どんな偉業よりも
「グランバニアに急がないとね。もう寄り道はしていられないでしょう」
竜神の背に乗り、遥か上空からまるで世界地図を覗き込むような景色を見下ろし、ビアンカが言う。リュカたちが魔界からこの地上世界へと戻り、どれほどの時間が経っているのかは分からない。ただ巡る思い出の地の様子を見れば、まだ一日か二日と言ったところだろうとリュカには思えた。
竜神はリュカたちに何も告げないまま、世界地図の上を南下していく。一体竜神がどこへ向かっているのか、リュカたちに知らされることはない。そろそろ大陸南部に位置する死の火山と呼ばれる大きな山の景色が見えるはずだ。神と呼ばれるマスタードラゴンだが、その性格はどうやら長年人間の姿で過ごしていたからか、人間よりも人間らしいところがあるとリュカは見ている。リュカが人間らしいとマスタードラゴンに感じるのは、そこに情というものを感じるからだ。
大陸を抜け、海に出る。そのまま南下を続け、大陸とは呼べないが、岩山に周りを囲まれた大きな島が見える。遠くからでも分かる、その島の中ほどに立つ異様な塔には、この竜神の魂とも呼べるドラゴンオーブが安置されていた。そこでリュカたちはプサンという一人の頼りないように見える人間を、竜神の姿に戻すためのドラゴンオーブを見つけ出し、今はこうして竜神の背に乗せられ世界を巡ることもできるようになった。
「あの塔で、竜神の力を取り戻したのでしたね」
ピエールの声には、どこか聞かせようとするような響きがあった。今、彼らはその竜神の背に乗っている。竜神は反応を見せないが、ピエールの声が聞こえていないわけはなかった。耳で聞くというのではなく、背に乗せている者の心の声にまで、竜神はそれこそ耳を傾けているに違いない。
「神様の塔に魔物がうじゃうじゃいるんだもんな、まいっちまうよ」
「がうう」
ピエールもアンクルもプックルも、共にこのボブルの塔での戦いに加わっていた仲間たちだ。そして彼らは言葉にしないが、当然のようにリュカの仇敵であったあの者の姿も、ありありと思い出している。この塔の地下、リュカの憎悪そのものであったかのようなゲマが待ち構えていた。しかし誰もその記憶をここで見せることはない。
「私がのんきに石になっている間に、みんなとっても苦労したのね」
「お母さんは別にのんきに石になっていたわけじゃないでしょ?」
「そうだよ! お母さんだってずっと一人で……早く助けに行けなくってごめんね、お母さん」
「何を言ってるのよ。私ほど幸せな母親もいないわよ。こうして可愛い子供と一緒にいられるんだからね」
そう言ってビアンカはティミーとポピーを両脇に抱きしめるように引き寄せる。彼女の口から出る言葉は、彼女の嘘偽りない本心だ。もちろん、彼女は己の人生の全てを幸せだと言っているのではない。しかし今こうして子供たちと一緒にいられることへの幸せを思えば、過去も含めて幸せの中に包み込めると、そのような思いをリュカは妻から感じることができた。
それはリュカも似たようなものだと感じている。彼自身もまた、人生の中で様々な出来事があった。決して平坦な道などではなく、寧ろ起伏激しい人生だったのかも知れない。それでもこうして今は皆と共に笑うことができるのは、妻と同じく、今の幸せの中に過去の己の人生を柔らかく包み込むことができるからに違いない。人間の記憶というのは、決してすっかり消えるわけではないが、徐々に薄れゆくものだ。それが恐らく、人間という生き物を支えている部分もあるのだろう。覚えていたいことも薄れゆくが、覚えていたくはないものも薄れゆく。後者に救われる部分が大きいに違いないと、リュカは自身の経験にそう思わざるを得ない。
リュカは黙ったまま、座る竜神の背についている手に己の意思がこもるのを感じていた。妻ビアンカは今が幸せだと言い、子供たちと今の幸せを噛みしめるようににこやかに話をしている。しかし先ほどまでサラボナの町を巡る前、妻が見せていた表情をリュカは覚えている。彼女の目には確かに、山奥に小さく見える一つの村の景色があったはずだ。温泉が有名で、遠くからも湯治に訪れる観光客もいたという。世界が平和になり、これから再びあの村には当時を目的に観光客が訪れるようになるのかも知れない。
竜神は急激に方向を変え、その背に乗る者たちが一斉に体勢を崩した。まるでサラボナの町に忘れ物でもしてきたのかと思わせるような動きで、竜神は凄まじい速さで一路北へと向かう。神のゴカゴか何かは知らないが、過ぎゆく景色が目にもとまらぬ速さに過ぎ去っていっても、リュカたちが体に感じる負荷はさほどない。ただ、急旋回する際に、その視界の急激な変わりように竜神の背から皆が落ちそうになっただけだ。ポピーが気絶しそうになるのを、ティミーが呼びかけてどうにか支えていた。
再び死の火山を通り越して、やはりサラボナの町に戻るのかと思ったが、あっさりと通り過ぎた。凄まじい速さのために一体何が起こっているのかもわからないほどだと、誰もが口にするべき言葉もなく、ただ息を呑むばかりだ。流れる景色が和らいだ時に見えたのは、円い口を開けているようにも見える、大きな湖だった。その湖には絶えず滝から夥しいほどの水が流れ落ちている。遥か上空から見る滝の洞窟の景色に、リュカとビアンカは互いに目を見合わせることなく、ただその水の絶えない美しい地上世界の景色をじっと見入った。
かつて水のリングを探す旅に、ビアンカは無理を言って付いていった。そうと決めた時は、ただ幼い頃の知り合いであり、ずっとその身を案じていたリュカと再び旅に出られることが嬉しいと、その思いが胸に沸くだけだった。しかし結局のところ、幼い頃の少し頼りないと思っていた年下の少年が、すっかり頼れる青年に成長していたことに、ビアンカは彼の姉として対応し切れなかったのだ。下に見える滝の洞窟の景色に、芽生えてしまったその想いをひた隠しにしていた当時の胸の苦しさを思い、ビアンカは思わず地上世界を美しく彩る滝の景色から視線を逸らした。
一方でリュカはただじっと滝の洞窟の景色を見続けている。あの場所で自分は初めて、恋を知った。まさか自身がそのような感情を知ることになるとは考えたこともなかった。友人であるヘンリーとマリアが結婚し、彼らの幸せな様子を目にした後であっても、自身にそのような出来事があるとは微塵も想像していなかった。旅を続ける自身には、そのようなものは不要だと、そう思っていたのだろう。
