると、その硬い腕に殴られていたピエールを助けるように、ガンドフがリュカと同じような体当たりを喰らわせた。リュカの体当たりとは比べ物にならない威力に、ミステリドールはその場で床に叩きつけられ、身体をばらばらに散らした。すると、胴の中から、大量の金貨が飛び出し、リュカは思わず目を丸くした。
「どうして魔物が人間のお金なんか持ってるんだろう」
地面に散らばった金貨を拾いながら、リュカは首を傾げながらそう呟いた。
「はて、単に光るものが好きだったか、人間の暮らしに憧れとったか、それとも欲深な人間のせいでこやつが魔物になったか。理由なんぞ分からんが、貰っておいて損するものでもなかろう」
「そうですね、リュカ殿、これからの旅の資金にしたらいかがでしょう」
「うん……そうだね」
リュカは地面の金貨を拾い集めながら、マーリンの言ったことを考えていた。恐らく、一番最後に言ったことが正しい事実なのかも知れない。欲深な人間のせいで魔物になった、その理由に一番納得してしまう自分に、リュカは溜め息をつきたい気分だった。



一度、進んだ先に下に降りる人工的な階段があるところまで辿りついた。階段は土を段々にした簡単なものだが、自然にできたとは考えにくいほど、はっきりとした階段の形をしていた。それはかつて人間が作り利用していたものなのか、はたまた魔物が作ったものなのかは分からない。しかしここに何者かが住んでいた、若しくは今現在も住んでいるのは明らかだ。
しかしその階段は下りるにはかなり急で、パトリシアの引く馬車ごと進むのは不可能だった。下の階が気になった一行は馬車をその場に残し、リュカとピエールだけで下の階の探索を行おうとしたが、階段を下りた先には二人だけではどうしようもないほどの魔物の群れがいた。止むなく階段の下の探索は諦め、違う道を進もうと、一度道を引き返した。
リュカは馬車に積んである残りの松明の数を数えた。この洞窟に入ってから既に二時間は経過しているようだ。時間の経過を考えただけで小腹が空いてきたリュカは、マーリンのいる馬車の荷台に戻ると、荷物の中から木の実を漁り、ぽりぽりと数粒食べた。
「呑気なもんじゃの」
小動物のように木の実を食べているリュカを見ながら、マーリンが呆れたような口調でそう呟いた。 「腹が減ってはナントカって言うでしょ。腹ごしらえは大事だよ」
「だから人間というのは面倒な生き物なんじゃ」
「マーリンはどう? いる?」
「いらん。ワシには必要ない」
「結構美味しいよ、この木の実。ガンドフは美味しい木の実を見つける名人なのかも」
三粒一度に口の中に放り込むと、リュカは再び荷台を下りてピエールに近づいた。その隙を見計らって、マーリンは一粒、木の実を口に放り込んだ。マーリンが馬車の荷台から下りない理由が、魔物との戦いに参加したくないのはもちろんだが、実はリュカの勧めた木の実の美味しさに気付いていたからということは、誰も知らない。
「しかしこの辺りは何とも危なっかしい道ですね」
「そうだね、昔にこの階の地盤が崩落したのかな」
リュカ達の進む道は時折、パトリシアの引く馬車の車輪幅ぎりぎりの細さになることもあった。リュカとピエールとで左右四輪の車輪を注意深く確認しながら進んでいたが、一度ガタンと道から外れた。しかし馬車の荷台を支えていたガンドフのおかげで、下の階に落ちることは免れた。
そのまましばらく進むと、いつの間にか緩やかな下り坂を下っていた。馬車を進めるには問題ない道幅で、曲がりくねった下り坂をゆっくりと進んで行く。手持ちの松明の量を確認してみたら、洞窟に入る前に決めていた量をあと一本で使いきるところだった。リュカは下り坂を下った先に、特に何もないようだったら、一度引き返そうと仲間の皆に話した。