必要か不要か、そのような理屈を超えたところに恋があった。これからも続く過酷な旅を思えば不要だと思える恋も、その理屈を軽く飛び越えてリュカの目はビアンカを知らず見つめてしまっていた。無意識だったのだからどうしようもない。天空の盾を家宝に持つルドマン家の娘フローラとの結婚という道が前に伸びているのが分かっていても、リュカの心は幼馴染の娘へと向かっていた。
竜神はそこでも再び急旋回をし、その背に乗る者たちはまた悲鳴を上げた。滝の洞窟の景色を上から眺め、束の間追憶に耽っていたのは二人だけだった。揺れに思わず身を寄せ合った二人は、十余年の月日を遡ったかのように熱のこもる視線を絡ませ、照れたように互いに視線を逸らして小さく笑った。
「も~~~、イヤッ! どうしてこんなに危ない飛び方をするの!?」
「がうっ! がうっ!」
「マスタードラゴンの背にプックルの爪がかなり深く……痛くないのでしょうか?」
「蚊に刺されたくらいのもんじゃねえの? ヘーキだろ」
「え~、じゃあかゆくなっちゃうよ。マスタードラゴンくらい大きいと、天空の剣で掻いてあげるくらいがいいのかなぁ?」
そう言いながら背から剣を引き抜こうとするティミーを、ピエールが冷静に止めていた。うっかり勇者が竜神をこの場で倒してしまったら大変だと、勇者ティミーの計り知れない可能性にピエールのみならず皆がひっそりと冷や汗をかいていた。
竜神は背に踏ん張るプックルの爪に痛さを感じることもなく、急旋回した後に再び南へと向かっている。来た道を引き返すような竜神の行動に、リュカは竜神がもう一か所、大事な場所へ立ち寄ることを決めたのだと感じた。サラボナの町に寄って、そのままグランバニアに向かうわけにはいかないと、そう思っていたのはビアンカではなくリュカだ。それというのも、彼女が故郷の山奥の村の景色を静かに見つめていたからだ。故郷の村に住む父ダンカンに会いたくないわけがないだろうと、リュカは内海を超えたところに見える山々の景色に向かって指差し、ビアンカに微笑む。
「ちゃんと無事に帰ってきましたって、挨拶しないといけないね」
リュカの言葉に、ビアンカは一瞬目を見張るも、すぐに微笑みを返す。
「ありがとう、リュカ」
竜神は確かに、リュカの意思をその巨大な竜の身体に受け、まるで情ある一人の人間のように感じていた。竜神は人間が好きなのだ。その理由の一つとして、人間の親子愛があった。特に親から子へ贈る無償の愛という、感情の上に存在するような感情、感情の中に内包されるような感情に、竜神は甚く感動するのだった。
山々の中にぽつんと見える人々の集落の真上で、竜神はあろうことか宙返りをした。険しい山々の中に、巨大な身体を持つ竜神は降り立つことができない。宙返りと共に、リュカたちの視界はその通りぐるりと回り、皆が目を回すことから逃れるように、宙に放り出される恐怖から逃れるように瞬きをしたその時に、竜神の背から彼らの姿は消えていた。
「……どうしてこんなところに……」
リュカたちが降り立ったのは、どういうわけか山奥の村の中ではなく、ただの山の中だった。村にある温泉の独特の臭いは漂っているものの、少し山の中を歩かなければ村に辿り着かない。
「あら、転ばないだけいいじゃないの」
「どういうこと?」
「リュカがここに来るときに、上手く着いたことがあったかしら?」
「…………」
ビアンカの言う通り、リュカはこの山奥の村に向かって移動呪文ルーラを唱えると、必ず何かしらの事故を起こしていた。着地に失敗することがほとんどだが、それというのもリュカの頭の中で山奥の村に対する想像が安定しないためだった。ビアンカをこの山奥の村から、彼女の父ダンカンから引き離してしまったという後ろめたさからか、彼女の故郷に向かってルーラを唱える時は必ずリュカの心は乱れてしまうのだ。
「でも今はマスタードラゴンが私たちをここへ連れてきてくれているのよね?」
「マスタードラゴンでも上手く行かないことがあるんだね!」
そう言いながら皆が見上げる空には、竜神がどこか細い声を上げながらゆるやかに旋回している姿が見える。その声はもしかしたらリュカに謝っているのかもしれないと思うと、リュカは気が抜けたように小さく息を吐いて、笑うしかなかった。
「世界が平和になったとは言え、やはり魔物はいるのですね」
「がうがう」
「平和になったと同時に魔物が消えるんだったら、オレたちはとっくに消えてるだろうからなぁ」
ピエールたちの言葉の先、山道の脇に、この山に棲む魔物の影が見えている。木の陰に隠れるようなその控えめな動きに、リュカは魔物をじっと見つめる。青と赤の、形こそ同じだが色違いの魔物が二体、木の幹の陰からふわふわと姿を現し、同じようにリュカを興味深そうにじっと見つめ返している。
「仲良しさんなのかしら?」
「手を繋いでるみたい」
「手……なのかな。ちょっと違う気がするけど」
ティミーがそう言うのは、ホイミスライムとベホマスライムが互いの触手をまるで手を取り合うように繋いで空中にふよふよと浮いていたからだ。魔界の力が強まり、地上世界にもその力が波及していた時、地上に棲む魔物らは一様に狂暴化していた。しかし魔界の大魔王と名乗るものが倒れ、この世界はそれだけで一変してしまった。暗闇に包まれかけていた世界が再び晴れ渡り、人間たちは喜びと安堵に落ち着いたが、魔物たちとしては戸惑いの方が大きかったに違いない。
「怖くないよ。おいで」
リュカが呼びかけると、ホイミスライムとベホマスライムは互いに目を見合わせ、どうしようどうしようと逡巡する。恐らく彼らもまた、大魔王の力が及んでいた中で魔物としての凶暴性を増し、この先に見えている山奥の村を襲う気でいたのだろう。その凶暴性が萎むように消えていくに連れ、寧ろ人間に対する恐怖が大きくなっていったのだろうかと、リュカはただ二体の魔物が近づいてくるのを待っている。
近くで何かを打つような鋭い音が聞こえた。その音に、青と赤の魔物は二体揃ってびくつき、あたふたと周りを見回す。続いて姿を現したのは、手に鞭を持つ魔物使いで、どうやら見失っていたこの青と赤の二体を見つけるために山の中を彷徨っていたようだった。ホイミスライムとベホマスライムを見つけた瞬間の魔物使いの表情を、リュカは見ていた。手に鞭を持っているものの、その表情に奴隷を酷使するような威圧感は感じられなかった。ただ、今までずっと魔物として手に鞭を持ち、それを使って他の魔物と接していたために、鞭を手から離すこともできなくなってしまったのだろう。
リュカたち人間と魔物の一行を見るなり、魔物使いは思わず小さく悲鳴を上げた。リュカとしては過去に嫌というほど鞭で叩かれた経験があるために、鞭を振るう魔物の姿を見るだけで、どうしようもない忌避感を抱いてしまうが、その苦しい感情を一度ぐっと腹の中に押し込める。
「本当は、仲良くしたいんだろう? それならもう、武器は収めるのがいいよ」
そう言うリュカの腰には、父パパスの剣が鞘に収められ、ティミーの天空の剣もまた背中の鞘に収められている。リュカの心の根底には、決して戦いたくはないという思いが当然のようにある。戦わずして済ませられるのならそれに越したことはないというのは、生きるものであれば誰しも抱く本能に違いない。誰しもが傷つきたくはないし、ましてや意味もなく命を落としたくはない。戦うことなしに心を通じ合わせることができるのは、人間同士に限らず、人間と魔物の間にも起こることと言うのは、リュカ自身の旅の中に証明している。
まだ朝の早い時間の、澄んだ山の空気の中で、東から登った太陽の光が山々を照らしている。リュカは魔界という世界に一度足を踏み入れ、あの暗黒の景色を知っているために、この地上世界の日に照らされる景色の清々しさをその身により多く感じることができる。地上世界に棲む魔物の気性をも鎮めるこの陽光の力の下で、今リュカたちの目の前にいる魔物らは明らかにその表情にこれまでにないような柔和さを浮かべている。
「……武器を収めたことがないのではないでしょうか」
ピエールの言葉に、リュカは新たなことに気付かされた。地上世界でも常に外に生きる魔物は、いつでも武器となるものをすぐに使えるよう手に持っているものなのかも知れない。生きている中で武器を手放す瞬間がないということは、果たしていつ生きた心地がするものなのだろうかと、リュカは鞭を持つ魔物使いに対して思わず憐みの表情を見せる。
「もう僕たちは戦わなくていいんだ」
「…………どうしたらいい、これから……」
人間の言葉を普通に話す魔物使いを、ティミーとポピーは驚きの眼差しで見つめる。二人の表情には嬉しさの笑みが浮かび、話ができる魔物であることに期待を膨らませる。
「お父さん! お話ができるんだわ!」
「ねえ、ボクたちの仲間になってもらおうよ!」
子供たちのはしゃぐ様子に、目の前の魔物使いだけではなく、ホイミスライムにベホマスライムも驚き戸惑っている。突然現れた人間と魔物の一行に、武器を収めろと言われ、仲間になれと言われれば、戸惑いを見せるのは当然のことだろう。子供たちの好奇心溢れる提案に、リュカはゆっくりと首を横に振った。
「僕は世界中にいる魔物たちをみんな仲間にしたいわけじゃないよ。それにここで出会ったばかりで、いきなりここから遠いグランバニアに連れて行くのはちょっと無理があるんじゃないかなぁ」
「鞭のしまい方が分からないなら私が教えてあげるわ。簡単よ。丸めてベルトに収めればいいんだから」
そう言うなりビアンカは魔物使いにすたすたと歩み寄り、有無も言わせずにさっさと鞭をしまい込んでしまった。普段は武器に鞭を手に取らないビアンカだが、リュカは幼い頃に彼女が母親の茨の鞭をこっそり身に帯びて夜の幽霊城を探検したことを覚えている。彼女は彼女で、幼い頃に母親が身に着ける鞭の在り方を勝手に学んでいたのだろう。好奇心旺盛で勝気なビアンカならば、それくらいのことはしていたに違いないとリュカは確信する。
すると、たったそれだけのことで、ホイミスライムとベホマスライムのそれまでどこか緊張した表情が和らぐのをリュカは見た。似た者同士の二体はただ、魔物使いがこれまで使っていた鞭に怯えていたのだと、リュカはまるで自分のことのように分かったような気がした。武器を収めるということは、敵意をしまい込むということだ。それだけで修復したり、進展したりする関係性というものがあるのだと、リュカは魔物同士の歩み寄る姿を見ながら思わず笑顔を見せる。
ただ、関係の修復にはあともう一歩、必要なことがあるとリュカは言い添える。
「悪いことをしたのなら、ちゃんと謝るんだよ。それで仲直りできるんだ」
まるで子供に言う言葉だと、リュカの言葉に誰もが思う。しかし誰かとの関係性を考えれば、これが最も重要なことであることに誰も反論することはできない。何故それが最も重要なことなのか。結局は互いの心のやり取りに尽きるからだ。しかし互いの心を覗き見ることはできない。それならば、心を行動で示すしかない。
魔物使いは急に手持ち無沙汰になってしまった両手をどうしたらよいかわからない様子で前に組み合わせもじもじしていたが、空に昇る日の下では己の行動も表情も隠すことができないと、半ば諦めたような様子で二体のふよふよと浮く魔物を見る。
「……今まで、悪かったよ……もう、お前たちをぶったりしないよ……」
魔物使いは言葉にしてみて初めて、これが己の本心だったのだと気づいたように、驚きの表情を見せていた。ホイミスライムもベホマスライムも、魔物使いの発する言葉自体を理解したかどうかは分からない。しかしその声の調子に態度に、相手の意を感じたことは確かだろう。その証拠に二体はそろそろと魔物使いの方へと近づいて行っている。
仲直りをした魔物たちは、そこで一気に心が解けたようで、リュカたちにも気軽に声をかけてきた。リュカたちと行動を共にする魔物の仲間に素直に興味を示し、主にピエールに色々を話しかけ始める。
「リュカ殿、我々はここらでお待ちしていますよ」
「どうせ人間の村には入れねぇからな」
「がう~」
魔物同士で積もる話があると言わんばかりに、魔物使いもホイミスライムもベホマスライムもピエールに同意するような視線をリュカたちに向けている。邪魔をするつもりもないリュカはピエールの言葉通り、家族だけで山奥の村へと向かうこととした。魔物使いは改めてリュカたちにもさっぱりとした礼を述べると、そのままピエールたちと輪になり、腰を据えて会話を始めたようだった。