坂を下りた先で、水の跳ねる音がした。右手に聞こえた水の音を確認しようと、リュカが松明を向けて近づくと、そこには松明の灯りが届かないほどの大きな泉が湧いているのが見えた。水が跳ねていたのは、その泉に棲む淡水魚が水面を飛び上がっていたからのようだ。泉の中から魔物の気配がしないことは、リュカにも分かった。
「ここで一度休みたいところだけど、時間が限られてるから、あと少し……」
泉を見ながら独り言のようにそう言うリュカの後ろから、小さな影が忍び寄った。ピエールもスラりんも、ガンドフもマーリンも誰も気付かないほどの小さな影に、リュカは後ろから飛びかかられ、その衝撃と共に泉に落ちてしまった。
派手な水の音に驚いた魔物の仲間たちが目にしたのは、松明を地面に放り投げたまま、泉の中でもがくリュカの姿だった。落ちた松明を拾い上げたピエールが、泉に浮かぶリュカを照らし出す。
「リュカ殿、どうされたのですか」
「どうしたって、誰かに押された……ゲホッ」
「なんじゃ、ワシはてっきり水浴びでもしたくなったのかと思ったわい」
「コドモ、イル」
「子供?」
ガンドフが大きな目を向けるところに松明の灯りを向けたピエールは、そこに大きな猫の姿形をした魔物を二匹、見つけた。松明の火と同じような赤い尾をゆらゆらと立てて、リュカが落ちた泉に向かってぐるるる、と唸り声を上げている。どうやら水を怖がっているようだ。
「ベビーパンサーか。こんな洞窟の奥にいるとはのう」
リュカに攻撃をしかけたもう一匹のベビーパンサーは、リュカと同じように泉に落ちていた。リュカに攻撃をしたはいいものの、泳ぎが得意ではないようで、リュカのすぐ横で溺れかかっている。落ち着いたリュカは自分のすぐそばでバチャバチャと激しい水しぶきを立てるベビーパンサーの首をひょいっと持ち上げた。持ち上げられたベビーパンサーはそれで大人しくなるような性格でもなく、尚のこと暴れ、手足をばたつかせている。
「泳げないのに水に飛び込んでくるなんて、度胸があるなぁ、お前は」
気の抜けた声でそう言うリュカは、掴んでいたベビーパンサーを泉の外に向かってひょいっと投げた。猫の魔物だけあって、空中でバランスを整えると、四足でスタッと地面に着地した。
「ずぶ濡れだけど、ちょうど泥が落ちて良かったや」
ドロヌーバとの戦闘で泥を浴びたままでいたリュカは、澄んだ泉の水でその泥をキレイさっぱりと落としてしまった。代わりに泉の水が濁ってしまったが、じきに泥が沈み、元の通り澄んだ水に戻るだろう。
リュカが泉の淵に手をかけるなり、一足早く身体の水を切って体勢を整えたベビーパンサーが、再びリュカの顔面目がけて飛び掛かってくる。慌てて両手を出してベビーパンサーを胸に受けとめると、リュカは鋭い爪や歯の攻撃を受けないように、やはり首を掴んで、猫のように持ち上げた。
「僕は何もしないよ。お前に攻撃するなんて、できないよ」
じっと様子を窺っている残りの二匹のところまで歩いて行くと、リュカは掴んでいた好戦的な一匹をその場にゆっくりと下ろした。三匹揃って唸り声を上げてリュカを見上げるが、どうやら本気で攻撃する気はないようだ。ただ人間が珍しいという理由だけで、警戒の唸り声を上げる野生動物と何ら変わらないと、リュカは剣も抜かずにその様子を見つめた。
リュカが穏やかな思い出に浸ろうとしたその時、洞窟を揺るがすような魔物の咆哮が轟いた。普通の人間が聞けば、一目散にこの洞窟を出たくなるほどの恐ろしい魔物の声だった。しかしリュカにはただ胸に突き刺さるような鋭い声に聞こえただけだった。