彼らはこの土地に棲み、これからもこの土地で過ごすことが心地よいのだろう。もちろん、山の中で人間と遭遇すれば、それは避けようもなく敵対するものなのだろうが、彼らはもう無暗に人間を襲うことなく戦いを回避するに違いない。そもそも誰もが、戦いたいなどと思っていないのだ。
「本当に世界が変わったのね……」
「うん、そうだね。……ただ、平和になったって言っても、色々と大変なことはあるんだと思うよ、これからも」
いくら竜神の背に乗って世界を巡ることができると言っても、リュカたちが実際に目にする世界というのはほんの一部に過ぎない。魔界の大魔王が倒され、世界が平和になったと一口に言っても、それがどのようなことなのかを一言で表すことなどできないのが現実だ。すべてが丸く収まり、めでたしめでたしということで世界は終わるわけではない。これからも続いていく世界にどのようなことが起こるのかは神の手にも負えないことだろう。もし悪しき者が滅び、めでたしめでたしで終わる世界であれば、遥か昔に存在した勇者が悪を滅ぼした時から今もこれからも、平和な世の中が続いていたはずなのだ。
「でもさ、あの魔物たちが仲良くなれて良かったよね!」
「私たちみたいに、魔物と人間も仲良くなれるんだもの。魔物さん同士が仲良くなれないはずがないよ!」
子供たちの未来を示す言葉は力強く明るい。その雰囲気に、沈みかけるリュカの心は上へと持ち上げられる。親として子供を支える以上に、自分は子供たちの存在に支えられているのだと感じれば、リュカの顔にも笑みが浮かぶ。
「さあて、リュカの緊張もほぐれたところで、私の実家に行きましょう! すぐそこよ!」
ビアンカはついつい悪戯心を覗かせてそう口にしてしまうが、リュカはそれを真に受けるように一瞬にして緊張した面持ちを取り戻してしまった。一体これまで何度、妻ビアンカを危険な目に合わせたかを考えると、義父であるダンカンにどのような顔をすれば良いのか、相も変わらず分からなくなってしまう。
「やあねぇ、リュカ。そんな顔しないで、笑って、笑って!」
「が、頑張るよ……」
父ダンカンがリュカに怒ることなど絶対にないと分かっているから、ビアンカはついリュカをからかってしまうのだった。しかしそのようには思えないリュカはどうしても拭いきれない罪の意識からか、意識せずともこの山奥の村を前にすると緊張に身体を硬くしてしまう。父のそんな胸中を知ってか知らずか、ティミーとポピーは両側からリュカの手を引いて、元気に山奥の村に暮らす祖父に会いに歩き向かっていった。
村人たちの歓迎ぶりは賑やかなものだった。竜神が山奥の村の遥か上空で、地上世界の平和を祝福するように緩やかに飛んでいる。その姿を村人たちも目にしており、この山奥の村にも世界に平和が訪れたということは知れ渡っていた。
一人一人がこの村の出身であるビアンカを囲むように、口々に平和な世の中になったことを喜び合っていた。いつからこの世界が平和ではなくなったのかなど、誰にも分からない。しかしこの山奥の村を訪れる観光客は年々減り続け、近頃ではほとんど見かけなくなっていたのだ。病を癒す温泉があり、そのために湯治に訪れる旅人が多かった時もあったと言うが、最近では村人たちが温泉に入るくらいのものになってしまっていた。しかし平和な世の中になったとなれば、この村にも再び湯治に訪れる旅人が増えてくるのだろう。
村人たちも、ビアンカを彼らのところに引き留めるような野暮はしなかった。早く早くと、急かされるように歩かされる先には、ビアンカの実家である大きな木造の家が見える。上り坂をずっと上り続けるのは、あの魔界のエビルマウンテンでの旅路を思い起こさせもするが、今はお天道様が空に昇り、明るく晴れやかな山道を一つの苦しみも胸に沸くことなく進むことができる。ビアンカの実家に続く梯子を上れば、先頭を歩いていたビアンカは大きく息をついて、胸に込み上げそうになるものを抑え、ノックもなしにゆっくりと扉を開いた。
「ただいまー!」
扉を開ければいつも、彼女はこうして家の奥にまで届くような大きな声で父ダンカンに帰ったと伝えていた。それは習慣であり、彼女の人生の一部だった。母を喪い、父の身の回りの世話をしながら暮らしていたこの山奥の村で、彼女は十年ほどの月日を過ごした。リュカの伴侶となり、村を出て旅をするようになったからと言って、彼女のそれまでの習慣がなくなるということにはならなかった。
ビアンカの父ダンカンは、家の外での村人たちの賑やかな声を聞いていたようで、待っていたというように正面のテーブルについていた。腰を下ろしていた椅子からゆっくりと立ち上がる姿に、彼が過ごした年月を感じるが、その表情はどこまでもにこやかなものだった。
「おかえり、ビアンカ。リュカも、ティミーにポピーも、よく来てくれたね」
ダンカンが娘を見る表情には、血の繋がりのない父娘の雰囲気は微塵も感じられない。どれほどダンカンが娘を大事に思い育てたかが、彼のにこやかな表情に刻まれる皺の一つ一つに感じられる。そう感じるのが分かっているから、リュカはいつも少なくはない罪悪感を勝手に感じてしまうのだった。
「おじい様、ただいま、です」
「なんだなんだ、そんな他人行儀に。おじいちゃんで構わんよ。おじい様なんてガラでもないしなぁ」
「おじいちゃん! ボクたちで魔界の王ってヤツをやっつけたんだよ! もうみーんな大丈夫なんだ!」
「そうかいそうかい、魔界の王をやっつけてしまったのか……」
近づくポピーとティミーに、ダンカンは目を細めてその頭を優しく撫でてやる。ティミーもポピーもすっかり背が伸び、背中が少し丸まっているダンカンに追いつきそうなほどだ。しかしそれでも、ダンカンにとっては可愛い孫たちであることに変わりなく、まるでまだ二、三歳ほどの小さな幼子の頭を撫でるような雰囲気で二人の頭を交互に撫でている。
「それはともかく、リュカたち四人がこうしてわしに会いに来てくれたんだ。こんなうれしいことはないぞ」
ダンカンにとってはリュカたちが魔界の王を倒したということよりも、大事な子供たち、孫たちが会いに来てくれた方がよほど大事であり、嬉しいことなのだと、そんな言葉が口から出てしまう。リュカたちもまた、何のために魔界にまで足を踏み入れ、世を荒らす悪しき者と対峙したかと言えば、大事な者を守りたかったからだ。それはビアンカの父ダンカンであり、グランバニアに待つサンチョであり、オジロンにドリス、国の皆や魔物の仲間たち、と考えて行けば、リュカたちが守りたいと思う者たちは果てしなく世界中に存在していた。それは見知っている者たちばかりではない。すべては関係し、繋がっているのだ。それ故に、リュカたちが守りたいと思うのは、この地上世界であり、魔界さえも守らなければならないと思っている。
そして世界を荒らす悪しき者が滅びた今、リュカたちはこうして大事な家族であるダンカンとも再会することができた。こうやって笑顔でまた会えることを望んで、魔界での苦しい旅にも堪えてきたのだ。ダンカンが手放しで喜んでくれることが、リュカたち皆の望んだことだった。
「つもる話もあるし、今日くらいはゆっくりしていけるんだろう?」
娘家族を迎えた父が口にする当然のことだと、リュカはその言葉を受け止める。リュカ自身は、それで構わないと思っていた。もちろん、帰るべき国グランバニアのことは頭の片隅に常にちらついている。しかし、大事な一人娘との再会を喜び、二人の可愛い孫たちとの再会を喜ぶ義父に対し、リュカが何かを言うことはできないと感じた。
リュカが穏やかに返事をしようとする直前、その一歩前に出るようにしてビアンカが父に言う。
「それがお父さん……」
ビアンカはビアンカで、自分が言わなければならないと感じていた。決して父を蔑ろにするわけではない、しかし今は夫であるリュカを優先させなければならない。世界はめでたく平和になった。もういつでもこの山奥の村に帰ることができる。落ち着いてこの場にいられない今をここで過ごすよりも、一度落ち着いてからまたすぐにここに戻ってくることを約束するように、ビアンカは父ダンカンの隣で丁寧に説明する。
「なんだって? グランバニアでは人々がリュカの帰りを待ちわびている? そうか……」
明らかに肩を落とすダンカンを見れば、リュカは思わずビアンカに視線を投げてしまう。リュカには二重の意味での罪の意識がある。ビアンカと結婚したことで彼女を父ダンカンから引き離してしまったこと、それに加え、彼女を十年もの間行方知れずの状態に陥れてしまったこと。特に後者に関しては、何を引き換えにしてもダンカンに謝り続けなければならないと感じていた。
「あ、あの、ダンカンさん……」
「やあねぇ、リュカ。“ダンカンさん”はないでしょ? あなたのお父さんなのよ。まだ自覚してないの?」
「はっはっはっ、まあ、リュカ君の父親はパパスだからなぁ。ちょっとわしでは頼りないものなぁ」
「えっ、いや、そんなことは……」
「あ~、そうやってあたふたするのは良くないわね~。私も傷ついちゃうじゃないのよ」
「まあまあ、ビアンカ。それくらいにしておいておやり。あんまりリュカ君をいじめちゃかわいそうだろ」
この父と娘の何気ない会話に、彼らが過ごした年月が詰まっているのを誰もが感じる。ビアンカはいつものビアンカのようにも見えるが、彼女は実のところ本能的に父ダンカンに甘えているのだった。父が自分の言うことにしっかりと抑えを利かしてくれるから、父がそうしてくれると彼女は信じ切っているから、それに甘えて彼女は少々強い調子でリュカに言うこともできるのだ。それが結局は、娘が父に甘えているという、父と娘が共に過ごした年月ということなのだろう。
「リュカはグランバニアの王様だったな」
ダンカンの言うその現実は、この山奥の村には到底雰囲気に合わないことで、ダンカン自身もまるでそのことは雲の上で起きていることだというような調子で言っている。リュカが一国の王であることも、その妻となった娘が王妃であるということも、ダンカンは一度も現実味を帯びて考えたことがない。少しでも欲をかく人間であれば、近くに権力ある人間がいれば必ずその恩恵に預かろうとするだろう。しかしダンカンにおいてはその気が全くなかった。
人の幸せとは何かを考えれば、ダンカンはもう既に幸せを手に入れていた。これ以上ない幸せを手に入れている者にとっては、どのような力も金も権力も、いくら見せつけようとも影響がない。彼は山奥の村で過ごすことに満足している。村人たちは皆が優しく、困ることがあれば互いに手を取り合って過ごす間柄が出来上がっている。そして愛娘は元気に過ごし、娘の夫もまた我が子のように大事に思っている。おまけに可愛い孫たちまで元気な姿を見せてくれる。これ以上に望むことなどないと自覚しているダンカンは、ただ目を細めて愛する家族を見守るだけだ。
「よしわかった。リュカ、早くグランバニアに帰ってあげるといいぞ」
「お父さん、また会いに来るからねっ」
本当は、ビアンカだって父ダンカンとゆっくりとした時間を過ごしたいはずだ。リュカはつい申し訳ないと詫びる気持ちを抱いてしまうが、ダンカンもビアンカも、リュカのそのような気持ちをまるで一蹴してしまうような勢いで、ぽんぽんと話を進めてしまうのだ。
「会いに来るのはいいが、リュカと喧嘩して家出なんかしてくるなよ。わっはっはっはっ」
「ホントにもうっ! お父さんったら心配してるのかからかってるのか、わからないわ!」
全てが自然で、全てが温かい。この心地よさの中にもし、ビアンカの母も、そしてリュカの父と母もいたならば、どれほど賑やかで幸せな空間が広がっていただろうかと、リュカはつい想像してしまう。父パパスとダンカンが酒を酌み交わす姿が目に浮かぶ。今ならばそこに自分も加わることができるだろうか。ビアンカは母と仲良く料理の支度をし、その場に加わる母マーサの姿も見えるようで、リュカの視界は滲む。祖父母が揃う中で、孫であるティミーとポピーはこれでもかというほどに可愛がられていただろう。今のダンカンが双子を見る目を見れば、それは想像に難くない。
望んでいた未来があった。しかし未来は望んだ形にはならなかった。だけど、それを乗り越えて生きることが、リュカたちには求められている。これからを幸せに生き続けることが、リュカたちのようなこの世に生きる者たちには求められているのだ。それが、既にこの世を去った人々を心から弔うことになるだろう。
「でも、リュカ。私がここに帰りたくなるようなことは絶対にしないでね。約束よ」
「えっ!? どういうことだよ、それって」
「さあねぇ、どういうことかしらね?」