轟く咆哮に耳をピンと立てた三匹のベビーパンサーは、まるでその声に呼び戻されるかのようにリュカ達に背を向けて一目散に走り去ってしまった。松明を手にしていたピエールが走り去る大猫の姿に灯りを向けると、そこには大きな口を開けた岩の塊があった。流石に馬車ごと入れるような大きさの穴ではないが、大人の人間が悠に入れるほどの大きなものだ。
「この奥にいるんだね」
ただならぬ雰囲気に、リュカはこの岩の中に、カボチ村の人々を困らせる魔物がいるのだと確信した。洞窟内にいる他の魔物たちとはどこか距離を置くような存在感に、リュカは奥にいる魔物を恐れるどころか、興味が強まるのを抑えられなかった。
「こりゃ今までの魔物とはワケが違いそうじゃ。覚悟しとらんとエライ目に遭う」
「そのようですね」
珍しく真剣な様子で杖を手にするマーリンと、その言葉を受けて片手に松明を、片手に剣を構えるピエールが、リュカに目くばせする。リュカは馬車ごと入れないこの岩穴の外に、パトリシアを見張るための要員としてスラりんをその場に残すと、仲間たちと共に岩穴の中へと入って行った。
入り口は人一人が悠に入れるほどの大きさだったが、中は思わぬ空洞が広がっており、入口さえ広ければ馬車ごと入れるほどの広さがあった。しかしここに魔物の群れがいるわけではない。大きな空洞の中に、先ほどのベビーパンサー三匹の姿が松明の灯りに揺れた。その奥に、枯れ草や枯れ枝を敷き詰めたようなところがある。そこに、青い瞳をした獣の魔物の姿があった。
「キラーパンサーか」
マーリンの呟く魔物の名を耳にし、リュカは頷いた。洞窟の主のように草の敷物の上に座する姿は堂々としている。洞窟の侵入者を目の前にして、低く唸り声を上げながら、落ち着いた様子でリュカ達のことを観察するようにじっと見つめている。その青い瞳からは、はっきりとした敵意は感じられない。
キラーパンサーのすぐそばに、先ほどのベビーパンサーが三匹、まるで親子のようにぴたりとくっついている。ベビーパンサーは各々、キラーパンサーと洞窟の侵入者を交互に見ながら、どうしたら良いのか悩んでいるようにも見えた。
「親子、なのかな」
「血の繋がりはないようですが」
「カボチ村を荒らしている魔物って、多分、そうだよね」
「確証はないがの、恐らくそうじゃろう」
短い会話の間にも、リュカはキラーパンサーの目から目を逸らさなかった。それは魔物に隙を与えないようにという防御的なものではなく、ただ単に目を逸らすことができなかったからだった。
リュカにとって、キラーパンサーと遭遇したのはこれが初めてだ。相手がどれだけ獰猛で凶暴であるかは知らない。ただ知ろうとすればするほど、尖った歯を剥き出しにしている姿も、前足で地面を掻いて戦闘態勢に入るのも、恐怖と感じないのがリュカ自身も不思議な感覚だった。そんなリュカの雰囲気を感じてか、両隣りにいるピエールとマーリンも、まだ攻撃の手を出さない。
相手のキラーパンサーもリュカを警戒するように周りをぐるぐると回り始めた。しかしリュカが連れている魔物の仲間が気になるのか、リュカ特有の漆黒の瞳に妙な力を感じているのか、なかなか攻撃に移ろうとはしない。むしろキラーパンサーの青い瞳には戸惑いの色さえ浮かんでいた。
三匹のベビーパンサーがまるで猫の声で何かを訴えているようだが、その声に耳をぴくりと動かすだけで、キラーパンサーは主にリュカという人間に集中していた。その関係は親子というよりは、兄弟と言った方が近いのかも知れない。身体の大きさは雲泥の差だが、キラーパンサーもベビーパンサーも互いに兄弟のような友達のような、そんな感覚で話をし、雰囲気を感じているようだ。