すかさずからかってくるのだから、たまったものではないとリュカはこめかみに冷や汗をかく。彼女が本気ではないことは分かっている。しかしもし本気になってしまったとしても、それも理解できてしまうのだから、リュカのこめかみには自然と汗が浮き出てしまうのだった。
「どれ、わしのかわいいマゴたちの顔をよく見せておくれ」
改めてダンカンは目の前に立つティミーとポピーの顔を間近に交互に見つめる。双子特有の似た顔つきをしているのは誰もが認めるところだが、十歳を過ぎた彼らの顔つきはそれぞれの思いによっても性差によっても違いを見せてきている。ティミーは強くも優しい父リュカに憧れを抱き、よりリュカに似てきているようだ。ポピーは美しくも逞しい母ビアンカに憧れを抱き、よりビアンカに似てきたようだ。ダンカンは一度、ポピーを幼い頃のビアンカと見間違えたこともあるほどだ。
ダンカン夫妻は子宝に恵まれず、しかしそれこそ天から降ってきた幸運をつかんだように赤ん坊のビアンカを拾い、愛しい我が子として育ててきた。血の繋がりなどなくとも、ビアンカは紛れもなくダンカン夫妻の娘だった。しかし今、こうして我が娘が血の繋がる家族を持てたことに、ダンカンはこの上ない喜びを感じている。己の叶えられなかった夢を娘が叶えてくれたこと、それが親にとっては何よりも嬉しく、どこか誇らしい。
「ティミーにポピー。お父さんやお母さんのような立派な大人になるんだよ」
世界を救った勇者という立場でありながらも、まだ十歳を過ぎたほどの子供であるティミーとポピーに、ダンカンは父と母を見習うのだと言い示す。その思いは、本心からのものだ。親は子に背中を見せなければならない。子は親の背中を見るべきだ。そのような互いの姿勢そのものが、親子という関係性を継続的に作り上げていく。第一、何も考えずとも自ずと親子というのはそのような姿勢を示すものだ。それは、互いに互いの存在を愛しく思い、尊重するからに他ならない。
ダンカンは別段、明確にそのような思いを持っているわけでもない。ただ彼は、親子というのは何よりも大事な絆で結ばれているものなのだと、彼らに伝えたいだけだった。そしてそれをこうして教えるのが、祖父にできることなのだと、彼は考えるまでもなく感じるままに孫たちをにこにこと見つめているだけなのだ。
「おじいちゃん一人っきりじゃさみしいに決まってるよ。お父さん、お城が落ち着いたら、おじいちゃんもグランバニアに呼ぼうよ。ねっ!」
祖父ダンカンのこれ以上ないような優しい笑みを受け、ティミーは思わずリュカにそう伝える。そのティミーの本心には、祖父が寂しいと感じているに違いないと思えるような、家族愛があった。家族は一緒にいるべきだと思うのは、リュカたち一家に一致する感覚だ。本来ならば、魔界に囚われていた祖母マーサも地上世界へと救い出し、共に過ごす未来を描き、希望を抱いていた。それが叶わなかったという後悔も手伝い、ティミーは尚のこと祖父ダンカンをグランバニアへ呼べないかと考えてしまうのだった。
「はっはっはっ、いずれはそれも良いかもなぁ。そうしたらわしは王様の父だから、そちらの国で、えっへん!と言えるわけかな?」
腰に両手を当てて胸を反らそうとするダンカンを見て、皆が笑う。彼が本気で言っていないのは誰もが分かっている。この山奥の村で日々静かな時間を過ごしている彼のこと、たとえグランバニアに居を移したとしても、何にも煩わされることなく静かに暮らしたいと思うだけだろう。
「あははっ! そんなおじいちゃんも見てみたいかも!」
「ありがとう……ティミー」
父ダンカンに対して、明るく元気な孫でいてくれるティミーに、ビアンカは思わず礼の言葉を小さく述べた。ダンカンの娘であり、ティミーの母であるビアンカ。父も息子も、どちらも同じように大切な家族だ。その二人が顔を見合って、笑い合えているこの状況が、ビアンカにとっての何よりもの宝物だ。以前よりも父に老いを感じる状態であっても、こうしてひとたび孫の顔を見れば、その元気さにつられて元気を取り戻してくれるようで、ビアンカとしては父を元気づけてくれる息子に思わず礼を口に出してしまうのは自然のことだった。
「父さん、そういえばオレンジのジャムはまだ瓶にちゃんとある?」
「ああ、あるよ。毎日のように飲むからなぁ。ちゃんと宿の女将さんがなくならないようにしてくれているよ」
「あっ、あのジャム、私好き! パンに塗ってもおいしいんだもの!」
以前にこの山奥の村を訪れた際に、ポピーたちは村のオレンジジャムを口にしたことがあった。ジュースにして飲んだものだったが、今はジャム瓶の一つをグランバニアにも置き、パンにつけて食べることもあった。
「おお、そうかそうか。それならわしのも持っていくといい。女将さんが多めに置いてくれているからなぁ」
そう言いながらダンカンは向きを変えると、奥にある台所へ入るなり戸棚の扉を開け、ジャムの入った瓶を二つ手に戻ってきた。それは今ダンカンの家にある残り全てだったが、孫を前にした祖父としては自分の分を取っておくという考えはどこかへ置き去りにされてしまうようだった。
「これ、もらってもいいの、おじいちゃん?」
手渡されたジャムの瓶を見ながら、ポピーが嬉しそうにダンカンに聞く。ポピーのその表情が、幼い頃のビアンカの表情にまるで重なって見えるダンカンは、子供の頃のビアンカに手を焼きながらも慈しんで育てた当時をつい思い起こし、ただただ顔に笑みを浮かべてしまう。
「ああ、ああ、構わんよ。好きなだけ持っていったらいい。わしが普段使う分なんて大した量じゃないからな」
「おじいちゃん大好き。だってやさしいんだもん。えへへ」
ポピーが素直にそう言うのも頷けると、リュカはダンカンの孫たちに見せる蕩けるような笑みを見てそう思った。目に入れても痛くないほどに可愛いとはよく言ったものだと、ダンカンの笑顔を見ているとそんな言葉も思い出せる。
「ポピーも本当にいい子ね……」
素直に祖父に甘えるような態度を見せてくれるポピーが、ビアンカにとってはどこか誇らしかった。自身がこの村を離れ、父を一人にさせてしまった罪悪感は今も胸に残るが、それでもこうして孫の顔を見せることができ、父もまた孫であるティミーとポピーとのやり取りに喜びを感じてくれているならば、これ以上の親孝行はないのではないかとも思う。
リュカとの結婚が決まり、その後共に旅をすることとなり、当時リュカは旅を続ける限りは子供はいない方が良いと考えていた。ビアンカもまた、夫となった彼のその考えを強く否定することもできなかった。危険な旅の最中、子供を設けることの負担を考えれば、赤ん坊という存在は間違いなくリュカたちの旅の妨げとなっただろう。しかし冷静にそう考えていたとしても、ビアンカは子供が欲しかった。
その時はまだ、彼女の身勝手な思いがあったのかもしれない。自分を育ててくれた両親への恩返しにと、そのような考えがビアンカにはあった。もしリュカとの間に子を授かることができれば、さぞかし可愛いことだろうという夢もあった。お母さんになってみたいという願望もあった。自分を育ててくれた母のような、優しく厳しくたくましいお母さんになりたいと、亡き母を想うこともあった。
めでたくグランバニアの地で双子を授かった。胸に抱く我が子の温かさを感じた瞬間に、ビアンカの胸には想像もしていなかったような膨大な幸福が溢れたのを、彼女は今も覚えている。いくら想像していても追いつかないほどの感動がそこにはあった。小さな小さな命は、まだ泣き声を上げることでしか、自己を主張することもできない。それに真っ先に気付いてやれるのは自分なのだと、あの時母としての覚悟が一瞬にして決まった感覚も、彼女は思い出すことができる。
十年もの間、子供の傍にいられなかった。その間、子供たちを無償の愛で育ててくれたグランバニアの人々には感謝してもし切れない恩がある。人々が双子をまるで我が子のように慈しみ育ててくれたから、二人はこうしてのびのびと素直な良い子に育ってくれた。記憶にない母を目にしても、戸惑うことなく受け入れてくれたことに、ビアンカの母としての愛情は再び元の通りに溢れたのだ。
「ビアンカ……」
隣でリュカが心配そうに目元を拭ってくれて初めて、ビアンカは自分が知らず涙していたことに気付いた。父ダンカンはただ見守るような温かな笑顔で、娘を正面から見つめている。
「あはは……この村に戻ると何だか気が抜けちゃうのかな……」
「お母さん……悲しいの?」
「違うわよ、嬉しいの」
「村に戻ってこられて嬉しいの?」
「それもあるけど……みんながこうしていてくれることが嬉しいのよ」
もしかしたら、この景色は永遠に失われていたかもしれなかった。リュカたちが大魔王の力に屈していたら、今頃この地上の世界は闇に包まれ、人々は行き場を失い、悪しき魔物たちが闊歩するような世界へと変貌していたかもしれない。それを思うと、今こうして皆が笑顔でいられることそのものに、そこはかとない感動が滲んでくる。平和が守られたことを実感すれば、この村の人々も景色も何もかもが壊されることなくここにあるということが、寧ろ奇跡のようにも感じられる。
「ビアンカ」
「なあに、父さん?」
「ちゃんと母さんにも挨拶をしていくんだぞ」
「……うん、もちろんよ」
ダンカンは急いでグランバニアに行かなければならない娘の背中をそっと押すように、ただ見守るような柔和な笑みを浮かべてそう言った。娘はいつまでも父に甘えるように、その言葉を受けてこの家を後にする気持ちを整えた。別れに多くの言葉はいらないのだと言うように、寧ろこれはただの一時的な別れだとでも言うような軽い調子で、ビアンカは父ダンカンの住む実家を後にした。
妻の眠る墓地に、ダンカンは共に足を運ばなかった。もしともに墓地に向かっていれば、墓石の前で涙を見せてしまうかもしれないと、ダンカンはそうなることを避けたのだった。娘の前で涙など流してしまえば、心優しい娘は村を立ち去りがたくなってしまう。もう彼女は、親の手を離れ、良き伴侶にも可愛い子供たちにも恵まれた人生を送っているのだ。我が子の足枷になるのはごめんだと、父親としての意地のような気持ちもあり、ダンカンは一人家に残り、まだ朝に飲んでいなかったオレンジジャムを溶かしたジュースを飲む。涙は目に滲む。しかし頬を零れることはなかった。滲む涙はただただ温かい。
ダンカンの家から墓地に向かう途中、リュカたちはまたしても村人たちの歓迎を受けた。その中に、長くダンカンの下で働く男の姿もあった。リュカは当然、彼のことを覚えている。当時、自身がビアンカに恋をしたからこそ、彼もまたビアンカに恋をしていたのだと気づいたのだ。
今、彼と初めに目が合ったのはリュカだった。それというのも、やはり彼の視線にはビアンカに対する好意以上のものを感じるからなのかも知れない。リュカはそれを、嫌なものには感じなかった。彼はその好意以上にもなる気持ちを、どこか自身で達観している雰囲気を醸している。リュカのことを見つめているが、そこに敵意に依るものは一切感じられなかった。
「よう!」
手を挙げて明るい声を出す彼に、ビアンカは初めて気づいたというように、村人の中に彼の姿を見つけた。近づいていく彼女には、ただ彼を大事な村人の一人と思っている意識が感じられる。彼はそんな彼女の気持ちを正面から受けても、ただ明るい笑顔で、まるで彼女は自身の妹なのだと言うような顔を示して待っている。
「いつも父さんのこと、ありがとう。父さん、迷惑かけてないかしら?」
「ダンカンさんは優しい人だからな。むしろ物足りないくらいだよ」
「まあねぇ、うちじゃあ母さんが強い人だったから……」
つい話し込みそうになってしまう雰囲気を断つのは、彼の方だった。
「まったくたいした連中だな、あんたらは!」
リュカたちが世界を救った勇者一行だということは、この山奥の村の人々にも知られている。そのせいでこうして村人はリュカたちを囲むようにして騒いでいるのだ。この小さな村に勇者がやってきたと、ティミーの装備する天空の武器防具をまじまじと見つめる武器屋の主人もいる。わいわいと賑やかな中で、彼とビアンカの交わす言葉は丁度よい調子で紛れている。
「さすがにビアンカさんがホレただけのことはあるぜ」
そう言いながら彼はリュカへと視線を移した。やはりそこに、敵意に通じるものは一切ない。同じように、いや、もしかしたら自身よりも深い愛情を抱いていたかもしれない彼に対し、リュカはようやく自然と笑みを返すことができた。
「いや、負けたよ」