「ガンドフ、モツ」
後ろに立っていたガンドフがピエールから松明を受け取り、高々と松明を掲げて岩穴内を広く照らした。しかしその火の灯りに反応したキラーパンサーが、突如ガンドフに向かって襲いかかって来た。獰猛な虎のような声を上げて襲いかかる姿にもひるまず、ガンドフは松明の灯りを守るように両手を高々と挙げたまま攻撃を食らってしまった。胸の辺りに鋭い爪の攻撃を受けたガンドフは、大きな目をしかめながら痛そうに背中を丸める。
仲間を傷つけられたのを目の当たりにし、リュカは当初の目的を冷静に思い返した。
「僕は、村の人たちに約束したんだ」
リュカは手にしていた剣の柄を握り直した。そのちょっとした動きに、キラーパンサーもぐるぐる回っていた足を止めて、前足に力を込めた。
「約束は守らなきゃ」
ガンドフが自ら傷を癒すのを横目に確認すると、リュカは迷いを振り切って剣先を獣に向けた。と同時に、前足で飛び上がったキラーパンサーがリュカに鋭く大きな牙を見せて飛び掛かって来た。獣の巨体にそぐわぬ素早い動きに、リュカは向けた剣先を防御に回すしかなかった。剣を盾にし、獣の大きな口を弾き返す。キラーパンサーは軽々と空中で体勢を変え、すぐに前足の爪でリュカのマントを切り裂いた。
「リュカ殿、攻撃の手を緩めてはいけません。一気に畳みかけましょう」
「ワシが援護するから、お主らは心おきなく剣を振るえ」
ピエールとマーリンの言葉に頷いたリュカは、すぐに剣を強く握りしめ、キラーパンサーに斬りかかった。キラーパンサーは前足に引っ掛かったリュカのマントの切れ端に鼻をつけ、リュカの剣筋に気付くのが遅れた。避けきれずに、脇腹に剣の攻撃を食らう。短い悲鳴と共に、キラーパンサーは土の上に伏せる。
続いてピエールが飛びかかって行った。土の上に伏せていたキラーパンサーはその場ですぐに跳躍し、ピエールの攻撃を交わす。しかしその動きを見計らってしかけたマーリンの呪文が、キラーパンサーを直撃する。立派なたてがみに火が移り、燃えかけたところで、キラーパンサーは狂ったように頭を振り、地面に頭やら身体を擦りつけた。
再びリュカが剣を向けようとしたその時、後ろで様子を窺っていたガンドフの声が聞こえた。
「リュカ、シッテル?」
ガンドフが言うことはいつも端的で、その意味を理解するのに時間がかかる。しかしその一言は、リュカの攻撃の手を止めるのに十分だった。
誰に言われるでもなく、リュカは剣を手にしたまま、じっとキラーパンサーの目を見つめた。たてがみの火を消したものの、キラーパンサーは火そのものに恐れを感じているのか、まだ落ち着かない様子で自分の身体をぐるぐると見まわしている。そしてちらりと向けられたキラーパンサーの青い瞳に、リュカは攻撃の意思ではなく、すがるような気持ちが向けられたのを感じた。
リュカが攻撃に移らないのを目にしながらも、ピエールはすぐに次の攻撃をしかけた。今度は剣を突き刺すような形に向け、キラーパンサーに向かって行く。同時にマーリンが再び火の呪文を構え、ピエールの攻撃の直後に仕掛けようと機を窺っている。
ピエールの攻撃を避けるキラーパンサー。相手が魔物だからか、反撃に出ない。それを良いことに、マーリンが手にした火を勢いよく投げつけようと両手を頭上に掲げた瞬間、リュカが叫んだ。
「止めろ!」
岩穴内に響くリュカの鋭い声に、ピエールもマーリンもガンドフも、動きを止めた。ピエールは思わず剣を取り落とし、マーリンは手にしていた火を消してしまった。ガンドフは変わらぬ様子で、松明を掲げながら様子を見ている。
「どうしたのですか、リュカ殿」
ピエールの声に、キラーパンサーが耳をピクリと動かす。声に反応したと言うより、言葉に反応している。
「……思い出した」
リュカはそう呟くと、無防備にも剣を持つ手をだらりと下げたまま、キラーパンサーに近づいて行った。ピエールもマーリンも、唖然としながらその様子を見ている。キラーパンサーも、近づいてくる人間を、青い瞳を揺らしながら見つめている。
「プックル」
キラーパンサーが、再び耳を動かす。
「僕は思い出したよ。お前、プックルなんだろう?」
手を伸ばせば触れられるほど近づいたリュカだが、警戒の姿勢を解かないキラーパンサーは、飛び退くようにリュカから離れた。そして姿勢を低くしたまま、唸り声を上げている。
「火を怖がるのも無理ないよ。あの時、お前は火に包まれてしまったんだから……」
ラインハットから東にある古代遺跡。そこでプックルは父を殺したゲマという魔術師のような魔物に、身体に火をつけられた。あっという間に火に包まれたプックルは、リュカの手によって水の溜まる溝に落とされ、どうにか一命を取り留めたのだ。
「僕のこと、思い出せない?」
リュカがぐっと顔を近づけてキラーパンサーの顔を見つめるが、キラーパンサーはやはり後ろに飛び退いて唸り声を上げる。しかしリュカを攻撃しようという姿勢はなく、ただ困惑しているように青い瞳をキョロキョロと宙に彷徨わせている。
リュカの頭の中には、プックルとの冒険が次から次へと蘇ってくる。しかしそれを言葉に表して伝えたところで、目の前のキラーパンサーには通じないだろう。人間の言葉を既に忘れてしまっている魔物に、自分の思いを伝えたい。そう思ったリュカは、あっと短く声を出し、まだ水に濡れている束ねた髪に手を伸ばした。
「お前の尻尾に結んでたやつだよ。ほら、ビアンカのリボン」
リュカが手にしたのは、幼い頃アルカパの町でビアンカと別れる時に、彼女からもらった黄色いリボンだった。それはもう黄色と呼べるようなリボンではなかったが、リュカの思い出が詰まっているのと同時に、プックルの思い出も詰まっているものだ。
「お前、オスなのにこのリボンが気に行っちゃって、僕が持ってるだけで怒っちゃってさ。僕、覚えてるよ」
リュカが手にひらひらさせるビアンカのリボンをじっと見つめるキラーパンサー。リュカはゆっくりと近づき、手にするリボンをキラーパンサーの鼻先へと持って行く。すると今度は後ろに退くことなく、自ら歩み寄り、鼻先をリボンに近づけてきた。長年リュカの手元にあったビアンカのリボンに、当時の匂いなど一つも残っていない。
「尻尾に結んであげようか。そうしたら思い出せるかも」
リュカが後ろに回ろうとすると、キラーパンサーは本能的にそれを回避しようと、くるりと身体を回転させる。身体の回転に遅れて残った尻尾をリュカはむんずと捕まえ、リボンを結びつけようとした。しかしキラーパンサーは掴まれた尻尾を振り払い、再びリュカの手から逃れようと身体を回転させる。
「あれは、遊んでいるのでしょうか」
「そうとしか見えんのう」
「リュカ、タノシイ、ウレシイ」
にっこりと目を細めて笑うガンドフが持つ松明の灯りには、リュカとキラーパンサーが追いかけっこをしている姿が照らし出される。二人とも必死な様子だが、同じような状況が幼い頃にもあったと、キラーパンサーは身体に刻まれていた記憶を思い起こした。
子供の頃、気の強い少女に助けられた。子供の頃、不思議な瞳をした少年と友達になった。彼ら二人のことは記憶に残っていると言うよりも、心に刻み込まれていた。
ようやくキラーパンサーの尻尾を掴み、ビアンカのリボンを結びつけてやると、リュカは肩で息をしながらキラーパンサーの正面に回った。