その言葉の意味は、ビアンカという一人の女性を好きになった者同士の間で、互いの胸に染み入るような感覚をもたらした。一方は圧倒的な敗北を認めることで、その心は嘘のように晴れた。もう一方は相手の敗北宣言から得た勝利の立場に、自信を持ってこれからも立ち続けられるという意識を明確にすることができた。要するに、二人の男たちは互いに今までにはないほどの“自身”を持つことができるようになったのだ。
そのような彼のすっきりと晴れたような笑顔に気づいたのかどうかは分からないが、その場を立ち去った後にビアンカがふと漏らした言葉があった。
「あの人にもきっとすぐにいい人が現れるわよね」
他の村人たちの中に紛れてしまったその人を振り返りながらビアンカがそう言うと、隣を歩いているポピーが、自分でも何を思ったのか分からないままに母の手をそっと掴んだ。
「お母さん……」
「ん? なあに、ポピー?」
自分を見てくれる母の表情は、どこまでもポピーの母親だった。この山奥の村でビアンカがどう過ごしていたのか、本当なら知りたいと自然に思うのがポピーという少女だが、今はその思いに蓋をしたいと思った。この山奥の村で育ったビアンカという女の子がいた。しかし今、ポピーが目にしているのは、グランバニアの王妃である母ビアンカだった。ポピーにとって大事なのは、考えるまでもなく、母であるビアンカの方だった。
「……ううん。なんでもないの。お母さん……大好き」
「? どうしたのよ。うふふ、可愛いわねぇ」
いつもはしっかりしている娘のポピーがこうして甘えを見せてくれることが、ビアンカにとっては非常に嬉しい。我が子を可愛いと思うのは至って普通で、親として頼られること、甘えられることなどがあれば、尚のこと子に対する愛しさは増すというものだ。子供たちと共に過ごすことのできなかった十年という年月を補うように、みるみる大きくなっていく子供たちへの愛情は膨れ上がるばかりだと、ビアンカはポピーの頭を優しく何度も撫でた。
ビアンカが母が眠る墓地へと向かうのを、村人たちは邪魔することなく、共に賑々しく歩いていく。ビアンカたちがそれほど長くこの村にいることができないと知れると、村人たちは一様に肩を落としたが、無理に引き留めるようなことはしない。あくまでもビアンカの生きる場所はこの村ではなく、外にあるのだということを村人たちはこの十年という月日に理解しているのだろう。
墓地に足を踏み入れれば、村人たちの話し声も自ずと静まった。この場所で騒々しく声を立てるような者はいない。ここは亡き人と静かに話をする場所だということを、誰よりも村人たちがそう感じている。ビアンカと、彼女の亡き母との静かな会話を邪魔する意図もなく、村人たちは墓地の手前で足を止め、存分に母と娘で話をするのが良いと彼女たち家族をその場で見送った。村人たちの手で絶えずきれいに掃除されている墓地に足を踏み入れ、ビアンカはまだ朝の爽やかな空気が満ちている墓地の景色に、自ずと心が静まるのを感じた。
「母さん、ちゃんと戻ってきたわよ」
母の墓石の前にしゃがみ、ビアンカは静かな声で話しかけた。いつでも心の中には亡き母への思いが揺蕩っているが、やはり母の墓の前で手を合わせれば、まるで目の前に生前の母が現れるかのような雰囲気を感じる。亡き母が眠るこの場所で手を合わせることの意味の深さを、ビアンカは自然と口から出る言葉に感じている。
「私たちの子が世界を救ったのよ。信じられないわよね、世界を救った勇者なんですって」
「ボクだけじゃなくて、みんなでチカラを合わせたから世界を救えたんだよ!」
ビアンカが自慢するように言う言葉を半ば遮るように、ティミーが母の隣にしゃがみながらそう言った。ティミーの表情は真面目なもので、彼は自分だけが持ち上げられ、特別扱いされることを苦手としていた。勇者である自身だけで世界を救えるはずはなかったと、ティミーはその身に深く理解している。“勇者”という誰にも分かる目印を背中に貼り付けていたようなもので、その目印を人々に見せなくてはならないと、絶やしてはならないと、それだけを思ってティミーは行動していたようなものだった。
「きっとおばあちゃんもチカラをくれたよね?」
「うん、それは間違いないよ。みんなが僕たちに力をくれたんだ」
ポピーの言葉を受けて、リュカは本心からそう応える。結局人の力というのは、人々の心に支えられているということに尽きるのだろう。今は墓地に眠るビアンカの母も、娘の無事を、健康を、安寧を願い続けているに違いない。そのような母の愛情を信じているビアンカもまた、亡き母の安らかな眠りを妨げたくはないと、この地が荒らされることなど望まない。互いの信頼や愛情に底はなく、それらは終わることなくどこまでも続いていくものなのだと、リュカは墓石に向かうビアンカの姿にそう感じる。
母を亡くした後にビアンカの面倒をよく見てくれていた宿の女将が、村人たちを代表するかのように墓地の中へとやってきて、村人たちで摘んだ花束をビアンカに手渡した。礼を述べるビアンカに、女将は首を横に振ってその場をすぐに立ち去ろうとしたが、ティミーとポピーがそれを止めた。共にこの場にいてほしいと願う子供たちの希望に応えるように、女将もまた墓石に手を合わせる。
前にもこの場所に風が吹き、供えた花が転がるのをリュカは見たことがあった。それだけで妻の母と話をしているような気になったものだったが、今度は違った。山奥の村の墓地では決して起こらないような突風が目の前に起き、墓石の前に備えた花束を風に攫った。リュカたちの頭上にまで巻き上がった花束が、束の体裁を崩し、一輪一輪の花々へと散らばっていく。まるで頭上から浴びた花のシャワーに、リュカたちは一斉に頭に花々を優しく被せられてしまった。
「ちょっと、リュカ!」
「違うよ、僕じゃないよ」
すぐにリュカの呪文を疑ったビアンカだったが、母の墓石に供えた花束にそのような悪戯をするリュカではないと、彼の言葉をすぐに受け取る。振り向き見る母の墓石に、ビアンカは母の嬉しそうな笑顔を見たような気がした。娘の家族が世界に平和をもたらしたのだというお祝いの気持ちもあったのだろう。そしてこれからも娘が愛する夫と子供たちと末永く暮らせるように願う亡き母の思いが、きっと花のシャワーを浴びせたのだと、ビアンカは胸に込み上げる嬉しさと共に皆と一緒になって散らばった花を一輪一輪拾い始めた。元気だった母の姿が目の前に見えるようで、ビアンカはただ明るい笑顔を見せ、亡き母に口先だけの文句を言うのだった。