「どう? これで思い出しただろ? プックル」
「がう」
「お前も声が変わっちゃったなぁ。僕もこんなに低い声になっちゃったよ」
「フニャー」
「背だって、まだ父さんほどじゃないけど、高くなっただろう」
リュカがまっすぐ背筋を伸ばして立ち上がると、プックルも負けじと後ろ足で立ち上がり、リュカの両肩に前足をかけた。ほんの無邪気な気持ちでじゃれたつもりが、リュカにとっては大きな虎にのしかかられるも同然で、たまらず後ろにひっくり返ってしまった。ピエールがすかさず後ろで剣を構えるが、キラーパンサーがリュカの顔をべろべろ舐めるのを見て、静かに剣を鞘に収めた。
「だけどどうやってここまで来たんだ? まさか海を泳いで来たわけじゃないだろうし」
リュカが話すのを、プックルは耳を立てて聞いてはいるものの、言葉にして返すことはできない。しかも東の大陸から西の大陸まで来た道のりを話すには、よほどの時間が必要なはずだった。もしかしたらリュカがプックルと別れてからのことを話す以上の長く苛酷な旅をしてきたのかもしれない。
ひとしきりかつての主人との再会を喜ぶと、プックルはリボンを結んだ尻尾を振りながら、岩穴の奥へと歩いて行く。後ろを振り向き見ながら歩くプックルの姿を見て、リュカは「来い」と言われているのだと後をついて行った。プックルの横には、三匹のベビーパンサーが跳ねるように歩いてついて行く。
高く盛り上がった土に、何かが突き立てられている。プックルはそれの横に座ると、一声「がう」と鳴いた。それを一目見て、リュカは背中に電撃のような衝撃が走るのを感じた。
父の剣だった。
鞘に焼けて焦げたような跡が残っている。年季の入っている剣だが、日々手入れされていた父の剣は、驚くほど良い状態でそこにあった。鞘にしっかり収まる剣を見て、リュカはその時の父のことを思い出す。父は魔物に剣を向けて倒れたのではなく、剣を鞘に収めて、敵の攻撃にじっと耐えていた。それは、人質に取られた息子を守るべく、魔物に言われるがまま、剣を置いたからだった。鞘に収まった父の剣が、古代遺跡の冷たい石床の上を転がった音を、リュカは今、耳にしたような気がした。
地面に突き立つ父の剣を、リュカは静かに手に取った。幼い頃は重くてとても片手では持ち上げられなかった剣だが、今では当時の父と同じように片手で軽々と振うことができる。新品の剣とは違い、既に父の手に馴染んでいた柄が、今では自分の手にしっくりと馴染む。
「これを持って入れば、少しは父さんに近づけるかな」
リュカの言葉に、プックルは尻尾を振って、彼の背中をバシッと叩いた。まるで「リュカの頑張り次第だな」などと生意気なことを言っているようだ。リュカは鞘に収まったままの剣を握りしめながら、プックルの頭の赤毛を強く掻き混ぜた。
再会の喜びを分かち合っているすぐ傍で、三匹のベビーパンサーがリュカの足元にかじりついてきた。それがまるで、「お父さんを連れて行かないで」と言っているように見え、リュカはやるせない気持ちになった。三匹のベビーパンサーにとって、自分は悪者でしかないのかも知れない。
「プックル……お前はここに残るべきなのかな」
キラーパンサーがプックルだと分かった瞬間、リュカはまたプックルと共にいられるのだと素直に嬉しくなった。しかしプックルにはプックルの人生があるはずだ。十余年もの間別々に生きてきたということは、既に別々の人生の形が出来上がっている。
「リュカ殿、それは違うようですよ」
「そのキラーパンサー、ついてくる気満々じゃ」
ピエールとマーリンの言葉を聞き、リュカは顔を上げてプックルの青い瞳を見つめた。するとプックルは顔を近づけて、リュカの頬をベロンと舐めた。
「でもこの子たちは……」
「ゴロゴロゴロ……」
「ただ単にお主に懐いとるだけじゃなかろうか」
「そう、見えますね」
「え、そうなの?」
「にゃあにゃあ」
リュカの足元に寄って来た三匹のベビーパンサーは、各々リュカのブーツにかじりついたり、身体を擦り寄らせたりと、猫と変わらないような仕草でリュカに懐いている。そんなベビーパンサーを敵視するように、プックルが「がうっ」と大きな声を上げて、三匹を遠ざけてしまった。
「身体は大きいようですが、まだ子供ですね」
「親というよりは、兄弟、しかも末っ子でいるつもりかのう。何とも甘ったれじゃ」
ピエールとマーリンが好き勝手に言っているのを知ってか知らずか、プックルはリュカにぴったりくっついたまま離れずにいる。リュカが頭の立派な赤毛を撫でてやると、プックルは気持ちよさそうに目を閉じた。
「僕と一緒に来てくれるんだね」
「がう」
当たり前だと言わんばかりの早い返事に、リュカは改めてプックルの首に抱きついて再会を喜んだ。幼い頃、ラインハットの東にある古代遺跡で生き別れになったプックル。息も絶え絶えの状態で別れたため、こうして元気で、しかもかなり離れた異国の地で出会えるとは思ってもいなかった。
「リュカ、ナカマ?」
ガンドフが首を傾げながらリュカに問いかけると、リュカははたと気がついたように、この洞窟に入った目的を思い出した。
「そうだ、カボチ村の人には化け物退治を頼まれてるんだった。仲間になっちゃったからなぁ、どうしよう」
しかし考えてみれば、カボチ村の村人は化け物に畑を荒らされていたことに困っていたわけで、化け物を退治などしなくても、村に来なくなりさえすれば畑の被害はなくなるということだ。プックルを仲間にしても、結局は村人たちの依頼を達成したことには変わりないだろうと、リュカは素直にカボチ村の人々に話そうと心に決めた。
そして、人の住む村に入っても人を襲うことがなかったことも分かった。プックルは人を嫌いにならないまま、大人に成長したのだ。幼い頃のリュカやビアンカとの思い出が、彼の中に残っていたということだ。
魔物であるプックルは、幼い頃に出会ったリュカやビアンカ、父のことなど忘れて、とうに魔物特有の魔性を取り戻していても不思議ではない。しかし彼は長い間、父の剣と共に旅をして、洞窟に棲みつき、とっくに忘れているはずのかつての戦友を思い出した。幼い頃、リュカの目に焼きつけられた様々な思い出は、プックルの青い瞳にも同じように焼きつけられていたのだろう。リュカにとって一番幸せだったあの頃、それはプックルにとっても一番幸せな時だったのかも知れない。
「素直に話してみよう。魔物だからって悪いとは限らないんだって。話せば分かるよ、きっと」
リュカには魔物の仲間がいる。スラりん、ピエール、ガンドフ、マーリン、そしてプックル。出会ってからの時間に差はあるものの、それぞれ信頼できる仲間だ。人間同士、魔物同士ではないからこそ、その信頼は深い。
長年離れ離れで、また再会できるとは思っていなかったプックルと会うことができ、リュカの心は自分で思うよりも弾んでいた。冷静に考える頭をどこかに置き忘れてしまっていた。
久々の再会にはしゃぐリュカの姿を、ピエールは素直に喜びながらも、どこか不安な面持ちで見つめていた。リュカは普通の人間よりも、魔物に近づき過ぎている。果たしてそれが普通の人間に通用するものなのか、ピエールには推し量ることができなかった。

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